入学試験中の携帯電話とかって、通信会社の方で使用停止にできないのかね。試験官だって神様じゃないんだから全ての受験生の行動を把握できるわけじゃないからね。
そもそも、自分の携帯電話を使って不正を行えば、IPアドレスから個人の携帯電話を特定可能だってことを知らないからやるわけでしょ。それは誰も教えないのかな。
ヤフー知恵袋の方でも、試験中は一時的に回答を休止するとか、何か防止策はあると思うけどね。まあ、紙封筒に入れとくようにするのが効果的かもしれないけど。果たして携帯電話が一台だけとも限らないんだけどね。封筒にダミー携帯電話を入れといて、闇サイトで入手した出所不明の携帯電話でカンニングとか。携帯電話だって、分解してカメラだけ袖から出しておくとか、考えたらキリがないね。受験生は全裸で試験するとか。うひひ。
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マイケル:サンデルの講義が知能にとって無効であるって説が途中だったんで、もう少し話しておこうと思う。
サンデルの講義では、生徒はサンデルの投げかける質問に対してだけ考える。この時点で既に生徒本人の本質的自発性が全く働いていない。促された質問に対してだけしか意識が働いていないわけだから、これは本質的には自発的に物事を追求する姿勢は養われない。
「質問を投げかけられる。」という環境下における特定能力をどんなに発揮しても、それはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造的には同じものなわけです。
サンデルの講義では「エサ。」がないと思うかもしれないけど。実は成績とか、他人からの評価といったものも、ヒトの場合は成立する。
成績とか評価、報酬といった、いわば抽象化された「エサ。」を用いて思考を誘導している場合というのがある。抽象化、シンボルを扱うことが人間だけだとか思ったら大間違いで、角大きさだとか、飾り羽根の鮮やかさだとかいった抽象化された基準を扱う動物は決して少なくはない。特に鳥類はシンボルを基準にする行動が多数見られる。
たとえ、ヒト固有の特徴を抽出したとしても、それが短絡的に「人間だけが持ちうる性質。」などという話にはならない。それはあくまで動物種としての「ヒトの特徴。」でしかないわけさ。
「シンボルを扱う=人間。」などというのは論理的な根拠が全くない観念であって。文系の人間というのは結果と目的の区別がつかない傾向性があって、だから短絡的な結論を盲目的に信じ込んじゃう。
文系の人間っていうのは、やっぱり論理的に考えられないから文系なのであって。論理的に考えられない人間が生物学という理科学系分野を担うのが根本的に無理がある。おいらは生物学系とか哲学系、人文諸科学の学部には、物理学とか工学系の研究者による精密検証が必要だと思っている。だって、あまりにバカ過ぎるもの。
マスコミも結構いい加減なところがあって、夕方のニュースで携帯電話の電池の危険性について検証した番組をやっていながら、夜のバラエティー番組で芸人の携帯電話をバツゲームで壊していたりする。編成局は一体何を見てたんだって、もう手抜きもいいところ。
話が逸れたね。サンデルの講義は、受けた生徒の脳、大脳辺縁系が気持ち良くなる。気分的に楽しくなる。頭を使ったような錯覚になる。もちろん頭は使ったんだろうけど、それは本質的な自発的思考ではないから、講義以外にはほとんど役に立たない。その点では脳トレ類と基本的には同じで、それによって本質的知能が働くようになるようには構造的になっていない。
アイヒマン実験を一度受けた人であれば、次に類似実験を受けたときには騙されにくくなることは誰でも予測がつく。それこそ、ナチス政権下を生き延びたドイツ人にアイヒマン実験を行った場合には、明らかに他の実験群とは異なり早期に権威者の命令を拒否することが実証されている。彼等は「実験。」を受ける前に「アイヒマン体験。」をしちゃっているから、心底権威者とか、多数他人の意見に流されてはいけないことを自覚しているってこと。
アイヒマン実験とかアイヒマン体験をすることは、サンデルの講義とか脳トレとは異なり、明らかに気分が悪いものなわけです。振り込め詐欺に引っ掛かっても気分は悪い。でも、引っ掛かったことを認識できていなければ、それは別に気分の悪いものではない。
そんなことがあるのかって。カルト宗教に引っ掛かった信者達っていうのは、自分が騙されていることを認識したくない。或いは認識出来ないように心理的な拘束をされているため、気分的、心理的、感情的に客観的事実を認識しないように、逃避するように、思考を停止するように誘導されている。だから彼等は信者をやめない。
サンデルに対して、今のところ誰も批判する人間がいない。多数の人間が批判しなければ、それは多数によって認証されているものであると、勝手に思い込むわけです。でも、それって脳トレ類を散々蔓延させた脳科学者達においても同じことで、反論が出る以前には誰も批判することを忘れていた。
科学っていうのは、精密検証性と、それに伴う批判精神というものが不可欠で。単に「皆が信じているから、気分的に安心だ。」なんていうのは極めて非科学的な観念に過ぎないわけです。サンデル自身の哲学思考自体は間違っているわけではないけれど、単に「人気。」があるからといって、突然「頭が良くなる。」なんていうのはトンチンカンな話なんですよ。
サンデルの講義をどんなに受けても、公益倫理的な自律判断ができるようになるわけではありません。それは全く別の話。
アイヒマン実験のような自律的な公益倫理判断を必要とする場面を体験しなければ、本当は行動に影響を及ぼすことはないわけです。
問題なのはサンデルの話は途中から論理性を失って、「生き抜く。」だとかいう気分的に都合の良い話にすりかわること。「今日は有意義な議論ができました。皆さんの人生にとって、今日の議論はきっと役に立つことでしょう。」なんて締め括る。
「本当かい?。」って、生徒の誰も疑いを持たない。だって、褒められたもんだから気分的に良かったもんで。その時点で思考が停止しちゃっているんだもの。脳トレとかも同じだよ、「これが脳に良いんですよ。」なんて言われて、誰も疑問を持たなかった。これが、いわゆるバカになっている状態ってわけ。そりゃ振り込め詐欺にも引っ掛かるさね。
科学的、論理的な追求というのは、安全性を確保することができる。最近は安全と安心を、やたらとセット販売にしたがる傾向があるけど。気分的に安心しちゃっているから危険な行為をやっちゃうのであって。合理的な安全性確保と気分的な安心はむしろ背反するものなのです。酔っ払いが車を運転するのは何故でしょう。酔っ払いにとって車の運転なんぞ簡単だって、そんなものにビビるこたねぇって安心して運転するわけです。
この世の全てに疑問を持っていたら生活は大変なことになっちゃいますよ。食べている米に水銀が混じっていないか。パンには遺伝子組み換え麦が使われていないか。鰻にはマラカイトグリーンが使われていないか。でもそういうことはいくら考えてわからないでしょ。考えてもわからないことは、専門家にお任せしておくしかないでしょう。そうじゃないんですよ、私が言っているのは、考えればわかることの話をしているんです。考えるのが嫌ですか。そうですか、それなら認知症になっても文句は言えないですね。だって大脳新皮質を使うのが嫌なら、萎縮したって仕方ないじゃないですか。違いますか。
嫌な話かもしれませんよ、小言かもしれませんね。でもね、科学的な思考としての精密検証性というのは、「理屈。」であって「小言。」なんですよ。それに伴う批判精神というものだって、そこに「嫌味。」が含まれても仕方ないんです。
ガリレオが地動説を唱えたとき、教会にとってそれは「嫌な話。」だったんです。だから火炙りっていうヒステリックな解決方法を採った。気分的に「嫌。」だったからこそ気分的にスッキリするようなヒステリックな解決策を採ったんですよ。意味がわかりますか、理論的には反論できなかったってことなんですよ。
正直いって、こういう話をするのは私も好きじゃありません。嫌われたくてこんなこと書いているわけじゃないですからね。
意識論をネット上に出してから、どうも不穏な動きがあるように思えます。まさか火炙りにされるとは思いませんけど、単なる取り越し苦労かも知れないですけど。もはや「ルビコン川。」を渡ってしまったんですよ。今更引き返せないんです。
でわまた。
そもそも、自分の携帯電話を使って不正を行えば、IPアドレスから個人の携帯電話を特定可能だってことを知らないからやるわけでしょ。それは誰も教えないのかな。
ヤフー知恵袋の方でも、試験中は一時的に回答を休止するとか、何か防止策はあると思うけどね。まあ、紙封筒に入れとくようにするのが効果的かもしれないけど。果たして携帯電話が一台だけとも限らないんだけどね。封筒にダミー携帯電話を入れといて、闇サイトで入手した出所不明の携帯電話でカンニングとか。携帯電話だって、分解してカメラだけ袖から出しておくとか、考えたらキリがないね。受験生は全裸で試験するとか。うひひ。
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マイケル:サンデルの講義が知能にとって無効であるって説が途中だったんで、もう少し話しておこうと思う。
サンデルの講義では、生徒はサンデルの投げかける質問に対してだけ考える。この時点で既に生徒本人の本質的自発性が全く働いていない。促された質問に対してだけしか意識が働いていないわけだから、これは本質的には自発的に物事を追求する姿勢は養われない。
「質問を投げかけられる。」という環境下における特定能力をどんなに発揮しても、それはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造的には同じものなわけです。
サンデルの講義では「エサ。」がないと思うかもしれないけど。実は成績とか、他人からの評価といったものも、ヒトの場合は成立する。
成績とか評価、報酬といった、いわば抽象化された「エサ。」を用いて思考を誘導している場合というのがある。抽象化、シンボルを扱うことが人間だけだとか思ったら大間違いで、角大きさだとか、飾り羽根の鮮やかさだとかいった抽象化された基準を扱う動物は決して少なくはない。特に鳥類はシンボルを基準にする行動が多数見られる。
たとえ、ヒト固有の特徴を抽出したとしても、それが短絡的に「人間だけが持ちうる性質。」などという話にはならない。それはあくまで動物種としての「ヒトの特徴。」でしかないわけさ。
「シンボルを扱う=人間。」などというのは論理的な根拠が全くない観念であって。文系の人間というのは結果と目的の区別がつかない傾向性があって、だから短絡的な結論を盲目的に信じ込んじゃう。
文系の人間っていうのは、やっぱり論理的に考えられないから文系なのであって。論理的に考えられない人間が生物学という理科学系分野を担うのが根本的に無理がある。おいらは生物学系とか哲学系、人文諸科学の学部には、物理学とか工学系の研究者による精密検証が必要だと思っている。だって、あまりにバカ過ぎるもの。
マスコミも結構いい加減なところがあって、夕方のニュースで携帯電話の電池の危険性について検証した番組をやっていながら、夜のバラエティー番組で芸人の携帯電話をバツゲームで壊していたりする。編成局は一体何を見てたんだって、もう手抜きもいいところ。
話が逸れたね。サンデルの講義は、受けた生徒の脳、大脳辺縁系が気持ち良くなる。気分的に楽しくなる。頭を使ったような錯覚になる。もちろん頭は使ったんだろうけど、それは本質的な自発的思考ではないから、講義以外にはほとんど役に立たない。その点では脳トレ類と基本的には同じで、それによって本質的知能が働くようになるようには構造的になっていない。
アイヒマン実験を一度受けた人であれば、次に類似実験を受けたときには騙されにくくなることは誰でも予測がつく。それこそ、ナチス政権下を生き延びたドイツ人にアイヒマン実験を行った場合には、明らかに他の実験群とは異なり早期に権威者の命令を拒否することが実証されている。彼等は「実験。」を受ける前に「アイヒマン体験。」をしちゃっているから、心底権威者とか、多数他人の意見に流されてはいけないことを自覚しているってこと。
アイヒマン実験とかアイヒマン体験をすることは、サンデルの講義とか脳トレとは異なり、明らかに気分が悪いものなわけです。振り込め詐欺に引っ掛かっても気分は悪い。でも、引っ掛かったことを認識できていなければ、それは別に気分の悪いものではない。
そんなことがあるのかって。カルト宗教に引っ掛かった信者達っていうのは、自分が騙されていることを認識したくない。或いは認識出来ないように心理的な拘束をされているため、気分的、心理的、感情的に客観的事実を認識しないように、逃避するように、思考を停止するように誘導されている。だから彼等は信者をやめない。
サンデルに対して、今のところ誰も批判する人間がいない。多数の人間が批判しなければ、それは多数によって認証されているものであると、勝手に思い込むわけです。でも、それって脳トレ類を散々蔓延させた脳科学者達においても同じことで、反論が出る以前には誰も批判することを忘れていた。
科学っていうのは、精密検証性と、それに伴う批判精神というものが不可欠で。単に「皆が信じているから、気分的に安心だ。」なんていうのは極めて非科学的な観念に過ぎないわけです。サンデル自身の哲学思考自体は間違っているわけではないけれど、単に「人気。」があるからといって、突然「頭が良くなる。」なんていうのはトンチンカンな話なんですよ。
サンデルの講義をどんなに受けても、公益倫理的な自律判断ができるようになるわけではありません。それは全く別の話。
アイヒマン実験のような自律的な公益倫理判断を必要とする場面を体験しなければ、本当は行動に影響を及ぼすことはないわけです。
問題なのはサンデルの話は途中から論理性を失って、「生き抜く。」だとかいう気分的に都合の良い話にすりかわること。「今日は有意義な議論ができました。皆さんの人生にとって、今日の議論はきっと役に立つことでしょう。」なんて締め括る。
「本当かい?。」って、生徒の誰も疑いを持たない。だって、褒められたもんだから気分的に良かったもんで。その時点で思考が停止しちゃっているんだもの。脳トレとかも同じだよ、「これが脳に良いんですよ。」なんて言われて、誰も疑問を持たなかった。これが、いわゆるバカになっている状態ってわけ。そりゃ振り込め詐欺にも引っ掛かるさね。
科学的、論理的な追求というのは、安全性を確保することができる。最近は安全と安心を、やたらとセット販売にしたがる傾向があるけど。気分的に安心しちゃっているから危険な行為をやっちゃうのであって。合理的な安全性確保と気分的な安心はむしろ背反するものなのです。酔っ払いが車を運転するのは何故でしょう。酔っ払いにとって車の運転なんぞ簡単だって、そんなものにビビるこたねぇって安心して運転するわけです。
この世の全てに疑問を持っていたら生活は大変なことになっちゃいますよ。食べている米に水銀が混じっていないか。パンには遺伝子組み換え麦が使われていないか。鰻にはマラカイトグリーンが使われていないか。でもそういうことはいくら考えてわからないでしょ。考えてもわからないことは、専門家にお任せしておくしかないでしょう。そうじゃないんですよ、私が言っているのは、考えればわかることの話をしているんです。考えるのが嫌ですか。そうですか、それなら認知症になっても文句は言えないですね。だって大脳新皮質を使うのが嫌なら、萎縮したって仕方ないじゃないですか。違いますか。
嫌な話かもしれませんよ、小言かもしれませんね。でもね、科学的な思考としての精密検証性というのは、「理屈。」であって「小言。」なんですよ。それに伴う批判精神というものだって、そこに「嫌味。」が含まれても仕方ないんです。
ガリレオが地動説を唱えたとき、教会にとってそれは「嫌な話。」だったんです。だから火炙りっていうヒステリックな解決方法を採った。気分的に「嫌。」だったからこそ気分的にスッキリするようなヒステリックな解決策を採ったんですよ。意味がわかりますか、理論的には反論できなかったってことなんですよ。
正直いって、こういう話をするのは私も好きじゃありません。嫌われたくてこんなこと書いているわけじゃないですからね。
意識論をネット上に出してから、どうも不穏な動きがあるように思えます。まさか火炙りにされるとは思いませんけど、単なる取り越し苦労かも知れないですけど。もはや「ルビコン川。」を渡ってしまったんですよ。今更引き返せないんです。
でわまた。