養老孟司が散々言ってきた「脳化」云々の話は一体なんだったんですかね。
養老本人は狡猾にも「脳化」の話を理論だとは言っていませんけど、大半の人は「脳化」云々の話を理論か何かだと思い込んでいますが、それを養老は「理論ではない。」と否定すらしません。
「脳化」云々の話というのは、都市対田舎という対立構図に基づいて、行き当たり場当たりに「あれは脳化だ、これは脳化してない。」と勝手にこじつけただけの養老の主観的な実証不能な観念でしかなく。一体脳化していることが良いのか悪いのか、何がどうなれば何かの役に立つのかすら一切何の結論も出てこない話であり。しまいにゃ「バランス問題だ。」などというあやふやな話に帰結しているのです。
養老の話に対し、大衆マスコミの大半は養老の言っていることに何か意味があるんじゃないかと勝手に錯覚して、養老の著作を読むことで自分の頭が良くなったかのような妄想を抱いていたに過ぎないのです。
養老自身は自分の言っていることに対して、「論理整合性がないだけ開かれているではないか。」などとも述べていますが。これは「脳化」云々の話もひっくるめて「理論ではない。」と言っているのです。
言っている内容に論理整合性がないということは、つまり発言内容に無責任という意味でもあります。
何せ、論理整合性を持たず、理論ではない話が何かの役に立つわけがないのですが。大衆マスコミの大半は養老の難解な話に思考停止させられ、気分的に何かの解決につながるかのような錯覚に陥ることで大衆人気を得ているに過ぎません。
これはある種のメンタリズム(詐欺)であり、それによって著作が何万部売れて世間的に成功したとしても。それは占い師や詐欺師の成功と同じで、社会的には何の役にも立たないばかりか。むしろ本当に重要な論理的思考をも撹乱破壊する実証不能の観念でしかありません。
ヒトという種の生物の習性として、既に信じ込んでいた事柄を疑わないよう事後正当化しようとする性質があります。
信用するに価しない話を鵜呑みにしていた自分を事後正当化することで、自分の頭の悪さを認識しないよう一種の逃避行動として「自分は間違っていない。」ことにしておこうとするのです。
洗脳というのは、こうしたヒトの脳が持つ先天的な性質を利用して、自分の行動に疑いを持たずに特定の観念に囚われることで成立するのです。
ですから未だに養老の言っていることに意味があると信じ込んでいるというのが既に洗脳状態であって。何の疑いも持たずに気分的に安心満足することで論理検証性が全く働かなくなっているわけあり。その事実を受け入れない以上、オウム真理教やISIL、ナチズムや太平洋戦争時の日本軍の野蛮行為の原因についても説明がつかないのは当然のことなのです。
「占い師や養老に騙されている程度なら、ISILのような害はないだろう。」そう思っている人もいるかも知れませんが。危険学や失敗学の観点からは、それこそがハインリッヒの法則(一つの重大事象の陰には無数の小さな事象が隠れている)に基づいた論理検証性を放棄してしまう大きな要因であると言えるでしょう。
論理検証性の乏しい一般的な文科系大衆マスコミの多くは、その場限りの気分的安心感や満足ばかりを求めてしまい。実際には何の役にも立たない「脳化」だとか「品格」といった一過性の流行で興奮するだけのことがあまりに多過ぎます。
流行りものというのは目先の利益にはつながるために、マスコミはむしろ必死になって流行りものをでっちあげようとする傾向がありますが。社会安全性に関わる話を撹乱しかねない実証不能の観念を利用することは悪質極まりない行為です。
京都大学松沢哲郎による、「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などという嘘を放置して文化功労賞まで与えているというのも、悪質極まりない行為です。
先天的な行動習性からは「結果」しか導き出すことしか構造原理的に不可能であり、先天的な行動習性をどんなに陳列枚挙しても、人間としての意識的「目的」行動選択を立証することは出来ません。
例えば、ヒトの先天的行動習性(傾向性)から人間としての社会性や倫理が立証されたと進化生物学者が述べたとして。それが既に行われたナチズムやポルポトやISILによる虐殺行為の論理反証になるのでしょうか。 それはヒトという種の生物が先天的に安全であることの論理証明になるのでしょうか。
一応正解を述べておきますけど、そんな証明にはなりません。
ヒトであれ、チンパンジーであれ、先天的な行動習性や本能といったものから出てくる行動の全ては「結果」でしかなく。そこから人間としての目的である人間としての社会性や倫理といったものを証明することは構造原理的に不可能なんですよ。
ヒトという種の生物が人間として振る舞うことの可能性とは。ヒトが自らの先天的な本能習性に流されることなく、自律的に社会的責任判断選択が可能であるという点にあるのであって。それは当人個人の意識(自律的論理検証性)の問題であって、先天的な本能習性によって立証されるという形のものでは最初からないんですよ。
にも関わらず、どうして京大学長も松沢哲郎も権威として扱われ続けるんでしょうね。あいつら嘘ついて権威にアグラかいてるんですよ。
Ende;
養老本人は狡猾にも「脳化」の話を理論だとは言っていませんけど、大半の人は「脳化」云々の話を理論か何かだと思い込んでいますが、それを養老は「理論ではない。」と否定すらしません。
「脳化」云々の話というのは、都市対田舎という対立構図に基づいて、行き当たり場当たりに「あれは脳化だ、これは脳化してない。」と勝手にこじつけただけの養老の主観的な実証不能な観念でしかなく。一体脳化していることが良いのか悪いのか、何がどうなれば何かの役に立つのかすら一切何の結論も出てこない話であり。しまいにゃ「バランス問題だ。」などというあやふやな話に帰結しているのです。
養老の話に対し、大衆マスコミの大半は養老の言っていることに何か意味があるんじゃないかと勝手に錯覚して、養老の著作を読むことで自分の頭が良くなったかのような妄想を抱いていたに過ぎないのです。
養老自身は自分の言っていることに対して、「論理整合性がないだけ開かれているではないか。」などとも述べていますが。これは「脳化」云々の話もひっくるめて「理論ではない。」と言っているのです。
言っている内容に論理整合性がないということは、つまり発言内容に無責任という意味でもあります。
何せ、論理整合性を持たず、理論ではない話が何かの役に立つわけがないのですが。大衆マスコミの大半は養老の難解な話に思考停止させられ、気分的に何かの解決につながるかのような錯覚に陥ることで大衆人気を得ているに過ぎません。
これはある種のメンタリズム(詐欺)であり、それによって著作が何万部売れて世間的に成功したとしても。それは占い師や詐欺師の成功と同じで、社会的には何の役にも立たないばかりか。むしろ本当に重要な論理的思考をも撹乱破壊する実証不能の観念でしかありません。
ヒトという種の生物の習性として、既に信じ込んでいた事柄を疑わないよう事後正当化しようとする性質があります。
信用するに価しない話を鵜呑みにしていた自分を事後正当化することで、自分の頭の悪さを認識しないよう一種の逃避行動として「自分は間違っていない。」ことにしておこうとするのです。
洗脳というのは、こうしたヒトの脳が持つ先天的な性質を利用して、自分の行動に疑いを持たずに特定の観念に囚われることで成立するのです。
ですから未だに養老の言っていることに意味があると信じ込んでいるというのが既に洗脳状態であって。何の疑いも持たずに気分的に安心満足することで論理検証性が全く働かなくなっているわけあり。その事実を受け入れない以上、オウム真理教やISIL、ナチズムや太平洋戦争時の日本軍の野蛮行為の原因についても説明がつかないのは当然のことなのです。
「占い師や養老に騙されている程度なら、ISILのような害はないだろう。」そう思っている人もいるかも知れませんが。危険学や失敗学の観点からは、それこそがハインリッヒの法則(一つの重大事象の陰には無数の小さな事象が隠れている)に基づいた論理検証性を放棄してしまう大きな要因であると言えるでしょう。
論理検証性の乏しい一般的な文科系大衆マスコミの多くは、その場限りの気分的安心感や満足ばかりを求めてしまい。実際には何の役にも立たない「脳化」だとか「品格」といった一過性の流行で興奮するだけのことがあまりに多過ぎます。
流行りものというのは目先の利益にはつながるために、マスコミはむしろ必死になって流行りものをでっちあげようとする傾向がありますが。社会安全性に関わる話を撹乱しかねない実証不能の観念を利用することは悪質極まりない行為です。
京都大学松沢哲郎による、「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などという嘘を放置して文化功労賞まで与えているというのも、悪質極まりない行為です。
先天的な行動習性からは「結果」しか導き出すことしか構造原理的に不可能であり、先天的な行動習性をどんなに陳列枚挙しても、人間としての意識的「目的」行動選択を立証することは出来ません。
例えば、ヒトの先天的行動習性(傾向性)から人間としての社会性や倫理が立証されたと進化生物学者が述べたとして。それが既に行われたナチズムやポルポトやISILによる虐殺行為の論理反証になるのでしょうか。 それはヒトという種の生物が先天的に安全であることの論理証明になるのでしょうか。
一応正解を述べておきますけど、そんな証明にはなりません。
ヒトであれ、チンパンジーであれ、先天的な行動習性や本能といったものから出てくる行動の全ては「結果」でしかなく。そこから人間としての目的である人間としての社会性や倫理といったものを証明することは構造原理的に不可能なんですよ。
ヒトという種の生物が人間として振る舞うことの可能性とは。ヒトが自らの先天的な本能習性に流されることなく、自律的に社会的責任判断選択が可能であるという点にあるのであって。それは当人個人の意識(自律的論理検証性)の問題であって、先天的な本能習性によって立証されるという形のものでは最初からないんですよ。
にも関わらず、どうして京大学長も松沢哲郎も権威として扱われ続けるんでしょうね。あいつら嘘ついて権威にアグラかいてるんですよ。
Ende;