人生に必要なことは、すべて梶原一騎から学んだ

人間にとって本質的価値「正直、真面目、一生懸命」が壊れていく。今こそ振り返ろう、何が大切なのかを、梶原一騎とともに。

日本の美

2006年12月31日 | 巨人の星

花形は飛雄馬の姉、明子に恋心を抱いていた。明子を食事にさそい、その席で自分と飛雄馬の少年時代からの歴史を語った。花形は、花形モータースの御曹司、少年時代から天才ともてはやされ、海外に留学して、貴族的な生活をしていた。日本中が外国かぶれをしていた時代、それにのって、運命のまま進んできた花形は、そんな自分の生き方に疑問を感じつつ、くすぶっていた。
そして、ニヒルにぐれて、「常識めいたものをすべて破壊することに快感をおぼえ、強い不良少年もあるなどど、ブラック・シャドーズを結成して、いきがっているとき」に野球が飛雄馬との出会いをつくった。
その時に見た、飛雄馬の姿、生き様は花形に強いショックを与えた。

 

「これほど、骨のズイまで日本的なチビはいなかった。しかし、かれのは失われてゆく日本の美!こよなき美学だった! 日本中あげて、ふわふわ骨なし草のように欧米かぶれしつつある風潮にさからい、父上とともに古きよき日本を、頑固に死守する姿だった!そんな単純なものではないが、しいて俗っぽくいえば、日本的なナニワブシ・ヒューマニズム!」

 

そんな飛雄馬に命がけの戦いを挑むことで花形は不良を脱却した。「エリートぶりながら、じつは日本中こぞっての欧米かぶれの先頭をきっていたにすぎぬ、おっちょこちょいの国籍不明の安っぽさを自分の中に見たからだ」と花形は回想する。


巨人の星の時代、まだ古きよき文化が残っていたのではない。すでにこわれ始めていたのだ。梶原はそんな欧米かぶれして、日本固有の文化まで否定し捨て去ろうとしている社会に対して、子供たちには何かを伝えようとした。我々は、物質的に豊かになり、日本が自虐的になり、自国の文化、歴史を否定しまくる教育を受けながら、かろうじて、漫画を通じて男の生き様、義理人情の文化をかみしめていた。
世の中は、左翼文化が強く支配し、学生は朝日ジャーナルを読むことが文化人、インテリの証であるとされ、男気、義理人情などというものは右翼と見なされ兼ねない時代だった。その後、長い間、そういう文化が支配し、根性、義理人情、浪花節的価値観は、すっかり影を潜め、「ダサイ」ものにされてしまった。
それが今になって「美しい国日本だ」。そして教育改革を進めるという。いったい何を目指すのか、どこに戻ろうというのか・・・美しい国とはいったいどういう国なのか。国家の品格などという本もものすごく売れている。品格、武士道、日本の美・・・いろいろ識者という人々が語っている。
そんな理念的なことはどうでもいいのだ。我々の世代の心には確実に何かがある。我々は本当は知っている、人として何が大切なのかを。いろいろなしがらみ、欲、損得、競争、嫉妬・・などなどによって、見失っているだけだ。全体を変えることは不可能だろう。しかし、一人一人の心の中を変えていくことはできるだろう。自らを戒め、心に何かを感じながら、しっかり生きていきたい。


大リーグボール3号

2006年12月23日 | 巨人の星

飛雄馬の闘志は復活した。とはいえ、何も手だてはない。オールスター戦で移動の最中、新幹線の中で飛雄馬と左門は、ヤクザとの抗争をを逃れて遠くにいく途中の不良少女グループと偶然再会する。左門は恋心を抱いている京子にあえて恥じらう。京子は餞別だといって、リンゴを放った。野球選手の左門がそのリンゴを採り損ねた。2度、3度と投げるリンゴをすべて落としたのだ!それを影から見ていた飛雄馬には何かがひらめいた。なぜ京子が投げたリンゴごときを、名手左門が落としたのか・・・

そのまま移動の一行から離脱し、飛雄馬は行方をくらました。突然の失踪に、周りは怒っていたが、飛雄馬は球場にもどってきた。そして、ついに登板の機会がきた。

世間はおどろいた、球質は軽いとはいえ剛速球投手だった飛雄馬が突然の下手投げを始めたのだ。しかも超スローボール。相手バッターは馬鹿にしているのかと怒り、思いっきりバットをふる。しかし、どうしても打つことができない。そして、三者連続三振となった。呆然とする観客、解説者、選手たち・・・

ベンチに戻った飛雄馬はいう

「つ、次の回で・・交替・・・させてくださ・・・これが、限界ですっ」

「だ・・・だいそれたことですが、全パを練習台にさせてもらいましたが、あれだけで精根つきて・・・・」

川上は驚く

「げっ! 練習台に実験台に全パを・・・いったい何の?」

 

「大リーグボール・・・・三号の!」

 

そして飛雄馬はベンチで気を失ったのだ。

いよいよ物語は佳境にはいる。この先は、べつに教訓的な言葉も特にない。

ドラマが急速に終わりに向かって突き進んでいく。飛雄馬の表情も、熱血野球バカの顔から、何かクールで影のある表情になっていく。このあたりの描写は天才、川崎のぼるの技量だろう。表情で根底に流れているテーマが変わったことを何気なく描写していくのだ。

まあ、もう少しなのでつきあってください。これ以降は、特に能書き、うんちくはないですけど。


素手で砲弾の嵐に

2006年12月22日 | 巨人の星

失意のどん底から、自暴自棄の果ての無謀な行動、そして、不良少女京子の身を挺した思いやり・・・短期間に、人生の修羅場を経験した飛雄馬。そして、本当の意味で父親からの自立、大人への一歩を踏み出した。

京子の最後の手紙に、飛雄馬の心は決定打をくらわされ、再び闘志に火がついた。そんな飛雄馬の変化に左門は驚く。

「理由ば、わからんとが、久々に何か燃えてる感じばい」

「ふふふ・・まさしく何かだ。燃えたくても何を武器に、何を自信に燃えるのか、俺自身にも根拠はゼロだが・・・」

 

「たとえ、素手で砲弾の嵐に飛び込むにせよ、何もせんでうずくまっているよりはましと思うことにした!」

 

巨人の星より少し後の時代、松本零士の作品がはやった。宇宙戦艦ヤマト、宇宙海賊キャプテンハーロック、銀河鉄道999、その前に男おいどん、大四畳半物語、戦場漫画シリーズ・・・彼の漫画にも「男には、負けると分かっていても戦わねばならない時がある」というセリフがしばしば登場した。

「男一匹ガキ大将」「男組」を代表とする不良番長ものでも、負けると分かっていても男は戦わなければならないのだというシナリオが常にあった。そして、その時代の読者は、疑うことなくそのテーマを受け入れていた。

まだまだ、人々が直接報われなくても、歯を食いしばって生きていけばきっと何かの形で自分は良い自分に近づけると信じていた時代だったわけだ。しかし、その後、日本は経済的繁栄を実現し、物質的に豊かになるにつれて、そういったハングリー精神は退廃してしまった。

誠、世の中とは思うようにいかないものである。あちらを立てればこちらが立たず、理念よりも生物学的メカニズムが、人間文明よりも大自然のしくみの方が圧倒的にパワーがあるという証拠だろう。繁栄は永遠には続かないのだ。偉大なるローマ帝国も滅びたように、一定のレベルに達した文明の行方は変えられないものなのか・・・。

しかし、今ここで、昭和30-40年生まれの人々、先代に心の基礎工事をしっかりしてもらった最後の世代が踏ん張る時じゃないのか。

「たとえ素手で 砲弾の嵐にとびこむにせよ、なにもせんでうずくまっているよりはましと思うことにしよう」


オネガイ

2006年12月15日 | 巨人の星

川上に叱咤されて出場したオールスター戦で、飛雄馬は大リーグボール1号、2号ともかつての輝きを失い、醜態をさらす結果となった。自分の情けなさを左門に、吐露したところ、左門からは意外な言葉が返ってきた。左門は例のヤクザ事件以来、不良番長 京子に恋心を抱いてしまったのだ。その思いで胸がいっぱいで野球に集中できなくなっていた。飛雄馬は、あの事件後、京子を病院に入院させた。しかし、入院先の病院でさんざんな悪態をさらしたのだ。京子と縁をきるつもりで、自分のマンションから全財産をもっていけと言い放った。そのやりとりを左門はしらない。

飛雄馬は左門の目を覚まさせようと、マンションに連れて行く。マンションの中は荒らされているはずだった・・・。しかし、飛雄馬と左門がみたのは、整然としたマンションだった。そこに一通の手紙があった。

「星さん

京子は失敗しました。星さんの全財産をいただき、せいぜいワルぶることで・・・いいえ、事実、京子のもつワルの面を強調することで、すっぱり星さんに見捨てられ、身の程知らずの恋をあきらめようとしたのです。

でも

やっぱりいいコぶっちゃう・・・・せめていいコぶったまま、星さんの前から消えることを、悪名高いズベ公の初恋のエンド・マークにさせて・・・・

そして、どんなに京子が堕落してしまっても、こんなすばらしい男性を、一度は愛したのだと誇れるような「巨人の星」星飛雄馬であってください

オネガイ!                  京子」

 

ガーン、ガーン、ガーン 決定的だ これは!

川上監督が、花形が、左門が、俺にもう一度 おれに立てという!

・・・・・そして、このオネガイの四字は決定的・・・・・・

まがらなくなった小指だけを形見に去っていった不良少女のオネガイの四字に報いねばならん、おれは!

か・・・完全にとどめをさされた感じだっ 京子さんに・・・・・

もう一度 立てと うながす とどめのムチ!

 

熱血野球漫画、父子の葛藤、などなど少年の成長漫画で、教訓的な、説教くさい言い回しから、ヤクザとのやりとりと越えて、任侠漫画のようになり、それを越えて一皮むけていく飛雄馬。意図的に構成したのか、梶原一騎が勢いで書いている内にそうなっていってしまったのか・・

おそらく、何年も先の先まで、細かい部分まで構想をねって書くことはできないであろうから、読者の反応を見ながら、書いていったのだろう。キャラクターに命が吹き込まれ、勝手にセリフを言い始めるというやつだろうな。梶原一騎の着想、そして読者のイメージ、思い入れが星飛雄馬というキャラクターに命を吹き込み、飛雄馬ならこの場合こういうだろう、こうするだろう。一徹は、花形は、左門は、伴は、明子は・・・・

昔は、今ほど漫画が多様ではなかったし、少年漫画は、マガジン、サンデー、キング。ぼくら、冒険王、ぼくらマガジンは子供向けなので、マガジン>サンデー>キングの順だった気がするな。ある時期、巨人の星とあしたのジョーが一緒にマガジンに連載されていたんだ。すごいでしょ。原作者は梶原一騎なのに、梶原は、あしたのジョーでは高森朝雄という別のペンネームで書いていたわけだ。この頃のスポーツ漫画の多くは梶原一騎原作だよ、すごいね。話がそれたが、ほとんどの少年が同じ漫画を読んで、文化を共有していたということが言いたいわけ。漫画だけじゃない、歌謡曲も、テレビ番組も、ラジオも、共有する部分が多かった。一緒に文化を創っていたんだな。書き手と読み手、与える側と受け取る側が。

巨人の星の主題歌が流れると、わしらくらいの世代のおっさんたちは、胸がきゅんとなるんだよ。涙がでそうになる。頑張ろうという気持ちになる。そして、漫画のある場面が今の自分の状況とダブって、歯を食いしばって頑張ろうと思える。いい年して馬鹿じゃないかと思うだろう。そう、馬鹿だな。でも、馬鹿だから頑張れるんだぞ。


すべてかゼロか

2006年12月13日 | 巨人の星

大リーグボール2号を打倒され、傷心のままヤクザとのもめ事に首をつっこみ、修羅場の果てに、何とか脱出することができた。

無断で球場を後にしてしまったが、巨人軍球団事務所に呼び出された、当然罰せられる覚悟で。川上は飛雄馬に言った。

 

「星よ、あまりにも君の生き方、ものの考え方はすべてかゼロか、極端に偏りすぎとるぞ!」

 

「奇跡の大リーグボールをあやつって、球界の話題を一手にさらうか、逆に身心ともにどん底に沈んでしまうか・・・

世の中もプロ野球人生も、そればかりではいかん。一本勝負ではない。三本勝負の二本をとる。積み重ねで進歩すべきだ」

飛雄馬は言う

「おっしゃるとおりなのでしょうが、もって生まれた気性で・・・その時の勝ち、その時の負けがすべてになってしまうのです。とぼしい力を無理に振り絞ってきたせいか」

 

そこで、川上は新聞を見せる。失態を演じた飛雄馬だったが、オールスター戦のファン投票、投手部門で飛雄馬は、堀内、江夏に次いで3位だったのだ。

 

梶原一騎がどこまで分かってストーリー仕立てをしていたのかわからない。オールオアナッシング(all or nothing)、すべてか無か・・・これは、精神的問題でクリニックを訪れる方々に多く認められる性質である。

生育環境上、安全を保証されなくて、「大丈夫、なんとかなかなる」というイメージをはぐくむことができなかった子供は、全力で頑張り、頑張りきれないとすべてダメというパターンを身につけていく。また、飛雄馬が言うように、持って生まれた性質で、曖昧な情報に弱い人は、すべてかゼロかという反応パターンになってしまう。

飛雄馬の場合、母親とは幼くして死別し、父親は自分の夢が破れたことでふてくされ、アルコール依存状態で、自分の夢を子供に押しつけてきたわけだ。

父親の勝手な夢に答えられる身体能力が無かったら、もっと気の毒な人生になっていただろう。

飛雄馬はここまで来たのなら、父の夢から降りて、人生を再出発させる道もあった。しかし、能力があることの不幸・・野球から降りられないわけだ。周りにいる人間も、そこから降りることを決して許してはくれない。

飛雄馬は、人生をやり直す道ではなく、行き着くところまでいく破滅の道を選んでしまうことになる。父の言うとおりに生き、その果てに決定的な挫折を味わい、それでも父は野球人としての人生しか認めない。自立と言っても、野球人としての自立だ。飛雄馬は、野球しかできなくなってしまった自分にし向けた父親を憎み、恨みながら、それでも野球という土俵から降りようとしない。真に自立を考えるなら、野球から降りるべきだったのだ。これそこ、梶原自身の生き方の投影だ。偉大なる編集者としての父を乗り越えるべく、原作者、物書きを続けたが、梶原の中には何か越えがたい壁があったのだろう。原作から、他の事業に手を出し、すべてごちゃごちゃになって、破滅していった。

父親を越えるというのは、父親と同じ道を歩んでいたらできないことなのだろう。同じ道を生きていれば、常に「自分は父を越えただろうか」という意識につきまとわれる。それは結局、父親のイメージにしばられて生きるということだろう。父の影のない道は、むしろ恐ろしい道なのだ。自分で探すしかない、何かを追うのではなく、試行錯誤で自分と自問自答しながら手探りで進む道・・・偉大でもない、認められることもない、何てことは無いが、真面目でひたむきな道、それをしっかり自分の足で歩けるようになることを親からの自立というのではないか。というより、自立だのなんだの、父を越えるだの越えないだの、そんなことはどうでもよいことで、自分が、「これでいいのだ」とバカボンのパパみたいに言って、生きられることが大事なんだろうな。

こっから、先の巨人の星はますます、人生の教訓になるようなセリフはなくなっていく。「人生に必要なこと」というより、「それもまた人生」という話になっていくが、まあ、もう少しで終わるので、続けることにしよう。

「これもまた人生ってことも、すべて梶原一騎から学んだ」


愛の前に

2006年12月10日 | 巨人の星

自暴自棄の飛雄馬は、ヤクザとのもめ事を解決するために、自分の命とも言える左小指をつめることを申し出た。しかし、飛雄馬を愛する京子は、身をそれを許さない。早く自分の指をつめろとヤクザの手下をせかす。振り上げた木槌めがけて、飛雄馬はインク瓶を投げつけて阻止したが、落とした木槌があたって、京子の指からは血がほとばしった。そこまでして自分を守ろうとした京子の真心を踏みにじるわけにはいかない。飛雄馬は京子を抱えて、ヤクザの事務所から脱出した。指つめに使われた包丁を片手に・・。ヤクザたちに向かって、「もしおってきたらこの包丁を組長めがけて投げる。俺はボールをバットに命中させてきた男だ」と。組長は、飛雄馬の気迫にまけ、子分たちが追うのを静止する。「恐ろしい男だ。追い詰めたら、自分も道連れにされる。」と。

京子を抱きかかえ、病院に向かう飛雄馬はつぶやく

 

「まじりっけない血のしぶきに、俺の父親に復讐という身代わり動機は汚らわしい許されざるものと成り下がった!」

 

しかし、自分はその愛にこたえることはできない。美奈の死に際しての誓いもあるが、今生きる屍同然の身に、かくも純粋な愛にこたえる資格はないと。

修羅場に直面しても、まだ、父親への思いに固執していた飛雄馬。しかし、その中途半端な思いを断ち切ったのは、不良女番長(こういう言い方も、今は死語だな)京子の純粋な愛だった。

こういうものだ。人生に於いて、親子のしがらみ、親子の葛藤を乗り越えていく原動力は、異性との関係である。逆に言えば、よき異性との関係を持てれば、成長につながり、異性との関係が良くなければ、その壁を越えることはできない。親子の葛藤を異性との関係にまで投影し、さらにこじれていくことだってある。

「命がけの、純粋な愛」もはや、その前にはどんな理由も、言い訳も通用しない場面。梶原一騎は、その後「愛と誠」という作品で、このテーマを中心にした漫画を書いた。「君の為なら死ねる」これが、この漫画の決めぜりふだったのだが、飛雄馬とのやりとりの中で、ヤクザの組長に「星、あいつは、人のために死ねる男だ」と言わしめた。

愛のために、大切なものの為に自分は死ねるか、命をかけられるか・・・このテーマは、あまりにも重く、軽々しく口にはできない。ぎりぎりの場面で、自分はどういう行動をとるか。その場面になる前に、えらそうなことは言えない。しかし、自分はその場面で、大切なもののために命をかけられる人間でありたい、私はそう思うのだ。

そうあるために、どうすればよいのか・・・日々、小さな出来事もなめてかからず、時にはぎりぎりの場面での自分をイメージして、自分の覚悟を確認する。戦後60年以上がたち、戦争という不本意な状況で大量に命が奪われない、命の奪い合いに不本意に参加させられることのない時代・・・そんな時代に、われわれは、どうやって、自分のとぎすまされた感性を維持していけるのだろうか。

今、問題になっている、自殺、いじめ、殺人・・そういった、命を覚悟なく弄ぶような感性は、こういった人として本当に必要な覚悟を自覚することなく生きられる時代だからこそ起こってきたのだと思う。

そんなことを覚悟して生きる時代がよいのか、命の価値が下げられ、なんとなく生きている時代がよいのか、真の平和とはなんなのか・・・・。

巨人の星から、そこまで飛躍することはないけどね。


父への復讐

2006年12月09日 | 巨人の星

自暴自棄でヤクザとのトラブルに巻き込まれた飛雄馬。一端、難を逃れたかのように見えたが、その裏では、不良番長 京子が飛雄馬への愛のため、命がけで守ろうとしていたのだ。京子の子分たちが、それを飛雄馬に知らせ、救出をお願いする。

京子は、落とし前をつけるために、自分の小指を詰めることを覚悟した。今、まさに小指を切りおとさんとしたときに、間一髪で飛雄馬たちは間に合った。

何とかやめさせようとする飛雄馬、自分の小指を詰めることで飛雄馬を守ろうとする京子。その緊迫した刹那に、飛雄馬は叫んだ。

「か・・かわりに・・・・お・・・おれの・・・・おれの・・・小指を切れっ!!」

「俺は左投手・・・その小指だ。いわば、命・・・うふふふ・・・不足はあるまいっ」

 

「ふふふっ・・・一石二鳥なんだ。断末魔の一石二鳥だぜ、これは・・・・

京子さんに報いるとともに、とうちゃん・・・あんたへの復讐だ!」

「おれの野球は破滅・・・そいつを、決定的に見せつけて俺をこんなにしちまった

あんたに復讐する」

 

結局、飛雄馬は父から自立していたわけではない。常に父を意識し、父に認められるために野球をやってきたというわけだ。そんなに父がにくくて、野球に絶望したのなら、さっさと野球をやめて、別の生き方を見つければよい。

父が、自分を野球しかできない人間にしてしまった・・・これも、事実ではない。大人になったのだから、野球をやめて他の生き方を探すことはできるはずだ。

自分の問題を親のせいにして、自分の不安を、親への恨みに変えて、自分を傷つけることで、親への復讐を果たそうとする・・・これは一般的に、思春期青年期におこる親子の葛藤である。独立心と依存心のせめぎ合いである。

親の用意した生き方を拒否することは、親の保護を失う、あるいは親に認めてもらえなくなるという不安が伴う。それでも、そこから脱出して、自分の生き方をするには、相当の覚悟がいる。その不安、苛立ち、混乱が、一分の自傷行為の原因である。

飛雄馬は、ヤクザに小指をつめさせようとしたが、これは自ら名乗り出たわけで、自傷行為と同じである。しかし、かといって、目の前で人が指を詰められようとするのを傍観しているわけにはいかないので、身代わりを買って出るという気持ちもわからんでもない。であるから、飛雄馬は父への復讐と、京子の愛への報いの一石二鳥だと思った。まあ漫画だからしょうがないが、本当にこんな極限状態になったた、理屈なんか吹っ飛んで、何をどうするか何てわかったもんじゃない。泣き叫んで、土下座するとか、仲間を売って自分だけ助かろうとするとかな・・・。

だから普通の小市民は、左門のように、土下座してお金を払って難を逃れようとするわけだ。ヒロイズムをとるか、現実生活をとるか・・

普通の生活の中で、こんな事があるはずはないのだが、規模は小さいまでも似たような場面はある。つまり、理想をとるか現実をとるか・・・汚名をきたり、思うようにいかない現実を受け入れたりする覚悟があれば、たいていの困難は切り抜けられる。しかし、人はなかなかそうはいかない生き物なのだ。自分の答えは、自分で悩み苦しんで見つけるしかないのだろう。

 


こわれゆく思い出

2006年12月06日 | 巨人の星

大リーグボール1号、2号とも打ち砕かれ、もはやプロ野球人としての自信を完全になくした飛雄馬。虚無の状態で東京の街をあるき、ヤクザとのトラブルに巻き込まれる。自暴自棄の飛雄馬には、今はヤクザとて怖くはない。ヤクザの手下どもを蹴散らし、また一人さまよっていた。

さまよえる飛雄馬は、自然に、生まれ育った長屋に向かっていた。しかし、そこで見たものは、最後の思い出の長屋さえも壊されていく現実だった。

長屋を壊し、突貫工事でスーパーマーケットをつくるのだという。

 

「あ・・・あ・・・あ・・・俺の思い出も壊されていく・・・・俺には 思い出さえも もう・・・ない・・」

 

「星は・・・・・・あるっ あの、遠い日と同じに天上にまたたいて・・・

もう、巨人の星なんて意味は失い・・・・スーパーマーケット上空の星にすぎん・・・・」

 

飛雄馬の心の象徴のようにあつかわれる場面。古きよき思い出が壊され、効率重視の近代化がどんどん進められていった時代。古いものにしがみつくものと、古いものをたたき壊し、新しいものを生み出そうとする力の拮抗が、いよいよ崩れて、全体が諸手を挙げて近代化を賛美し、推し進めていった・・・

その象徴が、新幹線であり、大阪万国博覧会であった。そして、街の中では、小売店からスーパーマーケットに移行していった。

学生運動は下火であったが、下火であるがゆえに過激になっていった。世の中がいったいどっちに向かっていって良いのか分からないまま、大きな流れにのまれていき、迷いを感じるままに突き進んでいった時代だ。そんな時代と、飛雄馬の生き様への共感なのか、同情なのか、小馬鹿にした気持ちなのか・・まさに世に渦巻く様々な感情が響きあっていった。

 

世の中はいつも かわっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする
変わらないものを 何かにたとえて
そのたび崩れちゃ そいつのせいにする


シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて かわらない夢を
見たがるものたちと 戦うため


世の中はとても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている
包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる
・・・・・

  中島みゆき 「世情より


自暴自棄

2006年12月02日 | 巨人の星

大リーグボール2号を打ち砕かれ、虚無感に襲われ、東京の街を目的もなくさまよう飛雄馬。ふらっと入った映画館で見たものは、不良少女グループに因縁をつけられている左門の姿であった。左門もまた、花形に先を越され、悔しさのあまり街をさまよっていたのだった。

真面目人間、左門にとっては、全く予期せぬ状況であり、とまどいを隠せない。そこに飛雄馬は口を挟み、不良グループのボス、お京に

「きれいな口をきくんじゃないよっどうせおまえだって、八百長をやってんだろ!」と言われた。そのセリフが、飛雄馬の怒りに火をつけた。

「八百長か・・・男一匹・・・・・・ここまで身も心もすり減らして傷だらけとなったすがたを、どうせ八百長とはよくぞいった・・・」

左門は、こんな連中を相手にして、君まで泥にまみれることはないと、金で解決しようとする。しかし飛雄馬は

「もともと、俺は泥まみれ。やけじみた心境もお互い様だが、それでもゆるせんものがあるらしい」と助太刀にきた、用心棒ヤクザにまで一歩もじさない構えだ。

一触即発・・・しかし、飛雄馬は自暴自棄だ

「星 中日コーチ、いや とうちゃん・・・巨人の星を追い求めたなれの果てがこれだとは、父の誤算か、子にそれだけの資質がなかったか、どっちなのかな?

とにかく・・・今のおれは無性に馬鹿馬鹿しい、何ともはや、馬鹿馬鹿しくておかしくて・・・うふふふふっ」

それでも最後まで左門をかばう。事態を収めようと、左門は土下座してわびを入れようとする。しかし、飛雄馬はそれを許さない。

「よせっ 左門さんのような、立派な男が間違っても頭を下げる相手ではない!おれがゆるさん!!」

 

真面目一徹で、野球に打ち込んできた飛雄馬が、七転び八起き、不死鳥のような根性をモットーに生きてきた飛雄馬にとって、自分の存在を根底から否定されるような挫折体験だった。

これまでは、父が支えてくれた。父が敵に回ったときも、親友 伴が支えてくれた。そして常に姉が影から支えてくれた・・・今や、父は敵、友も敵、姉は行方不明・・・

とことん虚無的になっていたところに、ヤクザの刃を向けられても、飛雄馬は恐怖に怯えるどころか、ここぞ死に場所といわんばかりの投げやりな開き直り状態だった。それでも、誇りは捨てない、友の誇りも傷つけないという熱い心を秘めていた。

結局のところ、飛雄馬の本気の覚悟、そして、泥にまみれても決して誇りを捨てない熱い心が、不良番長 京子の心を動かし、何を逃れることになる。

もやや野球漫画ではない、まるで、後年の作品、ボディーガード牙、空手地獄変だ。何かで読んだのだが、梶原一騎は野球には詳しくなかったらしい。そういわれてみれば、そうだ。巨人の星は、飛雄馬の成長の物語、星親子の葛藤の物語であり、その題材が野球だったにすぎない。ドカベンとか、あぶさんとか本当に野球がすきな水島慎司の野球漫画とは全く違うわけだ。

落ちるところまで落ちた飛雄馬、それでも飛雄馬は蘇るのか、飛雄馬に明日はあるのか・・・。もはや少年少女への教訓的な要素は薄れていく、そして、悩める60-70年代の青年の苦悩とシンクロしていくことになる。


父への憎しみ

2006年12月01日 | 巨人の星

奇跡の魔球とも思われた大リーグボール2号も、宿命のライバル、花形に無惨に打ち込まれた。ショックを通り越し、虚脱状態になった飛雄馬は、監督の命もないまま、マウンドをおり、黙って球場を後にした。甲子園から東京に、夢中で帰ってきてしまった飛雄馬。

 

「い いま 俺は生まれて初めて・・・・とうちゃんを、星一徹という男を憎み始めているっ

おれをこんなにしちまった男を 一切のきれい事抜き 生々しい憎悪を込めて!」

 

幼少期から、父の言うままに野球ボールを握らされ、子供らしい遊びもさせてもらえず、野球一筋に生きてきた。巨人の星になる、それだけを信じて・・・。しかし、予想外な事は、飛雄馬の小さい体だった。すべてに秀でた能力、それも高校生までだった。プロ野球で輝ける器ではなかったのだ。

それでも飛雄馬は、体の小ささを、武器として、奇跡の魔球を生み出し、巨人の星をめがけて駆け上るはずだった。しかし、今度は、巨人の星を目指せといった父自身が、行く手を阻むべく立ちふさがった。立ち上がっても立ち上がっても、父は立ちふさがる。

簡単に一人前になれると思うな!一人前になりたくば、父の屍を乗り越えていけと言わんばかりに・・・しかし、飛雄馬はいま初めて思う。父の教えを信じて生きてきた。しかし、それは父の勝手な夢の犠牲になってきただけではないのか。そのおかげで、自分は野球しかしらない人間になってしまった。野球以外で自分を表現するすべもない、それを閉ざされた以上、生きるすべがない・・進むことも逃げることもできない自分。それを自覚したとき、父への憎しみがわき起こってきたのだ。

ならば、人のために野球をしてきたのか、父の言うなりにやってきただけなのか。自分の為ではなかったのか。結局父に認められたいという気持ちが原動力だったのか。期待は容易に恨みに変わる。

考えてみれば、この時点でまだ飛雄馬は20歳そこそこだ。親のいいなりに生きてきた人間が、思春期青年期に、社会という現実の壁にぶつかり、それまであがめてきた親の価値観に怒りや恨みを抱くようになる。そして、そのどん底から、真の自分の価値を見いだす戦いが始まるのだ。

いまや、そのような人生は修行だというイメージはなくなってしまった。できるだけ苦労せずに生きていけるように、将来にわたってまで続く道を親が用意する時代だ。

そして、人はどんどんひ弱になる。

今や戦争もなければ、飢餓もない。そういう時代に苦労しろと言う方が無理があるのだ。ただ、世界の情勢をみていると、先は安楽なものではなさそうだ。これから待ち受けるのは茨の道かも知れない。気合いを入れて、一日一日を生きていきたい。