○心とは。
「気持ち」は短絡的に人間性を伴う「心。」にはならない。
DV男に暴力を振るわれながらもバカな被害者女性が別れられない理由は、DV男というのは散々暴力を振るった後に急にやさしくなるのが原因の一つと言われる。
気分的に「やさしい気持ち。」になるというのは、あくまで大脳辺縁系の反射であって。その場限りの環境依存的結果に過ぎず、主体的な意思による目的行動選択とは無関係である。
散々暴力を振るい、脳内物質を消費した結果、大脳辺縁系からセロトニンが分泌されることで、急に行動が穏便になることを「やさしい気持ち。」だと勝手に妄想するのは簡単である。
簡単な観念を鵜呑みにすることを、平たくいえば「バカ」と言う。
あなたがもし、兵隊に徴用されてユダヤ人収容所に配属されたとしよう。そして上官から数百万人のユダヤ人殺害計画書を渡され、これを実行しなければならないと命令を受けたとしよう。
こういった状況下において、「やさしい気持ち」でいることに何の意味があるだろうか。
アイヒマン実験において、被験者が権威の命令に逆らう時に「やさしい気持ち。」などにはまずならない。それでも権威者に逆らい決別し、自律的に責任を負う判断を下す時に必要となるのは、「やさしい気持ち。」だとか「勇気。」だとか、「元気。」といった気分の問題ではなく、徹頭徹尾論理的合理性を追求する主体的判断である。
原発の安全責任者が、上司から原発の危険性を放置するように命令された時に。気分的に平穏でいるためには服従しておいた方が「気持ちは楽。」に違いない。
こうした気分的怠慢を指して、人間性を伴う「心。」と形容するのは、とんでもない大間違いである。
人間にしか持ち得ない「心。」とは何かと言えば、これは固定観念に基づいた気分感情に流されることなく、自律的に社会的責任判断を選択する「意志。」を指す。
現在の生物学者や脳神経認知科学者達のように、仲間内で話を丸めて何の批判精神も持たずに大衆マスコミにウケの良さそうな話だけ垂れ流して人気を得ていれば、きっと「気持ちは楽。」に違いない。
権威や多数派に逆らう時、ヒトは恐怖を抱き、精神に恐慌をきたし、「恥ずかしい。」という感覚を抱く。これこそが先天的本能由来の社会形成習性が促す「感覚」であり、無意識が作り出す行動バイアスである。
あらゆる「人災」の全ては、こういった無意識な本能由来の行動バイアスにより、自律的な論証検証性を喪失することが最も根源的原因となって生ずるものである。
「大切な人のため。」などという観念も人間性を伴う「心。」の論証にはならない。「大切な人。」という特定人物だけを優先するということは、「大切でない人。」を蔑ろにするからである。
原発の安全管理担当者が、自分の家族のために会社を辞めさせられないように上司の命令に従うことを「心。」と形容することは出来ない。
特定の偏った集団組織の利益のためだけに選択される行動というのは合理性を「追求している。」ことにはならない。
本当の合理性を「追求する。」からこそ、社会全体の安全性や持続可能性にまで配慮が働くのであって。気分感情とは無関係に合理性を徹底追求することこそが、本質的な人間としての「心。」ある行動を導くのである。
文科系の大衆マスコミのほとんど全員は、「自分の気分感情こそが人間性を作り出すものである。」と勝手に勘違いしているが。自分自身で選択していない遺伝要素や脳の行動バイアスを本質的な自己だと勝手に錯覚していることが原因であって、こんなものは論理的思考検証の出来ないポンコツによる身勝手な勘違いに過ぎないのである。
目先の「大切な人。」のために意識を奪われ、「そうでない人。」への配慮を喪失しておいて「心。」もすったくれもあったものではない。
振り込め詐欺師が目先の仲間を「大切。」にして、飯を驕っても「心。」の証明には全くならない。
「大切な人のため。」と称して戦争を煽ることこそが、人間としての「心」を喪失するのであって。大衆ウケの良さそうなバカげた観念を振り回して多数人気を得ることに価値はない。
Ende;
「気持ち」は短絡的に人間性を伴う「心。」にはならない。
DV男に暴力を振るわれながらもバカな被害者女性が別れられない理由は、DV男というのは散々暴力を振るった後に急にやさしくなるのが原因の一つと言われる。
気分的に「やさしい気持ち。」になるというのは、あくまで大脳辺縁系の反射であって。その場限りの環境依存的結果に過ぎず、主体的な意思による目的行動選択とは無関係である。
散々暴力を振るい、脳内物質を消費した結果、大脳辺縁系からセロトニンが分泌されることで、急に行動が穏便になることを「やさしい気持ち。」だと勝手に妄想するのは簡単である。
簡単な観念を鵜呑みにすることを、平たくいえば「バカ」と言う。
あなたがもし、兵隊に徴用されてユダヤ人収容所に配属されたとしよう。そして上官から数百万人のユダヤ人殺害計画書を渡され、これを実行しなければならないと命令を受けたとしよう。
こういった状況下において、「やさしい気持ち」でいることに何の意味があるだろうか。
アイヒマン実験において、被験者が権威の命令に逆らう時に「やさしい気持ち。」などにはまずならない。それでも権威者に逆らい決別し、自律的に責任を負う判断を下す時に必要となるのは、「やさしい気持ち。」だとか「勇気。」だとか、「元気。」といった気分の問題ではなく、徹頭徹尾論理的合理性を追求する主体的判断である。
原発の安全責任者が、上司から原発の危険性を放置するように命令された時に。気分的に平穏でいるためには服従しておいた方が「気持ちは楽。」に違いない。
こうした気分的怠慢を指して、人間性を伴う「心。」と形容するのは、とんでもない大間違いである。
人間にしか持ち得ない「心。」とは何かと言えば、これは固定観念に基づいた気分感情に流されることなく、自律的に社会的責任判断を選択する「意志。」を指す。
現在の生物学者や脳神経認知科学者達のように、仲間内で話を丸めて何の批判精神も持たずに大衆マスコミにウケの良さそうな話だけ垂れ流して人気を得ていれば、きっと「気持ちは楽。」に違いない。
権威や多数派に逆らう時、ヒトは恐怖を抱き、精神に恐慌をきたし、「恥ずかしい。」という感覚を抱く。これこそが先天的本能由来の社会形成習性が促す「感覚」であり、無意識が作り出す行動バイアスである。
あらゆる「人災」の全ては、こういった無意識な本能由来の行動バイアスにより、自律的な論証検証性を喪失することが最も根源的原因となって生ずるものである。
「大切な人のため。」などという観念も人間性を伴う「心。」の論証にはならない。「大切な人。」という特定人物だけを優先するということは、「大切でない人。」を蔑ろにするからである。
原発の安全管理担当者が、自分の家族のために会社を辞めさせられないように上司の命令に従うことを「心。」と形容することは出来ない。
特定の偏った集団組織の利益のためだけに選択される行動というのは合理性を「追求している。」ことにはならない。
本当の合理性を「追求する。」からこそ、社会全体の安全性や持続可能性にまで配慮が働くのであって。気分感情とは無関係に合理性を徹底追求することこそが、本質的な人間としての「心。」ある行動を導くのである。
文科系の大衆マスコミのほとんど全員は、「自分の気分感情こそが人間性を作り出すものである。」と勝手に勘違いしているが。自分自身で選択していない遺伝要素や脳の行動バイアスを本質的な自己だと勝手に錯覚していることが原因であって、こんなものは論理的思考検証の出来ないポンコツによる身勝手な勘違いに過ぎないのである。
目先の「大切な人。」のために意識を奪われ、「そうでない人。」への配慮を喪失しておいて「心。」もすったくれもあったものではない。
振り込め詐欺師が目先の仲間を「大切。」にして、飯を驕っても「心。」の証明には全くならない。
「大切な人のため。」と称して戦争を煽ることこそが、人間としての「心」を喪失するのであって。大衆ウケの良さそうなバカげた観念を振り回して多数人気を得ることに価値はない。
Ende;