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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

適性。

2011年03月09日 10時56分56秒 | 意識論関連
 私の意識についての話が理解できない場合、それは単に最初から科学的思考に興味がないだけであるかも知れない。従って、どんなに読んでも意識が変わらないとか、むつかしくてわからないというのであれば、それは適性がないだけのことである。

 私の意識論は万人が理解しなくてはならないものであるとは思わない。高所恐怖症の人を高い場所に吊り上げて、地上の状態を理解しろと強制すれば、それは単なる虐待である。

 しかし、高所恐怖症で、本当は高い所から地上の状態など見たこともない人間が、「俺は地上の状態を知っている。」と述べるのは、単なる嘘、ペテンである。

 高所恐怖症のペテン師が嘘を言っているかどうかは、高所からの地上の状態を知っているかどうかが重要である。地上の状態を誰も知らないのであれば、嘘が嘘であることなど誰も認識できないからである。

 多くのヒトは、多数他人と同じ観点からの見解を共有して安心する。それがペテン師の嘘を共有することになれば、誰も嘘を見抜けなくなる。できればより多くの人に理解して頂くのが理想であるが、この際無理強いはしない。

 自分にとって無理なことをするべきではない。公益倫理的な自律判断にとって、本質的自発性というものは必要不可欠なものである。別に万人が私の意識論を理解できなくても、鍵となる人物が理解できれば問題は解決する場合もある。それが誰なのかは私の知るところではない。私は神ではないので、この社会の構造の全てを熟知しているわけではないからだ。

 わからないことは他人にお任せするしかないのである。私が論じているのは、わかりようのないことではなく。わかることが可能なことを論じているだけなのである。

 別に私の意識論を理解できなくても、人間として出来損ないであることの証明にはならない。自律的に公益倫理的判断ができるのであれば、別に理解する必要性など全くないのである。だが、観念的に拒絶することで自らの自律判断を放棄し、ペテンに乗っかって満足し続けるというのであれば、これはペテンの片棒を担いでいるのと同じである。

 わからないことは、わからない。これは科学的な立場でもある。わかりもしないことをわかったと言い張るから嘘なのである。

 ヒゲボソゾウムシのケツの穴を覗いているのが楽しいのであれば、別に多数世間の顔色をうかがって「人間について。」論じる必要性はない。生物学者は純粋に現象論について研究すれば良い。興味もないことに口を挟むから嘘を言うことになるのである。

 業績のねつ造というものが起こるのは、それが強迫観念的に社会的な評価を求めるという環境依存性に起因するものである。自発的に研究していれば、たとえ途中で評価が全くなくても続けることが出来るのであり、それによって結果的に他人とは異なる本当の個性として現れるのである。

 多数の人が不可能であると思っていたことが、実際には可能であったということは科学の世界では珍しくはない。多数の観念的な「諦め。」を枚挙しても、それは科学的に不可能であることの論理的証明には一切なっていないのである。

 腹が減ったので、この辺で。でわまた。



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