「遺伝的進化には目的がない」ことや 「生存戦略などという概念は成立しない」といった生物学上の誤謬に対する指摘反証は どこかの書籍に書いてあることではない
「独学」などと標榜して知識の「量」をどんなに増やしても 主体的な論理客観的検証性がなければ 既にどこかに書かれていることの間違いには誰も気付くことはできないのである
何が目的で学ぶのか その動機を自覚していないからバカが治らない
知識の量さえ増やせば頭が良くなって大学に合格できるとか 嘘に騙され損をしないようにできるとか 誰も気づかない間違いに気づいて業績を上げることができるとか そういった利己的利益を目的にしているのであれば 結局は動機の根源が利己的利益や保身という目先の欲望なので 批判精神や論理客観性は働かず ただ書いてあることを憶えて「知って」いるだけのデクノボウになるだけである
利己的欲望が動機の主体だからこそ 根拠のない嘘やデマでも信じ込み 鵜呑みにして満足安心する
そもそも独学というのはマニュアルに頼るものではない
「こうすれば独学ができる」みたいな話がそもそも自己矛盾であることには 衆愚は誰も気付くことはない
マニュアルも案内も何もない領域に踏み込むから独学なのである
誰かに案内されたり そそのかされている時点で独学でも何でもなく 独学を装った多数による流行に過ぎない
独学の動機の基本は 主体性である
誰かにそそのかされて気分が良くなって安心して嘘でもデマでも鵜呑みにすることは「独学」ではない
本当に主体的に物事に取り組んでいれば 多数他人の意見に無為に流されることなく自分で真偽の判断をすることも出来るが
多数や他人からの評価や世間的成功を目的とした不純な動機だと 自分で論理検証することなく 自分の主観的な安心満足だけが判断基準になり 嘘でもデマでも気付くことができなくなり バカになるのである
既存の自己の主観的観念(気分や根拠のない常識)だけでしか物事を判断しないため 現時点での選択可能性というものを発揮することができないからこそ 批判性精神も発揮されず 論理客観的検証もできないのである
無能な有象無象からの評価を欲していれば 無能な有象無象の評価基準でしか物事を判断できなくなるのは必然というものである
どんなに多くのヒトが 無能で何も気付くことのできない有象無象からの評価や報酬をアテにしているとしても その多数が「正常」であることの根拠にはならない
主体性もまた 「自分の主観的気分」が動機ではあるが 他者からの評価に左右されないという点において純粋なのである
他人からの評価と 純粋な好奇心と そのどちらに傾くかによって 本質的主体性か評価承認欲求かの分水嶺となる
静岡大学の加藤英明のようにバカみたいに爬虫類の研究に没頭しているのは純粋な好奇心によるものである だから夜中に泥酔して騒いだりはしなくなる
多数大衆からみれば「バカみたい」にみえるが これは外見であって 「衆愚の価値観」に過ぎない
「バカみたい」ではあるが 「バカ」そのものではない
本当の「バカ」というのはが大衆が「思って」いるようなものではなく 似非哲学で人生相談をする似非哲学者や 進化万能論を宗教にすり替える似非生物学者である
誰が本当のバカなのかを識別できないからこそ 嘘やデマを見抜くことができないのであって どんなに知識の「量」を増やそうとも バカは治らないのである
「知識のエコシステムを 生態系のピラミッドになぞらえれば」などというデマは 他人との順位序列を目的とした不純な衆愚を読書猿の観念に誘うためのものであり 読書猿の言いなりになっていれば他人よりも賢くなって優位に立つことができるという優越感を「脳への報酬」として衆愚は盲目的に読書猿を信じ込むのである
「認知的ワクチン」などというものは存在しない 「これさえ接種しておけばバカにはならない」といったバカげた理屈は存在しないからである
バカというのは先天的な要因によるものであって 他人の嘘を見抜けないからバカなのに バカがそそのかす嘘を鵜呑みにして「これさえやっときゃバカにならないんだな」と「思って」いることそのものがバカの根源なのである
哲学というものは 物事の真理を追求することで 「本当の目的」を見極めるためのものであり
人生相談などといった個人的な「悩み」を解消して「気分が良くなる」ためのものではない
セーレン:キェルケゴールを読んで気分が良くなることなどない
ジャン:ポール:サルトルも同じである
カール:ライムンド:ポパーで悩みが解消することなどない
そしてこれらは大衆からの人気は全くないのである
これらは自分への戒めのために読むものであって 他人に推奨できるようなものではない
自戒を他人に推奨している時点で 自戒が欠如しているからである
子供が「学校に行きたくない」と言い出した時に 「本当の目的」を忘れるための屁理屈をでっちあげてしまえば 何も悩まずに子供を強制的に学校に送り込むことが出来るであろう
哲学というものを 主観的な「悩み」を解消するためのものだと勘違いしていれば どうにでも都合よく解釈可能な「名言」を担ぎ出して 無理やりこじつけることでその場限りの納得感を醸成することは簡単である
主観的気分としての「悩み」が 本当に望んだ目的に適っているのかどうかを深く検証することを 嘘やデマで塗り潰し「なかったこと」にすることは簡単なのである
それはとても簡単なことであり 簡単なことしかできない状態を「バカ」と言うのである
バカは他人から間違いを指摘されたとしても 気分が悪くなる都合の悪い話には一切耳を貸さなくなる
もともと純粋な探究心がなく その場限りの気分だけでしか物事を判断しないため 間違いを指摘されても受け入れるだけの精神的余裕が何もないからだ
都合の悪い話に耳を貸さないということは 同時に都合の良い解釈なら何でも鵜呑みにする
都合の悪い話が真実なのかどうかを客観的に深く考えることなく 無意識条件反射的に頭ごなしに否定するための屁理屈なら簡単にでっちあげることができる
そうやってバカというのは益々バカが酷くなるスパイラルに陥るのである
デマを信じ込む「エコー・チェンバー」の構造とは そういうことである
エコー・チェンバーという落とし穴の中というのは 満足感に満たされている幻想の世界である
洗脳から引きずりだそうとすると激しく抵抗されるのは 洗脳の満足感を全て剥ぎ取り裸にするようなものであるからだ
虚飾を剥ぎ取られてしまえば 虚飾に固執していた頭の悪さを丸裸に曝すことになるため その恐怖から逃避する形で虚飾に固執し続けるのである
ギュスターヴ:ル:ボンの解説が「哲学者」ではなく武田砂鉄という「フリーライター」なのは 哲学界が無能なバカしかいないことの証左でもあろう
その直後の番組で「哲学者」による人生相談で「楽になる」だとか言っているNHKは あまりに無責任でフザケすぎである
そりゃ「NHKから国民を守る党」だとか出てきても文句を言う権利はない
ちゃんと検証しろ バカ共が
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