大リーグボール一号に破れ、そのままオールスター戦に出場した花形。入場の際に、自分が持っていた風船の糸が絡まって、空に解き放つことができず、無様に必死で振り払った。その時、何かひらめいた花形は、気分が悪いと行って球場から去ったという。それをニュースで知った一徹は、愕然とする。あの天才の行動には重大な意味がある!
「た・・・たとえ死んだとて、自分の責任を途中で放り出すような男ではない。あの飛雄馬の宿命のライバルは!」
野球解説のゲストで呼ばれた飛雄馬も、ブラウン管に映っていることを忘れて口にする。「あの風船事件が何かのヒントになったのでは」それはオールスターと交換価値があるヒントなのか・・と星親子に緊張が走る。
すごいね、表現が。「たとえ死んだとて、責任を放り出すことはない」こんな表現は今は絶対にしないだろう。公に対する個人の責任には、命をかけなければならない場合もあるという文化の名残だ。こんなこと、今言ったら問題になりそうだな。でも、そういう文化が風化してしまったからこそ、今の無責任極まる事件が平気で起こるようになったのではないか。「命に代えても責任を果たす」ことは、ものすごく尊い立派なことではいけないのか?自分はできないよ、できないけど、それを全うしようとする人は、賞賛に値する立派な人だとわしは思う。歴史上、命をかけて何かをした人を立派な人だと教えることも少なくなったな。自分が弱いからといって、そこに価値基準を引きずり下ろすことはないだろう。「自分はよわい、だからとてもそんなことはできない。でもそれが出来たあの人は立派だ」それでいいじゃないか。「人間は弱い物、そんなに勇ましく生きる必要はない」なんてね。そういうことを言う人は、自分より立派な人がいちゃ嫌なんだろうな、きっと。