現在の自然界における生物相というのは 非常に明確に種別が別れていますよね
これって種別の間に存在していた中間種が全て淘汰された結果なわけです
それに対してヒトの社会が作り出した文明環境下では人為的淘汰以外はあまり働かないため イヌなどのペットは体の大きさや体毛の色などに非常に多くのバリエーションがあるのです
自然界においては変異が生じた後に弱肉強食などの過酷な淘汰圧力が働くことによって特定の「生存にとって有利な性質を持った個体種」だけが生き残ることになるため その結果を「進化」と呼ぶわけです
何せ数億年に渡る変異と淘汰がもたらした「進化」ですから 人知を超えた激しい「進化」があっても何の不思議もないのですが 私達人類はたかだか100年にも満たない人生の中で得た見識の中だけで見ているために あたかも「進化」というものが誰かの目的意図に基づいて合理的に選択したものであるかのような錯覚によって 進化というものが常に絶対に正しい結果しかもたらさない万能の願望器か何かと錯覚しがちです
進化の基となるのは突然変異ですが 亀が突然変異でミュータントタートルズみたいに高い知能や運動能力を獲得するというのはお伽話でしかありません
実際の突然変異というのは 何も影響が起きないか 先天的疾患によって生存に適さないことがほとんどであって 急に突出した進化のようなものを促すわけではありません
種としての進化が生ずるためには 突然変異によってごく小さな変異が生じ この変異が生存にとって有利に働くことによって その他の個体種が何世代にも渡って死滅し続けるという過酷な淘汰圧力によって機能の先鋭化が起きるわけです
今の生物というのは 非常に特定能力の高い性質を持ったものが多いのですが これらは決して個体種が合理的目的意図に基づいて「こういう性質を獲得しよう」として獲得したものではないのです
たとえば昆虫などの擬態ですが 最初はわずかな変異であっても 無数にいる虫の中で「より見つかりづらい」個体が食べられずに残り その中でもさらに「より見つかりづらい」変異をした個体種が生き延びることを 何世代にも渡って繰り返した結果生じたものです
ですから突然変異というものは 「変異さえ起きれば進化する」ものでもなければ「常に優秀な性質を持った変異が起きる」わけでもないのです
無数の変異の中 その中には変異によって「より見つかりやすい」変異をしたものもあるわけですが 偶発的に狂暴で危険な種に似てしまった場合には たとえ見つかっても淘汰されないことになるため これもまた擬態の一種として残るわけです
これもまた 最初は「何となく危険な種に似ている」ことから食われずに済んだという程度の変異であっても 世代を重ねて「より危険な種に似ている」個体種への淘汰圧力が働くことによって 結果的に「どっからどう見ても危険な種にしか見えない」種へと進化するわけです
しかし その中間種はいなくて絶滅している
進化というものは 世代を渡って猛烈な淘汰圧力が働く環境下においてのみ生ずるものであり 変異の大半は淘汰され死滅することによって中間種がいなくなるわけです
ヒトという種の生物はここ数万年進化していないそうです
変異は起きているんですよ 先天的疾患とかありますから
でも進化は起きていない
多少足が速いとか 絵が巧いとか そういった小さな変異(個体差)はありますけど 進化と言える程の進化にはならない
スピッツという犬種は昔は吠えてうるさかったそうですが 「より吠えない個体」同士を掛け合わせることによって今のスピッツはあまり吠えないそうです これは人為的に促した進化でしょう
では ヒトが感情に左右されずに冷静に論理的で合理的判断選択が出来るよう進化を促すためには 「より感情的な個体を殺処分すれば良い」のでしょうか?
いや もう その発想自体が感情的なんですよ
ヒトという種の生物は 確かに感情が優先しやすい傾向の個体がいますけど じゃあ どこまで殺処分したら「進化」になると思いますか?
おそらく99%以上殺さないと進化にまでは至らないんですよ それはもう虐殺です ナチスやポルポトどころじゃないですよ
ですから「遺伝的進化によって人間性を獲得する」という発想自体に人間性が欠落していて無理がある
先天的に犯罪者傾向がある人種とか性格とか 何でしょう とにかく予め遺伝的に犯罪傾向が存在してくれれば死刑などの淘汰圧力によって犯罪は減るんでしょうけど
そういう科学的証明は一切出てこないんですね
出てたら簡単なんですけどね
犯罪者やその予備軍と そうではないヒトとの違いはどこにあるのか
それはブレーキとしての理性が働くかどうかにあるわけです
理性が働きづらくなる要因の一つが承認欲求中毒です
承認欲求中毒に限らず 中毒症状の多くは特定の快楽だけを追求する状態なので 行動が情動と直結してしまっているため
自律的な社会的責任判断をするための論理検証性が働かなくなってしまいます
日大アメフト部の元監督 内田正人やコーチ達に見られるような「勝ちゃ良いんだろ」マッシーンになっちゃうわけですね
勝てば評価されて気分が良い それなら人を殺してでも評価を追求する
中毒状態というのは 機械手続き的条件反射行動しか出来ない状態ですから そこに冷静になって論理検証的に行動選択を行うという理性が働く余地がない
こうした歯止めのかからぬ組織的暴走というものは その組織を構成する個人に自律的論理検証性が著しく欠如しているために引き起こされるものであり
たとえ もし 組織内部に自律的な論理検証判断を行う個人がいたとしても それはむしろ排除差別の対象にしかならないため 組織内部に「バカだけが残る淘汰圧力」として働き 益々暴走性が高くなってしまう
評価承認欲求の中毒症状を悪化させるのは 恐怖心を用いた行動抑圧です
行動選択が「怖い」か否かだけでしか行われなくなりますから むしろ自律的な社会的責任判断すらも「怖い」のでしなくなる 責任は全て服従対象に丸投げすることに「安心」しているからです
虐待が連鎖するのも 虐待というのは恐怖心を用いた行動抑圧だからこそであり 日大アメフト部も 小中学生によるイジメも これらは恐怖心によって作り出されるヒエラルキー順位であり
強力なヒエラルキー環境下においては 自分よりも順位が「下」と見なした相手に対しては暴力脅迫的に抑圧しなければならなくなってしまう
そうしていないと自分が「上」と見なした相手に服従している状態を正当化出来なくなる
「俺様が上に服従しているんだから、お前も俺様に服従しろ。そうじゃないと自分だけが卑屈な服従迎合者ということになってしまうだろ。」ってことですね。
こうしたヒエラルキー順位序列状態だけが「普通」で「正常」になってしまうことによって 自律的な社会的責任判断すらも一切行わなくなってしまう
行動選択の基準が「上」と見なした権威からの評価や報酬だけですから 必然的に自律は失われることになる
だから原発の津波に対する脆弱性も放置するようになるし
地下鉄に毒ガスを撒き散らすようにもなる
当然イジメも教師や親が見ていなければ平気でやる
では 自律的な社会的責任判断選択能力という「本質的な人間性」は一体どのようにして発揮されるのか
それは 自発的純粋行為によって育まれる
なぜなら 自律の源は自発だからです
この自発性を不具にするのが恐怖心を用いた強制的服従なのです
ノーベル賞受賞者がスパルタ教育を推奨した話なんていうのは 私の知る限りありません
逆にアルベルト:アインシュタインは「教師が恐怖や人工的権威を用いることは、学生の正常な自信を失わせる。」と述べています
日大アメフト部を見れば これは明らかでしょう
軍隊のようなスパルタによって作られたヒエラルキーというものは 戦争のようなバカげた破壊暴力行為を遂行するためには便利ですが 社会持続可能性や安全性にとっては害しかもたらさないのです
しかし 恐怖や人工的権威性を用いて威圧的に強制するという手法は ヒトの先天的な社会形成習性に則った安易で効果的服従手法であるため 大衆の多くは安易にスパルタを容認してしまいがちです
過度な学力競争もまた「学力が低い=頭が悪い」という恐怖心を煽ることでスパルタと同様に自律を喪失する原因となります
現実には学力が高くても通り魔やテロリストになることは珍しくなく むしろ学力順位に何の疑いも持たない頭の悪さこそが通り魔やテロリストになる要因だとも言えるのです
「学力さえ高くなれば良いんだろ」マッシーンになってしまえば 学力成績が高くなったその先に何があるのか 何の役に立つのかなど自発的に検証したことなどありませんから ただ漫然と学力成績を上げることだけに邁進(暴走)した挙げ句
それが実社会ではほとんど何の役にも立たないことを知ると方向性のない社会に対する報復感情を醸成し 大量無差別殺人へと駆り立てることになる
相手の気持ちを考える云々以前に そもそも自分の気持ちすらもわからない暴走マッシーンですから 脳への報酬が得られない腹いせにぶちギレて暴れる以外に選択肢がない
バカと一言で形容すればオシマイなんでしょうけども
ある意味「哀れ」だとは思えないでしょうか
同じ社会の中で育ちながら 他人の痛みはおろか 自分の痛みすらも感じなくなってしまっている犯罪者に対し ただ漫然と懲罰という暴力だけを与えて「解決だ」と満足する慢心に罪はないのでしょうか
「他人の家庭だから」と子供達の成育環境に対して何も対策をしないのは人間としての「心」が働いていると言えるのでしょうか
「死刑にしちまぇ」と怒鳴り散らす短絡的感情は「心」ではなく単なる動物的「感情」であって 社会全体の安全性にまで配慮すれば被害者を減らすためにも加害者を減らすためにも犯罪者治療というのは必要なはずです
その意識の広さというのは 冷静な自発的論理検証性によって働くものであって その場限りの感情だけでは人間としての「心」は働かないのです
そもそも懲罰というものは犯罪者更正にとって合理的有効性がなく 再犯を繰り返す犯罪者は全く治らない事実から目を背けた不毛な制度なのです
暑いせいなのか 気が乗らないので 本日はこれにて終了
Ende;
これって種別の間に存在していた中間種が全て淘汰された結果なわけです
それに対してヒトの社会が作り出した文明環境下では人為的淘汰以外はあまり働かないため イヌなどのペットは体の大きさや体毛の色などに非常に多くのバリエーションがあるのです
自然界においては変異が生じた後に弱肉強食などの過酷な淘汰圧力が働くことによって特定の「生存にとって有利な性質を持った個体種」だけが生き残ることになるため その結果を「進化」と呼ぶわけです
何せ数億年に渡る変異と淘汰がもたらした「進化」ですから 人知を超えた激しい「進化」があっても何の不思議もないのですが 私達人類はたかだか100年にも満たない人生の中で得た見識の中だけで見ているために あたかも「進化」というものが誰かの目的意図に基づいて合理的に選択したものであるかのような錯覚によって 進化というものが常に絶対に正しい結果しかもたらさない万能の願望器か何かと錯覚しがちです
進化の基となるのは突然変異ですが 亀が突然変異でミュータントタートルズみたいに高い知能や運動能力を獲得するというのはお伽話でしかありません
実際の突然変異というのは 何も影響が起きないか 先天的疾患によって生存に適さないことがほとんどであって 急に突出した進化のようなものを促すわけではありません
種としての進化が生ずるためには 突然変異によってごく小さな変異が生じ この変異が生存にとって有利に働くことによって その他の個体種が何世代にも渡って死滅し続けるという過酷な淘汰圧力によって機能の先鋭化が起きるわけです
今の生物というのは 非常に特定能力の高い性質を持ったものが多いのですが これらは決して個体種が合理的目的意図に基づいて「こういう性質を獲得しよう」として獲得したものではないのです
たとえば昆虫などの擬態ですが 最初はわずかな変異であっても 無数にいる虫の中で「より見つかりづらい」個体が食べられずに残り その中でもさらに「より見つかりづらい」変異をした個体種が生き延びることを 何世代にも渡って繰り返した結果生じたものです
ですから突然変異というものは 「変異さえ起きれば進化する」ものでもなければ「常に優秀な性質を持った変異が起きる」わけでもないのです
無数の変異の中 その中には変異によって「より見つかりやすい」変異をしたものもあるわけですが 偶発的に狂暴で危険な種に似てしまった場合には たとえ見つかっても淘汰されないことになるため これもまた擬態の一種として残るわけです
これもまた 最初は「何となく危険な種に似ている」ことから食われずに済んだという程度の変異であっても 世代を重ねて「より危険な種に似ている」個体種への淘汰圧力が働くことによって 結果的に「どっからどう見ても危険な種にしか見えない」種へと進化するわけです
しかし その中間種はいなくて絶滅している
進化というものは 世代を渡って猛烈な淘汰圧力が働く環境下においてのみ生ずるものであり 変異の大半は淘汰され死滅することによって中間種がいなくなるわけです
ヒトという種の生物はここ数万年進化していないそうです
変異は起きているんですよ 先天的疾患とかありますから
でも進化は起きていない
多少足が速いとか 絵が巧いとか そういった小さな変異(個体差)はありますけど 進化と言える程の進化にはならない
スピッツという犬種は昔は吠えてうるさかったそうですが 「より吠えない個体」同士を掛け合わせることによって今のスピッツはあまり吠えないそうです これは人為的に促した進化でしょう
では ヒトが感情に左右されずに冷静に論理的で合理的判断選択が出来るよう進化を促すためには 「より感情的な個体を殺処分すれば良い」のでしょうか?
いや もう その発想自体が感情的なんですよ
ヒトという種の生物は 確かに感情が優先しやすい傾向の個体がいますけど じゃあ どこまで殺処分したら「進化」になると思いますか?
おそらく99%以上殺さないと進化にまでは至らないんですよ それはもう虐殺です ナチスやポルポトどころじゃないですよ
ですから「遺伝的進化によって人間性を獲得する」という発想自体に人間性が欠落していて無理がある
先天的に犯罪者傾向がある人種とか性格とか 何でしょう とにかく予め遺伝的に犯罪傾向が存在してくれれば死刑などの淘汰圧力によって犯罪は減るんでしょうけど
そういう科学的証明は一切出てこないんですね
出てたら簡単なんですけどね
犯罪者やその予備軍と そうではないヒトとの違いはどこにあるのか
それはブレーキとしての理性が働くかどうかにあるわけです
理性が働きづらくなる要因の一つが承認欲求中毒です
承認欲求中毒に限らず 中毒症状の多くは特定の快楽だけを追求する状態なので 行動が情動と直結してしまっているため
自律的な社会的責任判断をするための論理検証性が働かなくなってしまいます
日大アメフト部の元監督 内田正人やコーチ達に見られるような「勝ちゃ良いんだろ」マッシーンになっちゃうわけですね
勝てば評価されて気分が良い それなら人を殺してでも評価を追求する
中毒状態というのは 機械手続き的条件反射行動しか出来ない状態ですから そこに冷静になって論理検証的に行動選択を行うという理性が働く余地がない
こうした歯止めのかからぬ組織的暴走というものは その組織を構成する個人に自律的論理検証性が著しく欠如しているために引き起こされるものであり
たとえ もし 組織内部に自律的な論理検証判断を行う個人がいたとしても それはむしろ排除差別の対象にしかならないため 組織内部に「バカだけが残る淘汰圧力」として働き 益々暴走性が高くなってしまう
評価承認欲求の中毒症状を悪化させるのは 恐怖心を用いた行動抑圧です
行動選択が「怖い」か否かだけでしか行われなくなりますから むしろ自律的な社会的責任判断すらも「怖い」のでしなくなる 責任は全て服従対象に丸投げすることに「安心」しているからです
虐待が連鎖するのも 虐待というのは恐怖心を用いた行動抑圧だからこそであり 日大アメフト部も 小中学生によるイジメも これらは恐怖心によって作り出されるヒエラルキー順位であり
強力なヒエラルキー環境下においては 自分よりも順位が「下」と見なした相手に対しては暴力脅迫的に抑圧しなければならなくなってしまう
そうしていないと自分が「上」と見なした相手に服従している状態を正当化出来なくなる
「俺様が上に服従しているんだから、お前も俺様に服従しろ。そうじゃないと自分だけが卑屈な服従迎合者ということになってしまうだろ。」ってことですね。
こうしたヒエラルキー順位序列状態だけが「普通」で「正常」になってしまうことによって 自律的な社会的責任判断すらも一切行わなくなってしまう
行動選択の基準が「上」と見なした権威からの評価や報酬だけですから 必然的に自律は失われることになる
だから原発の津波に対する脆弱性も放置するようになるし
地下鉄に毒ガスを撒き散らすようにもなる
当然イジメも教師や親が見ていなければ平気でやる
では 自律的な社会的責任判断選択能力という「本質的な人間性」は一体どのようにして発揮されるのか
それは 自発的純粋行為によって育まれる
なぜなら 自律の源は自発だからです
この自発性を不具にするのが恐怖心を用いた強制的服従なのです
ノーベル賞受賞者がスパルタ教育を推奨した話なんていうのは 私の知る限りありません
逆にアルベルト:アインシュタインは「教師が恐怖や人工的権威を用いることは、学生の正常な自信を失わせる。」と述べています
日大アメフト部を見れば これは明らかでしょう
軍隊のようなスパルタによって作られたヒエラルキーというものは 戦争のようなバカげた破壊暴力行為を遂行するためには便利ですが 社会持続可能性や安全性にとっては害しかもたらさないのです
しかし 恐怖や人工的権威性を用いて威圧的に強制するという手法は ヒトの先天的な社会形成習性に則った安易で効果的服従手法であるため 大衆の多くは安易にスパルタを容認してしまいがちです
過度な学力競争もまた「学力が低い=頭が悪い」という恐怖心を煽ることでスパルタと同様に自律を喪失する原因となります
現実には学力が高くても通り魔やテロリストになることは珍しくなく むしろ学力順位に何の疑いも持たない頭の悪さこそが通り魔やテロリストになる要因だとも言えるのです
「学力さえ高くなれば良いんだろ」マッシーンになってしまえば 学力成績が高くなったその先に何があるのか 何の役に立つのかなど自発的に検証したことなどありませんから ただ漫然と学力成績を上げることだけに邁進(暴走)した挙げ句
それが実社会ではほとんど何の役にも立たないことを知ると方向性のない社会に対する報復感情を醸成し 大量無差別殺人へと駆り立てることになる
相手の気持ちを考える云々以前に そもそも自分の気持ちすらもわからない暴走マッシーンですから 脳への報酬が得られない腹いせにぶちギレて暴れる以外に選択肢がない
バカと一言で形容すればオシマイなんでしょうけども
ある意味「哀れ」だとは思えないでしょうか
同じ社会の中で育ちながら 他人の痛みはおろか 自分の痛みすらも感じなくなってしまっている犯罪者に対し ただ漫然と懲罰という暴力だけを与えて「解決だ」と満足する慢心に罪はないのでしょうか
「他人の家庭だから」と子供達の成育環境に対して何も対策をしないのは人間としての「心」が働いていると言えるのでしょうか
「死刑にしちまぇ」と怒鳴り散らす短絡的感情は「心」ではなく単なる動物的「感情」であって 社会全体の安全性にまで配慮すれば被害者を減らすためにも加害者を減らすためにも犯罪者治療というのは必要なはずです
その意識の広さというのは 冷静な自発的論理検証性によって働くものであって その場限りの感情だけでは人間としての「心」は働かないのです
そもそも懲罰というものは犯罪者更正にとって合理的有効性がなく 再犯を繰り返す犯罪者は全く治らない事実から目を背けた不毛な制度なのです
暑いせいなのか 気が乗らないので 本日はこれにて終了
Ende;