人生に必要なことは、すべて梶原一騎から学んだ

人間にとって本質的価値「正直、真面目、一生懸命」が壊れていく。今こそ振り返ろう、何が大切なのかを、梶原一騎とともに。

西の不安

2007年01月31日 | あしたのジョー

ジョーは段平から「あしたのために=その3」、クロスカウンターを伝授された。段平にノックアウトされ、医務室で何が起こったのかを反芻しながら、イメージが明確になってきた。心配して見舞いに来てくれた西を挑発し、自分に殴りかからせようとするジョー。ついに挑発にのって、ジョーに殴りかかった西に、クロスカウンターが炸裂した。タイミングをつかみかけたジョーは、次なる相手に試そうとする。西は友人だから、いくら挑発しても本気ではない。それでは本当のタイミングはつかめない。二階の医務室から窓を壊して飛び出し、院生にけんかを売っていった。

少年院内に警報のサイレンが鳴り響く。それを医務室で聞きながら西はつぶやく。

「さっき、わいがくらった一発は・・・いつか、鑑別所でわたりあったときにくらった一発とはまるで、べつのもんやった・・・

思い出してもそら恐ろしいパンチや・・えらいもんを身につけたもんやでジョーは・・

 

ただ・・ただ わいが気がかりなのは・・・

ジョーが一つ一つ恐ろしいパンチを覚えていくたびに・・・

ジョー自身も一つ一つ・・・ふ・・ふしあわせにのめり込んでいくような気がすることや・・・・

 

目標、生き甲斐をもったというレベルではない。拳闘地獄にはまっていく道。すべての欲をすて、すべての楽しみ、人並みの幸せをすて、苦しい苦しい練習と、殴り合い、へたすれば命を落とすという戦いに身を投じる。ジョーは確実に、そういう世界に一歩一歩踏み込んでいく。

もとは腕っ節の強さで鑑別所のボスだった西は、しょせん普通の人間なのだ。人並みの幸せ、人並みの生活をもとめる、普通の人だ。後に、西はボクシングをやめ、乾物屋で地道に働く人生を選ぶ。

ジョーはそういう西を責めることはない、人には人の生き方があるからだ。自分は、そういう生き方はできない。寿命を縮めても、怪我で不幸な人生になったとしても、そういう生き方しかできない宿命を背負っている・・・

人は不幸というだろう、しかし、そういう生き方しかできない。人は自分の道しか生きられないのだ。

「この道より、われを生かす道なし。この道を歩く」 武者小路実篤


すばらしい明日

2007年01月28日 | あしたのジョー

慰問にきた葉子を侮辱したジョー。それを許さない力石と殴り合いになった。このときから、ジョーと力石は、宿命のライバルとなった。

お互い殴り合いで決着をつけようとするが、ここは特等少年院の中だ。そこで段平はひらめいた。素手で殴り合えばけんかだが、グローブをはめてリングでやれば、立派なボクシングというスポーツだ。青年たちの有り余ったエネルギーを健全に発散する、矯正としてはもってこいではないかと提案する

少年院にも影響力をもつ白木葉子も、その意見に興味を示したことで、一気に実現に向かった。もともとプロボクサーだった力石は、次にリングでジョーと対戦したときには一分間でしとめるとKO宣言をした。

黙っていられないジョー、しかし、今のままでとうてい勝ち目が無いことを段平は分かっていた。ジョーを人気のないところに連れ出した段平は、これまでの「あしたのためにシリーズ」の通信教育をジョーが身につけているかテストした。その結果をみて、段平は胸を打たれた。こいつは本物だ!だが、力石に勝つためにはこれだけではダメだ。

「あしたのために=その3」は言葉で伝えられる物ではない。一気に、体で教えた段平。少年院には、ものすごい悲鳴がとどろいた。駆けつける院生や仲間たち。そこで見た物は完全にKOされたジョーと、鼻血にまみれた段平だった。

段平は

「このぶんだと あ・・あしたは・・・そう 遠く・・・・な・・なさそうだぜ・・」そういって気を失った。

そう、この後ジョーの必殺技となる、クロスカウンターのタイミングをを身につけかけたのだ。しかし、この時点では何が起こったのか誰も知るよしもなかった・・・。

 

葉子はつぶやく

「すばらしいあした」は今日という日を、きれいごとだけ・・・お体裁だけ整えて過ごしていては永久にやってこないわ

血にまみれ、汗や泥にまみれ、傷だらけになって・・・他人には変人あつかいされる今日という日があってこそ・・・・あしたは・・・ほ・・ほんとうのあしたは・・・!」

 

葉子は、ジョーに今までの人生で体験したことのない恥と屈辱を味あわされた。しかい、同時に、心を動かされ初めいていた。矢吹ジョーという男の不良のようだがまっすぐな生き方と潜在能力に。

梶原作品の主人公は、変わり者が多い。飛雄馬は野球バカ、ジョーは拳闘バカ、大山倍達は空手バカ(これは実在の人物なのでまずいか)・・。つまり、人に何を言われようとも、自分の信じた道を貫けという基本姿勢である。

小利口が街にあふれ、要領の良さがうらやましがられ、地道な努力、日の当たらない真面目さというものが、バカにされる風潮がある。子供たちの間では、「インキャラ」とかいって、明るくしていないと蔑まれるという馬鹿げた時代だ。

テレビをつければ、明るい馬鹿話ばかり、一見真面目な若者の討論も、自己主張の固まりだ。人によく思われたい、受け入れられたい、認められたい病にみな犯されている。

アニメになった空手バカ一代の主題歌に「人はバカだと笑おうが、この世に利口はあふれてる」という下りがある。ここんところが、ものすごく好きで、くじけそうになると、口ずさんで自分を励ましてきた。

誰かに認められるより、自分が自分を認めていればいい。人や世間振り回されて自分を見失うようなことは絶対にしてはいけない。


白木葉子

2007年01月26日 | あしたのジョー

段平は、少年院にいるジョーに会うために、慰問団に加わった。白木ジムのお嬢様、白木葉子が中心となり、演劇のボランティアを行うわけで。ジョーの少年審判の際も、法廷に葉子は現れた。何故に・・。それは、ジョーが逮捕されるきっかけとなった、詐欺事件(募金を装い自分の金にした)に10万円募金したのが葉子だったのだ。

慰問の演劇で、段平はムチにうたれるせむし男を演じる。演技どころか、本気でむち打つという劇にジョーは切れた。ボクサーだから頑丈だから本気でむち打ってもよいという神経に。そして、むち打たれたせむし男を解放する心優しき娘を演じる葉子の偽善に切れたのだ。

貧しき者たちを高見の見物のように見下し、お恵みをし、それに感謝という見返りを求めている葉子の無意識を、ジョーは徹底的に批判した。

教官たちが、ジョーのペテンと知らず、同情して10万円の大金を寄付されたのに、それを踏みにじった人間が、さげすまれたとしても自業自得だとジョーを非難する。

 

ジョーはいう

「たかだか十万円ぽっちのことで裏切られたからって腹を立てるくらいなら少年院を慰問して愛を説くなんて おこがましいまねをするなってんだ!」

「万事が恩着せがましいんだよ。はるか雲の上から優越感でやっていることなんだ。うわべだけの愛、かたちだけの親切。いわばすべて偽物なんだな!」

「お黙りなさいっ」

「そーら、それが正体さ。おれは理屈なんてえのは苦手だが、もしかすると葉子おじょうさまよ・・・あんた、おれやここにいるあわれな連中のためじゃなく

自分のために、こんな慈善事業をやる必要があるんじゃないかね え?自分のためによ」

 

痛いところを突かれた葉子は言葉を失う。

 ボランティア、慈善事業、真実はどこにある。本当の愛なら、本当の気持ちなら、目立たず、誰にも評価されず、一見他愛のないことに本気で取り組む、それが本当じゃないのか?そもそも、大上段に構えて、見ず知らずの人々に愛を振りまかなくても、本当に愛を振りまく相手は、目の前にいるのではないのか?身近にいるのではないのか?隣にいるのではないのか?誰にも知られず、相手にすら認められず、それでも一方通行に、ただただ、自分の思いだけで、捧げることが本当の愛なのだろう。見返りを期待した瞬間に、すべてがパーになる。そういやー、同じような話が、巨人の星の時にもあったな。真の友情は・・と一徹が説いていたな。

何もかもが派手になり、大がかりになり、与える側も受ける側も、ささやかなる真心というものに鈍感になってしまっているのではないかな。といいつつ、その言葉はそのまま自分に返ってくるものだな、反省しよう。


段平の思い

2007年01月23日 | あしたのジョー

ジョーは特等少年院に入るなり、脱走を企てて反省房に入れられる始末だった。しかし、同時にジョーの中で何かが変化し始めていた。

一方、段平は、今のジョーは少年院送りになったほうがいいのだと言ったものの、道を踏み外すのではないかと気が気でない。ジョーのただならぬボクシングの才能を見いだしただけに、放ってはおけない。

いてもたってもいられない段平は、少年院に面会に行く。しかし、身内でもない彼に面会の許可はおりない。

「教官先生・・わしの目を見てくだせえ。たった一つっきりねえが、なまじの肉親以上に本人のためを思っているこの目を!」

しかし、許可はおりない。矢吹丈だからなおのことだめだと。送られた次の日に脱走未遂をやらかして、手に負えないのだと聞かされた。

段平はあせった。

 

「ジョ・・ジョーが脱走未遂を・・・

やっぱり・・・

やっぱりジョーの魂は危なっかしい瀬戸際で、ふらふらと揺れ動いているんだ。このチャンスに拳闘をものに出来るか、ただの不良くずれにおわっちまうかの危ねえ瀬戸際を・・・」

 

確かに段平は自分の夢を実現するためにジョーを利用しているとも取れる。しかし、そのために自分には何の徳にもならないことのために必死で頑張っている。ジョーの成長だけが自分の生き甲斐のように。

「なまじの肉親以上に・・」と段平はいう。確かにそうだ、肉親には甘えがある、肉親だから分かってほしい、分かるはずだという甘えが・・段平にはそれがない。ジョーは自分になんか見向きもせず去っていったって何も問題はないのだ。だから必死になる、必死でつなぎ止めようとする。何の見返りもないかも知れない。それでもジョーを救いたい、ジョーの才能を埋もれさせてはいけないと思っている。それはジョーの為ではなく、自分の為だと言われればそれまでだ。そんなことはどうでもいい、人が勝手に解釈すればいいことだ。人は今、生きている瞬間を計算しているわけではない。

肉親の関係は難しい。本当に深い絆を得るためには、肉親だからという甘えを捨てるところから始まる。分かり合えるはずだ、なぜ分かり合えないのかなどなど、勝手な期待、思いこみ、甘えがどこかにある。だから難しいのだ。一歩間違えば、縛り会う関係になる。

ミリオンダラー・ベイビーという映画があった。女性ボクシング選手と、老練トレーナーの話だ。そこでも、本当の絆を巡るストーリーが展開された。家族に見捨てられた少女、必死で救おうとする他人・・・セリフの少ない場面の中に、絞り出すような「情念」が交錯した。すばらしい映画だった。クリントイーストウッドって本当にすごいと思ったな。関係ないけど。ボクシングってドラマがあるよね、ホント。でも亀一家のことは、あえて触れずにおこう。

それとあえて指摘しておくと、この時代、まだ「差別語」なる言葉狩りは無かったので、今だったら不適切とされる表現が所々にでてくる。それについては、あえて、そのままの表現を記載します。


自由と敗北

2007年01月21日 | あしたのジョー

ジョーは、特等少年院送りになった。悪事を重ねるジョーに対して、段平は今はこうするしかないんだと、自分のボクシングでノックアウトして保護に協力した。
しかし、ジョーは脱走のことしか考えていない。少年院の厳しさ、ひどさにもまったく臆することなく、こし淡々と脱走のチャンスをまった。おいじけづいていた西も、豚小屋掃除の時に、豚をあばれさせて、豚に乗って脱走する手を思いつきジョーを逃がそうとする。


しかし、そこに現れたのは、模範生としてすごしている力石徹だった。暴走する、豚の間を軽快なフットワークですり抜け、次々に豚をノックアウトしていく。そして、脱走に失敗して、いきり立つジョーと対峙することになった。
力石はも六回戦ボーイとはいえ、プロボクサーだった。そうとはしらず、ジョーはけんかをうった。段平から通信教育で教わったジャブは、見事に力石をとらえた。しかし、ジャブで追い詰めた後の、ストレート、アッパーはまったく通用せず、完全にノックアウトされた。
そのとき力石はつぶやいた「ジャブはプロ並なのに、ほかのパンチは子供だましだ」と。負けた屈辱と、力石のその言葉を反省房で振り返るジョー・・・そして、ついにジョーの中で大きな変化がおきた。

 

「そうか・・・!、おもしれえ。
ぐっと面白くなってきやがった。脱走よか、こっちのほうがやり甲斐があるぜ。
自由をうばわれるのは我慢がならねえが・・・・負けるってことは もっと 我慢がならねえ!」

 

ジョーは、本当の自由に目覚めたのだ。外から、あるいは人から拘束されることを嫌い、かって気ままに生きることが自由ではない。自分が自分自身から解き放たれることが自由なのだ。単なる勝ち負けの問題ではない。単なる勝ち負けならボクシングで闘わなくても、武器、道具、卑怯な手をつかって勝てばいい。あるいは脱走して、外からさげすんで見下せばよい。しかし、ジョーはあえて、相手の方が上のボクシングで勝とうというのだ。


単なる勝ち負けではない、自分の誇りをかけた闘いなのだ。相手の肉体を打ち砕くのではない。自分の誇りを取り戻すためなのだ。だから、今、負けたボクシングという方法でなければ意味はない。
しかし、このときすでにジョーのボクシングに対する才能が開花しかけたことが重要である。人は自分にないものには反応しない。たとえば、ジョーがピアノで、絵画で負けたとしても、何も思わなかったろう。野球や、100m走で負けてもそれほどには悔しくないだろう。人は自分の可能性を、才能を否定されると、過剰に反応するものである。自分が悔しい、絶えられないと感じるのは、その力が自分にあるからなのだ。


だが、子供はまだ自分の力、才能に目覚めていないので、何でもかんでも悔しがったり怒ったりするものだ。それが、成長ともに、自分にあるものないものがはっきりしてくるものだ。そして、自分が失ってはならない自分の誇りがより明確になってくる。運動、芸術だけではない、まじめさ、正直さという心の才能の場合もある。
自分にとってほんとに大事なものはひとつだ。いくつもは守れない。まず、自分の中心を理解し、それを守り通すこと、それが真の自由への道なのだと思う。それさえ守れているのなら、ほかの何かが傷つけられたり失ったりしても何も恐れることはないのだ。


自由になるため

2007年01月14日 | あしたのジョー

ジョーは何にも縛られずに生きてきた。人にも支配されず、社会のルールにも縛られず。

ドヤ街であった段平に、ボクシングを教え込まれようとしても、それは自分の夢のために利用しているだけだと拒否した。

少年裁判をへて、ついに凶悪なものばかり集める特等少年院送りなったが、それもジョーにとっては、自由を奪われる耐え難いことにすぎなかった。しかしその場所は、鑑別所のボスだった、西ですら震え上がるようなところなのだった。ジョーははなから脱走を考えているが、とてもそんな生易しい場所ではない。

しかし、ジョーはいう。

 

 「だが、おれはあきらめないぜ自由になるためなら、地獄の底からだろうが、なんだろうが這い出してみせる」

 

この言葉に、重要な意味がある。

ジョーは何にも縛られないことが自由だと信じていきてきたのだ。それが、いつの間にか拳闘地獄ともいうべき、著しい拘束の世界にはまっていった。しかし、そこでもジョーは放り出したり、逃げたりせず、最後まで命をかけて拳闘を続けるわけだ。

自由とは何なのだろう。人は、時間から、お金から、病気から逃れるために必死で生きている。そこから逃れることが自由になることだと信じて。しかし、たいていの場合、それによってがんじがらめになっていくわけだ。

ジョーは、時間もすて、欲望もすて、命さえすてて、拳闘を続け、最後には(おそらく)命を落とす。だが、その顔は、仏のような満足に満ちた顔だった。これを、拳闘馬鹿、拳闘依存症、自己満足などなんと読んでもよいだろう。

しかし、これこそ、自由への道ではないのか。世間では、いわゆる自由を求めるあまりに、何もかもしばられ、何もかも失い不自由になっていく人がたくさんいる。

すべてを捨てたように見えても、自分のつかみたかったものに専心していく。結果ではなく、それにすべてをささげきったという思いが最高の自由ではないのか。

良寛和尚がいった

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。

死ぬる時節には死ぬがよく候。

これはこれ災難をのがるる妙法にて候。

これは、投げやりな生き方ということではない。そんなことにとらわれていては、本当の人生は生きられない。余計なことは考えず、今を生きよということだろう。

ジョーは生きた。今だけを生きた。今できることがまだあるなら、それをやり続けた。それだけだ。それをどうとるかは人の勝手だろう。そこに、真の自由を見るか、自己愛的な滅びの美学ととるか、そんなことはどっちでもいい。


はじめての勉強

2007年01月13日 | あしたのジョー

丹下段平はジョーの才能に一目惚れして、何とかボクサーに育てようと必死だった。しかし、生まれ持ってのフーテン、ジョーは段平の思うようには動いてくれない。そして、ついに、いかさまパチンコでもうけた景品を売りさばいて、警察に逮捕されてしまった。警察で大暴れするジョーの身体能力にますます惚れ込んだ段平。しかし、ジョーは留置場に入れられる。

考え抜いた末、段平はジョーにボクシングの通信教育を始める。有名な手紙

「あしたのために」シリーズだ。あしたのために、その1はジャブだ。暇に任せて、留置場で練習してみるジョー。すると、思いもよらず、自分のパンチで風を切る音がした。その時の喜び、その体験がジョーに変化を起こした。

 

「初めだぜ

おれは生まれてこの方、学校ってものに全然通ったことがなかった。だから、だから、人に物を教わって、いままでできなかったことができるようになるなんて経験は初めてさ。ま・・・悪い気分じゃねえな」

 

初めて学よろこび、学ことへの乾き、何かを吸収したい、学びたい、教えてほしい・・・それが学ぶことの根底に無くてはならないものだ。ジョーは学校に行ったことがない。我々が子供の時は、自分の周りに学校にいけない子はいなかったと思う。しかし、世の中には、まだまだ不透明な部分が多く、光の当たる世界と、当たらない裏の世界、そしてボーダーの世界があり、しかも、その境域は不可侵で、勝手に行ったりきたりはできなかったと思う。普通の人は、境界線を越えることなく生きていた。境界線の向こうの世界は、あっても黙認され、いわゆる暗黙のルールのようなものがあったと思う。

しかし、その後、そういう部分に光を当て、明るみに引っ張り出し、人権人権の大合唱となり、差別語と称して、言葉狩りがなされたり、強迫的に平等性を求めたりした。

その結果、暗黙の思いやり、暗黙の優しさも消しさられ、社会はどんどん下品になっていったような気がする。消し去れるはずのない闇の世界は、より闇に潜伏し、差別はより陰湿になっていった。また、境界線がなくなったために、四方八方に闇の世界はとけ込んで、光と闇、正常と異常までもがまぜこぜになってしまった。

今や、想像もしなかったところで大きな問題が起こっている。このごちゃ混ぜの世界は、またいつか秩序を取り戻すのだろうか・・・

まあ、ジョーとは何も関係ないけどね。


ジョーの計画

2007年01月12日 | あしたのジョー

ジョーは、素性も何もわからない。どこからともなく現れ、ドヤ街まで流れてきた、何も目的もなさそうに。段平にであったのも、全くの偶然。初めは、たんなるチンピラであった。ドヤ街にすむ、小汚いガキどもを引き連れて、いかさまパチンコでせしめた景品を道ばたでたたき売りして、小金を貯めていた。ガキどもを引き連れ、使われていない古ビルに入り込み、基地のようにしていた。

ジョーが貯めているお金に驚くガキどもに、ジョーは自分の壮大な計画を説明する。

 

「計画の一、それはこの、広い川っぷちの両岸一帯に大人も子供も遊べる、でっかい遊園地を作ること!」

「計画の二、このドヤ街の西のはずれに、立派な総合病院をぶったてること!

全国の有名病院から腕のいいお医者さんをがばーっと呼びあつめるんだっ 現在の計画では地上六階、地下二階の真っ白な建物だ、日当たりもいいぞ」

「計画の三、東のはずれには年をとって働けなくなった人たちのために養老院を建てるっ」

「計画の四、南の方に小さい子供のための保育園!」

「計画の五、北のはずれに、静かなアパートと何でも買える大マーケット!」

 

なんともすばらしい計画ではないか!自分のことしか考えていないチンピラのように見えるが、その実、大勢の人たちの幸せを考えている。このあたりはタイガーマスクが孤児院「ちびっ子ハウス」の子供たちの為に、命をかけて戦ったのと似ているね。

これは梶原一騎だけのイメージではなくて、昔は、お金を儲けて、みんなが幸せになることをします、というのは結構、共通した文化的風土があったきがする。

それがたかだか3、40年の間に「お金で買えない物は無いでしょう」とか「お金儲けすることが悪いことですか」とか言って、自分たちの享楽のためにお金をふんだんに使う輩が、社会の全面に立つようになっちまった。彼らは、あしたのジョーやタイガーマスクを見なかったのかね?そうか、勉強に忙しくて、漫画なんか見させてもらえなかったか。

漫画も大事だな。漫画はまっすぐに、分かりやすい形で、子供たちに、人の生きる道を説く重大なメディアじゃないのかな。それなのに、今の漫画はな~・・・。

暴力、エロ、非現実、非常識ギャグなど、完全に売れりゃーいいだろ文化になりさがってしまったのかな。そりゃーよい漫画もいっぱいあるよ。でも、子供たちが読んで自分も頑張ろうと思えるような漫画がどれだけあるだろうか・・というより、漫画以前に、社会、文化があまりにも教育的に良くないわな。

昔、自分たちが子供の時、古典に学べとうるさく言われた。温故知新とかいって、こてんこてんって耳にたこができたよ。今は、昔や漫画は古典かね?


世も末だ

2007年01月08日 | あしたのジョー

丹下段平はかつて、ボクサーであった。試合中の事故で左目を失い、ボクサーの夢を断たれたのだ。それでも、自分で小さなジムを構えて、後進を育てようとしていた。自分が育てたボクサーの試合で、その選手は、思うように戦ってくれない。ポイントで負けている最終ラウンドでもKOをねらって捨て身の戦法にでられない・・・そんな選手に苛立ちを隠せない。しかし、当の選手は

「へたに打ち込んだら、敵さんも全力で打ち込んできまさあ。逆に、KOでもされたら判定より遙かにかっこわるいからね」

「おれはもともとテレビに映りたいからボクサーになったんだ」という。

 

段平はなげく

「世も末だ・・・二言目にはかっこいいだの悪いだの、すっかりタレント気取りでいやがる」「飢えきった、わかい野獣でなければ四角いジャングル・・つまりリングで成功することはできないっ むかしからの格言どおりだ」

 

ハングリー精神。スポーツの世界だけではなく、よく聞いた言葉だ。ハングリーさがモチベーションを呼ぶ。豊かになってしまったら、それを維持することが難しい、だからチャンピオンになったものが、王座を守り続けることは極めて難しいわけだ。

今の時代、ハングリー精神という言葉自体、死語だ。スポーツトレーニングでも、「根性」などは否定され、理論に基づく科学トレーニングが重要視されている。しかし、当の選手は知っているだろう、どんなに科学が進み、どんなに合理的なトレーニングを積んでも、最後の最後は「根性」であることを・・・

なぜ根性とか、泥まみれになってとか、見苦しくも必死で頑張る姿を否定してしまったのか。なぜそれほど、かっこうよくスマートでなくてはいけないのか・・今の人々は何を恐れているのだろうか。「傷つくこと」きっとこれだ。必死の必死でやったら、その結果は本当の本当の結果になる。それで負けたら本当の負けになる。言い訳なしだ。

でもきっと言い訳が残っている内は、本当の力はでないのだと思う。どんなにちっぽけでも、見苦しくても、それが今の自分に精一杯なら、いいではないかそれで。そこからまた始めればいい。大事なことは、自分で自分を見限らないことだろう。


はじまり

2007年01月08日 | あしたのジョー

東京

そのはなやかな 東京の かたすみに--

ある・・・ほんの かたすみに---

ふきすさぶ こがらしのためにできた

道ばたの ほこりっぽい ふきだまりのような

あるいは 川の流れがよどんで、岸のくぼみに群れ集まる、色あせた流木や、ごみくずのような そんな街があるのを、みなさんはご存じだろうか---?

この物語は

そんな街の一角からはじまる・・・・・

 

 

当時、日本は高度経済成長のまっただなか、目に見える所では物がどんどんつくられ、豊かとはいえないが、貧困でもなく、むしろ気持ちとしては、未来に向かって意気揚々としていたと思う。「頑張れば報われる」というイメージは確かにあった。

時代の移行期であったため、豊かになりたい思いと、人をけ落としたり人の道に外れたりするようなことをしてまで・・という高潔さとの狭間で心は揺れていた。

消費者金融という言葉より、質屋という言葉が普通で、お金を借りるためには、何か大事な物と引き替えにしなくてはいけなかった。それを渡さなければお金は借りれないわけだ。貧乏ではあったが、借りてしまったあと、返せずに悲劇が起こるという現代の消費者金融地獄が目立つことは無かった。保証人になって、えらいことになったとか、耳障りよくCMまで流すような消費者金融ではなく、「サラ金」という手を出す段階で「やばい」ことが明らかなものに手をだして悲劇が起こることはあった。

しかし、普通に生きているものにとっては、貧困と豊かさのバランスが適度であった時代だったろう。そういう時代に、あえて梶原は「ドヤ街」を舞台にした。ドヤ街でも元気に生きている人たち、古典落語の庶民のような世界だ。巨人の星でもそうだったが、梶原は豊かさとともに日本人が捨て去ろうとしている人情にあふれる、あるいはバカと言われても、損をしても自分の誇りと意地を通そうとする、武士道のような価値観に強い執着をしめし、それを守ろうとしていたと思う。

これからジョーを通して、梶原が守ろうとしていた価値観を旅していこう。