ジョーとカーロスの世紀の一戦は終わった。お互いの反則、いや壮絶なけんかの末に。
全力を出し尽くしあった二人には勝敗など関係のない満足感があった。
飛行場から日本を後にしようとするカーロスは、名残惜しそうに「ここにくればジョーヤブキにあえると思ったのにな」とつぶやく。ロバートは、カーロスを養護するように、「等しく殴り合ったように見えても、おまえとは格が違う、ダメージが違うのだ。だからベッドから起きあがれないのさ」という。
しかし、ジョーは空港にいた、人相が変わるほど顔を腫らして・・・
そして片隅からカーロスを見送る
「世界タイトル・・・なんとしてもとれよな、カーロス
長い滞在期間だったようだが・・・ついにおまえさんとはろくすっぽ口をきくこともないままに終わった
顔さえつき合わせれば、ただひたすらに殴り合うだけでな
だけど・・・あのなつかしい 力石の場合にしてもそうだったが
たがいの血と汗をたっぷりすいこんだグローブで徹底的にぶちのめしあった仲ってもんは
百万語のべたついた友情ごっこにまさる男と男の魂の語らいとなって、俺の体に何かをきざみこんでくれた・・・
がんばれや カーロス」
皆に見送られ飛行機のタラップを登るカーロスは、階段を踏み外して転倒した。それをみてロバートは青ざめるのだった。そう、パンチドランカーの症状が現れている。
ジョーとの死闘の代償の大きさにロバートは戦慄した。
こういう台詞にしびれたものだ。言葉より大事なものがある、理屈より大事なものがある・・・
それに比べて、現実は鼻につく雄弁さ、嘘くさい理屈、言い訳がましい言葉・・そんなものがあふれかえっている。拳一つの方が雄弁なんだよっていう虚勢が、受け入れがたい大人社会への反発心を象徴してくれた。自分の思いが伝わらないいらだちが、そういう世界へのあこがれをもたらした。
最終的には大人の社会に入って行かなくてはならない、そしてそれにはあらがうことができないという明確な現実があったから、それへの反発から文化がうまれた。
しかし、今やそれもない・・反発すべき確固たる大人社会がない。大人は子供にこびてものを売るのに必死だ。子供をだしにしてお金を儲けるチャンスをねらっている。子供が商売道具になっている・・
そんなだらしのない大人社会が子供たちから反発心、克己心、闘争心すら奪ってしまった。もはや街にはゾンビだらけだ。魂の抜けた、死んだ目をした人々がさまよい歩く・・
かつて都会は砂漠だと 東京砂漠だといわれたが、今や砂漠ですらない・・虚構に満ちたディズニーランド・・・その裏には欲がうごめいているソドムとゴモラ、死霊の街だ
拳は魂と魂のぶつかり合い、汚い下心を越えた、純粋な理屈を超越した語らいだった時代、あるいはそれにあこがれ、きっとそうなんだと思えた時代・・
そこから、今や拳まで汚れてしまった。亀田一家の暴挙に代表されるように、拳まで商売のツールになってしまった。拳のぶつかり合いまでもが、ディズニーランドのアトラクションだ・・
これでいいのか、いいはずはない。心あるものはいずれ目覚めるだろう、そう信じたい。まあ、まず隗より始めよだな。