ヒトという種の生物に普遍的に見られる習性として。多数他人から気に入られたい、嫌われたくないという感情によって現状に簡単に迎合してしまう傾向がある。
ミルグラムらのアイヒマン実験においても、権威の機嫌を損ねぬように服従してしまうのも、こうした「他人からの目。」に強迫観念的に怯えるヒトの性質が関わっている。
こうした周囲の多数他人や権威の機嫌を窺うヒトの性質というのは、自律的思考判断を阻害することはあっても、自律判断を促すことはない。
生物学的社会形成習性というものは、気に入られたい服従対象の喪失によって結果的に服従させていないといられない強迫観念によって暴力性を発揮することになるのである。
シツケの良いイヌがむやみに吠えないのは、服従対象として飼い主への信頼によって不安を持たないだけであり。イヌ自身が自律的に自己の行動を選択しているわけでも何でもない。
こうした生物学的社会形成習性というものを利用すれば、安心して地下鉄に毒ガスを散布することも可能となるのである。
現在の生物学、脳科学に対して誰も異議を唱えないのも。要するに生物学的社会形成習性によって、権威の言っていることに気分的に「安心。」しているためである。ヒトは安心していると何も「怖く。」ないのである。
ヒトという種の生物において、最も純粋に生物学的社会形成習性を発揮しているのが、暴力団やテロリスト達である。生物学的社会形成習性というのは、大脳辺縁系のシーケンスに従って群れのリーダーは暴力性を発揮するようになっている。
シツケを間違えたイヌが総じて暴力的になるのと同じシーケンスである。
イヌの場合は社会形成習性が非常に強いため、服従させる以外に暴力性を封じる方法は存在しえない。しかし、ヒトの場合は短絡的に「感情=行動。」という環境依存的結果以外を選択不可能であるわけではない。
そもそも、ヒトの全てが環境依存的であるならば、そのヒトの行動を導く環境というものを一体誰が構築するというのであろうか。
これが短絡的に宗教へと暴走するヒトの思考パタンとして「神。」を必要としなければならなくなる一つの原因である。
「神がいないのであれば、何をしても許される。」というのが、短絡的西洋哲学の根底に存在し、「許す。」という自己以外の何者かの存在だけが自己の行動原理として規定され得るのである。
そこにサードマン現象である。
左側頭葉に本能習性的に組み込まれた「他者。」の存在感覚によって、超自我的な服従対象の実存を「欲する。」ことになるのである。
どんなに「欲して。」も、錯覚は錯覚であり。実存はしない。実存しないことに気分的「不安。」を感じても、ないものはないのである。
ありもしないものを実証しようとすれば、そこには必ず合理性の綻びが生じざるを得ない。
だから合理性のない現在の生物学脳科学が放置されているのである。多くの愚かな大衆愚民の多数決によって。
そもそもが生物の持つ社会形成習性というものには「目的。」があるわけではない。あくまで生物学的正義であるところの「生存。」価という「結果。」論だけが導き出した結果でしかない。
つまり、生物学的社会形成習性というのは、その習性を発揮するそれぞれの個体には何の目的意識も存在する必然性は必要なく。単に結果的に生存していたという結果さえ導き出せば良いだけで、極端に言えば内部で殺し合いをしてでも「種としての。」優位性さえ成立すれば良いのである。
むしろ、天敵がいなくなった生物種であれば、その内部で殺し合いをすることで個体数を調整し、環境と調和するよう「進化。」していても一向に構わないのが現在の生物学の文法である。
こんなオカルトに誰も批判しない時点で、既に生物学脳科学は全体がオカルト化しており。そのオカルト性を誰も指摘しないという異常性を放置しておいて、結果的に先鋭化したオウム真理教だけに問題があると思うのが、そもそもの間違いである。
生物学的社会形成習性が作り出す暴力性が、具体的にどういう結果を導くのかは予測不可能である。オオカミの群れを秋葉原に放して、誰が最初に食い殺されるかなど予測のしようがないのである。
必要なのは、こうした習性に流されることのない自律した個人を増やすことである。これを提起すると大抵のヒトは教育機関だけに問題があると思い込むらしいが、重要なのは先ず自分自身が自律を行うことである。他人にとやかく要望する前に、なにより自己自身が自律的に判断しないでおいて、他人にばかり自律を要求しているから、世の中の諸問題が一向に解決しないのである。
原因がヒトの習性である以上、それはあらゆるヒトによって解決されなければならない問題である。ヒトである以上他人事にはなりようがないのである。
End;
ミルグラムらのアイヒマン実験においても、権威の機嫌を損ねぬように服従してしまうのも、こうした「他人からの目。」に強迫観念的に怯えるヒトの性質が関わっている。
こうした周囲の多数他人や権威の機嫌を窺うヒトの性質というのは、自律的思考判断を阻害することはあっても、自律判断を促すことはない。
生物学的社会形成習性というものは、気に入られたい服従対象の喪失によって結果的に服従させていないといられない強迫観念によって暴力性を発揮することになるのである。
シツケの良いイヌがむやみに吠えないのは、服従対象として飼い主への信頼によって不安を持たないだけであり。イヌ自身が自律的に自己の行動を選択しているわけでも何でもない。
こうした生物学的社会形成習性というものを利用すれば、安心して地下鉄に毒ガスを散布することも可能となるのである。
現在の生物学、脳科学に対して誰も異議を唱えないのも。要するに生物学的社会形成習性によって、権威の言っていることに気分的に「安心。」しているためである。ヒトは安心していると何も「怖く。」ないのである。
ヒトという種の生物において、最も純粋に生物学的社会形成習性を発揮しているのが、暴力団やテロリスト達である。生物学的社会形成習性というのは、大脳辺縁系のシーケンスに従って群れのリーダーは暴力性を発揮するようになっている。
シツケを間違えたイヌが総じて暴力的になるのと同じシーケンスである。
イヌの場合は社会形成習性が非常に強いため、服従させる以外に暴力性を封じる方法は存在しえない。しかし、ヒトの場合は短絡的に「感情=行動。」という環境依存的結果以外を選択不可能であるわけではない。
そもそも、ヒトの全てが環境依存的であるならば、そのヒトの行動を導く環境というものを一体誰が構築するというのであろうか。
これが短絡的に宗教へと暴走するヒトの思考パタンとして「神。」を必要としなければならなくなる一つの原因である。
「神がいないのであれば、何をしても許される。」というのが、短絡的西洋哲学の根底に存在し、「許す。」という自己以外の何者かの存在だけが自己の行動原理として規定され得るのである。
そこにサードマン現象である。
左側頭葉に本能習性的に組み込まれた「他者。」の存在感覚によって、超自我的な服従対象の実存を「欲する。」ことになるのである。
どんなに「欲して。」も、錯覚は錯覚であり。実存はしない。実存しないことに気分的「不安。」を感じても、ないものはないのである。
ありもしないものを実証しようとすれば、そこには必ず合理性の綻びが生じざるを得ない。
だから合理性のない現在の生物学脳科学が放置されているのである。多くの愚かな大衆愚民の多数決によって。
そもそもが生物の持つ社会形成習性というものには「目的。」があるわけではない。あくまで生物学的正義であるところの「生存。」価という「結果。」論だけが導き出した結果でしかない。
つまり、生物学的社会形成習性というのは、その習性を発揮するそれぞれの個体には何の目的意識も存在する必然性は必要なく。単に結果的に生存していたという結果さえ導き出せば良いだけで、極端に言えば内部で殺し合いをしてでも「種としての。」優位性さえ成立すれば良いのである。
むしろ、天敵がいなくなった生物種であれば、その内部で殺し合いをすることで個体数を調整し、環境と調和するよう「進化。」していても一向に構わないのが現在の生物学の文法である。
こんなオカルトに誰も批判しない時点で、既に生物学脳科学は全体がオカルト化しており。そのオカルト性を誰も指摘しないという異常性を放置しておいて、結果的に先鋭化したオウム真理教だけに問題があると思うのが、そもそもの間違いである。
生物学的社会形成習性が作り出す暴力性が、具体的にどういう結果を導くのかは予測不可能である。オオカミの群れを秋葉原に放して、誰が最初に食い殺されるかなど予測のしようがないのである。
必要なのは、こうした習性に流されることのない自律した個人を増やすことである。これを提起すると大抵のヒトは教育機関だけに問題があると思い込むらしいが、重要なのは先ず自分自身が自律を行うことである。他人にとやかく要望する前に、なにより自己自身が自律的に判断しないでおいて、他人にばかり自律を要求しているから、世の中の諸問題が一向に解決しないのである。
原因がヒトの習性である以上、それはあらゆるヒトによって解決されなければならない問題である。ヒトである以上他人事にはなりようがないのである。
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