イノセントとか純粋無垢であるということに対して論理的根拠もなく正義を妄想するヒトが多くて、これは先天的なヒトの習性に由来する錯覚でもあるのだけれども。ヒトの多くはヒトという種の生物でありさえすれば常に人間として正しい行動を採るものであると勝手な勘違いを、勘違い錯覚として認識していない故の結果である。
ヒトが先天的に正しい行動を先天的、自動的に採るものであるという錯覚を基にして。それならなぜヒトは狂うのかという問いに対して「社会環境が悪い」という答を短絡的に出すことが多いが。これは通り魔が言う動機の一つ、「社会が悪い」と言っているのと全く同じである。
ヒトは先天的に自分が常に絶対に正しいものであるという錯覚を持とうとする習性があり。この錯覚を錯覚として認識していないからこそ通り魔やテロリストのような傲慢な態度にまで陥り、社会に多大な迷惑をかけるようになるのである。
社会環境には何らかの課題や問題が存在する。特に「人災」として分類可能な領域に関しては、それに関わる様々なヒトの人格に依存するものであって、問題が顕在化してから個人を非難したり懲罰を与えて満足しているからこそ、ヒトという種の生物の根源的問題点を見落とすのである。
通り魔と同じ観念に基づいて「社会環境が悪い」などと言い出すのは、むしろ通り魔予備軍の主張に過ぎず。極めて悪質で無責任な発言である。
こうした「実際には未だ犯行に及んでいない通り魔予備軍」による「ヒヤリ、ハッと」的観念を放置しているからこそ、無差別殺人が起きるのであって。自己におけるヒトという種の先天的危険性を認識していない無責任な発想(観念)の間違いを認識していないのは、むしろ無差別殺人を助長しているようなものである。
宮崎駿は芸術家である。すなはち、大衆のご機嫌取りによって人気を得て、金を稼ぐことが生業であるため。大衆の錯覚を利用して大衆のご機嫌取りをすることは悪いことではないだろう。しかし、宮崎作品を単に多数人気を根拠に絶対的正当化だと勘違いして、内容のいちいちを鵜呑みにしているのは社会人として無責任である。
イノセントであること、生物として純粋無垢であるということは、ヒトにおいては動物的行動習性の事後正当化にしかならない。
ヒトは決して完全な生物などではない。それなら、一体自分のどこが完全ではないのかを認識し、間違った行動に陥らないようにすべきなのかは認識しておかなければならない。
ところが、ヒトの多くは実際に重大事象が発生すると、重大事象の結果だけを非難し、個人に懲罰を与えることで満足安心することで。ヒトという種の生物全般に見られる普遍的危険性についての検証を全く放棄する習性がある。
生物学者達が生物の行動習性のいちいちに「何らかの意味があるはずだ。」という観念に基づいたこじつけを行うのも。生物の行動習性というもの全てには進化生物学の神の目的意識の存在を勝手に妄想しているからである。
ヒトに限らず、生物の行動習性の全ては「結果」であり、それ自体は意識的に選択された「目的」が存在する余地はない。にも関わらず、従来進化生物学では都合の良い話だけ採り上げて「目的」だと言い張り、都合の悪い話は「進化の袋小路」などと称して、その場限りにのらりくらりと言い逃れ取り繕いはぐらかしを積み重ねて来た。
特定環境下においてサルやヒトが他者に対して利益をもたらすような行動だけを抽出し、先天的本能習性に過ぎない「社会性(先天的社会形成習性)」を短絡的に人間性にこじつけることで大衆の人気を得ていたのは、もはや科学でも何でもなく、それこそ「お花畑」である。
ハインリッヒの法則から鑑みれば、一つの重大事象の陰には膨大な「ヒヤリ、ハッと」事象が存在しているのであり。それを見逃しているからこそ、重大事象の根源的原因究明にも再発防止策の構築にもつながらなくなるのである。
「社会環境が悪い」などという抽象的で短絡的なことを述べるのは簡単である。そんなものはオウム真理教でも通り魔でも言えることである。社会を構築している自分個人にも共通するヒトという種の生物における先天的危険性がどこにあるのかを論じられない以上、それこそが身勝手な自己満足のための妄想に過ぎない。
一般に「子供は社会の鑑」と言うが、若い人達が論理的に自分の行動を鑑みることが出来なくなるのは、若い人達に接している大人達の自己客観性の欠如に因るものである。
人工的権威、暴力、威圧を用いて子供に何かを強制することは簡単である。しかし、これこそが子供達から自律的な社会的責任判断選択能力を奪い、結果的に「原発の危険性を放置する東京電力社員」を作り出したのである。
彼らは一見従順で扱い易いように見えるかも知れないが。こうした「扱い易さ」というのはナチスにおけるアドルフ:アイヒマンの扱い易さと同質のものなのである。
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」は。ヒトという種の生物(大多数の一般人)が先天的に持っている権威服従性の危険性を立証している。(残念ながらミルグラムは、この実験のレポートにおいて、「Cyberneticsの観点から」などと称して、服従の習性を進化生物学的文法で事後正当化するような見解も示しており、当然ながらこれは科学的見解とは程遠いものである。)
この他にも監獄実験など、環境に依存してヒト(普通の人)が危険な行動を採る習性は立証されており。アブグレイブ刑務所における野蛮行為も、「普通の兵隊」が引き起こした平凡な事象に過ぎないのである。
だからといって、平凡だとか多数を根拠に許されて良いこと、放置しておいて良いことの理由には全くならず。むしろ平凡な多数にこそ問題の根源があることを認識しなければならないのである。
ヒトの多くは「皆同じ。」であることで気分的に安心満足し、あたかも多数派に属していることの気分的安心満足を、短絡的に安全性と勝手に勘違いして思考停止に陥ることが非常に多い。
気分的な安心満足を、短絡的に安全性の論理証明だと勘違いすることは、非常に愚かで無責任である。
ヒトという種の生物は、全知全能の神が目的意識に基づいて作り出したものではなく。あくまで結果的に生存していた生物種の一種に過ぎない。
「生きるためには本能も必要だ。」などと称して個人の利己的行動までをも正当化しているからこそ、社会全体が暴走破綻に陥るのである。
個人は必ず死ぬ、ヒトの死亡率は100%であり、個人の生存自体に意味などない。たとえ直接的な血縁関係があろうがなかろうが、ヒトという種の生物である以上、全てのヒトはアフリカのたった一人の母親の子孫に過ぎず、社会の安全性や持続可能性への配慮をするというのは、決して特別な聖人だけの特権ではない。
Ende;
ヒトが先天的に正しい行動を先天的、自動的に採るものであるという錯覚を基にして。それならなぜヒトは狂うのかという問いに対して「社会環境が悪い」という答を短絡的に出すことが多いが。これは通り魔が言う動機の一つ、「社会が悪い」と言っているのと全く同じである。
ヒトは先天的に自分が常に絶対に正しいものであるという錯覚を持とうとする習性があり。この錯覚を錯覚として認識していないからこそ通り魔やテロリストのような傲慢な態度にまで陥り、社会に多大な迷惑をかけるようになるのである。
社会環境には何らかの課題や問題が存在する。特に「人災」として分類可能な領域に関しては、それに関わる様々なヒトの人格に依存するものであって、問題が顕在化してから個人を非難したり懲罰を与えて満足しているからこそ、ヒトという種の生物の根源的問題点を見落とすのである。
通り魔と同じ観念に基づいて「社会環境が悪い」などと言い出すのは、むしろ通り魔予備軍の主張に過ぎず。極めて悪質で無責任な発言である。
こうした「実際には未だ犯行に及んでいない通り魔予備軍」による「ヒヤリ、ハッと」的観念を放置しているからこそ、無差別殺人が起きるのであって。自己におけるヒトという種の先天的危険性を認識していない無責任な発想(観念)の間違いを認識していないのは、むしろ無差別殺人を助長しているようなものである。
宮崎駿は芸術家である。すなはち、大衆のご機嫌取りによって人気を得て、金を稼ぐことが生業であるため。大衆の錯覚を利用して大衆のご機嫌取りをすることは悪いことではないだろう。しかし、宮崎作品を単に多数人気を根拠に絶対的正当化だと勘違いして、内容のいちいちを鵜呑みにしているのは社会人として無責任である。
イノセントであること、生物として純粋無垢であるということは、ヒトにおいては動物的行動習性の事後正当化にしかならない。
ヒトは決して完全な生物などではない。それなら、一体自分のどこが完全ではないのかを認識し、間違った行動に陥らないようにすべきなのかは認識しておかなければならない。
ところが、ヒトの多くは実際に重大事象が発生すると、重大事象の結果だけを非難し、個人に懲罰を与えることで満足安心することで。ヒトという種の生物全般に見られる普遍的危険性についての検証を全く放棄する習性がある。
生物学者達が生物の行動習性のいちいちに「何らかの意味があるはずだ。」という観念に基づいたこじつけを行うのも。生物の行動習性というもの全てには進化生物学の神の目的意識の存在を勝手に妄想しているからである。
ヒトに限らず、生物の行動習性の全ては「結果」であり、それ自体は意識的に選択された「目的」が存在する余地はない。にも関わらず、従来進化生物学では都合の良い話だけ採り上げて「目的」だと言い張り、都合の悪い話は「進化の袋小路」などと称して、その場限りにのらりくらりと言い逃れ取り繕いはぐらかしを積み重ねて来た。
特定環境下においてサルやヒトが他者に対して利益をもたらすような行動だけを抽出し、先天的本能習性に過ぎない「社会性(先天的社会形成習性)」を短絡的に人間性にこじつけることで大衆の人気を得ていたのは、もはや科学でも何でもなく、それこそ「お花畑」である。
ハインリッヒの法則から鑑みれば、一つの重大事象の陰には膨大な「ヒヤリ、ハッと」事象が存在しているのであり。それを見逃しているからこそ、重大事象の根源的原因究明にも再発防止策の構築にもつながらなくなるのである。
「社会環境が悪い」などという抽象的で短絡的なことを述べるのは簡単である。そんなものはオウム真理教でも通り魔でも言えることである。社会を構築している自分個人にも共通するヒトという種の生物における先天的危険性がどこにあるのかを論じられない以上、それこそが身勝手な自己満足のための妄想に過ぎない。
一般に「子供は社会の鑑」と言うが、若い人達が論理的に自分の行動を鑑みることが出来なくなるのは、若い人達に接している大人達の自己客観性の欠如に因るものである。
人工的権威、暴力、威圧を用いて子供に何かを強制することは簡単である。しかし、これこそが子供達から自律的な社会的責任判断選択能力を奪い、結果的に「原発の危険性を放置する東京電力社員」を作り出したのである。
彼らは一見従順で扱い易いように見えるかも知れないが。こうした「扱い易さ」というのはナチスにおけるアドルフ:アイヒマンの扱い易さと同質のものなのである。
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」は。ヒトという種の生物(大多数の一般人)が先天的に持っている権威服従性の危険性を立証している。(残念ながらミルグラムは、この実験のレポートにおいて、「Cyberneticsの観点から」などと称して、服従の習性を進化生物学的文法で事後正当化するような見解も示しており、当然ながらこれは科学的見解とは程遠いものである。)
この他にも監獄実験など、環境に依存してヒト(普通の人)が危険な行動を採る習性は立証されており。アブグレイブ刑務所における野蛮行為も、「普通の兵隊」が引き起こした平凡な事象に過ぎないのである。
だからといって、平凡だとか多数を根拠に許されて良いこと、放置しておいて良いことの理由には全くならず。むしろ平凡な多数にこそ問題の根源があることを認識しなければならないのである。
ヒトの多くは「皆同じ。」であることで気分的に安心満足し、あたかも多数派に属していることの気分的安心満足を、短絡的に安全性と勝手に勘違いして思考停止に陥ることが非常に多い。
気分的な安心満足を、短絡的に安全性の論理証明だと勘違いすることは、非常に愚かで無責任である。
ヒトという種の生物は、全知全能の神が目的意識に基づいて作り出したものではなく。あくまで結果的に生存していた生物種の一種に過ぎない。
「生きるためには本能も必要だ。」などと称して個人の利己的行動までをも正当化しているからこそ、社会全体が暴走破綻に陥るのである。
個人は必ず死ぬ、ヒトの死亡率は100%であり、個人の生存自体に意味などない。たとえ直接的な血縁関係があろうがなかろうが、ヒトという種の生物である以上、全てのヒトはアフリカのたった一人の母親の子孫に過ぎず、社会の安全性や持続可能性への配慮をするというのは、決して特別な聖人だけの特権ではない。
Ende;