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副交感神経が優位になるような写真が好き。

不毛な罵り合い

2020年11月11日 14時40分04秒 | 意識論関連

形式とかマナーというものは あくまで主観的安心感を与えるだけのものではあり 形式やマナーさえ踏襲しておけば人間性の論証になるわけではありません

とは言え 店員さんや駅員さんの対応がチンピラ学生みたいだったら企業全体に対する不信感を抱かれてしまうことはあるだけに 不特定多数に応対をする社会人としてのスキルとして形式やマナーは学んでおく必要性はあるわけです

でも 「マナーだ」と言い張りさえすれば何でも鵜呑みにして従っておけば良いというものでもなく マナー産業がでっちあげたデマは見抜く必要もあります

世の中というのは不特定多数の人で構成されていますから 誰もが形式やマナーには論理的根拠がないことを理解しているわけでもありませんから 企業に勤めるのであれば形式やマナーは踏襲する必要があるわけです

個人で何でもできるというのであれば 形式やマナーを逸脱していても 実質的に社会的迷惑にさえならなければ構わないのですが 実際には社会生活を送る上においては最低限の形式やマナーは必要になるのです

実際に私のように論文査読の形式を踏襲せずに権威を批判しても 誰も耳を貸してはくれません 本論のように学術権威に対して批判するような場合以外においては 形式やマナーは無視できないものなのです

拳銃を携帯している警察官が制帽を斜めにかぶったり だらしない行動や言動をしていたら 多くの人は恐怖を抱くでしょう

もちろん 外見上形式的に「キチンとした態度や言動」さえしておけば人間性の保証になるわけではありませんが 一応形式というものは最低限は踏襲しておかなければならないことは理解しておく必要があります

詐欺師は形式やマナーに対する一般人の観念的安心感を利用して 丁寧な言葉遣いで相手を騙しますし マナー産業のデマもマナーに対する大衆の盲目的な服従性を利用することでセミナーを開いて金儲けをしているのですが だからといって「形式やマナーの全ては要らない」とばかりにチンピラ学生のように誰彼構わずタメ口でダラダラ話しても良い理由にはなりません

自分の個人的な主観に基づく観念にとって都合の良い話だけを抽出してきて 個人的に嫌な話の全てを頭ごなしに否定することは 結局は「自分で考えるのは10年早い 教えたことを何でも鵜呑みにしろ」と言い出すキチガイと同じレベルの身勝手な傲慢さにしかなりません

アオリ運転で逮捕された男に「自己愛性パーソナリティ障害」という精神病の診断が下されましたが 自分が主張している内容が 本当に論理客観的根拠に基づく主張なのかを検証する自己客観性なくして人間性も倫理もヘッタクレもないのです

学力成績が人間としての本質的知能の論証にならないことや 学術権威でさえあれば常に正しい判断ができる保証もありませんが 論理客観的な根拠の積み重ねによる反証に耐えられる論証は 「真実に より近い」と判断しても良いわけです

科学や哲学の理論の全ては常にかりそめの真実でしかないという謙虚さを持つ必要があり 「俺様は絶対だ」的な全能感に溺れてしまえば「自己愛性パーソナリティ障害」でしかないのです

全能感に溺れている人物というのは 自分の主観的好き嫌いに過ぎない個人的価値観や観念であっても 都合の良い屁理屈を説明して大多数の大衆を丸め込んで人気を得ることしかしなくなります

「自分は絶対に間違えない」と思っている人物というのは 外見上威厳に満ち溢れ あたかも言っている内容の全てに一貫した理論を伴う論理客観的根拠のある論証であるかのように言い張り 大衆に対して観念的な「信頼感」を得ることができます

「サイコパス」というのは ヒトという種の生物が持っている観念的信頼感や 権威に対する盲目性を利用する形で人心を掌握し 多くの人々から真実を見極める意識を奪うことができます

ヒトというのは主観的に安心できたり 満足感が得られる話ばかりを信じたがる先天的習性がありますから 多くのヒトは論理客観的根拠のない話であっても簡単に鵜呑みにし信用して疑うことを忘れてしまいます

バカ教師とバカ生徒の罵り合いには意味がありません

バカを見つけたからといって バカのカウンターに入っても 結局はバカ同士の殴り合いにしかなっておらず 

「どうしてバカになったのか」についての論理客観的な原因究明や再発防止のための具体性のある対策にまで言及しなければ 社会的には何の意味もない自己満足にしかならないのです

刑罰というのは 犯罪に対するカウンターでしかありません ですから社会的には安全性にも持続可能性にも寄与することがないのです

踏み間違い事故を起こした老人を厳罰に処しても その論理客観的な原因の究明にも対策にもなりません

アクセルとブレーキを踏み間違えることは老人の専売特許じゃありませんから 誰でも間違える可能性のある危険性に違いはなく 根本的なり抜本的な再発防止対策を徹底することの方が重要なのです

しかし 現状の司法刑罰裁判においては 罰の判決以上の何も決まることはありません

こうした社会制度上の欠陥について国民の半数以上が認識理解しないことには 松永莉子ちゃん達が巻き込まれた「失敗」も教訓として生かされることはないのです

 

 

Ende;


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