ジョーは何にも縛られずに生きてきた。人にも支配されず、社会のルールにも縛られず。
ドヤ街であった段平に、ボクシングを教え込まれようとしても、それは自分の夢のために利用しているだけだと拒否した。
少年裁判をへて、ついに凶悪なものばかり集める特等少年院送りなったが、それもジョーにとっては、自由を奪われる耐え難いことにすぎなかった。しかしその場所は、鑑別所のボスだった、西ですら震え上がるようなところなのだった。ジョーははなから脱走を考えているが、とてもそんな生易しい場所ではない。
しかし、ジョーはいう。
「だが、おれはあきらめないぜ自由になるためなら、地獄の底からだろうが、なんだろうが這い出してみせる」
この言葉に、重要な意味がある。
ジョーは何にも縛られないことが自由だと信じていきてきたのだ。それが、いつの間にか拳闘地獄ともいうべき、著しい拘束の世界にはまっていった。しかし、そこでもジョーは放り出したり、逃げたりせず、最後まで命をかけて拳闘を続けるわけだ。
自由とは何なのだろう。人は、時間から、お金から、病気から逃れるために必死で生きている。そこから逃れることが自由になることだと信じて。しかし、たいていの場合、それによってがんじがらめになっていくわけだ。
ジョーは、時間もすて、欲望もすて、命さえすてて、拳闘を続け、最後には(おそらく)命を落とす。だが、その顔は、仏のような満足に満ちた顔だった。これを、拳闘馬鹿、拳闘依存症、自己満足などなんと読んでもよいだろう。
しかし、これこそ、自由への道ではないのか。世間では、いわゆる自由を求めるあまりに、何もかもしばられ、何もかも失い不自由になっていく人がたくさんいる。
すべてを捨てたように見えても、自分のつかみたかったものに専心していく。結果ではなく、それにすべてをささげきったという思いが最高の自由ではないのか。
良寛和尚がいった
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
死ぬる時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
これは、投げやりな生き方ということではない。そんなことにとらわれていては、本当の人生は生きられない。余計なことは考えず、今を生きよということだろう。
ジョーは生きた。今だけを生きた。今できることがまだあるなら、それをやり続けた。それだけだ。それをどうとるかは人の勝手だろう。そこに、真の自由を見るか、自己愛的な滅びの美学ととるか、そんなことはどっちでもいい。