以前にアオリ運転というのを受けたことがあったのを思い出した
細い曲がりくねった一方通行の路地で 制限速度が20キロだったので ゆっくり注意しながら運転していたら
後ろから やたらとエンジンを吹かしながら車間距離を詰めてくるワゴン車が来た
まあ オイラは軽いアスペルガーなので そういうのはあんま気にしないので 「うるさいなぁ」と思いながら 逆にわざとノロノロ運転をしてやっていたのだが
信号機のある交差点にさしかかったところで こちらが青信号なのにも関わらず 小さな子供が自転車でフラフラ飛び出して来たので急ブレーキをかけたら
後ろのアオリ野郎は車間距離を詰めてたもんだから追突寸前になっていた
窓を開けて 後ろを睨んでやったら アオリ烏賊野郎は所在なさげに目を逸らしていた
◇
普通一般的なヒトの多くは 後方から煽られると 焦ってしまうことが多く
まるで 安全を優先してゆっくり走ることが悪いことであるかのような錯覚に陥ってしまうことがある らしい
滋賀県での右折事故でも 右折を焦るあまり対向車への注意が疎(おろそ)かになってしまったのではかなろうか
高圧的な態度というのは あまり道を歩いていて受けることはないのだが どういうわけか自動車の運転中とか エスカレーターでは 「邪魔だ退け」とばかりに急いでいることがあたかも偉いかのような態度を採る奴が出てくる
高圧的な態度を採る相手に対し ヒトは「関わりたくない」という感情が働くんだか とりあえずは高圧的な奴に逆らわずに優先したり 同調しておいたりする傾向がある
ところが 常日頃から高圧的な相手に同調し続けていると あたかもそれこそが「正しい」とか「正常」とか「常識」であるかのような感覚を植え付けられてしまうらしい
オラは軽いアスペルガーなので 「ナンダコイツ」としか思わないのだが アスペルガー傾向のない大多数の「普通のヒト」は 多数派同調こそが「正常」であるという感覚が促す錯覚を 錯覚だとすら認識できなくなるらしい
これが つまり「脳の過剰整理」状態である
「みんなが そうしている」ことは 短絡的に「正しいこと」だという認識区別の仕方を 何ら自発的には論理検証することなく鵜呑みにしてしまう
こうしたAIの機械「学習」的な区別というのは MicrosoftのTwitterAIみたいに「ヘイトスピーチに同調」することもある危険性がある
脳が整理されやすい「普通のヒト」というのは 自分のしている判断に論理的根拠が伴っているのかどうかを検証する余裕がないんだか 何だか
それとも強迫観念的に多数派同調をしていないと不安で仕方ないんだか
オラようわからんのだが 高圧的な態度を採る奴に同調してしまう傾向というのが「普通のヒト」では顕著に見られる
ような気がする
イジメに対する同調や傍観放置というのも 気分的に「逆らうと面倒臭い」という主観的感覚によって歯止めがかからなくなるんであって
客観的に論理検証すれば 「そんなのおかしいだろ」って理屈では解っていても 感覚的に嫌なことは「普通のヒト」には出来ないらしい
まあ 主観的に嫌なことは 「そんなにしなくて良い」って益川敏英さんも言ってたけどな
あいだみつを的に「まちがったって いいじゃないか にんげんだもの」なんつう話に人気が出たりするのは 間違えたことを事後正当化することによって認知的不協和を解消する形で 気分的 主観的に安心満足することができるからであって
でも本当は「ヒトである以上 間違えることは避けられない」とは言えるものの 「間違える権利がある」とか「間違ったって良い」わけじゃないんだよね
間違えること自体は仕方ないことなんだけど 間違えていることを「ええじゃないか」的にはぐらかして 「なかったこと」にしてしまい 結局同じような間違いに対しての具体的再発防止への取り組みをしないという頭の悪さこそが ヒトの本当の間違い(先天的欠陥)なんだよね
でも 先天的欠陥なんだから誰のせいにも出来ないので それは自分でナントカせんとアカン訳よ
ナントカしてこその「人間」性だもの
「人間は 即自存在でないが故に 即自存在化を求むる(ジャン:ポール:サルトル)」んだけれども
ヒトという種の生物なだけでは「人間」としての行動を採れるわけじゃないのよね
ヒトという種の生物は ただそれだけでは人間ではないのよ
「まちがえることは しかたない だってヒトだもの」なら とりあえず間違ってはいないんだけどね
Ende;
細い曲がりくねった一方通行の路地で 制限速度が20キロだったので ゆっくり注意しながら運転していたら
後ろから やたらとエンジンを吹かしながら車間距離を詰めてくるワゴン車が来た
まあ オイラは軽いアスペルガーなので そういうのはあんま気にしないので 「うるさいなぁ」と思いながら 逆にわざとノロノロ運転をしてやっていたのだが
信号機のある交差点にさしかかったところで こちらが青信号なのにも関わらず 小さな子供が自転車でフラフラ飛び出して来たので急ブレーキをかけたら
後ろのアオリ野郎は車間距離を詰めてたもんだから追突寸前になっていた
窓を開けて 後ろを睨んでやったら アオリ烏賊野郎は所在なさげに目を逸らしていた
◇
普通一般的なヒトの多くは 後方から煽られると 焦ってしまうことが多く
まるで 安全を優先してゆっくり走ることが悪いことであるかのような錯覚に陥ってしまうことがある らしい
滋賀県での右折事故でも 右折を焦るあまり対向車への注意が疎(おろそ)かになってしまったのではかなろうか
高圧的な態度というのは あまり道を歩いていて受けることはないのだが どういうわけか自動車の運転中とか エスカレーターでは 「邪魔だ退け」とばかりに急いでいることがあたかも偉いかのような態度を採る奴が出てくる
高圧的な態度を採る相手に対し ヒトは「関わりたくない」という感情が働くんだか とりあえずは高圧的な奴に逆らわずに優先したり 同調しておいたりする傾向がある
ところが 常日頃から高圧的な相手に同調し続けていると あたかもそれこそが「正しい」とか「正常」とか「常識」であるかのような感覚を植え付けられてしまうらしい
オラは軽いアスペルガーなので 「ナンダコイツ」としか思わないのだが アスペルガー傾向のない大多数の「普通のヒト」は 多数派同調こそが「正常」であるという感覚が促す錯覚を 錯覚だとすら認識できなくなるらしい
これが つまり「脳の過剰整理」状態である
「みんなが そうしている」ことは 短絡的に「正しいこと」だという認識区別の仕方を 何ら自発的には論理検証することなく鵜呑みにしてしまう
こうしたAIの機械「学習」的な区別というのは MicrosoftのTwitterAIみたいに「ヘイトスピーチに同調」することもある危険性がある
脳が整理されやすい「普通のヒト」というのは 自分のしている判断に論理的根拠が伴っているのかどうかを検証する余裕がないんだか 何だか
それとも強迫観念的に多数派同調をしていないと不安で仕方ないんだか
オラようわからんのだが 高圧的な態度を採る奴に同調してしまう傾向というのが「普通のヒト」では顕著に見られる
ような気がする
イジメに対する同調や傍観放置というのも 気分的に「逆らうと面倒臭い」という主観的感覚によって歯止めがかからなくなるんであって
客観的に論理検証すれば 「そんなのおかしいだろ」って理屈では解っていても 感覚的に嫌なことは「普通のヒト」には出来ないらしい
まあ 主観的に嫌なことは 「そんなにしなくて良い」って益川敏英さんも言ってたけどな
あいだみつを的に「まちがったって いいじゃないか にんげんだもの」なんつう話に人気が出たりするのは 間違えたことを事後正当化することによって認知的不協和を解消する形で 気分的 主観的に安心満足することができるからであって
でも本当は「ヒトである以上 間違えることは避けられない」とは言えるものの 「間違える権利がある」とか「間違ったって良い」わけじゃないんだよね
間違えること自体は仕方ないことなんだけど 間違えていることを「ええじゃないか」的にはぐらかして 「なかったこと」にしてしまい 結局同じような間違いに対しての具体的再発防止への取り組みをしないという頭の悪さこそが ヒトの本当の間違い(先天的欠陥)なんだよね
でも 先天的欠陥なんだから誰のせいにも出来ないので それは自分でナントカせんとアカン訳よ
ナントカしてこその「人間」性だもの
「人間は 即自存在でないが故に 即自存在化を求むる(ジャン:ポール:サルトル)」んだけれども
ヒトという種の生物なだけでは「人間」としての行動を採れるわけじゃないのよね
ヒトという種の生物は ただそれだけでは人間ではないのよ
「まちがえることは しかたない だってヒトだもの」なら とりあえず間違ってはいないんだけどね
Ende;