ロシアにおけるキツネの人工繁殖では 数世代で多彩な遺伝的バリエーションを生じ 見た目も性格も様々な個体への変異が発生する
ところが 自然環境下におけるキツネはバリエーションがそんなにはない
なぜか? それはキツネは遺伝的に大きく逸脱した個体を淘汰する民族浄化的なバイアスがあるため 特異な変異個体を集団から排除してしまうからである
大抵の場合 キツネは集団から排除されれば生き残ることができず 死滅してしまうことになり 結果的に遺伝的にあまりバリエーションのない個体だけしか生き残らない
ヒトが集団内部において均一性を求めるのは 先天的に似たような個体同士で集団を形成しておいた方が気分的に安心だからである
キツネもヒトも 変わり者が先天的に嫌いなのである
たとえ主観的に「嫌い」でも 多様性の観点からは存在自体は認めることが必要である
均一にバカだったり 同じような能力しかなければ 社会の発展にもつながらないし 間違いにも誰も気づかなくなることになる
間違いに誰も気づかなければ 「人類の救済」のために地下鉄に毒ガス散布をすることに疑問を持たなくなる
東電社内において 福島第一原子力発電所の津波に対する脆弱性が組織的に放置されたのは 「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」が根源的原因である
テロと事故は同じではないと「思う」かもしれないが 権威の命令に唯々諾々と服従し 誰も批判することのない統率的協調性を発揮したことが 組織の暴走の原因となっているのは同じである
こうしたヒトの「習性」は 学生におけるイジメやヘイトスピーチにおいても同じメカニズムによって生じるものである
イジメの首謀者に同調し 統率的協調性を発揮することでイジメは問題になるほどの暴力性や排除性を発揮するのであって 個人が個人を嫌うだけなら問題となるほどのイジメにはならないのである
特定個人が別の特定個人に対して嫌悪したことに対し 同調して同じ観念を共有しておくことに快楽を感じるからこそ 統率協調的差別が集団組織的に暴走し始めるのである
気分的に安心だったり満足を感じられれば ヒトは自分たちのやっている行為に疑問を持たなくなる
イジメや差別を行うのはアスペルガーではない平均的なヒト達であり 空気を読んで同調していることに満足感が得られる平均的な多数派側が差別排除による民族浄化をやり始めるのである
これはヒトの先天的な本能や習性に起因するものであって 先天的本能習性や欲望自体は自ら欲することはできないが 習性や欲望が促す行動は選択可能である
ヒトは多数で集団組織的に少数異端を排除攻撃することに快楽を感じる先天的習性があり 無意識に何も考えなければMicrosoft社のTwitterAI同様に差別排除に同調便乗してしまいがちだが 差別排除そのものには何の合理性もないことに気づく「考え(理性)」が伴えば ヒトは人間性を発揮することも可能となるのである
様々な欲望の中から 統合的に合理性のある「目的」に基づいて行動を選択すれば 目先の欲望に惑わされることなく行動を選択することは可能なのである
どうせ必ず死ぬ個人的生存価よりも これからも生き続けるに価する社会のあり方を優先することの方が 個人における本当の「目的」として意味を持つことになる
目先の生存価だけを「目的」にしてしまえば 他人を騙したり貶(おとし)めたりすることも正当化されてしまうが そこには人間としての存在意義や尊厳は失われることになる
それはもはや「生きる屍(しかばね)」に過ぎない
サバイバーズギルドのように理論的には何の瑕疵もないのに感覚的に罪悪感を「感じて」しまうこともあれば 差別迫害やヘイトスピーチのように統率協調的行動に正義を「感じて」しまうこともある
ヒトとは先天的にはそういう残念な生き物であり 主観的感覚を客観的に検証する理性(考え)が働かなければ人間性は発揮されることはない
安全で持続可能な社会だからこそ「好きなことをして楽しい」のであり「飯も旨い」のであり 子供が次々と毎日のように擦り潰されるような社会なら生き続ける意味が全くなくなるのである
社会安全性や持続可能性の追求という「目的」のために必要なのは その場限りの気分的な感情論ではなく 論理客観的根拠を伴う合理的選択の方である
道徳云々の話になると 「タカシくんは優しい気持ちになりました」的に その場限りの気分的感情論ばかりが取り沙汰されるのだが これは本質的には「道徳」的に無責任であり 悪質な戯言に過ぎない
飲酒運転で子供を何人も轢き殺したバカを死刑にしても 「飲酒運転をするようなバカがどうして存在するのか」についての論理客観的原因究明をしないことには バカを何人死刑にしてもバカの根絶にはならない
どんなに通学路に強固なガードレールを設置しても 酔っ払って車を運転するようなバカがいる限り 誰がどこで轢き殺されるのかわかったものではない
危険学や失敗学に基づいた安全性の追求というのは 主観的な気分感情論とは全く無関係なものであり 徹頭徹尾論理客観的な工学的 科学的分析が最も重要なのであり 刑法を一時停止させることが被害者感情的に嫌悪感を持たれるかどうかは後回しにするのである
安全性を優先しない「倫理」など存在しないのである
社会安全性の追求の前において 個人の感情論は決して優先事項ではない
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