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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

やる気。

2012年07月30日 17時34分02秒 | 意識論関連

○やる気。

 修造しい扇動誘導による、環境依存的な「やる気。」というものは、本質的には自発性ではない。

 「やる気。」というのは、他人からの評価などの環境に左右されない個人の本質的なものと、他人からの評価や評価の比較による優越感を動機とした本質的には自発性を伴わないものがある。

 前者は多数他人からの評価や報酬を必要としないため、世間の流行や集団組織のマインドセットに流されることなく主体的な判断選択が可能であり。自律的に社会的責任判断も可能となる。

 後者は多数他者からの評価報酬や、修造しい先導誘導といった気分による行動選択に促されることでしか「やる気。」が働かず、行動選択自体を自発的には選択することも出来なくなる。

 通り魔犯や銃乱射犯人といった自暴自棄な暴走を行う者における学力の高さは、学力成績という環境依存的外的評価という抽象化された「エサ。」に対する気分的快楽に無意識的に流された結果であって。本質的自発性を伴わない学力への「やる気。」への執着の結果に過ぎない。

 本質的自発性を伴わないあらゆる能力の結果とは、いわばチンパンジーの瞬間記憶能力と同じであり、環境依存的に満足感を提供されなくなればぶちギレて暴れるのである。

 一種の「ゲームバランス。」的な快楽と行動のバランスによっては暴走的に特定能力を発揮することもあるが、これはこうした環境を整備することによってでしか発揮されることはなく。ほったらかしておけばただのチンパンジーに過ぎない。

 イヌなどに見られる統率的協調行動であっても、それを何に用いるのかの意識がなければイジメなどの排除差別という暴走を招くだけである。

 単なる習性傾向の「結果」的な特定能力の全ては、それを何に用いるのかの意識的「選択」が介在しなければ単なる暴走の結果として破綻しか導き出さない。

 環境を整備することで無意識に誘導扇動された特定能力向上というのは、チンパンジーの瞬間記憶と何ら変わりはない。

 つまり、修造しく扇動され、気分的誘導によって促される環境依存的な意欲「やる気」というものは。本質的な個人の自発的選択を意識から引き剥がし、自発的に合理性を追究する能力を喪失させ、結果的に行動の全ては気分感情という本能欲望によってのみ選択されるようになるのである。

 本質的自発性に基づいた意欲によって選択された、環境依存性を持たない主体的純粋行為に価値を持つ場合。自発的に論理検証するという「考え」が可能となり、他人からの評価報酬やマインドセットに左右されることなく自己検証も可能となるのである。

 ノーベル賞受賞者の小柴昌俊が、「これなら一生続けることが出来る、そういうものを見つけなさい。」と論ずるのは、本質的自発性なくしてあらゆる人間性は発揮されることがなく、どんなに学力学歴が高くてもチンパンジー同様に簡単にぶちギレたり、自律的な社会的責任判断を放棄したりするようになるからである。



 学問というものは、世間多数から評価や強迫観念によって刷り込むものではなく、本来個人の自発的興味や好奇心によって主体的に学ぶべきものである。

 主体的であるということは「自分本位」性を含むものであるが、決して他人への気遣いが全く出来ないような自己中心的なものではない。

 そもそも自己中心的で他人への配慮が足りないのは、本質的主体性による自己検証が全く働いていないための結果であり。むしろ本質的な「自分本位」性が欠落しているからこそ他人への配慮まで意識が働かないのである。

 「自分を大切に出来ない者は、他人も大切にすることも出来ない。」のである。これもまた定理である。



 現在の日本の教育者達が主体性という自分本位性を蔑ろにし、自律的な社会的責任判断能力可能性を無視し。規律という自律を必要としない他律的強制性ばかりを優先したがるのは。教育者自身が個人の主体性を尊重されたこともなければ、自律的に社会的責任判断を行うことより権威に服従迎合することしかしたことがないため。あたかも「規律さえ守っていれば全ての問題が解決するものである。」というマインドセット(意識狭窄)が働いているからである。

 これは一種の「虐待の連鎖。」である。

 虐待を連鎖する親が自分の行動を事後正当化する言い逃れは、「そういう育て方しかされていないからだ。」である。養老孟司も似たようなことを論じており、「教えられていないことは、教えられないじゃありませんか。」などと共感を強要する言い回しを用いるのである。

 教えられていないことを教えられないというのは、教えられたこと以外のことは絶対に何も気付くことは出来ないと言っているのと同義である。

 それはただのバカに過ぎない。 

 バカであることをどんなに多数のバカ同士で共感しても、社会的に正当化できるようなものではないのである。

 暴走族だの振り込め詐欺師同士の共感性に社会的正当性があるわけがないからだ。



 ヒトという種の生物は、バカでいることの方が本能的に楽であるため、バカになるような誘導には簡単に引っ掛かる習性があり。逆に自分のバカさを認識させるような話を観念的に拒絶するのである。

 組織集団だとか教団だとかに服従迎合して、社会全体の安全性や持続可能性を自発的には全く追究しなくても、気分的安心や精神的満足を得ることによって、何も「考え」ないようにしておくことも可能であろう。

 バカであるなら、強制的に規律を守らせておいたり、地下鉄に毒ガスを撒いたり、原発の危険性を放置させておけば「人類の救済。」だとでも思っていられるのも必然である。



 規律を守らせるというのは、いわば「現場の判断。」である。感情でしか行動が選択できないバカなクソガキ相手に自律的思考を促すのは簡単ではないため、規律だの法律とった通念や観念という無思考な強制的誘導でしか外見上の「人間らしさ。」を獲得できないための暫定的措置としての「規律」に過ぎない。

 幼稚園児相手に「なぜ道路には飛び出してはいけないのか。」の論理的理解をさせることは簡単ではないため、短絡的に「悪いこと。」と分類させて「怒られるからやってはいけない。」という強制的誘導でしか子供の安全が確保できないための、あくまでも暫定的措置としての役割しか存在しないのである。これを小学校高学年や中学生に行うというのは、教師自身に自律的社会的責任判断能力が欠如しているからである。

 自分にないものは他人にもないものであると「思う。」のも必然であろう。バカにとっては何が一体バカなのか自体が認識できないのである。

 「アメとムチ。」を用いた環境依存的行動抑制とは、無意識な誘導を促しているだけであって、当人が自発的自律的な行動選択を出来るようになる論理的根拠は全くない。

 エサと引き換えに高度な瞬間記憶能力を獲得させても、本質的な知能の論証にはならないのと同様。強迫観念的恐怖心によって規律を守らせても自律的な社会的責任判断能力は構造原理的に不可能なのである。



 人間としての本質的知能というものは、自律的に社会的責任判断が出来るかどうかが核であり。これがないことにはあらゆる特定能力の全ては意味を為さない。

 自律的な社会的責任判断というものは、社会全体の安全性や持続可能性を検証判断する本質的な自発的意思が不可欠である。

 無意識条件反射的に多数や権威、規律や制度法律に服従迎合するだけでは社会的責任「判断」自体が成立しない。「判断」とは個人の主体的「考え」なくして有り得ないのである。

 むしろ既存の規律、法律制度手続きだけに服従しておきさえすれば、自律的には何も社会的責任判断を一切放棄できるものであると錯覚しているからこそ、自律的な社会的責任を誰も負おうとしなくなるのである。



 個人の主体的意欲というものは、単なる目先の欲望だの誘惑に惑わされない、個人の一貫した意欲の自発的選択がなされたものである。他人への羨望や利己的利益追究ではない、一貫性を持った個人の主観的意欲こそが、小柴昌俊の言う「これなら一生続けられるもの。」なのである。

 個人が自分自身で自己の精神的満足を獲得出来れば、多数他人や体制からの評価、盲目的な集団の規範などに惑わされることなく自律的に社会的責任判断も負える可能性がある。

 しかし、個人が自己の自律的な精神的満足を獲得する術を知らず、環境依存的に多数他人や体制からの評価、盲目的な集団の規範に基づいた、気分的安心満足による結果的選択しか出来なければ。自ずと自律的な社会的責任判断は構造原理的に不可能になる。

 修造しい「やる気スイッチ。」的な扇動というのは、意識誘導であって意識狭窄性を作り出す洗脳に過ぎない。修造本人にそのつもりがあるかないかは無関係で、「人類の救済。」と称してテロを行った者達と何ら変わりはない。

 意識を誘導され、気分的に楽しく愉快にさせられておけば、ヒトの多くは自発性であると勘違い錯覚し。あたかも気分が良いことは短絡的に「頭が良くなった。」と錯覚するのである。

 洗脳されている者というのは、自分は頭が良いものであると錯覚しており、自分が選択した行動こそが絶対的に正しいものであると信じ込んでいるからこそ、洗脳というのは解けないのである。自発的に論理検証を行うことが出来れば洗脳だのマインドセットなどに惑わされることはない。

 ヒトの多くは論理検証的な「考え」と、固定観念的な「思い込み」を区別することが出来ず。気分的に安心感が得られる慣れた固定観念を優先しておく本能習性がある。

 意識的な「考え」なのか、それとも無意識的「思い込み」であるのかを区別するのは意識的「考え」論理検証であるため。意識的「考え」が成立していない者にとっては、そもそも原理的に区別自体が自律的には不可能なのである。

 固定観念に基づく思い込みに執着することは「考え」ではなく。自律的判断でもない。

 自分自身では自律判断自体が何かを区別不能な者に何を論じても、観念的拒絶反応を示すだけで全く話が通じないのはこのためである。

 文系大衆観念者というのは、自分の間違いは矮小化し、他人の間違いだけを重大問題視したがる傾向習性がある。物事の区別判断に合理性がなく、ただ自分の気分にとって有利なように事後正当化することによって全く反省することがないため、行動や思考判断に全く影響が及ぼさない。

 観念的な疑い深さや条件反射的拒絶反応による執着心というものは、無意識下に刷り込まれた観念が促す気分的安心でしか物事を判断することが出来ないからである。



Ende;

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