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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

定電流ダイオードの落とし穴。

2012年04月12日 14時39分50秒 | 日記
○15mAの定電流ダイオードのE-153っていうのを買ってみた。

 秋月電子通商で5個¥150で買ったんだけど、スペック表もオマケにくれたので読んでみたら、「肩特性。」っていう項目があって、4.3V以下では定電流特性が出ないことが判明。

 使わなくなった無線ルーターのリチウムイオン電池3.7Vを白色LEDにつなげたら4mAしか流れない。しかも5本並列でつなげたら13.5mAしか流れてくれず計算が合わない。テスターが壊れているのか、それとも何か他に理由があるのか、謎だらけで訳がわかりません。一本あたり13.5÷5=2.7mAってことなのかな。

 10mAタイプのE-103だと3.5Vから定電流特性が得られるって書いてあったので改めて買ってきたんだけど、こいつも2本並列3.7Vで6.4mAしか流れない。計算上は一個あたり3.2mAってことになり、5本並列にすれば16mAってことになるはず。

 なので手元にある10本の定電流ダイオードを全部並列接続にすれば計算上29.5mAのはずが、実際接続してみたら17.5mAしか流れず計算がまったく合わない。並列につなぐと一個あたりの電流値が減るのか、LEDに必要な電流を流すためには定電流ダイオードばっかりやたらと必要になる。本数増えると接続不良とかも増えそうだし、LED自体の価格よりも定電流ダイオードの方が高くつく。

 今のところ試験的にボルトナットで圧着接続しているので、接続不良は考えにくい。謎です。ε~(;@_@)

 多分LEDを直列につないで電源電圧を高くしておけば定電流特性を発揮してくれるのかも。しかし、そうなると電源自体から見直さないといけないので厄介だな。ラジコンのパックバッテリーとかに7.2Vのものがあるけど、果たして7.2Vなら定電流特性がきちんと発揮されるのかどうか。秋月でもらった特性表は10Vでの測定値だけど、実使用条件ではアテにならない。

 そもそもLEDっていうのは個体差があるので直列につなぐとそれぞれにかかる電圧がバラつく傾向があるので面倒臭い。あれこれつないで抵抗値特性の近い個体を直列につなげばいいのかな。電圧が多少バラついても電流自体は同じ量しか流れないので、そんなに神経質にならなくても良いのかも知れないけど。

 定電流ダイオードっていうのは容量によって「肩特性。」が異なるので、低い電圧では容量の小さなものを複数並列接続しないと定電流特性が出ないんだね。こんな落とし穴があるとは思わなかた。LED自体の抵抗値が大きいから定電流ダイオードにかかる電圧が低いとか、そんな理由なのかしら。それなら並列につないで計算が合わないツジツマが合うような気がするんだけど。

 秋月電子通商だと定電流ダイオードは
0.1mA
0.5mA
10mA
15mA
の4種類しか販売していないので、0.5mAタイプで試すとなると計算上は40個必要になる。果たして0.5mAタイプであれば計算通りに電流が流れるのかどうか、やってみないとわからないし、まとめ買い割引がなければ¥1200ってことになる。

 一個¥50のLEDを燈すのに定電流ダイオードだけで¥1200も必要って、何だかややこしい。ここまでややこしいと発熱があってもパワーLEDを使うとか、電源自体を見直す方が正解かも知れない。

 LEDも短時間であれば定電流ダイオードなんて要らないんだけど、自転車のライトみたいに数時間以上点灯させておくとなるとLEDっていうのは自己発熱で抵抗値が下がって(注*)、電流が過剰に流れるようになって勝手に壊れてしまう。100均のLEDライトとかって多分長時間点灯には向かないんじゃないかな。ボタン電池を使うタイプなら大きな電流が流れないからLED自体は壊れないんだろうけど、当然電池自体の容量が少ないから自転車のライトとしては使いづらい。


注*:LEDには半導体が用いられていて、半導体というのは熱温度係数熱抵抗係数が普通の導体とは逆の「負。(マイナス)」の特性を持っているため。温度が上昇すると抵抗値が下がる性質がある。


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 関係ないけど寝ぼけて結線してたらラジオペンチで親指の先を突っついちゃって内出血。痛い。作業は寝ぼけてやらないようにしましょう、安全第一です。




 ◇追記:

 定電流ダイオードをLEDと直列につなぐと、LEDの抵抗値の大きさによって定電流ダイオードにかかる電圧が低下して定電流特性が発揮されないということらしい。

 しかも定電流ダイオードを並列につなぐと、LEDとの抵抗の比率が更に大きくなって定電流ダイオードにかかる電圧が下がって一個当たりの電流値が更に低下してしまうということらしい。

 電流が充分に得られないのは定電流ダイオードの容量云々の問題ではなく、単に端子電圧が充分にかからないと定電流ダイオードっていうのはマトモに働かないってことらしい。秋葉原のダイオード屋はアテにならない。

 要するにLEDの電流制限をするには定電流ダイオードではダメらしい。容量の小さな定電流ダイオードであっても、端子電圧自体に違いはないので表記されている電流値は得られないと思う。

 ちなみに15mAと10mAタイプの定電流ダイオードを5本づつ計10本並列につないだ場合には、LEDには3.2V、定電流ダイオードには0.5Vの電圧がかかっていました。一応この状態ならそれなりに明るくて一晩中点灯させておいてもLEDが破壊したりはしなかったので、とりあえず1灯だけならこれで安定的に光らせることが出来るんだけど、ちょっと自転車のライトとしては暗いかな。

 LEDの取説では抵抗を直列に接続して使うことを推奨しているんだけど、これって電力の何割かを熱に変換しているってことになるので、折角のLEDの効率の良さが失われてしまって、何となく気に入らない。抵抗を入れても電球に比べれば圧倒的に効率は良いんだけど、何だか気分が悪い。そもそも電源電圧自体に5Vとか必要になるし、そんな電圧の電源ってないし。

 20mAタイプのLEDの場合、3.7Vのリチウムイオン電池を直結すると、最初から26mAくらい電流が流れて、みるみるうちに電流値が上がってゆく。Φ5㎜のLEDのエポキシ封止形式の場合、パワーLEDみたいな放熱能力がないので一体どうやったら抵抗を使わずに熱破壊を起こさないように充分な電流が流せるのかはわからない。

 100均とかで売っているボタン電池を4個程度直列に使うタイプのLEDライトっていうのは、ボタン電池自体の内部抵抗が大きいので、充分な電圧と破壊しない電流が両立出来るので合理的で非常に明るい。ただ、もちろん点灯時間が短くて電池は使い捨てになるので自転車のライトには使えない。

 要するに、LED自体に充分な放熱能力があって、リチウムイオン電池の電圧(3.7V)を直結しておいても壊れないLEDがあれば簡単で良いのにな。そんなに難しいこととも思えないんだけどな。

 あと、狭角15度のLEDの場合。前方に集められる光とは別に、先端部分から光が横にもれてしまっている。特に45度付近で円錐状に光がもれていて、これも前方に集められると効率が良くなりそう。適宜なフレネルレンズとかをドーナツ状に切れば集められそうな気もするんだけど、屈折っていうのは色分散が起きるのが厄介。

 反射鏡なら色分散は原理的に起きないんだけど、前方45度程度に拡がる光を反射で集めるっていうのも設計が難しそう。

 白色LEDの場合、特に蛍光剤が熱に弱いらしくて、他の単色LEDの場合は乾電池を直結しておいても明るさが急激に落ちたりはしない傾向があるみたい。黄色のLEDは2.4V駆動のものが多いらしいので、これだとニッケル水素充電池2本を直結して使っても簡単には壊れたりもせず、それなりの明るさも得られる。

 赤色LEDの場合は一応3.0V駆動ということになっているんだけど、2.4V直結でも結構明るさを発揮してくれる。ただ、赤色だと自転車の前照灯としては不適切で、やっぱり尾灯として使うべき。色が赤いと対向車としての認識がないので、下手こくと正面衝突の危険性もあって無灯火と同じくらい危険。

 となると、現状では黄色のLEDをニッケル水素充電池直結で使って、ある程度LEDがヘタれてきたら交換できるようにしておくっていうのも良さそう。




 ◇続追記:

 そういえば以前「LEDの抵抗値は1キロオームくらいある。」とか書いてしまった記憶があるんだけど、どこに書いたのかをまるきり忘れてしまた。実際には3.7vで0.025Aなので148オームとかでした、どっかで一桁間違えたんだろうな、LEDなので電流を流し続けるとむしろ発熱でみるみる抵抗値は下がってゆきます。

 で、定電流ダイオードをLEDと直列に接続すると、LEDの方の抵抗値が大きいために定電流ダイオードの方にかかる端子電圧が不充分なので、充分に電流が流れない。

 しかも、定電流ダイオードを並列に接続しても、ますますLEDとの抵抗値の差が大きくなってしまうらしくて電流値が二倍にはならずに、定電流ダイオードを並列に増やせば増やす程電流が増えなくなってしまう。

 15mAの定電流ダイオード一個をLEDに直列に接続した場合、実際には3.9mAしか流れず、定電流ダイオードを二個並列にしてLED一個と直列接続した場合には7mAしか電流が流れなくなってしまう。

 この傾向は定電流ダイオードを並列に接続する数を増やせば増やす程顕著になり、10mAタイプと15mAタイプの定電流ダイオードを5本づつ全部並列にしても17.5mAしか電流が流れてくれない。

 なので結論から言うと、一個のLEDに対して一個の定電流ダイオードを直列に接続して、これの数をたくさん並列に接続するのが最も充分な電流と明るさを得られることになるんだと思う。

 LED一個当たりに流れる電流が小さい方がLEDも長持ちするので、この接続方法の方が信頼性も得られるのではないかと思う。本当のところはやってみないとわからないけど。

 今手元にLED10個と定電流ダイオード10個があるので、全て1セットずつ直列に接続しようかと思っているところ。LED一個当たりはそんなに明るくはないのだけれど、全体としては39mA程度流れてくれることになるので、定電流ダイオードを用いた接続方法では、これが最も明るく光らせることになるみたい。

 LED自体も取り扱いが面倒臭いけど、定電流ダイオードの特性もかなりややこしい。秋月電子通商のLEDには抵抗を直列に接続することを勧めているんだけど、回路図では電源電圧が5Vや12Vになっているので、実質的にはニッケル水素充電池とかリチウムイオン電池で使う回路図ではない。

 多分パワーLEDだったら放熱対策をしっかり行っていれば定電圧ダイオードで電圧だけ制御しておけば安定して光らせることが出来るんだろうけど、パワーLEDっていうのは封止材に耐熱シリコンゴムを用いているらしくて、触ると壊れるとか、湿度に弱いだとか随分取り扱いが面倒臭いらしいので、価格的には若干不利だけど熱カチオン硬化型エポキシ樹脂封止材型(一般的に言う「砲弾型」)で何とかしたいところ。


Ende;
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2012年04月12日 14時38分39秒 | 意識論関連

○「外見上の主体性≠人間。」という観念。

 意欲というものが本質的な主体性を持たないのであれば、外見上の主体性として欲望の主張が強いことを「人間。」的だと称するのは間違いである。

 「人間。」としての主張をするのであれば、これは利己的欲望に基づく単なる主張の強度ではなく。あくまで持続可能性や安全性を優先した合理性のある選択でなければならない。合理性のある持続可能性や安全性の追求というものは個人の本能的欲望の強度とは関係がないので主張が自ずと弱くなるものである。

 どうも文系の観念上では、自己主張が強いことを人間的と形容する傾向があるが、これは合理的根拠がなく。単なる生物種として「ヒト。」的ではあっても、これは「人間。」的である論理的根拠にはなっていない。

 「人間」と「動物種としてのヒト」の区別自体に論理的分別が欠落して、文系の無意識的固定観念に基づいて何を論じても何ら合理性のある結論には到達することは不可能である。

 文系の観念上においては、「ヒト=人間。」という実証不能の観念に基づいた論証が平気で行われる。これがあらゆる議論における根本的な理論的間違いなのである。


 論理的思考に基づく判断というものは、自ずとその冷静さから感情的主張の強度は小さくなるものである。逆に本能的欲望だの無意識的固定観念に基づく主張というものは、その本能的感情によって主張が激しさを増す傾向がある。

 ヒトの多くは感情的な主張の大きさによって判断を奪われる傾向があり、これもまた本能的な社会形成習性による「観念。」であり。ヒトの行動判断の9割以上は、こうした無意識的な観念による判断しか行われないものである。

 理性的で統合的判断というものは、言うなれば「天使の声。」であり。これは「ケダモノの声。」や「悪魔の声。」に比べて意識の上では1割に満たないのと同じことである。

 ケダモノであっても概ねは平和的であろう。それならケダモノに原発の運転を任せておいても気分的には安心なのかも知れないが、それが安全である保障など全くない。

 「キチガイに刃物。」と言うが、「ケダモノに科学技術。」なら同じことである。




○自主的問題意識の欠如。

 「前例がない。」或は「とても困難を伴う。」というのは、論理的/原理的に絶対不可能であることの論証ではない。ところが自発的問題意識の欠落した者というのは、困難を伴う面倒臭いことは「不可能であると仮定して。」おいて、表面的な目先の効果効用だけを求め、これを「実務的。」と言い張る傾向がある。

 議論において論理的根拠のない仮定を持ち出すのは、議論を形而化させ無為無策に陥らせるだけである。

 難しいかどうかを選択の判断基準にするというのは手抜き以外の何物でもない。根本的な問題点を放置しておいて表面的な小手先技で取り繕ってしまうというのは、そいつに自主的問題解決の意欲自体が存在せず、その場限りの効果/業績によって多数他者や権威からの評価報酬が目的であるからだ。

 理想をすぐに実現することが困難であるからといって、目先の取り繕い手段を「目的。」にするというのは無責任である。あくまで「目的。」としては理想を掲げておいて、暫定的措置を選択するのであれば、これは「現場の判断。」であろうが。暫定的措置は「手段。」であって「目的。」ではなく、統合的な目的議論に持ち込むべきものではない。

 議論において理想という「目的。」を簡単に放棄したがるのは、そもそもが自発的問題意識がないからであり。こういう者の「目的。」というのは他人からの評価報酬という利己的欲望でしかないからだ。

 利己的欲望による選択判断の多数決では、理想というものは簡単に失われる。嫌われることは承知の上で言っているのだが制度だけ民主主義制度を導入しておいても、実際に議論する者の多数がバカであるならバカ主義制度にしかならないのである。

 理想というと夢物語か何かと勘違いするバカも多いが、理想というのは持続可能性や安全性を確立することであって、本能欲望の全てが叶うような「バカにとって都合の良い話。」ではない。

 地道で質素で、それぞれの人達が自分の欲望というものを自律的に制御できている平穏な社会こそが本当の「人間としての理想。」というものであり。目先の欲望の全てを満たそうとするのは、狭窄な目先の無意識による「豚小屋の理想。」に過ぎない。

 現在の教育制度における学力成績基準においては、本質的な自主性に基づく意欲/問題意識の有無とは無関係であり。目先の利己的欲望が「目的。」であっても区別はされない。だから東大からテロリストが出たり、天下り役人が減らないのである。学力向上という現場の判断だけが目的にされてしまえば、何が起きても誰も責任を負わないということでもある。

 認知科学界自体が「無意識こそが人間性/合理性を作り出す。」などという支離滅裂な主張を繰り返しを放置するというのは、大学/公的研究機関の役割として無責任であり公金の無駄遣いどころか詐欺行為である。

 ヒトというのは、手段と目的を簡単に混同してしまう性質があり。これこそが論理検証性の欠落による無分別によるものである。

 論理検証という本質的合理性の追求こそが、本質的な人間としての意識なのである。これを文系の観念者達は忌避したがる。文系の観念者達というのは既に刷り込まれた固定観念による目先の感情こそが意識の全てであることにしておきたいのであろう。

 自分達の感情の全てが人間としての「心。」であると錯覚しておけば安心であり、こうした気分的満足によって論理的思考を停止させてしまう。だからマスコミはSQだの脳トレなんぞを鵜呑みにして満足しているのである。

 それが無責任であることを彼等は全く認識していない。



 私はネガティブな指摘しかしない。なぜなら議論の根本的合理性の問題点について論じているからである。各論的な実務レベルの話であれば専門家に任せるしかないのであるが、どの専門家に任せるべきかの選択は各々の現場の責任であり、それぞれの「意識。」の問題である。

 理論的基礎が間違ったままどんなに議論を重ねても合理的帰結には到達不能である。多くのヒトは目先の表面的な解決法にばかり意識を奪われ、根本的な間違いを放置して同じ原因の過ちを何度も繰り返す。それをバカという以外には形容不能である。

 バカげた話を鵜呑みにしているから物事の本質を見失い無為無策に陥るのである。地道に嘘や誤りを正すことによって実効性のある対策が立てられるようになる、バカを放置しているから実効性のある策が潰されているのである。

 バカを放置しておくこともバカに加担しているのと同じである。誰がバカなのかが区別できないのは当人がバカだからであろう。

 バカがバカたる所以とは、自らのバカを自律的に認識「したがらない。」からである。

 「したがらない。」というのは気分感情の問題であり、気分感情とは無意識であり、「意識の9割以上は無意識である。」ことを論理的に理解すべきである。


 ポジティブ能動的な意見というのは、専門各論において自発的意欲のある人が導き出すものであり。自発的意欲のない奴が専門に就いていれば体制維持体質によって実効性のあるポジティブ意見が黙殺され、表面的な取り繕いによって本質的問題点が放置されることになるのである。従って丹念に本質的自発性の欠落した者を専門分野から排除しない限り、本当に有効なポジティブ意見というのは社会に反映されることはないのである。

 短絡的にポジティブ意見を追求するというのは、言うなれば「目先の効用。」の追求に過ぎない。その方が短絡的で大衆にはウケが良いであろうが、こうした大衆迎合こそが社会の無意識的な暴走性を放置する原因であることを認識すべきである。



○純粋行為が、なぜ純粋なのか。

 それを考えるためには、不純な行為とは何かを考えれば良い。

 不純な行為とは、他者から与えられる、或は与えられる可能性に基づき行われる行為である。これは欲望が自己完結していないので純粋とは言うことができない。

 平たく言えば、誰かから与えたもう評価報酬「エサ。」に対する機械的条件反射行動である。誰かという他者から与えられる「エサ。」を求める場合、与えられる相手が必要不可欠であり、自発性がない。

 こうした自発性のない、他発性による行動動機の場合幾つかの問題点が生ずる。

 まず評価を行う他者が常に必要である。これは非常に面倒臭いことで、評価が得られない或は得られそうにない場合には簡単に行為が放棄されてしまう。その上自己本人の純粋な好奇心は全く満たされることがないために他者からの評価報酬への欲望は常にエスカレート暴走する性質があり。ヒトの欲望に際限がなくなる原因でもある。

 次に評価を得るためであれば公益的な自律判断も簡単に放棄されてしまう。社会的にはこれが最も厄介な性質である。

 こうした他律的行動原理に基づく行動というのは、本能的な社会形成習性とも親和性が高く、自己責任の放棄になると勝手に錯覚する原因にもなる。

 そして本能的な社会形成習性によって既存の価値観に基づく体制に迎合し、気分的に安心することによって、実効性のある実質的対策というものが黙殺統制されてしまうのである。


 一方自発的純粋行為の場合、他者からの評価報酬には行為が左右されないため、簡単に行為が放棄されることがなく、凡庸な程度で「諦める。」という気分感情による行為放棄が原理的には起こらない。

 天才が天才足りうる原因というのは、こうした自発的行為によって凡庸な程度での行為放棄がなく。徹底的な追求が行われることによって凡庸ではない「天才的。」なまでの探求が結果的に行われるからである。

 また、自発的純粋行為によって自己自身の純粋な好奇心を満たすことが自律的に可能であるため、自己内部の欲望というものを自己自身によって自己完結的に満たすことが可能であり、結果的に外見上禁欲的でもある。

 こうした自発的純粋行為を「自慰的。」と形容する者がいるが、それなら自分の欲望を多数他人によって満たそうとするのは「他慰的。」行為であり。これはもはや単なるド変態という以外にない。自己の欲望というものは自己自身によって処理するというのは、人間として当然のことであり、何ら自慰的であることに問題などない。

 それを「恥ずかしい。」と「思う。」のは、多数他人との共通的価値観の迎合性による恐怖心であり。こうした「思い。」というものは論理的根拠による合理性のあるものではなく、正に「実証不能の観念。」に他ならない。

 むしろ他慰的欲望を満たさんがために自律的に社会的責任判断を放棄したり、際限なく欲望を暴走させる方が明らかに社会的に迷惑なのである。

 時代に左右されうる普遍性を持たない多数大衆による価値観は本質的には人間としての社会性ではなく、言うなれば世間的価値観に過ぎず。目先の世間に迎合することというのは人間としての社会性とは異なるものである。

 ところがヒトの多くはこれを根本から勘違い錯覚しており、多数権威に服従迎合しておくことこそが本能的に安心であるため。この気分的安心を安全性と錯覚するのである。

 ヒトという種の生物は、本能的な社会形成習性に従って無意識的/本能的に多数権威に服従迎合する「仕組み。」が組み込まれており。気分的安心という感情の強さこそが意識であると錯覚するのである。

 本質的意識や本質的知能というものは、論理的思考によって導き出されるものであり。固定観念に基づく感情の強度によって導き出されるものではない。むしろ無意識的な固定観念による感情によってこそ論理的思考は阻害されるのである。

 故に多くのヒト衆生は同じ過ちを繰り返し、愚かなままなのである。

 原因が理論的に解析できれば対策も立てられる。ヒトの多くが愚かなのは原因を認識「したがらない。」という気分感情が論理的思考を阻害しているからである。



 原発技術者のような特定の技術者だけが自律的に社会的責任判断を行わなければならないのではなく、社会に生きるあらゆる人には、その人なりの行動責任というものが存在するのである。これを無視して他人にばかり「想定外をなくせ。」などというのは余りに都合の良い社会的「甘え。」である。

 その場限りの気分感情だけ満足させておいて「心。」もすったくれもあったものではない。自律的に自己の感情が制御できないのは純粋な好奇心に基づく純粋行為に価値を持たないからである。

 養老孟司にも見られるように、自発的純粋行為を「知って。」いても。その純粋行為に価値を持たずに世間的評価や成功報酬に目が眩んでいれば自律的判断は失われる。

 ヒトの多くは、本能的に多数他人からの評価や報酬を求めてしまうために。自発的純粋行為への価値観を喪失する習性がある。養老が訴えるルサンチマンの全ては世間からの評価に対する条件反射的なものであり、そこには論理検証という「考え。」が全く伴わず、「悔しい。」だの「仕方ない。」といった気分による観念しか出てこない。

 ニーチェが論ずる「出来そうにないことを、自分に要求するな。」などというのも、「出来そう。」かどうかという基準自体がそもそも合理的根拠によるものではなく。これを基準に「諦める。」ための言い逃れによる気分的満足を得るための言い訳に文系大衆が利用している実証不能の観念に他ならない。

 実証不能の観念というものを、ヒトが振り回すことに陥るのは。それが無意識な気分的満足を意識であると錯覚しているからであり、こうした錯覚を錯覚と認識する論理検証性/自発的思考というものが欠落しているからである。

 無意識に行動していれば何が起きても誰も責任は負うことができないのは当たり前である。特定の誰か少数に意識があったとしても、多数という強大な力の前には少数は原理的に微力である。アインシュタインのような天才であってもナチスを止めることができないのはそのためである。



Ende;
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一括投稿。9

2012年04月12日 14時36分08秒 | 意識論関連

○べき。

 イヌは人為的に飼育すると突然変異によって非常にバリエーションが拡大する。

 にも関わらず自然界においてイヌ科の動物の集団内部でバリエーションが少ないのは、そこに均一性を確保するための「排除。」や「差別。」の本能が働いているからである。

 本能的な社会形成習性というものには、こうした排除や差別といった不平等性やヒエラルキー格差の機構が予め「仕組み。」として組み込まれているのである。

 ヒトの子供だけで放置しておくと自動的にイジメが生ずるのは、ヒトという種の生物における本能的「仕組み。」による結果である。

 結果を踏まえてどのような目的に基づき行動選択する「べき。」かは、本能習性によって導かれるような簡単短絡的なものではない。

 「べき。」とは理想に基づいた目的意識による「選択。」である。イギリス人の混血タレントの略ではない。



Ende;

○救世主幻想

 ヒトはその社会形成習性によって、特定の誰かに服従してさえおけば短絡的に全てがうまくゆくものであると錯覚したがる。

 権威というものへの無意識本能的服従性や、多数他者という世間への迎合性というものも、こうした本能的感情が促す生物的本能行動である。

 救世主というのも盲目的に服従することで気分的安心を得ることが可能な特定対象である。

 ヒトである以上間違えない者などいない。間違いは誰にでもあり、相互に検証することによって小さな誤りは是正可能なものである。

 多くの人が間違えなければ、総体としては間違いには陥らない。

 ところが残念なことにヒトの多くは間違いには気付かず、総体として簡単に間違いに陥る傾向習性がある。

 特定の誰かに服従してさえおけば、全ては間違いなくうまくゆくものであることを本能的に求める性質がヒトにはある。これは土居健朗が論じた「甘え。」の性質の本能的無意識暴走である。

 本来救世主を求める「目的。」とは、安全で持続可能な社会の確立のためのものである。それを自分達では面倒臭くて気分的に「嫌。」だからといって、救世主という特定他者に丸投げすることで本能気分的に満足したいのである。



Ende;


○格差。

 格差が社会需要の信号の役割を果たしているというのは嘘である。何ら生産性のないクソゲープログラマの年収が1500万円であることが、社会にとって本当の「需要。」であるとは言うことができない。それは単なる目先の「世間。」的需要に過ぎず、何ら社会的普遍性の論証にはならない。

 そもそも本質的な「社会。」的需要というものは年収に比例するようなものではない。

 格差とは「結果。」である。それ自体に何らかの役割を後からこじつける必要性自体がないものである。

 アイヒマン実験における「Cyberneticsの観点。」同様、「結果。」に後から意味をこじつけるのは理論的に間違いである。どれ程偶発的に良い結果をもたらすとしても、結果というものは意識的に選択した「目的。」が伴わなず、絶対的に常に良い結果をもたらす論証にはならないのである。

 「結果。」という現状に基づいて、これから「目的。」に向かってどのような選択を行うか。この選択が「意識。」の役割である。単なる現状という「結果。」に意味をこじつけても、「目的。」自体から意識撹乱されることはあっても、「目的。」自体は抽出されることはない。


 ヒトの多くは現状のことを短絡的に「現実主義。」と錯覚するが、現状に迎合服従していること自体が現実逃避であり、どのような「目的。」意識を持つべきであるかという「理想。」を無視し、意識狭窄に陥っているのである。

 本質的な「現実。」主義とは、現状という「結果。」を踏まえてどのように「理想。」に向かって近付けることが可能であるかを「考え。」ることであり。現状に迎合して気分的に満足して思考停止に陥ることは現実逃避でしかないのである。

 虚無主義ニヒリズムというのは、あたかも現実主義であるかのように文系大衆観念では取り扱うが。実際にはこれからどのような選択を「すべき。」であるかを意識から外し、「結果。」という現状に迎合服従するだけの現実逃避であり、臆病者の言い逃れ/取り繕いに過ぎない。ニヒリズムというのは一種の自閉症に過ぎないのである。

 だからこそニヒリストというのは感情的であり、同時に「考え。」が伴わない。ニヒリストがヒステリックにニヒリズムに固執するのは、それが図星であることの証明である。

 他人の話に耳を貸さないというのは自閉症の症状そのものである。

 虚無をいくら枚挙しても、それこそネガティブ性しか出てくることはなく。何ら社会安全性も持続可能性にも寄与することはない。

 ヒトの多くは虚無を持ち出されると簡単に思考を停止し、反論不能に陥り結果的に迎合しがちである。「ヒトとは、そういうものだ。」とか、「今までずっとそうだった。」といった多数抽出結果の枚挙を、あたかも論理的不可能証明であるかのように錯覚するのである。

 錯覚を錯覚と認識できないのは、そこに本質的意識による論理検証性が働いていないからに他ならない。

 「なぜ、そういう結果になったのか。」を論理的に検証し、原因を究明、再発防止策につなげることができないのは。こうした本能的無意識錯覚による思考の停止が働いているからである。

 こうした本能的な条件反射的思考停止こそが実証不能の観念に多くのヒトを誘うのである。経済学では断片的にこうした虚無主義が混入しており、同時に根拠のない目先の効用への幻想によって思考停止に陥っているのである。



 文系大衆観念というものの多くは、論理的には全く検証がなされていない実証不能の観念であり。これを無為無策に放置することは「頭が悪い。」からである。

 「社会性。」と称して本能的な社会形成習性こそが人間としての社会性であるかのように生物学は論じてきた。未だに生物学は「本能にこそ人間性が存在する。」と言い張る始末である。

 「合理性追求。」という言葉においても、カントの純粋理性批判を鵜呑みにし、誰も論理検証をしてこなかった。

 本質的な合理性なくして社会安全性も持続可能性も確立することは不可能である。決してその場限りの気分的「安心。」によって社会安全性が保障されるわけではなく、むしろ、気分的「安心。」という実証不能の観念こそが社会を危険に陥れることを認識すべきである。


 「心。」というのは目先の気分的「安心。」の追求によって形成されるものではなく。統合的で本質的な合理性を伴った理性的選択によって作られるものである。決して目先の本能的利益や効用といったものに惑わされず、自己の社会における本質的な自己の存在意義(大衆観念上での世間的評価ではなく。)に基づいて自律的に選択することによって、本質的な人間としての「心。」の平穏を持つことが可能となるのである。

 生物学/脳科学や哲学マスコミは、大衆が目先の利益効用に本能的に撹乱されることで論理的思考を失わせることが可能であることを利用し、あたかも科学的理論であるかのような体裁だけを用いて体制維持を謀る。

 それが理解認識できなければ、ヒト社会におけるあらゆる過ちは放置されることになる。

 私は神ではない。従って私一人で社会の安全性や持続可能性を構築できるわけではなく、単なる道筋を明らかにしているだけである。より多くの人がこの道筋の正当性を認識しなければ何も変わることはない。

 無意識な行動というものは、機械的条件反射行動である。従って無意識でいるということは結果的には暴走に加担することにしかならない。

 暴走を止めるのは意識であり、本質的合理性の追求である。それが目先の気分を害するとしても、利権の喪失になるとしても、「人間。」として自律的に社会的責任を負わなければ、本質的な「自己。」としての存在価値の論証にもならない。

 目先の利害に意識を奪われていればサルと何ら違わないのである。



Ende;

○解体。

 アイリーン:ペパーバーグのオウム(ヨウム)は生体解剖されていなかった。

 確か言葉を話すオウムは解剖されたという話をどこかで聞いたことがあったのだが、Webでの調べものが苦手なのでよくわからない。多分英語論文なんだろう。最近ペパーバーグが飼っていたオウムが死んだそうである。


 それはさておき。(どうでも良いことなので。)

 「ヒトよりも知能の高い生物がいたとして、ヒトの話を聞かないはずはない。」などという話は何の根拠もない文系観念者の勝手な決め付けに過ぎず。知能というものの議論を撹乱するための言い逃れとして、あたかも科学的論証風味なことを述べて大衆を撹乱しているだけである。

 むしろ理論的な話が通じない生物学者達やマスコミの頭の悪さこそが問題なのである。

 ヒトでありさえすれば人間としての知能が必ず発揮されるという短絡的なものではなく、教えられていないことを発見したり、教えられたことの間違いに気付く能力、自律的に社会的責任判断を行うというのは、ヒトの中でもはむしろ非常に稀なものである。

 以前にも述べたが、言葉を話すことが短絡的に知能の論証にはならない。振り込め詐欺や占い師は非常に言葉巧みに相手の論理的思考を撹乱するが、彼等が科学的発見や発明をすることはない。チンパンジーがエサ欲しさに高度な瞬間記憶能力を発揮しているのと何ら変わりはないのである。

 詐欺ペテンであっても、ある種の知的能力の一種であるとは分類可能ではあろうが。本質的な人間としての知能とは無関係である。

 言語を用いて相手の気分的満足を与えられると、多くのヒトはそれを知能であると簡単に錯覚する。逆に言えば気分的に嫌な話を持ち出し、自分の愚かさを立証されることによる気分的嫌悪感によって、話に耳を貸さなくなる性質がある。

 生物学者達がカルト宗教の信者の如く、自分にとって都合の悪い話に耳を貸さないのは。彼等が論理的思考ではなく観念的気分によって行動判断を行っているからである。

 ペパーバーグらがオウムに強い思い入れをしても、何ら論理的にはオウムの知能の論証にはならない。思い込みという「感情の強度/程度。」では科学的論証にはならないのである。

 行動学習による無意識的認識能力の全てが意識的な論理思考を促すわけではなく、無意識的認識能力というものは錯覚や固定観念をも作り出す性質も持っている。従って、何が錯覚や論理的根拠のない固定観念であるかを認識するのは無意識ではなく、今現在における本質的意識/論理検証性である。

 カルト宗教の信者の行動というものは、経験による無意識的行動学習が作り出した結果である。これを無視して「無意識こそが論理思考を作り出す。」などと言い張るのは、言っている認知科学者の頭が壊れているとしか考えられない。

 ヒトは人生において必ずしも論理的思考において都合の良い行動学習しか体験しないわけではなく、むしろ論理的思考を阻害するような本能感情による行動バイアスを無意識的に学習することの方が圧倒的に多い。これを論じない認知科学者というのは、認知科学者としてポンコツとしか言いようがない。

Ende;

○論拠。

 鍛練や習熟によって獲得可能な能力というものは、あくまで遺伝的に予め可能性が存在するから可能なのであって、普通は発現しない能力が特殊な環境や状況下において発現したからといって遺伝的能力を超越しているわけではない。

 キリンの首が長いことを、「キリンは高い所の葉を食べるために進化した。」と生物学では「説明。」する。

 キリンが高い所の葉を食べようと鍛練習熟することによって、あたかも遺伝要因自体にまで影響を及ぼしたかの如く言い張るのは大きな間違いである。遺伝による先天的能力というものは個体が選択不可能な要素であって、「結果。」以上の何物でもない。

 「結果。」に後から「目的。」的な意味をこじつけても、これは「説明のための説明。」にしかなっていない。説明することだけが目的であり、全く真理の追求には構造原理的にならない。

 現在のキリンの首が長いのは、首の短いキリンが環境によって淘汰された「結果。」であって、遺伝的に首が短い生物種がどんなに頑張っても首が長くなったりはしない。キリンの首が長いのは何らかの目的意識によってではなく、あくまで結果以上の何ものでもない。これがダーウィン進化論の本来の解釈である。


 ヤギの多くは二本脚では歩かない。だからといってヤギが遺伝的に二本脚で歩くことが不可能であるわけではなく、前脚を奇形や事故で失った場合に二本脚で歩いても遺伝的能力の超越の論証にはならない。

 ネコが二本脚で歩いたりヒトの発声に似た声を出すことはYouTubeの動画にも時折見られる。中国の古い文献にもネコの二本脚歩きやヒトの言葉を話したというものがある。

 普段発現しない能力であっても、環境や状況によって発現したからといって、それは「珍しいこと。」ではあっても遺伝的能力を超越しているとは言うことができず、「多く。」の個体に発現しないとしても、あくまで能力の潜在に過ぎない。

 生物生存において、遺伝的に可能な能力の全てを獲得する必要性はなく、潜在的な能力を保有していても何ら不思議はない。


 キリンは首がとても長いため、高い場所にある脳にまで血液を送るために血圧が非常に高い。ところがこのまま頭を地面付近まで下げると血圧が高過ぎて脳溢血で死に至る、これを防ぐために脳動脈には血圧を調節する機構が備わっているのだが、この機構は首が長くないオカピにも存在する。

 オカピにとって脳血圧の調節機構は必要ないのだが、潜在的にこうした機構を持っていても構わないのである。

 生物の遺伝的な機構や能力というのは、全てが必要である必然性はなく。全て偶然結果的に生存に適していさえすれば何が組み込まれていてもおかしくはない。遺伝要素というのは自然淘汰によって洗練はされているが、全てが必然性によって組み込まれているわけではない。

 何らかの「目的。」意識に基づいた必然性によって何者かが生物を作ったわけではなく。あくまで「結果。」的に生存していた存在を「生物。」と分類しているだけなのである。


 ヒトのやイヌの身体の大きさは非常にバリエーションに富んでいる。これは自然淘汰によって「洗練。」されていないからであり、突然変異に任せておけば生物の姿というのは大きな違いを生ずることの論証である。

 結果的に生存していた生物だけを抽出してきて、あたかも生物というものの全てが生存のために自己の遺伝的性質自体までをも意図的に変化させたかのように論ずるのは、生物学者特有の非論理的文系観念に過ぎない。

 淘汰によって生存に適さなかった生物の全てを無視して、偶発的に生存していた生物だけを抽出しても。生物の目的が生存であることの論証にはならない。

 突然変異が進化(変化)をもたらし、これが生存に適した種を生じさせることがあるとしても。実際には突然変異のほとんどは生存には適さず、むしろ突然変異のほとんどは統計的に生存には結びつかない。

 生存とは偶発的な「結果。」以上の何物でもなく、生物自体に何ら目的など存在しない。

 目的というものは意識的に選択されたものを言うのであって、これは意識を持った「人間。」にしか存在しないのである。これは同時に意識のない「ヒト。」の単なる欲望は本質的には目的と言うことができない。

 本能に基づく行動選択であっても、これは一面的には行動「目的。」と形容するが。本能自体が自発的選択によるものではない以上、そこに一面的に合理性があっても意識的に選択された本質的な行動「目的。」とは言えない。

 本能という無意識的シーケンスに基づいている限り、断片的に合理性が伴っても本質的には合理的でもなければ意識的行動選択でもない。統合的な目的意識に基づいた行動選択がなされない限り、本質的には合理性にはならない。


 国家単位において普遍的に国益保守が見られるからといって、これを人類の普遍的価値観であるかのように論ずるのは間違いである。これは「ヒト。」における「結果。」的な普遍的性質の枚挙に過ぎず、何ら「人間。」としての意識的に選択された「目的。」意識に基づく普遍的価値観ではないからである。

 「ヒトとは、こういうものである。」ことをどんなにたくさん枚挙抽出しても、それが短絡的に「人間として、かくあるべき。」であることの論証にはならないということである。

 生物学に限らず、文系観念の放置というものはヒトの行動「結果。」の抽出枚挙を短絡的に人間としての「目的。」行動にすりかえる愚かさの放置でもある。それなら失敗が繰り返されるのは必然というものである。

 失敗というものを工学的に検証し、どうしたら失敗を繰り返さないようにできるのかを考えるためには。先ず初めに文系観念による短絡的すりかえ(諦め)による論理撹乱を排除すべきであり、これによって本質的な合理的安全性の確立が可能となるのである。

 ヒトの多くは、「今までずっとそうだった。」とか、「多くのヒトはこういうものだ。」といった文系観念による脅迫的強弁を、あたかも論理的な不可能証明であるかのごとく錯覚しがちである。

 簡単であるかどうかは無関係である。難しいからやらなくて良いというような短絡的安易な結論は糞の役にも立たないからである。


 生物学者達が大好きな文系観念の放置というものは、科学から論理的思考を奪い、実証不能の観念に基づく混沌と、論理的根拠のない不可知性のまどろみに多くのヒトを誘う。だから社会の安全性も持続可能性も確立できないのである。



Ende;

○文明。

 「文明。」と呼ばれるコミュニティーの巨大化を「人間。」的と呼ぶのは論理的な根拠ではない。コミュニティーの規模と人間性に比例関係など存在しないからである。

 ポジティブな一面だけを抽出枚挙することで、コミュニティーの巨大化を「文明。」と称して、あたかも絶対的価値であるかの如く論ずるのは大衆迎合的なまやかしに過ぎない。

 一面的に医療の発達や経済学上の数値だけを抽出枚挙しても、「文明。」都市の巨大化の全てが合理的である論証にはならない。「都市対田舎。」という短絡的構図を鵜呑みにして論理検証を全くしないから養老孟司のような論理整合性のない支離滅裂な話が鵜呑みにされ、結果的に本質的合理性が失われることこそが無為無策に陥る原因である。

 観念によって思考が停止していれば、原因究明も対策もされなくなるのは必然というものである。



Ende;
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一括投稿。8

2012年04月12日 14時33分50秒 | 意識論関連


○学力。

 学力だけを目的とした現在の学力ビジネスというのは、生徒の学力さえ高くなれば秋葉原で大量殺人をしようと、都営地下鉄に毒ガスを撒き散らそうと、原発を暴走させようと「知ったことではない。」のである。

 それが本当に生徒達の未来にとって必要なものであるかどうかは、親大人達の意識次第である。

 目先の利益や気分的安心である利己的利益追求に意識を奪われ、統合的な社会全体の持続可能性や安全性を無視しておいて。一体子供達にどのような世界を遺すつもりでいるのか、その統合的で合理性のあるビジョン/理想というものが親大人達の意識には欠落している。


 自律的に社会的責任を負うためには、自発的に自己自身の欲求を満たすことが出来ていなければならない。

 自己の欲求を多数他者(世間)から満たされることしか行動学習していない現在の日本の大人達には自律的に社会的責任を負うという人間としての最も根源的価値観が欠落している。

 目先の効用、目先の利益追求に意識を奪われていれば、統合的視点に基づく社会の持続可能性や安全性といったものにまで意識が働かないのは当然である。

 現在の日本の大人達は、意識が働かないように行動学習されてしまっているのであり、それゆえ無意識的な連鎖行動という暴走しかできなくなっているのである。

 無意識に暴走していることをバカと言わずに何と形容するのか私の知ったことではない。

 多くのヒトは自分が無意識的に暴走していることすら認識していないのである。暴走を認識していなければ気分的には安心で満足であろう、だから論理的根拠のない実証不能の観念に基づいて文武両道を必修にしたりするのである。

 必修にすべきは人間としての合理的人間関係についてのディスカッション生徒達による理性的な話し合いを大人達が促すことであって、ヒトという種の本能の危険性について認識させることが重要なのであって。実証不能の文系観念に基づく合理性のない精神論を無意識に押し付けることをすべきではない。


 既存の価値観に基づく多数他人からの評価報酬に、機械条件反射的に反応した結果としての学力知識というものは評価試験が終了すれば当人にとって価値を失うことになる。だから試験が終わると全部忘れてしまうのである。

 それに対して自発的純粋な興味感心意識に基づく知識というものは、取り立てて強いて勉めずとも記憶に残るものであり、外見上試験で同じ点数を獲得しても当人にとっての知識の価値観は全く異なる。

 当然自律判断も異なることになる。

 既存の価値観に基づく多数他人という世間的な評価によって気分的に満足することを「自信。」であると、多くのヒトは錯覚する。しかし、既存の固定観念に基づいた価値観に依存した多数他者からの評価である以上、これは本質的には自己自信の自律判断への信頼性には結びつかない。

 固定観念を鵜呑みにしている時点で何ら本質的自律判断は介在していないからである。



Ende;


○瞑想。2

釈迦が論じた瞑想というのは、恐らく脳科学的に言うところの「脱集中。」のようなものではないかと思われる。

 つまり、固定観念に囚われて思考を停止してしまっている状態を解くためには、一度現状全体を客観的に「引いて。」見るような視点を持つことであろう。

 それなら禅宗が行うような座禅瞑想とは全く別のものであり、座禅瞑想という行為そのものへの論理的検証性としての客観的視点を持てなければ意味がない。

 釈迦が行った断食行というのは、バラモン教における修行であり、これを擬似的に模倣しても意味はない。意味がないことを悟った(論理的に検証した)からこそ釈迦は断食行を途中放棄したのである。

 にも関わらず気分的快楽を得られるからといって座禅瞑想をするというのは、むしろ論理検証性の放棄にしかならず、無駄である。

 宗教というのはどうしても途中で「伝言ゲーム。」的な歪曲が混入し。気分本能的に楽な方向へと行動が捩曲げられてしまう性質がある。これは宗教に限らず学問などにおいても同様の傾向があり、文系観念という気分的に楽なものを絶対的基準とした理論の歪曲も発生するようである。

 「これさえやっときゃ。」的な短絡的で単純なことにしておけば論理的理解をスルーして気分的満足だけを先に得ることが可能であろう。しかしそれこそ愚かさの根源というものである。



○簡単。

 仏教において経典をバラバラとめくっただけとか、経典の入ったドラムをクルクル回すだけとか、こうした短絡簡単な行為へと歪曲が生じるのは。型や形式といった外見上の類似だけで気分的に安心満足してしまう性質があるからだ。

 「ヒトは見かけが9割。」と言われるが、型や形式といった外見だけで多くのヒトは無意識的安心満足を得てしまう傾向がある。

 学力だの学歴といった型や形式だけに意識を奪われ、論理検証が全く働かない脳科学/認知科学というのは脳トレ類を無理矢理正当化するという詐欺行為を行っているのであり。脳科学/認知科学が詐欺に対する対策を導き出せないのも当たり前というものである。

 脳トレ類の詐欺性を隠蔽しておいて、詐欺に対する対策など出てくるわけがない。

 ヒトというのは簡単で単純で短絡的な行為による外見上の無意識性だけで満足する性質がある。「ヒトは見た目が9割。」と言われるが、いわば多くのヒトにとって9割以上の無意識を1割に満たない意識が検証することは簡単ではないらしい。

 東京電力では「地下の発電機が水没すれば炉芯溶解の可能性が高い。しかし津波の影響を論ずることはタブーである、なぜなら津波の影響を考慮すれば日本のどこにも原発など造ることが出来なくなるからだ。」と社員を教育したそうである。

 「社会性。」と称して、迎合的で無難な者を大量生産した教育の末路が福島の原発である。

 「社会性。」だの「コミュニケーション能力。」といった動物本能的な社会形成習性こそが社会安全性や持続可能性を追求するべき本質的合理性追求の最大の妨げであり、これを放置してきたのが文系観念である。

 どんなに気分的に安心満足しても、安全性が確立されるわけではない。安全性というものは論理的工学的に追求されなくてはならない。

 ヒトという種の生物が論理検証を放棄してしまうのは、無意識による固定観念や本能的嫌悪感が促す文系観念が原因である。

 型や形式といった固定観念による「外見。」によって9割の無意識を満足させてしまうから意識が働かなくなるのである。


Ende;
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