人生に必要なことは、すべて梶原一騎から学んだ

人間にとって本質的価値「正直、真面目、一生懸命」が壊れていく。今こそ振り返ろう、何が大切なのかを、梶原一騎とともに。

自分の責任

2006年09月30日 | 巨人の星

大リーグボール一号に破れ、そのままオールスター戦に出場した花形。入場の際に、自分が持っていた風船の糸が絡まって、空に解き放つことができず、無様に必死で振り払った。その時、何かひらめいた花形は、気分が悪いと行って球場から去ったという。それをニュースで知った一徹は、愕然とする。あの天才の行動には重大な意味がある!

 

「た・・・たとえ死んだとて、自分の責任を途中で放り出すような男ではない。あの飛雄馬の宿命のライバルは!」

野球解説のゲストで呼ばれた飛雄馬も、ブラウン管に映っていることを忘れて口にする。「あの風船事件が何かのヒントになったのでは」それはオールスターと交換価値があるヒントなのか・・と星親子に緊張が走る。

 すごいね、表現が。「たとえ死んだとて、責任を放り出すことはない」こんな表現は今は絶対にしないだろう。公に対する個人の責任には、命をかけなければならない場合もあるという文化の名残だ。こんなこと、今言ったら問題になりそうだな。でも、そういう文化が風化してしまったからこそ、今の無責任極まる事件が平気で起こるようになったのではないか。「命に代えても責任を果たす」ことは、ものすごく尊い立派なことではいけないのか?自分はできないよ、できないけど、それを全うしようとする人は、賞賛に値する立派な人だとわしは思う。歴史上、命をかけて何かをした人を立派な人だと教えることも少なくなったな。自分が弱いからといって、そこに価値基準を引きずり下ろすことはないだろう。「自分はよわい、だからとてもそんなことはできない。でもそれが出来たあの人は立派だ」それでいいじゃないか。「人間は弱い物、そんなに勇ましく生きる必要はない」なんてね。そういうことを言う人は、自分より立派な人がいちゃ嫌なんだろうな、きっと。


スパルタ式

2006年09月29日 | 巨人の星

大リーグボール一号で花形に勝った飛雄馬。奇跡の魔球誕生に、大騒動のマスコミたち。飛雄馬の実家の長屋にまで取材で押しかける。そして、一徹の教育方針を取材しようと必死だ。

マスコミは質問する「だいぶ、スパルタ式に愛のムチでびしびしお鍛えになったようですな。現代のマイホーム時代における優しい、ものわかりのいいパパと正反対である点に、現代社会が見習う面があるのではないかと・・・」

 

一徹はいう

「こういう父と子もあった!それだけのこと!」

「よそさまと比べて、いいだの悪いだのとは、おこがましいし、こそばゆいわいっ」

 

そういってマスコミの取材には協力しようとしない。

この時代にすでに、やさしいマイホームパパという風潮があって、梶原一輝はそれを忌々しく思っていたということだ。今もそうだ、亀田親子をみなでもてはやす。今では珍しい親子愛、子供を厳しく鍛える厳しい愛情を持った父親と・・。おそらく亀田父は梶原一輝世代なので、それをまねしている気がするな。そして、そういうノリがマスコミは好きなんだな。そう思うならそうしろ、したくないならするな、出来ないならあきらめろ!人の生き方と自分の生き方を比べてどうする、何の意味がある?

「こういう生き方があった!ただそれだけのこと!」


男の成長

2006年09月28日 | 巨人の星

禅僧の言葉にヒントを得、ボクシング、剣道、射撃練習から自信を得て、そして、親友伴の無条件の協力によって、ついに大リーグボール一号が完成した。

致命的欠点だった球質の軽さを逆手にとり、幼少期から父と鍛えた奇跡のコントロール、そして何よりも絶望の中から不死鳥のごとくはい上がる、ど根性のなせる奇跡の魔球だ。打たれて結構、いや一歩進んで打ってもらおう・・そうバットの動きを予測してバットをねらい打ちする魔球なのだ。

その事実を、巨人軍の選手以外は、まだ誰も知らない。そして、ついに左門との対決の時がきた。オープン戦で飛雄馬の剛速球を打ちのめし、自信に満ちている左門。飛雄馬は、また背後にいる左門の兄弟たちのことが頭をちらつく。何も知らない左門に負けるはずはない。自分も打ちのめされ、絶望のどん底に落とされ、そこからはい上がったように、今度は左門が打ちのめされる番だ。

飛雄馬は言う

 

「あるときは自信を持ち、またある時は絶望のどん底にたたき込まれる。その繰り返しで、男は成長していく・・・おれも!そして・・・君たちの兄さんも・・・」

 

切磋琢磨。良き友は良きライバルである。優しさだけではない、慰め合いでもない、その存在によって、お互いが刺激し合い、ともに成長する・・・良き友とはそういう存在なのだ。


技術という壁土

2006年09月27日 | 巨人の星

ボクシングジムでの練習についで、剣道の練習、さらには警察での射撃訓練の盗み見など、不可解な行動を続ける飛雄馬。さらに秘密の特訓では、伴に目隠しをさせて、奇妙な投球を狂ったように続ける。その姿を遠くから眺める一徹。その時、一徹の口から出た言葉は

「わからん・・・あのへんてこな特訓をとおして飛雄馬の目的とするものが、この父には・・・。こと野球にかけては随分頭の回るわしだがな・・・」

 

「これだけは言える。今日の日雇いの仕事でわしは壁土塗りをやってきたが、

技術という壁土は、限りなき根性という水で練りに練ってこそ、いかなる雨にも風にも耐える壁がそびえ立つ

 

根性論はバカにされる現代である。いつから、根性という言葉がバカにされるようになったのだろうか。なぜ、それはバカにされなければいけないのか。

一生懸命、歯を食いしばって努力することの何がバカバカしいのか・・・わしにはさっぱり分からない。まあ、人がどう思うか、どう評価するか、そんなことを気にしていること自体がよくないか。自分は自分の信じるように生きるべし。


我が子の成長

2006年09月26日 | 巨人の星

新魔球のヒントをつかみながら、実現にはほど遠い絶望的な状況が続いた。「絶望なんて、おれに言わせりゃ、まだ余裕のあるやつのいうこと。投手星は、この夢にすがるしかないっ」そこまで追い詰められた飛雄馬。

ある日、テレビでボクシング中継を見て何かがひらめき、ボクシングジムに練習を申し込んだ。ボクサーにめった打ちにされながらもヒントをつかみ、新魔球の手応えを確実につかんでいく。飛雄馬の真意をしらず、野球で通用しなくなってボクシング転向をかなどと書きつづる新聞各社。

新聞を読んだ長屋の住人たちは一徹の元に駆けつける。ボクシング転向は本当なのかと。

一徹はいう

「わしは、信じとる・・・飛雄馬は思いこんだら、いかに試練が厳しかろうと、脇道へそれるような男ではない!」そういいつつも、一徹自身、飛雄馬の真意を計りかねる

 

「わからん、皆目わけがわからんが、しかし、信じとれば・・・

我が子が成長して親の古い頭では理解できんことをやるだすというのも、また、親にとっては頼もしくうれしいものよ。いささか、寂しくもあるがな、ふふふ・・・」

 

子が思い通りになってくれることを願い、親の価値観から外れると、脅したり嘆いたり、あらゆる手段を使って、自分の価値観の中に引き戻そうとする親がいかに多いことか。

幼少期から、自分の夢を託し、自由を奪い、がんじがらめの野球地獄を体験させてきた一徹。しかし、自分の考えが及ばない所に息子が入ってしまったことを理解するや、距離をもち、信じて見守る態度に徹する姿。息子は息子で、なんでもかんでも父ちゃん便りだったのが、父の力の及ばぬを理解するや、絶望のどん底に陥っても自分の力ではい上がろうとする姿。離れてはいるが、深い信頼で結びついている親子。誠、自ら肝に銘じ、手本としたいものである。


狂人

2006年09月26日 | 巨人の星

禅寺の和尚の言葉から新魔球のヒントをつかんだ飛雄馬。伴を相手に、特訓を始める。何をしようとしているのか、全く分からないままつきあわされる伴。針の穴も通すコントロールの飛雄馬が、なぜかデッドボールばかりだ。何かがおかしい、伴ははたと気づく「おまえは何か野球の常識を越えたことをやろうとしているんじゃないか?」

「話したら、大笑いする。ばかばかしいといってとりあわんだろう」だから黙ってしばらくつきあってほしいと伴にお願いする。

伴は言う

「人類の歴史を振り返ってみても、全く新しい発明発見への挑戦者は、すべて、初めは世間から狂人扱いされている。ガリレオの地動説も、ジェンナーの種痘も・・問題は新発明者として完成するか永久に狂人のままで終わるかだ!」

 

「かりに狂人のまま終わったとしても、おれは誇るっ おれの友は、とにかくでっかい男だった・・・と!」

 

そして伴は飛雄馬の新魔球開発に無条件に協力することとなったのである。あまり勉強が得意ではない伴が、ガリレオやジェンナーのことを知っていたかどうかはつっこまないとして、どのような状況でも自分を信じてくれる、信じ抜いてくれる友がいることは一番の財産だろう。昨今の打算的世の中は、成功する見込みに対して協力し、成功者にしっぽを振る。そして、その人が失敗したり、没落すれば見向きもしなくなるわけだ。それは人を見ていたのではない。その人の周りににおう金の臭いに群がっていただけだ。

本当の信頼関係が見えにくくなった時代だ、本当に信じられるものを見つけ大事にしたい。


座禅(2)

2006年09月25日 | 巨人の星

心の迷いを吹っ切るために参禅にいった飛雄馬。しかし、そこでも何度も打ち据えられ、恥をかかされる。その時、どうにでもしろと開き直ったのだ。

「ほほう! どうしたかげんかのお若い人。全然、打たれんようになんなすった・・・いい姿勢になられた・・・怪我の功名らしいがの」

「ひどく短気と見え、禅坊主の言葉に腹を立て、打つなら打てと五体の力を抜いたとき、いい姿勢ができとった・・・」

 

「打たれまい、打たれまいと凝り固まった姿勢ほどもろいものはない。打たれて結構、いやもう一歩進んで打ってもらおう。この心境を得たとき、難しく禅などといわんでも、悩み苦しむ人生の森の迷路に自ずと道も開けると思うのじゃが、いかがかのう」

 

この和尚の言葉で、飛雄馬は開眼した。台湾キャンプで、金田にヒントをもらって以来、どこかで引っかかっていた新魔球のイメージが、ついに飛雄馬の中で形あるものにつながったのだ。

球質の軽さという致命的欠点をプラスに点ずる魔球、一度はむなしく消し飛んだかに見えた、父と歩んだ野球一筋の人生により身につけた奇跡のコントロール、欠点と水泡に化したかに見えた自分の力が今確実に自分の中でマグマのようにたぎり始めたのだ。

和尚の言葉「一歩進んで打ってもらおう」心の緊張を解放するための一言が、飛雄馬に別のインスピレーションを与えたのだ。「打ってもらおう・・・そう、大リーグボール一号が今、ちらりと見えたのだ。

緊張したときには心の中で口ずさもう「打たれて結構、いや一歩進んで打ってもらおう」・・と。


座禅(1)

2006年09月25日 | 巨人の星

左門に打ちのめされ、二軍落ちとなった飛雄馬。しかし、二軍宿舎からも姿を消した。飛雄馬は、わらをもすがるつもりで禅寺に座禅をくみに行っていたのだ。川上監督が現役時代から、迷いを生じると禅寺にこもって心の安定を求めたと聞いていたからだ。座禅を組んでも、心の迷いに満ちている飛雄馬は、何度も打ち据えられる。

そこに和尚が現れて言う「ほっほっほっ だいぶ痛めつけられとるのう、そこの若いの」

「打たれると痛い、これは理の当然じゃな・・・しかし、打たれまいとすれば五体に堅さがでて余計にがたがたする」

「また打たれる・・・学生さんか、すでに社会人か存ぜぬが、要するに、実社会でもその繰り返しではなかったかの?」

「くそっ、参禅してまで球場と同じわらい者か。勝手にしろっこんな負け犬の逃亡者など、いくらでも打ち据えろっ」

 

有名なシーンである。わしの一番好きな場面でもある。自分が緊張して、心に迷いがでたとき、いつもこのシーンを思い出す。大切なのは次の展開であるので、よく読んでほしい。


ほんとうの強さ

2006年09月24日 | 巨人の星

二軍宿舎から姿を消した飛雄馬。厳しい父一徹さえも、もはやかける言葉もない。その時、伴は「いくじなし、ひょうろく玉」とののしる。飛雄馬を信じているがゆえの罵倒だ。沈み込む一徹と明子を、そこらのマイホーム家族に成り下がったかと恫喝する。

そこに牧場が現れる。牧場は、自分が左門にスコアブックのことを気づかせてしまったと強い自責の念を感じていた。結果として、左門に打ちのめされ、さらに自分を責めていた。飛雄馬には青雲高校を身代わり退学してもらい、それだけでも一生の恩があるのに、さらにこの有様だ。牧場はほんとうに自殺したい気持ちだった。その時、牧場のもとに飛雄馬から速達が来たのだ。「牧場さんのせいじゃない。口をすべらせなくても、時間の問題でこの日はきた。気にせんでほしい」と。

自分も絶望のどん底にありながら、どん底から他人を思いやる心・・・その心に皆が心を打たれる。その行動に対して一徹は「飛雄馬のやつも大丈夫じゃよ、どうやら」という。

そして、一徹は漫画家を目指して修行中の牧場に言う

「いつの日か、きっと君は作品の中に「強さ」というものを描くときがあるじゃろう。真の強さとは・・・」

 

「ほんとうの強さとは、いかにも強そうにはりきった見せかけよりも、一見やさしげなものの中に秘められとる場合が多い・・・」

 

明子は言う「だ だから、絶望のどん底から牧場さんを思いやることのできた飛雄馬は大丈夫だというのね、おとうさん・・・」

強さとは強さをひけらかすことではない、負けないことでもない。真の強さとは、己の弱さを恐れぬことである。弱さを知りたくない、弱さから逃げ出したい、人と同じかそれ以上に強くありたい、それが人情だろう。しかし弱さから逃げようとすればするほど、強さは遠ざかっていくものだ。負けを恐れず、弱さを認め、絶望は絶望として一度は引き受け、その絶望の淵から、蘇るチャンスを待つ心。絶望はしても、決して自分を投げ捨てない心。それこそが、本当の強さなのだ。

 


いくじなし

2006年09月24日 | 巨人の星

プロデビューからほどなく、左門に打ち込まれ、二軍行きに決定した飛雄馬。その後、二軍宿舎からも姿を消した。行方を捜す伴、もしやと思って飛雄馬の実家を訪れた。しかし、そこにも飛雄馬の姿は無かった。それを聞いて愕然とする、一徹と明子。

その時一徹の口から出た言葉は

「ひゅ 飛雄馬のやつが・・・左門に打ちのめされた球場から、そのまま雲隠れしおった・・・だと」

 

「いくじなしめ!」

「とは、わしにも言えぬ・・・・」

明子は嘆く「な なんのために、今まで飛雄馬の幼い日を犠牲にした、つらい苦しい人生があったの。かわいそうな子・・」

 

すべてをかけてきたものが、すべてを失った。すべてをかけよと教えてきた父が、その教えに従ってやってきて、もはや父として言うべき言葉を失った時にでた結果がこれだった。自分が強いてきた犠牲、失うものの大きさ・・・もはや一徹には厳しい言葉を言う資格はなくなった。

しかし、これこそが、すべての終わりであり、すべての始まりなのだ。父が強いた道、しかし自分が選んだ道でもある。父のせいにしてどうにかなるものでもない。

ここからが本当の始まりを暗示させる。親子の共同作業が終わりを告げたとき、子自信の物語が始まる。終わりは始まりなのだ。