泥酔して大騒ぎをしてもストレスの解消にはならない
実際 泥酔して大騒ぎをするようなバカは 泥酔しようがしまいが自律的な社会的責任判断選択は出来ず 抑制というものが効かない
他人への迷惑に配慮出来ない時点で既に抑制が効かず たとえどんなに泥酔して他人に迷惑をかけてもストレスが解消することはなく 際限なく他人に迷惑をかけ続けなければならない
だから バカというのは際限なくバカなのである
私が論じている「バカ」とは 学力偏差値や学歴の話ではなく 人間としての倫理や人間性を発揮するための自律的な社会的責任判断選択が可能かどうかを論じているのである
どんなに学力偏差値が高くても 自律的に社会的責任を負うことをしないのであれば これはただの「学力が高いだけの無能なバカ」に過ぎない
人間の社会というものは 個人が自分の社会的責任を負うことで成立しているのであって これが全うできなければ学力偏差値も何も人間としての賢さの論証には一切ならない
他人の存在に頼らず 1人で黙々と熱中できる純粋行為を持たないからこそ 他者に対して自分の存在を必死になってアピールし続けなければならないのである
泥酔して大声で騒いでいれば あたかも「他人よりも自分の方が自由だ」と錯覚することも可能ではあるが
それは錯覚であって 本質的には何も「自由」ではない
他人との比較において「俺の方が自由だ」という基準自体が 他者との関係性の中でしか見出すことの出来ない価値観であって 本当の意味で「自分が楽しい」と感じているわけではない
仏教で言う「外道」である
中東由来の一神教信者の多くは 「自分が信じている宗派の方が優れている」と主張し 他者よりも自分達の方が優れていることを主張したがり 異教徒に暴力を振るう
自分が既に信じている宗派を事後正当化するために 異教徒を蔑み排除差別をすることで認知的な不協和を解消する形でシーケンシャルに異教徒に罰(暴力)を振るうのである
しかも 終いにゃ「神がいないなら何をしても赦される」などと自律も何もない幼稚な屁理屈を言い出す始末である
社会安全性や持続可能性というものは 神がいようがいまいが関係がないものであり 神が求めているものではなく 人間が求めているものなのであって 神は関係がない
こうした排除差別による罰や暴力を用いた行動というものは 宗教に限ったものではなく 軍事政権や独裁国家にも普く見られるヒトのシーケンシャルな先天的習性に他ならない
武力を用いて他者を抑圧することで 自分の方が有利になったような錯覚を感じるため 独裁者は必死になって他者を抑圧することばかりに異常執着し 暴力の暴走を招くことに陥り 最終的には破滅に陥ることになる
他者との比較における優越感というものには自己の主体的な楽しみとは全く別物であるため どこまで比較しても際限というものがなく 永久に満たされることのない泥沼であり 故に「やめることが出来ない」中毒的な執着性を発揮することになるのである
ナチス政権下同様 独裁というのは破綻に至るまで暴走を自律的に止めることは出来ないのである
自分が満たされないことを他人の所為にし 報復的に他者にどんなに迷惑をかけても 他者との比較に依存している限り本当の満足を得ることは出来ない
他人をどんなに思い通りにコントロールできたとしても その自分自身の情動がコントロールできなければ本当の自由にはなれない
他人から搾取すれば その関係性だけを見れば優位性だとみなすことは可能だが
他人からの搾取というのは持続可能性がなく 社会全体から客観的に見た場合には「身勝手なクズ野郎」に過ぎない
「身勝手なクズ野郎」に対して尊厳を見出すことが出来ない以上 自分自身が「身勝手なクズ野郎」な行動をしていて自己に尊厳を持つこともできないのである
他人に迷惑をかければかけるほど 自己肯定感は失われることになり バカは益々バカげた行動へと暴走を始めることに陥るのである
既に行ってしまった行動を事後正当化し 認知的不協和を解消する形でバカは暴走するのである
ミャンマーの軍事政権 香港や中国による民主化抑圧 北朝鮮や戦時中の日本やナチス・ドイツに見られる身勝手な暴走は 程度の差こそあれ構造原理的にはそこいら辺で酔っ払って騒いでいるバカの暴走性と根っ子は同じである
バカが暴走するのは カルト宗教の洗脳と構造的には同じものであるため バカは自らの頭の悪さを自覚することが極めて困難になる
ヒトという種の生物には そういった先天的な「人間としての欠陥」が存在しているのである
決して「ヒトには先天的に人間としての社会性が組み込まれている」わけではなく 山極寿一ら生物学者達による主張は大衆迎合であって科学的根拠を伴わない勝手な「決めつけ」でしかないのである
大衆やマスコミの多くは「ヒトは先天的に優れている」かのような話をしておけば満足し その主観的満足を根拠に科学的真理であるかのように錯覚しておくことは簡単であろう
そうした簡単なことに溺れているから真偽が見えなくなるのである
Ende;