○学力。
学力だけを目的とした現在の学力ビジネスというのは、生徒の学力さえ高くなれば秋葉原で大量殺人をしようと、都営地下鉄に毒ガスを撒き散らそうと、原発を暴走させようと「知ったことではない。」のである。
それが本当に生徒達の未来にとって必要なものであるかどうかは、親大人達の意識次第である。
目先の利益や気分的安心である利己的利益追求に意識を奪われ、統合的な社会全体の持続可能性や安全性を無視しておいて。一体子供達にどのような世界を遺すつもりでいるのか、その統合的で合理性のあるビジョン/理想というものが親大人達の意識には欠落している。
自律的に社会的責任を負うためには、自発的に自己自身の欲求を満たすことが出来ていなければならない。
自己の欲求を多数他者(世間)から満たされることしか行動学習していない現在の日本の大人達には自律的に社会的責任を負うという人間としての最も根源的価値観が欠落している。
目先の効用、目先の利益追求に意識を奪われていれば、統合的視点に基づく社会の持続可能性や安全性といったものにまで意識が働かないのは当然である。
現在の日本の大人達は、意識が働かないように行動学習されてしまっているのであり、それゆえ無意識的な連鎖行動という暴走しかできなくなっているのである。
無意識に暴走していることをバカと言わずに何と形容するのか私の知ったことではない。
多くのヒトは自分が無意識的に暴走していることすら認識していないのである。暴走を認識していなければ気分的には安心で満足であろう、だから論理的根拠のない実証不能の観念に基づいて文武両道を必修にしたりするのである。
必修にすべきは人間としての合理的人間関係についてのディスカッション生徒達による理性的な話し合いを大人達が促すことであって、ヒトという種の本能の危険性について認識させることが重要なのであって。実証不能の文系観念に基づく合理性のない精神論を無意識に押し付けることをすべきではない。
既存の価値観に基づく多数他人からの評価報酬に、機械条件反射的に反応した結果としての学力知識というものは評価試験が終了すれば当人にとって価値を失うことになる。だから試験が終わると全部忘れてしまうのである。
それに対して自発的純粋な興味感心意識に基づく知識というものは、取り立てて強いて勉めずとも記憶に残るものであり、外見上試験で同じ点数を獲得しても当人にとっての知識の価値観は全く異なる。
当然自律判断も異なることになる。
既存の価値観に基づく多数他人という世間的な評価によって気分的に満足することを「自信。」であると、多くのヒトは錯覚する。しかし、既存の固定観念に基づいた価値観に依存した多数他者からの評価である以上、これは本質的には自己自信の自律判断への信頼性には結びつかない。
固定観念を鵜呑みにしている時点で何ら本質的自律判断は介在していないからである。
Ende;
○瞑想。2
釈迦が論じた瞑想というのは、恐らく脳科学的に言うところの「脱集中。」のようなものではないかと思われる。
つまり、固定観念に囚われて思考を停止してしまっている状態を解くためには、一度現状全体を客観的に「引いて。」見るような視点を持つことであろう。
それなら禅宗が行うような座禅瞑想とは全く別のものであり、座禅瞑想という行為そのものへの論理的検証性としての客観的視点を持てなければ意味がない。
釈迦が行った断食行というのは、バラモン教における修行であり、これを擬似的に模倣しても意味はない。意味がないことを悟った(論理的に検証した)からこそ釈迦は断食行を途中放棄したのである。
にも関わらず気分的快楽を得られるからといって座禅瞑想をするというのは、むしろ論理検証性の放棄にしかならず、無駄である。
宗教というのはどうしても途中で「伝言ゲーム。」的な歪曲が混入し。気分本能的に楽な方向へと行動が捩曲げられてしまう性質がある。これは宗教に限らず学問などにおいても同様の傾向があり、文系観念という気分的に楽なものを絶対的基準とした理論の歪曲も発生するようである。
「これさえやっときゃ。」的な短絡的で単純なことにしておけば論理的理解をスルーして気分的満足だけを先に得ることが可能であろう。しかしそれこそ愚かさの根源というものである。
○簡単。
仏教において経典をバラバラとめくっただけとか、経典の入ったドラムをクルクル回すだけとか、こうした短絡簡単な行為へと歪曲が生じるのは。型や形式といった外見上の類似だけで気分的に安心満足してしまう性質があるからだ。
「ヒトは見かけが9割。」と言われるが、型や形式といった外見だけで多くのヒトは無意識的安心満足を得てしまう傾向がある。
学力だの学歴といった型や形式だけに意識を奪われ、論理検証が全く働かない脳科学/認知科学というのは脳トレ類を無理矢理正当化するという詐欺行為を行っているのであり。脳科学/認知科学が詐欺に対する対策を導き出せないのも当たり前というものである。
脳トレ類の詐欺性を隠蔽しておいて、詐欺に対する対策など出てくるわけがない。
ヒトというのは簡単で単純で短絡的な行為による外見上の無意識性だけで満足する性質がある。「ヒトは見た目が9割。」と言われるが、いわば多くのヒトにとって9割以上の無意識を1割に満たない意識が検証することは簡単ではないらしい。
東京電力では「地下の発電機が水没すれば炉芯溶解の可能性が高い。しかし津波の影響を論ずることはタブーである、なぜなら津波の影響を考慮すれば日本のどこにも原発など造ることが出来なくなるからだ。」と社員を教育したそうである。
「社会性。」と称して、迎合的で無難な者を大量生産した教育の末路が福島の原発である。
「社会性。」だの「コミュニケーション能力。」といった動物本能的な社会形成習性こそが社会安全性や持続可能性を追求するべき本質的合理性追求の最大の妨げであり、これを放置してきたのが文系観念である。
どんなに気分的に安心満足しても、安全性が確立されるわけではない。安全性というものは論理的工学的に追求されなくてはならない。
ヒトという種の生物が論理検証を放棄してしまうのは、無意識による固定観念や本能的嫌悪感が促す文系観念が原因である。
型や形式といった固定観念による「外見。」によって9割の無意識を満足させてしまうから意識が働かなくなるのである。
Ende;