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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

「人災」。

2013年01月23日 13時50分18秒 | 意識論関連
○原因究明。

 テロや戦争っていうのは「人災」です。ヒトという種の生物の危険性を検証し、暴力性や論理的思考の放棄のメカニズムを解明し、再発防止策を企てなければ永遠にテロや通り魔などの無差別暴力は構造原理的になくなることはない。

 安易に「脳に良い」などとそそのかして人気取りに励む現在の脳科学者達は極めて無責任であり、脳の数理モデル化なんぞ実際には無意識な条件反射モデルを再現しているに過ぎないのである。そもそも結果と目的の区別が全くしてこなかった脳科学者達内部での評価など全くアテにならない。

 試験成績が上がることを短絡的に「頭が良くなった。」と規定する文科系大衆観念に基づいた知能論を基盤にしている限り、ヒトが人間として振る舞わない行動のメカニズムには言及不可能なのである。それはあらゆる「人災」の放置を意味するものであり、極めて無責任なことなのである。

 ヒトの多くは責任を多数で分配しておけば、如何なる危険性も気分的安心満足によって平気で危険な暴走行為を行うようになる。サブプライム問題のメカニズムにも見られるように、ヒトという種の生物の危険性であっても多数で放置しておけば気分的に安心満足していられるために、現在の脳科学界の無責任さも放置されているのである。

 何ら落ち度のない人達が人災によって多大な被害を被ってなを、ただ「ご冥福をお祈り申し上げます。」などとご機嫌取りをしても、具体的で合理性のある原因究明や再発防止策を立てないというのは、口先で丸め込んでいるだけに過ぎないのである。そもそも「冥土」の実存を証明不能である以上、言葉上での社交辞令/機械条件反射的プロトコルに過ぎないのである。



 ヒトという種の生物は暴力や権力を用いた報復や懲罰が大好きである。しかし、これらの行動は単なる本能習性的な気分的安心満足を与えているだけであって、具体性のある合理的再発防止には全くならない。どんなにテロリストや通り魔に厳罰を与えてもテロや通り魔自体の根源的再発防止には全くならないのであり、こうした文科系大衆観念に基づいた司法制度にお任せしておいても、原理的にあらゆる「人災」の再発防止策にはならないのである。

 司法が決定するのは懲役年数や罰金金額だけであって、犯罪や事故の原因究明や再発防止にはならない。そもそも判事が決定した懲罰によって犯罪者が再犯しないことの何ら保証もなく、再犯しても司法システムは一切責任もシステムの問題点も改善することはない。すなはち、現在の司法システムというのは犯罪や事故の原因究明や再発防止のためにあるのではなく、あくまで刑法に基づいた機械条件反射的手続きとして事務的に「処理」しているに過ぎないのである。

 ヒトの多くは法手続きに基づいた権力による統率こそが社会の安定を維持しているものであると勘違いしたがる。ヒトという種の生物には権威への服従による気分的安心満足によって自律的な判断を放棄する性質があるからだ。だから「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという論理的根拠のない観念を簡単に鵜呑みにしたがるのである。

 カール:ライムンド:ポパーが「プラトンの呪文。」による権威への盲目性を批判したのも、それが個人から自律判断を奪い、社会を崩壊へと導くからに他ならない。

 ヒトの多くは自律的に社会的責任判断を行うよりも、権威に服従することばかりを優先する傾向があり、それが本能的にも安心で満足だからである。これこそが社会的「甘え」というものであり、社会を暴走や崩壊へと導く根本的原因なのである。

 「首輪がないから噛み付く。」というのはイヌや野生生物の「結果」である。権威からの法的規制や、多数からの強迫観念的抑圧がなければ自律的には社会安全性を追求しないというのであれば、これはもはやヒトであっても「人間」とは言えない。



○ミステリー。

 現実にヒトが犯す殺人の動機のほとんど全ては、非常に下らないものであり。また、殺人の手法においても極めて短絡的で安易なものばかりである。

 ミステリー小説に登場するような、巧妙で複雑なトリックを用いた殺人事件というのは、現実には存在しないお伽話に過ぎず、複雑で巧妙なトリックを用いた犯罪を行う犯罪者への観念的恐怖感を利用した作り話上での演出に過ぎない。

 バカで短絡的な殺人事件を小説にしても、読者が頭を使ったような錯覚によって気分的安心満足感が得られないからである。

 どんなに複雑な犯罪トリックを解明出来ても、それはヒトという種の生物が犯す殺人の根源的原因究明にはならないのだが。ヒトの多くは犯罪トリックを解明することだけで自分は頭が良いと錯覚し満足する。

 マイケル:サンデルの講義のように、特定の条件に基づいた思考を促されると、バカな学生の多くは自分の頭が良くなった、頭を使ったと錯覚するのと同じである。

 予め答の用意された問題をどんなに解いても、それまで誰も発想することの出来なかった解答には到達することは出来ない。

 特定条件に基づいた思考を他者から促されても、これは本質的な自発的思考にはならず。所詮はクイズの答程度の意味しか存在しないのである。

 難解で複雑な問題を解くことが出来さえすれば、ヒトの多くは自分の頭が良いと錯覚する性質がある。

 しかし、現実にはヒトが殺人を犯す根源的原因自体を究明した者はいない。だからこそ合理的で具体性ある有効な犯罪への対策は全く行われず、感情論に由来する機械的な刑法手続きが漫然と繰り返され続けるのである。

 本当のミステリーは、ヒトの多くが犯罪や事故の根源的原因究明や再発防止策を放棄し、目先の感情的懲罰程度の決定だけで安心満足してしまう頭の悪さの方である。

 殺人事象において、最も社会的に解明されなければならないのは、個々の殺人トリックの解明でもなければ、殺人の個人的動機でもなく。ヒトが殺人を犯す根源的原因である。しかし、現状の司法制度下においては犯罪者の科料程度を規定することが目的として扱われ、ヒトという種の生物自体の危険性について合理的で一貫性のある解明など一切されることはないことには、ヒトの多くは触れたがらないのである。

 犯罪者の科料程度が決定しさえすれば、犯罪自体の再発防止になるわけではない。そんな極めて当然なことであっても、ヒトの多くはそれを問題だとすら誰も思わないのである。

 ある殺人犯には更正の余地があると判事の裁量で20年の禁固刑が処されたとする、しかし、その刑罰自体によって殺人犯が殺人を今後一切犯さないことの合理的根拠も保証はなく。再犯による被害者が出た場合の責任も司法は一切負うことはない。その不毛性にヒトの多くは異議を唱えないのである。

 ヒトの多くは論理的にどんなに不毛で無意味であっても、長い間慣れさせられた制度慣習による気分的な安心満足によって、論理的安全性の証明の有無に関わらず不毛な制度習慣に依存する性質があるのだ。

 他人から促された思考の範囲内で思考している限り、思考を促している他者の脳を超える思考は成立しない。他者の脳を超えることが出来るのは、他者から促された思考範囲に思考を制限されない本質的な自発思考だけである。


○Cyberneticsの間違い。

 ある特定の行動習性や先天的性質が、結果的に生存に適していたとは言うことが出来る。ところが生物学者達の多くは結果的に生存に適していた行動習性や先天的性質には目的が存在するはずであると言い張る。

 結果的に遺った行動習性や先天的性質が、どんなに生存という結果に適していようとも、これらは共に結果であって、これらから目的を抽出したり証明することは論理構造的に不可能なのである。

 ある特定の行動習性や先天的性質に目的が存在しなければならない論理的根拠はない。なぜならこれらは徹頭徹尾「結果」に過ぎず、何らかの個体や神による意図目的など最初から存在しないからである。

 本能的行動習性というものは、結果的に生存に適した行動として遺ったものであり。先天的性質においても同じである。

 従って結果的に遺ったあらゆる習性性質というのは、偶発的に生存してさえいれば遺されるのであって、遺った習性性質に何らかの意図目的が存在「しなければならない。」論理的根拠など存在し得ないのである。

 生存にとって意味のない習性や性質が遺されていたとしても、何ら不思議なことではない。クジャクの飾り羽に意味があろうとなかろうと、ウロコタマガイが硫化鉄の外皮を持っていていようとも、それらは結果であって目的や意味の必要性はない。

 生物の行動習性や先天的性質の全てが、生存などの意図目的に適しなければならないわけではない。あくまで結果的に生存してるかどうかに過ぎないからであり、生存というものを絶対的な目的正義だと思い込むのは科学的とは言えない文科系観念に過ぎない。

 行動習性の全てに後から事後正当化のための意味をこじつける限り、ヒトの残虐性や非合理的行動においても正当化がされ続けることになるのである。これが現在の生物学(脳生理学や社会心理学などを含む)における無責任性を作り出しているのである。

 ミルグラム(米)らによる服従心理実験におけるCyberneticsの観点からのヒトの行動習性を正当化するための断片的解釈は重大な誤りである。

 進化というのは常に「過程」であり、最終的目的を持った完全形など最初から存在しないのである。時折発生する先天的疾患なども、最初から目的が存在しないための偶発的結果に過ぎず。多剤耐性菌発生の変異過程における多数の犠牲の全ても、最初から目的が存在していないことの左証である。

 ヒトのオス、男性のY染色体が将来的に破綻する運命にあるのも、ヒトのメス、女性が暴力的な男性と繁殖したがるのも、これらは常に結果であって目的が最初から存在しないからである。

 単に生存だけを目的とするのであれば、嘘も暴力も暴走破綻も正当化されてしまうのである。そんな横暴な生物学のこじつけを放置すべきではない。

 相手が学術であろうと権威の言うことを無為に鵜呑みにしておいてはならないのである。学術権威というのはイデオロギーや法律によって規定された権力ではなく、あくまで科学的、論理的な検証によって担保されなければならないのであり。科学的権威性というのはあらゆる人民にとって平等に論理的検証の権利と義務があり、これを放棄してしまえば科学でも何でもなくなるのである。

 故に現在の生物学においては、ヒトという種の持つ危険性に対する科学的原因究明が一向に進まないのである。




○ホタルが光る理由。

 「ホタルが光る目的が解明されつつある。」などと生物学は述べるが、これは嘘である。

 ホタルが光ることというのは、ホタル自身の意図的「目的」が存在するわけではなく。あくまで「結果」的に生存していた種の「結果」以上の理由は存在しない。

 結果の傾向性をどんなにたくさん多数抽出してきても、そこから意図的目的の存在を証明することは原理的に不可能であり。あらゆる生物の「目的」は論理的に証明することは不可能なのである。

 原理的に証明不可能な「生物の目的。」を「解明されつつある。」などと言い張るのは、生物学者達の勝手な妄想に過ぎず。これは「嘘」なのである。



 ホタルの卵や幼虫が発光する遺伝構造的な「理由」の説明をどんなにたくさん枚挙しても、それは全て「結果」の説明に過ぎず。どんなにたくさんの「結果」を枚挙してもホタル自身の意図的「目的」の証明には一切ならないのである。

 こうした間違ったパラダイムに基づいている限り、生物学は科学としての存在価値はなく。社会的にも意味のない「現在の生物学者達の妄想。」に基づいた「嘘。」の列挙が続くだけであり、これは放置すべきものではない。

 どんなに自然界が「素晴らしい」などという抽象的形容詞を枚挙しても、それが科学的論証には一切ならないのである。

 ヒトの多くは「素晴らしい。」などという形容詞によって気分的に安心満足することと。論理的な安全性の論証を簡単にはきちがえ、錯覚する性質があり。現在の生物学界というのは多数大衆のご機嫌窺いのために科学的論証を放棄して身勝手な妄想によって大衆の論理的思考を撹乱しているだけなのである。

 虫だのキノコだのを研究しているだけならそれでも害はないように見えるであろうが、こと「人間」についての研究においては、こうした結果と目的を混同した大衆観念に迎合することは論理的検証性を撹乱し、科学的論証を不具にする犯罪行為なのである。

 茂木健一郎のようなペテン師を、「脳科学者」扱いするというのは、マスコミ自体の無責任性でもある。脳神経の数理モデルなどいうのも、結局は株式市場の数理モデルと同様に傾向性を予測することにしかならず、複雑系を数理モデル化することには実は大した意味は存在しないのである。

 複雑系における多数傾向性を予測するだけでは、単に脳神経回路の演算結果を導くだけであって、無意識的な脳の「結果」以上の何も導き出すことは出来ないのである。

 数理モデルを用いてアイヒマン実験に引っ掛かるヒトの傾向性を導き出すことに、一体何の意味があるであろう。重要なのはこうした無意識的傾向性の予測ではなく、あくまで無意識性に流されることない本質的「目的」意識であって、数理モデルを用いた株式市場の予測による目先の金儲けをすることや、権威性を用いたペテンで人気取りをすることに意味や価値はない。

 ヒトの行動傾向なら既に社会心理学的に検証されており、これを数理モデルで再現しても意味はない。バカな多数の投資家の行動結果だけを論ずるのであれば、これはミミズの行動予測とさしたる違いはないのである。バカの行動予測に意味などなく、あくまでバカではない行動選択にこそ価値があるのだ。

 目先の欲望を満たすことに意識を奪われているからこそ、統合的な人間としての「目的」を見失う意識狭窄を引き起こすのであって。どんなにマイケルサンデルの講義を受けても、それは目先の気分的満足を獲得しているだけであることには誰も気付くことはない。サンデルの講義ではサンデルが提起した前提に基づいてでしか思考を促すことはなく、その前提自体が間違っている可能性についてはバカ学生のほとんど全員は誰も気付くことは出来ない。

 サンデルが提起する前提というのは、もはや取り返しのつかない状態に陥った上での選択でしか正義を語ることはない。本当に必要なのは「取り返しのつかない状態。」に陥らないための論理的原因究明と対策であって、「一万人と百人の犠牲を選択すること。」などではない。福島第一原発の暴走状態において、どのような選択が正義であったのかを議論することは不毛であり、むしろ暴走状態に陥らないためにはどのような対策が可能であったのかこそが重要なのである。

 ヒトの多くが前提自体が間違っていることに気付かないのは、それが他者から促された思考に過ぎず。個人の主体性による考えではないからである。残念なことに他者から促された思考によって、あたかも自分の頭を働かせて頭が良くなったかのような錯覚を促すことである。

 認知症患者に小学生向けの学習ドリルをやらせると認知症が改善するというのも、それは他者から促されなければ自発的には何も考えようとしない無為性/本質的自発性の欠落こそが認知症の根源的原因であることの証明でもある。サンデルに促された思考以外に何も主体的に考えることの出来ないバカ学生である以上、サンデルの講義は認知症予防程度の意味しか存在しないのである。





Ende;
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