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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○自暴自棄な相手に抑止力が効くのか?。

2016年12月17日 13時45分37秒 | 意識論関連
原発避難者がイジメや差別に遭うって話が時折ニュースで流れるんだけど

原発避難者だけが特別にイジメや差別に遭うわけではなくて、イジメや差別する相手は誰でも良いんであって、原発避難者のイジメや差別だけ取り扱うのは偏重報道なんじゃねぇのかな

なんか原発避難者だけが特別に可哀相的なバイアスがかかっているように見えてしまうよ

いや別に「原発避難者が可哀相ではない」という意味ではなくて

原発避難者ではないイジメや差別被害者をなかったことにしている感が拭えないのが気になる子ちゃん

NHKニュース

原発避難者とか障害者とかだけがイジメや差別を受けるわけじゃなくて、イジメや差別をするヒトっていうのは相手なんか誰でも良くて、特定他者を敵視することでたかも自己正当化になるような気分的満足欲しさに差別中毒に陥っている精神疾患症状なんだろうと思う。

こういう「患者」というのは、イジメや差別をしていないと不安で仕方ないからやるんであって、被害者意識にさいなまされているノイローゼなんじゃなかろか。

ヒトという種の生物というのは、被害者の報復感情であれば全面的な正義か何かと錯覚する性質があって。それゆえに社会防衛上実効性のない刑法懲罰を短絡的に解決だと信じて疑わないという痴呆状態に陥っているわけで。

イジメや差別をしているヒト達というのは、その場限りの目先の満足(脳内麻薬が促す行動バイアス/行動習性)に流される無意識性に原因がある。

自分達は被害者だから懲罰的報復が許されていると勝手に勘違いしている。

だからイジメや差別をしているヒトに懲罰を与えても、彼らは「運が悪かった」「世の中が間違っている」という観念に変化はなく。結局は再び差別対象としての「敵」をでっちあげてでもイジメや差別をやめることが出来ないのである。

こういうのは精神疾患なんだから麻薬中毒と一緒で更正プログラムで治療すべきであって。刑法懲罰でもマスコミによるその場限りの糾弾も、むしろ逆効果。

大衆観念的には差別に対してカウンターで差別をすることが正義だと勘違いしているフシがあるんだけど、それじゃ差別の応酬にしかならない。

そりゃ差別スピーチなんてやっている奴はオラも嫌いではあるんだけど、そんなのは結局個人の主観であることに違いなどなくて、個人の主観の多数決を集めても論理的正当性の論証にもならなければ、原因究明や再発防止にもつながらない。

だから感情論は感情論として、刑法懲罰とは異なる合理性ある社会制度は別個必要なのですよ。

それをやらないから重大事象にまで発展してから大騒ぎすることに陥る。

ISILなんて、その典型なんですよ。

規模の差こそあれ、学生による集団殺人に至るメカニズムであってもイスラム(を名乗っているだけの)過激派の行動原理と根源的な部分では違いはないのよ。

何度も言ってるんだけど、ハインリッヒの法則に則って鑑みれば、一つの重大事象の陰には無数の小さな事象が隠れているわけで、その意味においてもイジメのような小さな事象(被害者にしてみれば充分重大なんだが)の精密分析を行う社会制度を作る必要性があるのです。

ヒトという種の生物には差別をする先天的本能習性があって、自律的抑制が効かなければイジメや差別は本能習性として発生するものであって。ヒトという種の生物の先天的欠陥であることを認識する意識、論理検証性なしに差別なんぞなくなるわけがない。それなのに進化生物学者達は「先天的な行動習性から人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」などという原理的に立証不可能な大衆迎合的エセ理論を公言しており。それをまた大多数の大衆は鵜呑みにして満足している。

人命に係わる重大事象だけ大騒ぎしておいて、その陰に隠れている無数の小さな事象を無視するというのは。社会人として無責任なんだという自覚を持つべきなんですよ。

司法警察なんて被害者が出なけりゃ何にもしてくれませんよ。だってそういう社会制度なんですから。

それで良いんですか? ってことです。

根源的防止対策を一切行わずに、事態が重大化してから刑法懲罰という感情論任せにしているというのは、極めて上っ面な社会制度しか存在していないってことなんですよ。

厳罰化や軍事拡大競争の根拠とする威圧的抑止力というのは、実際には合理的根拠がなく、中国では麻薬取締法違反は死刑なんだが全然減らないし。厳罰化を推進しても酔っ払い運転も減らないことからも、犯罪を根本的に減らすためには個人の自律的な社会的責任判断選択こそが必要であり。これは国家権力を用いた報復の代行とは全く異なるものなんですよ。

そもそも自暴自棄なテロリストや通り魔に対して厳罰化は全く意味がない。

極刑を望んでいる相手に極刑は抑止にならないばかりか、むしろ促進にすらなってしまいかねない。



原発避難者だけが特別にイジメられて可哀相というのは、完全に偏った報道だと言えます。

それじゃなんですか、原発避難者以外ならイジメられていても構わないとでも言うんでしょうか。

イジメというのは原発避難者だけの専売特許じゃありませんから、もっと普遍的な報道や対策をすべきなんじゃないですかね。



Ende;

○司法刑罰の欠陥。

2016年12月17日 13時28分11秒 | 意識論関連
15歳の学生さんが高齢者の運転する暴走車に轢かれて死亡するっていう事故があったんだけど

司法裁判では禁錮1年6ヶ月の実刑判決が下された。



この事故の詳細を聞くと、加害者は右側から小走りで道路を横断してきた被害者に対して、避けようとしたのか左にハンドルを切って歩道に乗り上げ、アクセルとブレーキを踏み間違えて重大事故に至ってしまっている。

以下は推測ではあるんだけど、左にハンドルを切ったことによって加害運転者の身体が右側に振られ、ペダルの位置関係を把握出来なくなったのではないかと思われる。

私も以前軽自動車に乗ったことがあるんだけど、軽自動車っていうのはあまりに小さく作られているので前輪のカバーが運転席の足元右側にせり出していて、ペダル類が左側に寄って配置されており。それだけでも充分踏み間違えを引き起こしそうで怖いなと感じたことがある。

若い人と異なり、高齢者では加齢による聴覚機能が低下している場合があるんだけど。そうなるとアクセルを踏んだ時のエンジン音から踏み間違っているのかどうかを瞬時に把握することも難しくなっている可能性もある。

加齢による聴覚障害というのは、年々徐々に進行してゆくために、その低下を認識しずらいのかも知れない。

また、最近の自動車では、防音性が高くなっているため、エンジン音も昔に比べると聴き取り難くなっているという要素もあるだろう。

若い人の声が小さいと感じている人の場合、意外と症状が進行している可能性があるので注意が必要である。

あと考えられるのが、エンジン出力の向上により、同じ排気量でもアクセルを踏み込んだ時の加速力が昔の車よりも強くなっているため。アクセルとブレーキの踏み間違えによる制御不能に陥り易くなっているのかも知れない。



以上のような分析や対策といったものを吹っ飛ばして判決だけを報道していて、何が再発防止なのかサッパリ理解出来ない。



刑法懲罰というのは、国家権力を用いて国民に威圧的な恐怖を与えるという「抑止力」を目的としたものであって。そりゃ自分の運転に危険性を自覚している人にとっては効果があるかも知れないけど、「俺は大丈夫だ。」と慢心している奴には何の効果もないだろう。

実際、飲酒運転の厳罰化が行われても、飲酒運転の減少はさして進んでいない。

厳罰化というのは、被害者の報復感情的な満足感は与えても、合理的な再発防止策にはならないのである。

中国では麻薬取締法違反は極刑であるが、「ばれなきゃ恐くない。」とばかりに一向に麻薬犯罪は減ることがないことからも、厳罰化というのは雰囲気物であって、実効性はそんなにはないのである。

むしろ罪や危険性の認識が薄く、自律的な社会的責任意識の低いヒト程効果が薄いことになる。

それこそフィリピンのドゥテルテ大統領政権のように強権的取り締まりでもすれば粛正出来るのであろうが。これは独裁のための人気取りとして利用されかねない危険な政策でもある。

では、実際に合理的で効果的な対策とは何か、長期的には自律的な社会的責任意識を持つという人格形成を重視した教育というものが重要だろう。

それから現状の運転者に対しては、刑法懲罰を用いた威圧的抑止という抽象的で観念的なものよりも、事故の詳細な分析による危険性の認識を高めることの方が重要だと言える。

医師が様々な症例を分析するように、運転者も様々な事故例の分析を知ることで、危険性の認識を高めることが必要であり。そのためにも自律的な責任意識は不可欠なのである。



危険学/失敗学では、刑法懲罰を決定するだけの「悪者探し」を停止し、徹底的な理論的分析を行うのだが。それこそが合理的で最も実効性のある原因究明と再発防止策になるからであり、刑法懲罰のための司法制度自体は百害あって一理もないのである。

抑止力というものには意味があると大衆観念的には思われているが、軍隊の増強が相互の軍拡競争を促し、危険性を醸成するばかりで具体的な安全保障にはならないことは明らかであるのだが。自国の軍隊を増強することは、国民にとっては気分的安心満足感を与え、その気分感情を安全性と勘違い錯覚妄想することと、刑法懲罰で解決だと錯覚することは、ヒトという種の生物全般に見られる先天的欠陥である。

威圧的抑止力というのは、観念であって理論ではない。

現代人というのは、産まれて以来刑法懲罰だけが唯一の絶対的解決であると誰も疑って来なかった。その既製事実を事後正当性する形で刑法懲罰には意味があるものであるという、一種の集団催眠に陥っているとも言える。

事件や事故が発生すると、どうしても被害者感情ばかりが取り上げられてしまい、報復の代行である懲罰さえ決定すれば全てが解決したかのように大多数の大衆は錯覚しているが。こうした錯覚妄想こそが論理的で実効性のある対策を阻害し、社会安全性を損なう重大要因となっているのである。



本当に悲惨な事故を減らしたいと考えるのであれば、刑法懲罰よりも論理的な原因究明や再発防止策の確立といった具体性のある制度が必要なはずなのだが。現状の司法制度こそがこれを阻害しているのである。

司法というのは科料の程度を査定するだけの組織であり、事故の原因究明や再発防止策を立てるための制度など存在していないのである。

にも関わらず、被害者や遺族達は最も効果的な再発防止になっていると思い込まされているのであり。これは一種の詐欺みたいなものでもある。

騙している方も騙している認識がなく、騙されている大多数にも騙されている認識がないため。あたかも責任が多数で薄まったかのような錯覚に陥り、問題意識までもが多数で薄まってしまっているのである。

「赤信号、皆で渡れば、怖くない。」

ヒトは怖くないことは安心して続けることが出来る。

そこに安全性の担保の有無は関係がない。




高齢者ドライバーによる事故のニュース




Ende;