コミュニティーが大きい程他人に分け与える金額が大きいという帰結はあやしい。
コミュニティーが小さい場合、一人一人に分け与える金額が小さいのは。分け合う人数が多いことを予測しているとも考えられる。
コミュニティーが大きい場合、実験室以外の人への配慮が全くないからこそ、P2P以外に意識が働かないために金額が大きくなる可能性もある。
最終的にコミュニティー全体に分け合う金額まで追跡していないと、「コミュニティーの規模。」と「分け合う金額。」の比例関係性を立証したことにはならない。
どうも生物学や社会心理学者というのは、一面的事実「立証。」から短絡的帰結を勝手にでっちあげる「習性。」があり思慮が浅い。これは探究心の欠如と言わざるを得ない。
物と金では分け合う気分が異なるのは。物の場合、その物自体への個人的好き嫌い、個人差が働くためであり。物自体に選択肢がある場合も考慮に入れる必要性があったのではないか。
金と物によって、分け合う量が異なる「傾向。」性をどんなに抽出してきても。これはヒトの習性、傾向性を立証しているだけであって、何ら人間としての本質的意識的行動とは無関係である。
どんなに「人間的。」な傾向性だけを抽出してきても、それによってヒトが非人間的な行動を全く採らないことの論証にはならない。
ヒトの行動習性、傾向性をどんなにたくさん抽出してきても、「全てのヒトが人間としての社会性を持つ。」ことの論証には絶対にならない。アイヒマン実験の反証も、シエラレオネのゲリラの行動の反証にもならないからである。
どんなにたくさん生物学/社会心理学において都合の良い話を枚挙してきても、戦争や犯罪の発生に対して何の影響も与えることはなく。単なる生物/社会心理学における勝手な自己満足にしかならないのである。マスコミ大衆に迎合するだけであれば、それで充分であろう。しかし、こうした気分的満足による「安心。」こそが論理的社会「安全。」性から意識を逸らせ、無思考に陥る最も根源的な「ヒト。」の行動習性である。
無意識的な行動習性から「都合の良い結果。」だけを抽出して気分的満足をすることからは、何ら意識の励起を促す行動選択は導き出されることはなく。むしろ無意識的な行動習性によって生ずる「悪い結果。」の傾向性を知ることによってこそ、人間としての行動選択を促すことが可能となるのである。
私が論じているのは、「良い傾向性。」と「悪い傾向性。」の、どちちらが多いかどうかを論じているのではない。「良い傾向。」が多ければ気分的に「安心。」であるからといって、「悪い傾向。」を無視して良いというような短絡的で安易な帰結に陥ることの危険性を論じているのである。
傾向として、ヒトという種の生物が概ね安全であることで満足することによって。「概ね。」ではない危険性から意識を逸らし、無視し、何も考えなくなる無思考性こそが、危険性そのものを認識しなくなるヒトの傾向性であることを認識すべきである。
マスコミは大衆迎合的に、ヒトという種の生物の「良い傾向。」だけを抽出したがるが。これこそが多数大衆から安全性に対する意識を奪う気分的満足「安心。」を促すのである。
現在の生物学/脳科学/社会心理学/哲学界の全ては、大衆迎合的な気分的満足の追求しかされておらず。何ら論理的、科学的な根拠に基づいた検証性が働いていない。従って、どんなに現在の権威性から多数決的に証言を得ても、科学的論証「裏づけ。」にはならない。
彼らは既に腐敗体制に頭まで漬かっているのである。マスコミはその加担しかしていない。
//-------
志とは意思である。意思とは本質的意識によって思考された選択のことである。
「予算や権限を増やした者が評価されるシステムに問題がある。」国土交通省 竹内 現在の評価基準においては省庁同士で不毛な予算の奪い合いを助長するだけ。
元経済産業省 古賀茂明 官僚が国民のために働けない制度になっている。その原因には。
○人事評価が「国民のため。」になっていない。
○縦割り。入省すると一生省庁に縛られる。
○前例主義。
があるという。
前例主義などというのは、まさにドーパミンが作り出す常習性に由来する結果である。いままでやったことのないことに対して気分的な恐怖心を抱く「習性。」によるものであり、本質的合理的思考が働いていないからである。
縦割りも本能的な社会形成習性が作り出す行動の結果である。本能的な組織的協調性に「目的。」がないために、保身に「走った。」結果として縦割りになるのである。
そもそもが本能的動機であるから、「目的。」が自己保身になるのは動物として普通の行動である。
単なる動物は利己的行動選択しか行わない。利他的行動、自律的な社会的責任選択といったものを「人間。」が行うのは、単なる目先の利益を「目的。」とはしないからである。
文系のバカの多くは、社会的責任というものは他人からの評価がなければ選択しないものであると思い込んでいる。決して自律的に社会的責任などとるバカはいないと思い込んでいる。果たしてどちらが本当のバカであろうか。
「人間。」が自律的に社会的責任選択をするのは、決して物質的利益を求めるからではない。あくまで自己自身の尊厳として、社会的責任選択をすることこそが自己自身の本質的「心。」の安らぎであるからこその選択なのであり。故に本質的人間性というのは自己の「生存。」価とは無関係に行動選択されるものでなくてはならない。
しかし、特攻だのテロといったものは。当人自身が選択した行動ではなく、社会環境によって無意識的に誘導された行動に無意識よって促された、動物習性的な献身であり。多数他人からのウケ狙いによるものでしかない。「お国の為。」と称して犠牲を正当化することと、戦争自体に反対することによる犠牲は全く異なるものなのである。
戦争に反対しても大衆にはウケは良くない。それは多数派ではないからだ。こうした多数の無意識性こそが戦争や犯罪を助長することはあれ、抑制することにはならないことを認識すべきである。
認識すべきことを認識できないのは、そこに本質的な意識が働いていないからである。意識、認識が変わらなければ行動も思考も変わることはない。錯覚を錯覚であると認識していなければ、錯覚に基づいた行動しかできないのは当たり前のことである。錯覚に基づいた行動をしていても気分的には「恐く。」はないであろう、故に多数の「ヒト。」は錯覚を錯覚であるとは認識「したがらない。」ために、むしろ錯覚を助長する方向にしか意識は働かないのである。
それこそが無意識というものであることを、多くの「ヒト。」は認識していない。
ヒトは多数意見に迎合しておけば気分的に「安心。」なため、多数意見を助長する方向にしか意識が働かないようにできている。「ヒト。」とはそういうものである。そういう「傾向性。」「習性。」を持っている。
こうした無意識的な「傾向性。」や「習性。」を、意識的に論理的に認識できていれば、短絡的に行動習性のままに流されることを回避することも可能となる。
だが、錯覚を錯覚であると認識することというのは。要するに自分自身の愚かさを認識することと等価でもあるため。これは気分的に「嫌。」なものなので、多くの「ヒト。」は無意識的な気分が促す行動以外に全く意識が働かないのである。
世の中の論理的間違いのいちいちを、私がこの記事上で懇切丁寧に噛んで含めるように説明することに意味はない。本来なら「言われれば誰でも理解可能な話。」であるならば、自律的に気付いて良いはずのものである。ところが誰も自律的には気付かないのは、多くのヒトには本質的意識が働いていないからである。
多くのヒトが自律的に社会的責任を負わない理由として、地位や権益を失いたくないという利己的動機が必ず働いている。地位や権益というのは、それを獲得するまでの受験戦争の「努力。」を事後正当化も含まれている。それなら「目的。」のための競争ではなく、社会環境に与えられた価値観に迎合しているだけである。
エリート競争も構わないのだが、その競争の動機が社会から刷り込まれた無意識的動機である限りにおいて、最終的には利己保身という本能的目的行動に基づいた選択しかされなくなるのは必然というものである。
社会から刷り込まれた価値観に迎合するのは、そもそも自発的純粋行為ではないからだ。
自律とは自発の中にあり、他にはない。これは定理である。
現実には学力であっても自発性を重要視する北欧諸国の方が高い傾向がある。個人が純粋に持った「目的。」意識があれば、教育の具体的「方法論。」に関わらず学力は向上するのである。
従って、重要なのは個人の自発的純粋行為の重要性を重んじることであって。「学力。」自体を目的とするのではなく、個人の目的の手段としての学力でなければならないのである。ところがバカな親達は他人の子供との比較にしか子供の価値を求めようとはしない。これは「バカの連鎖。」である。親がバカなままであるなら、子供が賢くなるわけがないのである。
こうしたことを論じると、「じゃあ、どうすれば良いのか。」と聞いてくるバカが後を絶たない。他人の行動の一体何が問題であるのかを、朝から晩まで全て監視して指摘しなくてはならないとでも言うのであろうか。これこそが最もバカげた無意識性に他ならない。
自分の行動判断の一体何が問題であるのかを、自律的に認識して初めて本質的「意識。」であると言えるのである。それを「そういうことを認識できるように育てられていない。」などと言うのは、単なる言い逃れや取り繕いでしかない。こうした自律の無さこそが、無意識的な「連鎖。」を生み出すヒトの行動習性を作り出しているのである。
宗教的な「宿業(しゅくごう)。」とは、こうした無意識的な世代間の「連鎖。」によって受け継がれるヒトの習性のことを指しているのである。
なし崩し的に権威に服従するのも、そこに本質的意識が働いていないからであり。これをオリンパスは「日本の文化。」と言った。日本人にマナーがないのは、自律的な行動判断が働いていないからである。
成育環境によって無意識的に刷り込まれた行動価値観というものは、本質的的には自分自身で自発的に選択した価値観とは異なるものである。環境依存的な「強迫観念。」といっても良い。イジメに迎合しておいた方が安全であることを動物的に行動「学習。」すれば、多数に迎合するようにしか無意識的には行動できなくなる。そこから「自律。」が出て来ないのは当たり前である。
子供のイジメの場合、生物/医学的危険性を伴うものでもある。子供というのは大人が観念的に「思う。」ほど純粋無垢な存在ではなく、むしろ自分の子供時代を事後正当化、美化したいという願望によって「子供とは純粋無垢なものである。」と思いたいだけのことである。子供だけで形成する生物本能的な「社会性。」というのは、あくまで生物本能的な社会形成習性に基づく無意識的で目的意識のない気分的安心を追求するだけの封建的ヒエラルキー社会である。それを短絡的に「社会性。」であると言い張る頭の悪さを、誰も自律的に認識できないばかりか。論理的にも理解「したがらない。」というのは精神的な怠慢と言う他ない。
こうした精神的怠慢の集積によって、社会安全性というのは蔑ろにされるのである。
多くのヒトは、それを「些細なこと、つまらないこと。」であると認識するようである。子供の行動にいちいち口を挟むことこそが余計なことであると「思う。」であろう。しかし、動物的に行動「学習。」された行動こそが、将来的に社会においての無意識性の根源となるのである。
戦争を止められなかったことも、原発を止められなかったことも、イジメがなくならないことも、独裁社会がなくならないことも、全てはヒトの無意識的本能習性によって助長された行動であるからだ。
大衆凡人の観念的価値観に合理的意味など存在しない。存在しないからこそ大衆観念であるからだ。
大衆観念的には「学力=生存。」だから、最も重要であると言い張るであろう。個体のその場限りの「生存。」選択行動というものが、必ずしも社会的利益には結び付かず。また、個人が生きるに価する社会の在り方に寄与するわけでもない。
一人の「人間。」としての行動選択とは、「生きるに価する社会。」の為の行動選択を行うことである。それによって個人の自発的尊厳となるのである。そこに単なる目先の「生存。」は価値を持たない。
//---------
社会性、協調性。
協調性というと、大衆観念的には人間性と同義であるかのように錯覚するが。単に協調行動を採るだけであればヤクザでもカルト宗教でも、またイジメにおいても行われるものであり。短絡的に人間性であるとは論理的には言うことができない。
シエラレオネの少年ゲリラであっても、その行動には極めて高い協調性が見られる。
単に多数他人と協調行動を採ることが短絡的に自律的な社会的責任行動選択には結び付くわけではない。
「協調性がなければ、生きてゆけない。」などと言う話は、要するに文科系生物学者達の言い逃れであって。「生存。」だけを絶対的正義として扱う生物/医学上における観念に過ぎない。生きていさえすれば人間として「正しい。」ことの論証にはならないのである。
一人の人間において優先すべきは個人の自律的な社会的責任行動選択であって。目先の多数他人との迎合、多数からの人気取り、多数のご機嫌取りではない。
本能習性的な社会形成習性というものは、イジメにおける協調行動を助長することはあっても、自律的に社会的責任行動選択を促すためには全く役に立たない「行動習性。」でしかない。
クソゲー、いわゆるモバイルソーシャルゲームにおける「ソーシャル。(社会性)」というのは。本能習性的に協調行動を促したり、本能的な順位欲を利用しているという点において「社会性。」を持つだけであって。どんなにクソゲーで高い得点を得ることができても自律的に社会的責任行動選択が出来るようにはならない。
一人の互換不能な個人としての価値。本質的な社会性、自律的に社会的責任行動選択を行うためには。単に目先の多数他人との迎合性を絶対的「社会性。」として扱っている限り養われることはなく。むしろ、目先の多数他人との協調性よりも、多数他者からの評価報酬類に左右されない自発的純粋行為を優先すべきなのである。
文系の観念からすれば、多数他人に迎合しておけば主観的に「安心。」なのであろうが。こうした「気分。」に基づいた行動選択こそが、無意識的な本能習性によるものであり。社会形成習性を助長してしまうことにもなるのである。
大人、或は衆人環視環境下において。子供が習性による社会形成行動、協調行動を採る場合であれば。イジメなどの反社会的行動にはエスカレートすることはないであろう。しかし、こうした社会形成習性というものは一旦監視制御する大人の目がなくなった途端に暴力性へとエスカレートするのである。「大人の監視による目的。」を失った社会形成習性というものは、自律的には歯止めが効かずに暴走するものなのである。だからイジメというのはなくならない。
本能習性に従って行動することは、個体にとって気分的に快楽でもあり。自制する本質的意識とは無関係なシーケンシャルな行動習性しか促さない。
従って、一般的に形容される多数他人への協調性や迎合性を「社会性。」と呼ぶことの間違いを周知しないことには、「本質的な人間としての社会性。」とは何かすら多数の大衆には認知すらされないのである。
自律的な社会的責任判断の重要性が認識できない状態において、他人に対して自律的な社会的責任判断を要求することは理論的に支離滅裂なのである。
子供だけで放置することによって養われる「社会性。」というものは、あくまで本能的な社会形成習性だけであって。それは多数他人との迎合や協調行動だけであり。自律的な社会的責任選択を行うようには養われることは原理的にない。
イジメを行っている集団に対し、それを批判すれば攻撃対象として扱われる場合。無批判に集団に迎合し、むしろ「積極的。」に迎合しておいた方が、その環境下においては自己の安全性が保てる状況である場合。これは生物学的には「生存。」価に適する行動こそが絶対的正義である。こうした行動「学習。」によって、個人が自律的に社会的責任判断を行うようになると言えるであろうか。否、これこそが多数他人への迎合性を助長し、自律的な判断を不具にする最大の原因である。
ヒトが形成する本能的な社会構造というのは、封建的ヒエラルキーによる統一性だけであり。こうした本能習性に従っている方が個体の気分は「安心。」なのである。この「気分。」がどんなに強くても、論理的な安全性の論証には全くならないばかりか、むしろ個人の自律的な社会的責任判断の欠落を助長するのである。
懲役刑が再犯防止に何ら寄与しないのと同様。学力学歴学位といったものもまた自律的社会的責任判断に何ら寄与しないことを。多くのヒトは認識したがらない。自分の学力学歴学位が本当は無意味であったことを認識したくないため、事後正当化するためのあらゆる屁理屈を並べて「取り繕う。」のである。
「取り繕い。」というのは認知症の典型的初期症状である。他人からの外見にばかり意識が働き、他人との関係性における優位性、正当性を保つこと以外には全く頭が働かないからこそ認知症に陥るのである。
外見上「普通。」で、「一般的。」で、「平均的。」であることが気分的に「安心。」なのである。しかし、これをどんなに追求しても、人間としての社会性である自律的な社会的責任判断が可能になるわけではない。
文系の学者研究者達が、執拗に生物学上の社会形成習性を「社会性。」として扱おうとするのは。そうしておかないと自分達の頭の悪さが世間に露呈し、地位を失いかねないからである。こいつらの多数決をどんなに集計しても、そこから論理的な検証による科学的判断はされることは原理的にない。
東京大学情報学環教授 佐倉統は公然と「学会内部で大勢を占めていない。」と論じた。これは何ら自律的判断も、論理的検証も、科学的判断も伴ってはおらず。ただ漫然と体制に迎合していることを論じただけである。こうしたバカが国家最高学府の教授をやっているのが生物学の現状である。
どんなに「積極的。」であるとしても、その動機が社会的な評価報酬や地位の保守であるならば。これは本質的には自発的純粋行為ではない。振り込め詐欺がどんなに積極的であろうと、カルト宗教の幹部が命懸けで毒ガスを製造しても、これらは本質的には自発的行動ではなく。環境依存的な脅迫観念による行動「結果。」でしかないのである。
とかくヒトの多くは自分の観念こそが絶対的な価値であると錯覚しがちである。いままで考えたことのないパラダイムを提供されると観念的、気分的拒絶反応しかすることはなく。論理的な検証や自律的判断を放棄しがちである。
それはいわば、凡庸性に特化された短絡的な無意識的思考に過ぎない。
凡庸で「普通。」の行動というのは、概ねにおいて危険が少ない場合が多い。だが、論理的に常に安全であることの論証があるわけではない。ヒトという種の生物というのは、環境によっては意図せず他人に危害を加えてしまう習性を持っている。こうした「習性。」に抗うのは、気分によって促されるような無意識的行動ではなく。論理的に検証する自律的判断である。
「多くの他人も陥りやすい習性。」であれば、気分的に「安心。」して習性のままに行動することも可能である。こうした気分的「安心。」こそが論理的「安全。」性を蔑ろにするヒトの普遍的習性である。
だが、習性というのはあくまで「傾向性。」でしかなく。習性のままに従う以外に選択の余地が全く存在しないことの論証ではない。「苦手だから。」だとか「自律を出来るように育てられていない。」といった泣き言に耳を貸すつもりは一切ない。バカの論理をいくら並べてもバカげた帰結にしか到達しないことは最初からわかっているからだ。
end:
コミュニティーが小さい場合、一人一人に分け与える金額が小さいのは。分け合う人数が多いことを予測しているとも考えられる。
コミュニティーが大きい場合、実験室以外の人への配慮が全くないからこそ、P2P以外に意識が働かないために金額が大きくなる可能性もある。
最終的にコミュニティー全体に分け合う金額まで追跡していないと、「コミュニティーの規模。」と「分け合う金額。」の比例関係性を立証したことにはならない。
どうも生物学や社会心理学者というのは、一面的事実「立証。」から短絡的帰結を勝手にでっちあげる「習性。」があり思慮が浅い。これは探究心の欠如と言わざるを得ない。
物と金では分け合う気分が異なるのは。物の場合、その物自体への個人的好き嫌い、個人差が働くためであり。物自体に選択肢がある場合も考慮に入れる必要性があったのではないか。
金と物によって、分け合う量が異なる「傾向。」性をどんなに抽出してきても。これはヒトの習性、傾向性を立証しているだけであって、何ら人間としての本質的意識的行動とは無関係である。
どんなに「人間的。」な傾向性だけを抽出してきても、それによってヒトが非人間的な行動を全く採らないことの論証にはならない。
ヒトの行動習性、傾向性をどんなにたくさん抽出してきても、「全てのヒトが人間としての社会性を持つ。」ことの論証には絶対にならない。アイヒマン実験の反証も、シエラレオネのゲリラの行動の反証にもならないからである。
どんなにたくさん生物学/社会心理学において都合の良い話を枚挙してきても、戦争や犯罪の発生に対して何の影響も与えることはなく。単なる生物/社会心理学における勝手な自己満足にしかならないのである。マスコミ大衆に迎合するだけであれば、それで充分であろう。しかし、こうした気分的満足による「安心。」こそが論理的社会「安全。」性から意識を逸らせ、無思考に陥る最も根源的な「ヒト。」の行動習性である。
無意識的な行動習性から「都合の良い結果。」だけを抽出して気分的満足をすることからは、何ら意識の励起を促す行動選択は導き出されることはなく。むしろ無意識的な行動習性によって生ずる「悪い結果。」の傾向性を知ることによってこそ、人間としての行動選択を促すことが可能となるのである。
私が論じているのは、「良い傾向性。」と「悪い傾向性。」の、どちちらが多いかどうかを論じているのではない。「良い傾向。」が多ければ気分的に「安心。」であるからといって、「悪い傾向。」を無視して良いというような短絡的で安易な帰結に陥ることの危険性を論じているのである。
傾向として、ヒトという種の生物が概ね安全であることで満足することによって。「概ね。」ではない危険性から意識を逸らし、無視し、何も考えなくなる無思考性こそが、危険性そのものを認識しなくなるヒトの傾向性であることを認識すべきである。
マスコミは大衆迎合的に、ヒトという種の生物の「良い傾向。」だけを抽出したがるが。これこそが多数大衆から安全性に対する意識を奪う気分的満足「安心。」を促すのである。
現在の生物学/脳科学/社会心理学/哲学界の全ては、大衆迎合的な気分的満足の追求しかされておらず。何ら論理的、科学的な根拠に基づいた検証性が働いていない。従って、どんなに現在の権威性から多数決的に証言を得ても、科学的論証「裏づけ。」にはならない。
彼らは既に腐敗体制に頭まで漬かっているのである。マスコミはその加担しかしていない。
//-------
志とは意思である。意思とは本質的意識によって思考された選択のことである。
「予算や権限を増やした者が評価されるシステムに問題がある。」国土交通省 竹内 現在の評価基準においては省庁同士で不毛な予算の奪い合いを助長するだけ。
元経済産業省 古賀茂明 官僚が国民のために働けない制度になっている。その原因には。
○人事評価が「国民のため。」になっていない。
○縦割り。入省すると一生省庁に縛られる。
○前例主義。
があるという。
前例主義などというのは、まさにドーパミンが作り出す常習性に由来する結果である。いままでやったことのないことに対して気分的な恐怖心を抱く「習性。」によるものであり、本質的合理的思考が働いていないからである。
縦割りも本能的な社会形成習性が作り出す行動の結果である。本能的な組織的協調性に「目的。」がないために、保身に「走った。」結果として縦割りになるのである。
そもそもが本能的動機であるから、「目的。」が自己保身になるのは動物として普通の行動である。
単なる動物は利己的行動選択しか行わない。利他的行動、自律的な社会的責任選択といったものを「人間。」が行うのは、単なる目先の利益を「目的。」とはしないからである。
文系のバカの多くは、社会的責任というものは他人からの評価がなければ選択しないものであると思い込んでいる。決して自律的に社会的責任などとるバカはいないと思い込んでいる。果たしてどちらが本当のバカであろうか。
「人間。」が自律的に社会的責任選択をするのは、決して物質的利益を求めるからではない。あくまで自己自身の尊厳として、社会的責任選択をすることこそが自己自身の本質的「心。」の安らぎであるからこその選択なのであり。故に本質的人間性というのは自己の「生存。」価とは無関係に行動選択されるものでなくてはならない。
しかし、特攻だのテロといったものは。当人自身が選択した行動ではなく、社会環境によって無意識的に誘導された行動に無意識よって促された、動物習性的な献身であり。多数他人からのウケ狙いによるものでしかない。「お国の為。」と称して犠牲を正当化することと、戦争自体に反対することによる犠牲は全く異なるものなのである。
戦争に反対しても大衆にはウケは良くない。それは多数派ではないからだ。こうした多数の無意識性こそが戦争や犯罪を助長することはあれ、抑制することにはならないことを認識すべきである。
認識すべきことを認識できないのは、そこに本質的な意識が働いていないからである。意識、認識が変わらなければ行動も思考も変わることはない。錯覚を錯覚であると認識していなければ、錯覚に基づいた行動しかできないのは当たり前のことである。錯覚に基づいた行動をしていても気分的には「恐く。」はないであろう、故に多数の「ヒト。」は錯覚を錯覚であるとは認識「したがらない。」ために、むしろ錯覚を助長する方向にしか意識は働かないのである。
それこそが無意識というものであることを、多くの「ヒト。」は認識していない。
ヒトは多数意見に迎合しておけば気分的に「安心。」なため、多数意見を助長する方向にしか意識が働かないようにできている。「ヒト。」とはそういうものである。そういう「傾向性。」「習性。」を持っている。
こうした無意識的な「傾向性。」や「習性。」を、意識的に論理的に認識できていれば、短絡的に行動習性のままに流されることを回避することも可能となる。
だが、錯覚を錯覚であると認識することというのは。要するに自分自身の愚かさを認識することと等価でもあるため。これは気分的に「嫌。」なものなので、多くの「ヒト。」は無意識的な気分が促す行動以外に全く意識が働かないのである。
世の中の論理的間違いのいちいちを、私がこの記事上で懇切丁寧に噛んで含めるように説明することに意味はない。本来なら「言われれば誰でも理解可能な話。」であるならば、自律的に気付いて良いはずのものである。ところが誰も自律的には気付かないのは、多くのヒトには本質的意識が働いていないからである。
多くのヒトが自律的に社会的責任を負わない理由として、地位や権益を失いたくないという利己的動機が必ず働いている。地位や権益というのは、それを獲得するまでの受験戦争の「努力。」を事後正当化も含まれている。それなら「目的。」のための競争ではなく、社会環境に与えられた価値観に迎合しているだけである。
エリート競争も構わないのだが、その競争の動機が社会から刷り込まれた無意識的動機である限りにおいて、最終的には利己保身という本能的目的行動に基づいた選択しかされなくなるのは必然というものである。
社会から刷り込まれた価値観に迎合するのは、そもそも自発的純粋行為ではないからだ。
自律とは自発の中にあり、他にはない。これは定理である。
現実には学力であっても自発性を重要視する北欧諸国の方が高い傾向がある。個人が純粋に持った「目的。」意識があれば、教育の具体的「方法論。」に関わらず学力は向上するのである。
従って、重要なのは個人の自発的純粋行為の重要性を重んじることであって。「学力。」自体を目的とするのではなく、個人の目的の手段としての学力でなければならないのである。ところがバカな親達は他人の子供との比較にしか子供の価値を求めようとはしない。これは「バカの連鎖。」である。親がバカなままであるなら、子供が賢くなるわけがないのである。
こうしたことを論じると、「じゃあ、どうすれば良いのか。」と聞いてくるバカが後を絶たない。他人の行動の一体何が問題であるのかを、朝から晩まで全て監視して指摘しなくてはならないとでも言うのであろうか。これこそが最もバカげた無意識性に他ならない。
自分の行動判断の一体何が問題であるのかを、自律的に認識して初めて本質的「意識。」であると言えるのである。それを「そういうことを認識できるように育てられていない。」などと言うのは、単なる言い逃れや取り繕いでしかない。こうした自律の無さこそが、無意識的な「連鎖。」を生み出すヒトの行動習性を作り出しているのである。
宗教的な「宿業(しゅくごう)。」とは、こうした無意識的な世代間の「連鎖。」によって受け継がれるヒトの習性のことを指しているのである。
なし崩し的に権威に服従するのも、そこに本質的意識が働いていないからであり。これをオリンパスは「日本の文化。」と言った。日本人にマナーがないのは、自律的な行動判断が働いていないからである。
成育環境によって無意識的に刷り込まれた行動価値観というものは、本質的的には自分自身で自発的に選択した価値観とは異なるものである。環境依存的な「強迫観念。」といっても良い。イジメに迎合しておいた方が安全であることを動物的に行動「学習。」すれば、多数に迎合するようにしか無意識的には行動できなくなる。そこから「自律。」が出て来ないのは当たり前である。
子供のイジメの場合、生物/医学的危険性を伴うものでもある。子供というのは大人が観念的に「思う。」ほど純粋無垢な存在ではなく、むしろ自分の子供時代を事後正当化、美化したいという願望によって「子供とは純粋無垢なものである。」と思いたいだけのことである。子供だけで形成する生物本能的な「社会性。」というのは、あくまで生物本能的な社会形成習性に基づく無意識的で目的意識のない気分的安心を追求するだけの封建的ヒエラルキー社会である。それを短絡的に「社会性。」であると言い張る頭の悪さを、誰も自律的に認識できないばかりか。論理的にも理解「したがらない。」というのは精神的な怠慢と言う他ない。
こうした精神的怠慢の集積によって、社会安全性というのは蔑ろにされるのである。
多くのヒトは、それを「些細なこと、つまらないこと。」であると認識するようである。子供の行動にいちいち口を挟むことこそが余計なことであると「思う。」であろう。しかし、動物的に行動「学習。」された行動こそが、将来的に社会においての無意識性の根源となるのである。
戦争を止められなかったことも、原発を止められなかったことも、イジメがなくならないことも、独裁社会がなくならないことも、全てはヒトの無意識的本能習性によって助長された行動であるからだ。
大衆凡人の観念的価値観に合理的意味など存在しない。存在しないからこそ大衆観念であるからだ。
大衆観念的には「学力=生存。」だから、最も重要であると言い張るであろう。個体のその場限りの「生存。」選択行動というものが、必ずしも社会的利益には結び付かず。また、個人が生きるに価する社会の在り方に寄与するわけでもない。
一人の「人間。」としての行動選択とは、「生きるに価する社会。」の為の行動選択を行うことである。それによって個人の自発的尊厳となるのである。そこに単なる目先の「生存。」は価値を持たない。
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社会性、協調性。
協調性というと、大衆観念的には人間性と同義であるかのように錯覚するが。単に協調行動を採るだけであればヤクザでもカルト宗教でも、またイジメにおいても行われるものであり。短絡的に人間性であるとは論理的には言うことができない。
シエラレオネの少年ゲリラであっても、その行動には極めて高い協調性が見られる。
単に多数他人と協調行動を採ることが短絡的に自律的な社会的責任行動選択には結び付くわけではない。
「協調性がなければ、生きてゆけない。」などと言う話は、要するに文科系生物学者達の言い逃れであって。「生存。」だけを絶対的正義として扱う生物/医学上における観念に過ぎない。生きていさえすれば人間として「正しい。」ことの論証にはならないのである。
一人の人間において優先すべきは個人の自律的な社会的責任行動選択であって。目先の多数他人との迎合、多数からの人気取り、多数のご機嫌取りではない。
本能習性的な社会形成習性というものは、イジメにおける協調行動を助長することはあっても、自律的に社会的責任行動選択を促すためには全く役に立たない「行動習性。」でしかない。
クソゲー、いわゆるモバイルソーシャルゲームにおける「ソーシャル。(社会性)」というのは。本能習性的に協調行動を促したり、本能的な順位欲を利用しているという点において「社会性。」を持つだけであって。どんなにクソゲーで高い得点を得ることができても自律的に社会的責任行動選択が出来るようにはならない。
一人の互換不能な個人としての価値。本質的な社会性、自律的に社会的責任行動選択を行うためには。単に目先の多数他人との迎合性を絶対的「社会性。」として扱っている限り養われることはなく。むしろ、目先の多数他人との協調性よりも、多数他者からの評価報酬類に左右されない自発的純粋行為を優先すべきなのである。
文系の観念からすれば、多数他人に迎合しておけば主観的に「安心。」なのであろうが。こうした「気分。」に基づいた行動選択こそが、無意識的な本能習性によるものであり。社会形成習性を助長してしまうことにもなるのである。
大人、或は衆人環視環境下において。子供が習性による社会形成行動、協調行動を採る場合であれば。イジメなどの反社会的行動にはエスカレートすることはないであろう。しかし、こうした社会形成習性というものは一旦監視制御する大人の目がなくなった途端に暴力性へとエスカレートするのである。「大人の監視による目的。」を失った社会形成習性というものは、自律的には歯止めが効かずに暴走するものなのである。だからイジメというのはなくならない。
本能習性に従って行動することは、個体にとって気分的に快楽でもあり。自制する本質的意識とは無関係なシーケンシャルな行動習性しか促さない。
従って、一般的に形容される多数他人への協調性や迎合性を「社会性。」と呼ぶことの間違いを周知しないことには、「本質的な人間としての社会性。」とは何かすら多数の大衆には認知すらされないのである。
自律的な社会的責任判断の重要性が認識できない状態において、他人に対して自律的な社会的責任判断を要求することは理論的に支離滅裂なのである。
子供だけで放置することによって養われる「社会性。」というものは、あくまで本能的な社会形成習性だけであって。それは多数他人との迎合や協調行動だけであり。自律的な社会的責任選択を行うようには養われることは原理的にない。
イジメを行っている集団に対し、それを批判すれば攻撃対象として扱われる場合。無批判に集団に迎合し、むしろ「積極的。」に迎合しておいた方が、その環境下においては自己の安全性が保てる状況である場合。これは生物学的には「生存。」価に適する行動こそが絶対的正義である。こうした行動「学習。」によって、個人が自律的に社会的責任判断を行うようになると言えるであろうか。否、これこそが多数他人への迎合性を助長し、自律的な判断を不具にする最大の原因である。
ヒトが形成する本能的な社会構造というのは、封建的ヒエラルキーによる統一性だけであり。こうした本能習性に従っている方が個体の気分は「安心。」なのである。この「気分。」がどんなに強くても、論理的な安全性の論証には全くならないばかりか、むしろ個人の自律的な社会的責任判断の欠落を助長するのである。
懲役刑が再犯防止に何ら寄与しないのと同様。学力学歴学位といったものもまた自律的社会的責任判断に何ら寄与しないことを。多くのヒトは認識したがらない。自分の学力学歴学位が本当は無意味であったことを認識したくないため、事後正当化するためのあらゆる屁理屈を並べて「取り繕う。」のである。
「取り繕い。」というのは認知症の典型的初期症状である。他人からの外見にばかり意識が働き、他人との関係性における優位性、正当性を保つこと以外には全く頭が働かないからこそ認知症に陥るのである。
外見上「普通。」で、「一般的。」で、「平均的。」であることが気分的に「安心。」なのである。しかし、これをどんなに追求しても、人間としての社会性である自律的な社会的責任判断が可能になるわけではない。
文系の学者研究者達が、執拗に生物学上の社会形成習性を「社会性。」として扱おうとするのは。そうしておかないと自分達の頭の悪さが世間に露呈し、地位を失いかねないからである。こいつらの多数決をどんなに集計しても、そこから論理的な検証による科学的判断はされることは原理的にない。
東京大学情報学環教授 佐倉統は公然と「学会内部で大勢を占めていない。」と論じた。これは何ら自律的判断も、論理的検証も、科学的判断も伴ってはおらず。ただ漫然と体制に迎合していることを論じただけである。こうしたバカが国家最高学府の教授をやっているのが生物学の現状である。
どんなに「積極的。」であるとしても、その動機が社会的な評価報酬や地位の保守であるならば。これは本質的には自発的純粋行為ではない。振り込め詐欺がどんなに積極的であろうと、カルト宗教の幹部が命懸けで毒ガスを製造しても、これらは本質的には自発的行動ではなく。環境依存的な脅迫観念による行動「結果。」でしかないのである。
とかくヒトの多くは自分の観念こそが絶対的な価値であると錯覚しがちである。いままで考えたことのないパラダイムを提供されると観念的、気分的拒絶反応しかすることはなく。論理的な検証や自律的判断を放棄しがちである。
それはいわば、凡庸性に特化された短絡的な無意識的思考に過ぎない。
凡庸で「普通。」の行動というのは、概ねにおいて危険が少ない場合が多い。だが、論理的に常に安全であることの論証があるわけではない。ヒトという種の生物というのは、環境によっては意図せず他人に危害を加えてしまう習性を持っている。こうした「習性。」に抗うのは、気分によって促されるような無意識的行動ではなく。論理的に検証する自律的判断である。
「多くの他人も陥りやすい習性。」であれば、気分的に「安心。」して習性のままに行動することも可能である。こうした気分的「安心。」こそが論理的「安全。」性を蔑ろにするヒトの普遍的習性である。
だが、習性というのはあくまで「傾向性。」でしかなく。習性のままに従う以外に選択の余地が全く存在しないことの論証ではない。「苦手だから。」だとか「自律を出来るように育てられていない。」といった泣き言に耳を貸すつもりは一切ない。バカの論理をいくら並べてもバカげた帰結にしか到達しないことは最初からわかっているからだ。
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