「理性を超えた英知」など実存しない
暴力的革命は理性ではないし
「人知を超えたもの」ならヒトが利用出来るものではない あまりに妄想が激し過ぎる
「丁寧な改革」は必要だが 「優生学を放置する」ような雑な保守主義は徹底排除する必要がある
「多数者の専制」というバカ主義に陥るのはヒトの先天的本能習性に起因するものであり 故に「獣のよう」なのである
原始的な共同体における年功序列や封建性というのは 先天的な本能習性が作り出すものであって 故に排外性や仲間意識などの無意識性によって革新性を喪失するのである
西部邁(にしべ すすむ)は「熱狂を疑え」と説いたが 非合理な観念に疑いも持たずに冷静に盲信しているバカも実在するのであって 熱狂だけを疑っておけば良いというものでもない
「間違いを指摘されても何も感じず 何も問題意識も働かない」のでは論外である
自己とは環境によって作られたものではあるが 環境要因なくして自己が存在しないからといって短絡的に環境を正当化しておけば良いというものではない
環境から刷り込み学習された価値観 すなはち自己の本質的選択可能性のないものを事後正当化して良いことにはならない
ヒトは 本当は自己選択していない価値観であっても気分的安心感によって根拠のない執着(常習精中毒)に囚われてしまう習性がある この執着から逃れるために必要なのは本質的な現時点での選択である
「いままで ずっと信じてきた」事柄に対する盲目的信頼によって 現時点での選択可能性を喪失するのである
ヒトという種の生物学的側面を考慮に入れず ただ漫然と気分的安心満足ばかりを追求しているからこそ 文系哲学は実効性が乏しいのである
既に存在しているだけの自己を事後正当化するというのは「自分は常に正しい存在である」という正常性バイアスが作り出した傲慢な妄想観念によるものである
だからこそ「理性を超越した英知」などという 非合理的オカルト妄想に頼ろうとすることになる
非合理的オカルトは実質的に役に立たない
だからこそポピュリズムに対して従来の文系哲学は有効な対策が全くできないのである
結局オルテガや西部を読んで 何かがわかったような気分的に安心満足しているだけであって 具体的内容としての原因究明にまで言及出来ていないからこそ無能なのである
それはまるで ドーキンスのお伽話を多数派で共有して何かの役に立つかのように錯覚して無能に陥っているバカ生物学者達と同じで
外見上は「熱狂」していないようにも見えるが 実質的には多数決による「静かなる熱狂」によって真理を見失っているのである
文系哲学者というのは 論理的真理の追求よりも気分的安心満足(主観)によって簡単に思考停止に陥る習性があり 科学的検証をバカにしているからこそ「理性を超越した英知」などという訳のわからぬ実証不能のオカルト妄想を言い出すのである
Ende;
暴力的革命は理性ではないし
「人知を超えたもの」ならヒトが利用出来るものではない あまりに妄想が激し過ぎる
「丁寧な改革」は必要だが 「優生学を放置する」ような雑な保守主義は徹底排除する必要がある
「多数者の専制」というバカ主義に陥るのはヒトの先天的本能習性に起因するものであり 故に「獣のよう」なのである
原始的な共同体における年功序列や封建性というのは 先天的な本能習性が作り出すものであって 故に排外性や仲間意識などの無意識性によって革新性を喪失するのである
西部邁(にしべ すすむ)は「熱狂を疑え」と説いたが 非合理な観念に疑いも持たずに冷静に盲信しているバカも実在するのであって 熱狂だけを疑っておけば良いというものでもない
「間違いを指摘されても何も感じず 何も問題意識も働かない」のでは論外である
自己とは環境によって作られたものではあるが 環境要因なくして自己が存在しないからといって短絡的に環境を正当化しておけば良いというものではない
環境から刷り込み学習された価値観 すなはち自己の本質的選択可能性のないものを事後正当化して良いことにはならない
ヒトは 本当は自己選択していない価値観であっても気分的安心感によって根拠のない執着(常習精中毒)に囚われてしまう習性がある この執着から逃れるために必要なのは本質的な現時点での選択である
「いままで ずっと信じてきた」事柄に対する盲目的信頼によって 現時点での選択可能性を喪失するのである
ヒトという種の生物学的側面を考慮に入れず ただ漫然と気分的安心満足ばかりを追求しているからこそ 文系哲学は実効性が乏しいのである
既に存在しているだけの自己を事後正当化するというのは「自分は常に正しい存在である」という正常性バイアスが作り出した傲慢な妄想観念によるものである
だからこそ「理性を超越した英知」などという 非合理的オカルト妄想に頼ろうとすることになる
非合理的オカルトは実質的に役に立たない
だからこそポピュリズムに対して従来の文系哲学は有効な対策が全くできないのである
結局オルテガや西部を読んで 何かがわかったような気分的に安心満足しているだけであって 具体的内容としての原因究明にまで言及出来ていないからこそ無能なのである
それはまるで ドーキンスのお伽話を多数派で共有して何かの役に立つかのように錯覚して無能に陥っているバカ生物学者達と同じで
外見上は「熱狂」していないようにも見えるが 実質的には多数決による「静かなる熱狂」によって真理を見失っているのである
文系哲学者というのは 論理的真理の追求よりも気分的安心満足(主観)によって簡単に思考停止に陥る習性があり 科学的検証をバカにしているからこそ「理性を超越した英知」などという訳のわからぬ実証不能のオカルト妄想を言い出すのである
Ende;