人生に必要なことは、すべて梶原一騎から学んだ

人間にとって本質的価値「正直、真面目、一生懸命」が壊れていく。今こそ振り返ろう、何が大切なのかを、梶原一騎とともに。

ほんとうの友達

2007年05月24日 | あしたのジョー

力石の死のショックから、町に飛び出し、ジョーはさまよい歩いた。

自分の中にある力石への思いを反芻しながら・・

「おれが、もの心ついてからというもの・・・世の中のやつらはどいつもこいつも一歩隔てたところからしか おれに接しようとはしなかった。みなしごジョー、危険なジョー・・・無法者ジョー、野生のジョー、、けんか屋ジョー

段平のおっちゃんにとってさえ、しょせんおれは自分の見果てぬ夢を叶えさせる拳闘人形にすぎなかったのさ・・・

そこへ、あの力石が、力石徹だけが・・・

一人の男の持てるありったけをたたきつけて、一切欲得抜きで--この矢吹丈と肉と骨をぶっつけ合い、きしませ合って、短い期間だったがもつれあうように生きてきた。

力の限りに打ち合ったパンチは・・・しぶかせあった血煙は・・・

そんじょそこいらの百万語のべたついた友情ごっこにまさる、男と男の魂の語らいだった。

そうよ、友だちだったんだ、あいつは・・・本当の友だちだったんだ。

それを今になって・・・あいつを殺してしまった今になって気がつくなんて・・・な・・・なんてこった・・・!」

 

ジョーは反芻する、自分の中に去来する、熱い思いとむなしさを。人は失って初めて失った物の大切さを実感するとよくいわれる。

無くしてしまったから大切なものになる場合もある。どんなに大切だと思った友人関係、人間関係も年の積み重ねの中にすり減っていくものだ。しかし、失ってしまったものの輝きは、どれだけ月日が流れても変わることはない・・・いや、心がそこにとどまれば、より輝きを増すこともある。そして、その結果、過去を生きることになる。過去を生きれば今はない、どんな今であっても輝かしい過去の前にはくすんでしまうものだ。さらに、自分が過去を生きていることすら自覚されていない場合だってある。

どんなにつらく、さびしくても、過去に縛られてしまっては、前を向いて生きてはいけない。どんなに輝かしいものであっても、いつかはそれにさよならをいい、前に広がる心細い、先の見えない未来に向かって生きていくしかないのだ。

今というのは、後に気持ちを引っ張る過去と、先の見えない不安を伴う未来の間に、そこはかとなくたたずんでいる。ともすると見過ごしてしまうほどの一瞬の間隙に。それは、はかないが確かなものだ。もっともらしい、過去の記憶や、未来の予想にくらべて、何でもないように見えるが、それこそが何の邪念も許さない確かな実在だ。それを見過ごさないように生きるには、地に足を付け、目の前に見える世界を邪念なくしっかり見据え、今できることを一生懸命することだ。人生にとって大切なことは実はそれだけなのではないだろうか。


力石への思い

2007年05月19日 | あしたのジョー

ジョーは力石の葬儀に出席しなかった。それどころか、ドヤ街の子供達とふざけて戯れていた。それを見た、新聞記者たちはジョーの行動にあきれはて、白木ジムに気の毒で、記事にする気にもなれないと言って去っていった。

ジョーのはしゃぎっぷりは、あまりのショックに対する反動だった。やり場のない気持ちを紛らすために・・・。子供達とも別れ、一人になると言いようのない気持ちが襲ってきた。

少年院時代からの出来事を反芻し、「のろい殺してやる・・・とまで、うらみ続けてきた力石が、いざ、おれの手にかかって死なれてみると・・・・これほどまでに慕わしい存在に思えてくるなんて---

いったいおれは・・・おれの頭ん中はどうなっちまってるんだ」そうつぶやき、雪の降る中ブランコにたたずむジョー。

段平と西がなぐさめるが、

「頭だけじゃねえ。腹も胸も、手も足も、体中にでけえ穴があいてて、風がひゅうひゅう音とたてて通り抜けるのさ。

むなしくって、むなしくって・・・・どうしていいかわからねえんだ」

俺を一人にしてくれと叫んで、街の中にかけていった。

 

ジョーは愛をしらず、人を信じることもなく、友もなく、不遇な人生を生きてきた。それを跳ね返すかのように、無鉄砲に生きてきた。野生児、無法者と呼ばれ、恐れられ、嫌われ、さげすまれ、生きてきた。

人の情をしらず、むしろそれを感じないように生きてきた。それが拳闘を初め、人に慕われる喜びを知り、認められる喜びをしった。ジョーにとって拳闘との関わりは、人生そのものであったのだ。拳闘を通して、それまで体験できなかった人生をきざんできた。

よいことばかりではすまない。そして、今、ついにジョーは大切な者との別れを経験してしまった。しかも、その死に自分自身か関与する形で・・

自分でも予想していなかった、思いもよらなかった感情に直面することになったのだ。

人は生きるプロセスで、様々な感情体験をする。よいこと悪いこと、うれしいこと屈辱的なこと、楽しいこと耐え難いこと、勝利と敗北、高揚と罪悪感、両極の感情を体験し揺れ動きながら心は成長していくのだ。

それはスムーズな道のりではない。時として、予期せぬ、耐え難い感情に出くわした時、人は心のバランスをくずす。今までの人生がはかなく崩れ去り、何をどうしたらよいのか分からなくなる・・・

そして、その暗闇の底をうごめき、ゆっくり手探りで、そこからはい上がった時、人は一回り成長するのだ。しかし、そこからはい上がれる保証はない。いつでられるのかもわからない。

肉体のダメージなら休んでいれば回復するだろう、心のダメージは何をどうすればよいのか分からないものだ。何をしても裏目にでることもある。そんなとき、大切なことは何か・・・無理にはい上がろうとしないことだろう。最も大切な要素は、時の流れである。時の流れはすべてを流していってくれる。それまでの間、何もしないことがもっともよい事である場合もある。いや、その方が多いだろう。

 


力石の葬儀

2007年05月13日 | あしたのジョー

力石は死んだ。確かにジョーのテンプルへの打撃が誘因になったとはいえ、無謀な減量が死を招いたのだ。

葉子は無理な減量を止めるどころか、協力した自分を責め、自分のせいだという。何としてでも止めるべきだったと。

白木会長はそんな孫娘に対して、「自分も力石と一緒に食事もとらず水も飲まず苦しみを友にしてきたではないか。これ以上自分を苦しめることは罪悪だ。力石も喜ばないだろう」といって慰める。

力石の葬式は、大々的に、しめやかに行われた。丹下拳闘ジムから、段平と西が参列したが、ジョーは姿を現さなかった。

 

力石の訃報は、漫画の中だけではなく、現実の若者文化の中でも話題になり、寺山修司がしかけて、盛大な葬式が行われた。800名の参列者があったというから驚きだ。

そういう時代だったのだろう。高度経済成長という目に見える繁栄と、同時に失われていく何かに苛立ちながら、型破りのジョーに我が身をダブらせて漫画を読んでいた。その当時、漫画は下衆なメディアだと見なされ、漫画にいい年こいた若者が反応しているなんて恥ずかしい時代だった。逆に漫画が下衆な文化から、正当文化に格上げされる臨界点だったとも言える。

自分はその頃、まだ小学4年生だったはずなので、力石の葬式を実際にやったとか、過激派が「われわれはあしたのジョーだ」と宣言してテロ行為をしていたことは、傍観者として眺めていた。

昭和45年・・・1970年、1970年のこんにちは、大阪万博、アポロ計画による人類の月面着陸、ベトナム戦争泥沼化とアメリカの反戦運動、ヒッピー文化、安保闘争、浅間山荘事件・・今から思えばダイナミックな時代だったな。そのあたりをピークに、オイルショック、ベトナム戦争終結、冷戦時代へと時代は熱くて熱狂的時代から冷たく窮屈な時代へと移行していった。そんな時代の変化を、冷めゆく若者を、奮い立たせようと梶原漫画が存在していたのだ。

 

力石の葬式については

http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000147777770740

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20061127bk11.htm


力石の死

2007年05月12日 | あしたのジョー

力石との死闘は終わった。鬼気迫る力石の執念の前に、ジョーは力及ばずマットに沈んだ。

段平はジョーに不運だったというが、ジョーは満足していた。あれだけの男と死闘を繰り広げることができたことに、心底満足していた。自分の持ちうる力をすべて出し切り、何の悔いもないところまでやって負けたのだ。力石は自分より一枚上だったと、心から認め、自分が力をそこまで引き出す相手に出会えたことに喜びを感じていた。

しかし、そこに驚くべき報告がはいった。力石が死んだと・・・

圧倒的に力石優位で進んだ試合の途中、ジョーが破れかぶれで放ったテンプルへのフック。そのダメージで転倒し、リングロープで後頭部を強打したことによる脳内出血が死因だった。

訃報をきいて、ジョーは我を忘れて叫び狂うのであった。


終わった、何もかも

2007年05月06日 | あしたのジョー

ジョーと力石の対決は、想像以上に悲惨な展開となった。

まるで意味のないようなアッパーカットの連続を、かわしながら、ストレートを打ち込んでも、大砲に竹槍で立ち向かうとジョーが表現するような惨めな展開になった。

アッパーをかわして、懐に潜り込んで連打をうつも、懐に飛び込むところにカウンターをくらい、はたまたショートアッパーをぶち込まれて、KO寸前まで追い込まれた。

しかし、力石も減量苦がたたり、スタミナにかげりがでてくる。一瞬のミスでとどめを刺されることを理解しているジョーは容易に踏み込めない。力石もこのままでは体力的に厳しいかもしれない。力石が一瞬気がそれたところに、ジョーがテンプルに打ち込んだパンチで、力石は転倒しリングロープで後頭部を強打する。

おかしな倒れ方とその後の様子で危ぶまれたが、そのまま試合は続行した。

いよいよとどめを刺さないと体力がもたないと判断した力石は、なんと両手ぶらり戦法にでた。かつてジョーが相手に与えてきた圧迫感、恐怖感を今度はジョーが味わうことになった。しかし、そこはさすがにジョーである。ジョーも両手ぶらりに打って出た。お互い、一瞬で勝負が決まることは分かっている。動いた方が負けだ。

しかし、これまでに何度もダウンさせられているジョーは、このまま試合が終われば確実に判定負けをする。

ジョーは迷った。自分から打って出て、かりにクロスカウンターがきても、ダブルクロスに持ち込める。ウルフのパンチだったから、それもかわすことができてトリプルクロスに持ち込めたが、自分のパンチはできが違う。力石だって疲れているし、自分のパンチならダブルクロスの段階でとどめをさせるに違いない。

段平はもはや勝ち負けではなく、そんなパンチをくらって選手生命を終わらせるようなことになることを恐れ、勝負にでることを必死で止める。

そんな段平の必死の叫びもむなしく、ジョーは勝負にでた。結果は見えていた、ジョーのダブルクロスにトリプルクロスで退行するのではなく、ダブルクロスを身体を沈めることでかわし、必殺のアッパーがカウンターで炸裂する。

ジョーの意識は一発でふっとび、マットにはった。リングに仁王立ちした力石は、つぶやいた

「終わった・・・なにもかも・・・」

 

有名なシーンである。「終わった、何もかも」よく使ったな、そのフレーズ。

力石がこの試合に、すべてをかけていたことがよく分かる。もはやその先の人生は考えていないくらいのセリフだ。

力石はすでに正気ではなかったのかも知れない。別にそこまでしてジョーにこだわる必要はなかったはずだ。命をかける必要があったのか。世界タイトル戦でもない、ただのバンタム級8回戦だ。普通に自分の階級でキャリアをつめば、この先、力石には華々しい将来は約束されていた。世界チャンピオンにだってなれただろう。

それでも力石はジョーとの闘いにこだわった。何故、そこまでしてジョーにけりをつけておく必要があったのか・・・

明確には表現されていないが、白木葉子の存在がそこには絡んでいたことは確かだろう。力石は白木葉子に恋心を抱いていた。葉子は力石のオーナーではあるが、葉子が力石をどう思っていたのかは不明のままだ。

しかし、葉子がジョーに心を寄せていたことは、物語の中でにおわされている。最後にホセメンドーサとの決戦の前に、ジョーが好きだと告白するのだが・・・

しかし、今の漫画のように、あからさまにすいた惚れたということがらはストーリーの中に組み込まれず、何となくただよっているだけだ。そこがいいんだよね。

 

 


わりの悪い試合

2007年05月06日 | あしたのジョー

力石徹 VS. 矢吹ジョー バンタム級8回戦。

ついに宿命の対決のゴングはなった。予想通り、大振りのアッパーだけを連続して繰り出してくる力石。いくらかわされても、手を休めることはない。作戦を変えることもない。ジョーは得意の両手ぶらり戦法でアッパーをかわして、スキをついてストレートを放ち、ヒットする。

しかし、第一ラウンドが終わり、セコンドに戻ったジョーはいう

「この試合俺にはわりがわるいぜ」確かに、傍目から見れば力石はあたりもしない大振りアッパーが空を切り、ジョーのストレートがヒットしていた。

「確実にヒットするといってもさ、スウェーバックしてのけぞった体勢からやっとことどくパンチだぜ。あれじゃ、ポイントにはなるかもしれないが、腰のはいらねぇ当てるだけのパンチだからハエ一匹殺せやしねえよ。

この場に及んで贅沢いえる柄じゃねえが、点取り虫で判定に逃げるなんざ、けったくそ悪いし、第一力石のこった、やつから8ラウンドの長丁場を逃げ切れるとは思えねえ。」

段平もいう

「ハエも殺せない当てるだけのパンチ・・・か。図星だな。それに引き替え力石の方は8ラウンドに一発きまれば、それが決定打となる強力が必殺アッパーカット。確かに割のいい話じゃねえ・・・・」

ジョーはいう

「いまさらじたばたあわてたってしょうがねえ。このまま打ったりかわしたりしているうちに・・・野生の本能とやらが解決してくれるだろう。そいつを待つしかないさ」

 

ジョーは成長した。がむしゃらに向かっていって、打たれたら打ち返す、やられたら倍にしてお返しする。そうしているうちに何とかなる・・そうやって生きてきたのは少年院までの時代だ。

今やジョーは、無鉄砲で闇雲な人間ではなくなっていた。己の限界をしり、相手の力を認め、現実を冷静に見られるようになっていた。恐れを知った人間は、もはや無茶なことはできない。

小さい子供が、時に驚くような大胆なことをする。それは恐れをしらないからだ。暴走族、チンピラの人たちが無茶をできるのは、現実を冷静にみることをしないからだ。子供と同じで、大問題に直面するまで、その大胆さは続いていく。

けんかはそれでいいだろう。けんかはためらいのない方が勝つに決まっている。後先を考えない方が強いに決まっている。守るものがある、恐れをしっている人間は無茶なことはできない。そのためらいがあるから、けんかはやる前から勝負が決まっている。

口げんかも同じだ、相手の気持ちを考えない方が勝つ、勝つに決まっている。

だから、けんかに勝つことは重要ではないのだ。勝ったからえらいわけではない、より強いわけではない。より子供っぽい事を証明しているだけなのである。馬鹿ですと宣言しているようなものだ。

ボクシングはけんかではない。ルールがある。ルールの中で、己と相手との能力を競い合う。実力差が歴然としていれば、ライオンがうさぎをしとめるように、理屈抜きに勝てるだろう。

しかし、実力が拮抗していればどうなるか。もはや、そこにはがむしゃら、無鉄砲は通用しない。冷静さ、集中力、勇気・・それら、人間にとってより高度な能力が試されることになる。我を見失しなえば、あるいは集中力がとぎれれば、あるいはここ一番に打って出る勇気がなければ、勝つことはできない。まさに人間力の勝負になる。一切の言い訳が通用しない。自分が丸裸にされ、そこに示された結果が、掛け値なしの自分としてさらされる。恐ろしいことだ。

言い訳の余地なく、そのままの自分をさらされるほど人にとって恐ろしいことはない。どこかで逃げ道、言い訳を用意しておきたくなるものだ。しかし、真剣勝負では、そのスキが命取りになる。

すべてを捨てて、自分をさらけ出さなければ、勝利をつかむ入り口にも立てない。しかし、ひとたびそこに立てば、あるのは完全なる勝ちと負けだけである。

力が拮抗した人間対人間の真剣勝負とはそういうものなのだ。

ジョーは自分を信じ、リングに立ち続ける道を選んだ。自分の限界をしり、恐れをしりながら、なおかつ前に進むことを真の勇気と呼ぶ。真の勝利は勇気の代償としてしか手に入らない。


野生の本能

2007年05月05日 | あしたのジョー

いよいよ力石とジョーの試合の日がきた。

控え室で、段平は筋肉をほぐしてやるというが、ジョーは必要ないとほえる。

「おれの筋肉は特製だから試合が近づいたくらいで、固くなるような安物とはわけがちがうんだい!」

しかし段平は見抜いている

「でけえ口をたたきやがって・・・てめえでさわってみるがいい。筋も肉もカチカチにこわばっているぞいっ。今まで何度か試合をやってきたが・・これまでのおめえには見られなかった現象だ!」と。

「なんだったこうまで固くなってやがるんだ。何をおびえているんだ。いまさら力石とグローブを交えるのが怖くなったんかい!」

その言葉に怒るジョー、しかし、段平は冷静だ。

「まあ、わめくな!何はともあれ、ここまでおめえを緊張させてるのは・・・おそらく・・おめで独特の野生の本能ってやつだろう。本能ってやつは恐ろしいもんで、往々にしてズバリ何かを予言することがある。」

 

「身体は正直だ」、よく耳にした言葉だ。自分の考えはだませても、身体はだませない。考えは、現実とはかけ離れていても、自由に変えることができる。イメージ、想像・・どんなに自分に都合がよい話でも、どのようにも考えられるはずだ。しかし、現実にはそうはいかない。なぜなら、それをじゃまする何かがあるからだ。

「俺は空を飛べる!」そう言い聞かせたとて、実行に移そうとは思わない。身体が知っているからだ、どうしようもなく、重力で自分を大地に釘付けにしている力を身体は意識しようがしよまいが、しっかり感じ取っている。

重力への体感は、もともといやが上にも備わっているものだが、情動体験、つまり「恐れ、不安、怯え、無力」などに伴う身体感覚は、元々備わった感受性と生きてくる過程での経験とのからみあいで作られ、身体に埋め込まれていく。

客観的に評価すればできることであっても、自分の中に失敗体験、恐怖感、不安感が潜んでいると、実際にはできないことが多い。

やっかいなことに、これらの身体感覚は自分の思考より高速に、いわば反射的に発動し、それが思考をも縛り付ける。そういった身体感覚を客観的に評価し、より現実的な行動をとるための判断ができる力を「内省力」という。

そして、そういった心と身体のコミュニケーションがスムーズで、困難だが思い切って行動する場合や、できそうだがやめておいた方がよい場合などを柔軟に対処していける力が健康な力と言える。

そういう柔軟性がないと、できる可能性があることを乗り越えることができず可能性を狭めてしまったり、やめた方がよいことにむきになってぶつかって傷ついたりすることになる。ただ、人生は試行錯誤だ。いや試行錯誤の中でしか、何一つ学び身につけることはできない。大事なことは、成功からも失敗からもできるだけ多くのことを学び取ろうとする姿勢である。

 

ジョーは、あまり頭がよくないが、野生のカンが優れているという設定だ。頭が良くないと言うより学校に行っていないので、知識がないだけだ。カンがよいというのは、頭がよいということだ。ジョーは頭で、知識で考えることはしないが、身体で覚えたり、身体で感じることから学んでいく。そして、人としても成長していく。

あしたのジョーは、ただのチンピラだったジョーが、拳闘という一つの道を中心に、揺れ動きながらも、ひたすらその道に進んでいくことで、人として成長していく物語である。人が生きるうえで大切なことは、勉強とか知識とかではなく、またつまみ食いのような経験でもなく、一つ自分の信じる道を、ただひたすら進むこと、それだけだと思う。

一つの道を進もうとすれば、当然障害物がでてくる。思うようにいかないこともでてくる。敗北することもある。それでも、その道が好きな道であるから、それらの試練を乗り越えて、進み続けることができる。進み続けること自体が人生であり、成功とか、勝利とか、報酬とか、それらは結果であり、求めるものではないのだと思う。