人生に必要なことは、すべて梶原一騎から学んだ

人間にとって本質的価値「正直、真面目、一生懸命」が壊れていく。今こそ振り返ろう、何が大切なのかを、梶原一騎とともに。

金にはかえられない

2007年11月18日 | あしたのジョー

カーロスとの死闘が終わり、ジョーはファイトマネーをもらうために白木洋子を訪ねた。

その小切手にかかれた金額は、契約した額を上回る大金であった。

「それだけとっておいてほしいの・・・・私の気持ちをして」洋子はつぶやく。

それに対してジョーは、昔からの洋子とのやりとりをだぶらせ「あわれみとほどこし」なんだなとつぶやく。それを否定する洋子の言葉を遮り、怒りをぶちまける

「ふざけんなあっ

なぜ、あんたと会うたびにまともに話し合い、まともにわかれることができねえんだ!

女のぶんざいで、こざかしく男の世界に入り込み、そっとしておきたいものをいじくりすぎるからだよ!わかるかいっええ?

けっ 金なんぞにかえられるかい。あの命ぎりぎり燃やし尽くした勝負がよっ

この虚脱状態のまんま、もし仮に引退したとしても力石やカーロスとの思い出は、おれの青春の遺産になってくれるぜ。

せねてお金でも・・と しゃらくせえ保険などをつけてもらわなくてもよ!

さあ、はじめの契約どおりの額面だけ書いてよこしな。わからねえのか、小切手を書き換えろといってるんだよっ」

 

金なんかにかえられないことがある。大事なことであればあるほど、金なんかで換算されたくない。金とは世の中の共通した価値基準。誰とでも共有できる尺度で、推し量られたら、その思い出自身が汚れる・・・

そういう気概がかつてあった。金は汚い物だと教えられてきた。それはやせ我慢だったのかもしれないが、真実でもあった。今、金を巡って、人々がいかに落ちていくかを見てみればわかるだろう。

メジャーリーグをはじめ、プロスポーツの年俸、契約金、FAによる動く金額などをみているとめまいがしそうだが、お金の尺度であえて評価するならそういうことになるのだろう。しかし、一般の人にはそんなことは夢のまた夢。それなら個人の価値は今の給料、年俸の額しかないのか・・・そんなはずはないだろう。

金は現実を生きるための道具にすぎず、それは人や物や体験を価値づける物ではないはずだ。

しかし、世に完全に浸透しているのは「金」中心の社会・・・その中で、生きていると錯覚してしまう。それに流されず、本当の価値を見失わずに生きていきたい。


魂の語らい

2007年10月24日 | あしたのジョー

ジョーとカーロスの世紀の一戦は終わった。お互いの反則、いや壮絶なけんかの末に。

全力を出し尽くしあった二人には勝敗など関係のない満足感があった。

飛行場から日本を後にしようとするカーロスは、名残惜しそうに「ここにくればジョーヤブキにあえると思ったのにな」とつぶやく。ロバートは、カーロスを養護するように、「等しく殴り合ったように見えても、おまえとは格が違う、ダメージが違うのだ。だからベッドから起きあがれないのさ」という。

しかし、ジョーは空港にいた、人相が変わるほど顔を腫らして・・・

そして片隅からカーロスを見送る

「世界タイトル・・・なんとしてもとれよな、カーロス

長い滞在期間だったようだが・・・ついにおまえさんとはろくすっぽ口をきくこともないままに終わった

顔さえつき合わせれば、ただひたすらに殴り合うだけでな

だけど・・・あのなつかしい 力石の場合にしてもそうだったが

たがいの血と汗をたっぷりすいこんだグローブで徹底的にぶちのめしあった仲ってもんは

百万語のべたついた友情ごっこにまさる男と男の魂の語らいとなって、俺の体に何かをきざみこんでくれた・・・

がんばれや カーロス」

皆に見送られ飛行機のタラップを登るカーロスは、階段を踏み外して転倒した。それをみてロバートは青ざめるのだった。そう、パンチドランカーの症状が現れている。

ジョーとの死闘の代償の大きさにロバートは戦慄した。

 

こういう台詞にしびれたものだ。言葉より大事なものがある、理屈より大事なものがある・・・

それに比べて、現実は鼻につく雄弁さ、嘘くさい理屈、言い訳がましい言葉・・そんなものがあふれかえっている。拳一つの方が雄弁なんだよっていう虚勢が、受け入れがたい大人社会への反発心を象徴してくれた。自分の思いが伝わらないいらだちが、そういう世界へのあこがれをもたらした。

最終的には大人の社会に入って行かなくてはならない、そしてそれにはあらがうことができないという明確な現実があったから、それへの反発から文化がうまれた。

しかし、今やそれもない・・反発すべき確固たる大人社会がない。大人は子供にこびてものを売るのに必死だ。子供をだしにしてお金を儲けるチャンスをねらっている。子供が商売道具になっている・・

そんなだらしのない大人社会が子供たちから反発心、克己心、闘争心すら奪ってしまった。もはや街にはゾンビだらけだ。魂の抜けた、死んだ目をした人々がさまよい歩く・・

かつて都会は砂漠だと 東京砂漠だといわれたが、今や砂漠ですらない・・虚構に満ちたディズニーランド・・・その裏には欲がうごめいているソドムとゴモラ、死霊の街だ

拳は魂と魂のぶつかり合い、汚い下心を越えた、純粋な理屈を超越した語らいだった時代、あるいはそれにあこがれ、きっとそうなんだと思えた時代・・

そこから、今や拳まで汚れてしまった。亀田一家の暴挙に代表されるように、拳まで商売のツールになってしまった。拳のぶつかり合いまでもが、ディズニーランドのアトラクションだ・・

これでいいのか、いいはずはない。心あるものはいずれ目覚めるだろう、そう信じたい。まあ、まず隗より始めよだな。


けんか

2007年10月20日 | あしたのジョー

互いに一歩も引かない野性味を見せつけるカーロスとジョー。

ロープ際の攻防も、お互いに封じられた。ダメージも互角だ。

「これからは、ただひたすらけんかを仕掛けてやるぜ」

ジョーのその言葉は、なりふり構わず思い切ってぶつかっていくというような比喩的なものではなかった。

しかし、最初にケンカをふっかけたのは、なんとカーロスだった。上からたたきつけたり、ひじうちをかましたり・・。レフェリーはあわてて、減点するぞと注意する。しかし、それは序の口だった。先にお株を奪われたジョーも、ひじうち、頭突き、けりなどやりたい放題だ。お互いボクシングのルールなどお構いなしに、ぶつかり合う。ついにジョーは減点3をくらう。反省の色がないと注意され、まじめに試合をしろとレフェリーに言われる。ジョーは「だからまじめにやっているってのにさ」と。

二人の壮絶なケンカを見せられ、観客はブーイングをいうどころか、大盛り上がりをみせる。解説者までつぶやく

ルールをまるで無視した 反則だらけの試合なのに、不思議にきたない感じを受けない・・・それどころか小気味よいさわやかな感じさえする・・・・いったいこれは・・・

レフェリーを無視し、ゴングを無視してただひたすら野獣にかえってかみ合い続ける二人・・・

数分後、リング上には血に染まり汗にまみれた、二つの抜け殻が音もなくころがっていた。うろたえたのはロバートマネージャーや段平、西らセコンド陣のみ

三万七千の大観衆は、ボクシングというものの原点を見せつけられたような気がして実に満足だった

 

先日(平成19年10月11日)亀田大毅と世界チャンプ 内藤大助の試合が行われたばかりだ。この試合で、亀田はレフェリーに見えないように、反則をしまくり、実力ではとうてい勝てないチャンピオンに失礼極まりない暴挙を行った。さわやかどころか、反吐がでるような試合だった。

その試合で行われた反則行為と、ジョー対カーロスのリング上でのケンカボクシングは次元が違う。お互い、隠すこともなく、お互いが力を認め合い、自分の持ちうるありったけの力をぶつけ合ったのだ。ルールも判定も関係ない、勝ち負けも関係ない・・・お互いが自分の全身全霊、つまり魂をぶつけるに値する相手と認めたのだ。

この試合により、ジョーとカーロスには深い人間愛が芽生えるのだが、その後、カーロスはホセのコークスクリューパンチでパンチドランカー、廃人になる。

あしたのジョーは死んだのか・・この漫画の最後は、読む物の想像を駆り立てたまま想像の世界に昇華されていく。その続きを誰もが見たいと思っていたのだが・・

何かの本で、その後(梶原一騎が死んだので、本当はあり得ないが)の可能性を読んだ記憶がある。それは無限に考えつくストーリーの一つに過ぎないのだが、公園で廃人になったカーロスとパンチドランカーのジョーが遊んでいるシーンで終わったような記憶が・・

それほど、この漫画におけるカーロスの存在は大きいのだ。みんな茶目っ気のあるカーロスが好きだった。ベネズエラ、無冠の帝王、カーロス・リベラ・・どれをとってもいい響きだねー。


見栄やハッタリ

2007年10月19日 | あしたのジョー

ついにカーロスとジョーがリングでぶつかった。今度はエキジビションではない、タイトルマッチではないが、正式な試合だ。それは世紀の一戦と報じられた。

ベネズエラの無冠の帝王対、日本の闘犬矢吹ジョーとの一戦。人々はただごとならぬ物を感じて熱狂した。解説者は原始への郷愁とそれを揶揄した。

最初、余裕綽々だったカーロスは、ゴングと同時に、表情がかわった。ジョーから漂う雰囲気にただならぬ物を感じたからだ。

ジョーはエキジビションで、カーロスをロープ際に誘い、ロープの反動を利用したカウンターでカーロスの度肝を抜いた。しかし、今回の試合の前に、カーロスはロープが鉄の棒になり、二度と同じまねはさせないと予告した。

試合の始まりは、カーロスが慎重になり、互角に展開した。しかし、徐々にカーロスが本性を見せ始める。ジョーが待ち望んだものだ。「底を見せてみろ」、その言葉通りカーロスは底知れぬ実力を発揮し始める。

そこでジョーはロープ際に誘い、「ロープを鉄の棒に変えてみろ」と挑発する。カーロスは地をはうようなアッパーを放つ、その腕の振りはロープを絡め取り、ロープの弾力を奪った。棒立ちのジョーに強烈なボディが炸裂した。ロープは予告通り鉄の棒になったのだ。

しかし、その後、ジョーは再び同じ展開にカーロスを誘った。皆が自殺行為だと信じた。そのとき、マットにうずくまったのはカーロスだった。そう、ジョーの野生はギリギリの状態で反応し、カーロスがボディを打つ前にロープに腰掛けるように沈み込み、その反動をつかって、強烈なアッパーを放ったのだ。

カーロスは、心の底からジョーを認めた。強烈なダメージをおいながら、逃げまどうカーロスは、ゴングに救われた。

段平はいう

「まったく・・あんがいだらしねえやっちゃで、カーロス・リベラめ。女のくさったのみてえに、ひたすらちぢこまって逃げをきめやがって・・・!」

ジョーはいう

「おれはそうは思わねえな・・・あれでこそ、カーロス・リベラはまぎれもない野獣だと俺はみたぜ。野獣ってのは、見栄だのハッタリだのという余計な飾り物は必要としねえのさ。攻撃する際にも本能のおもむくままに、徹底するかわり、いったんダメージをうけて不利と知れば、傍目のかっこよさなんざ振り捨てて、ひたすら回復待ちをきめて身を守る!ああいうのはな・・・それこそ回復した後が怖いんだよ」

「年寄りに水をぶっかけるような言い方をするんじゃねえ バカ・・・」

「お互いもはや手負いの野獣どうしさ。あとは理屈抜き、小細工抜きでとことんかみ合うしかねえ。これからは、ただひたすらケンカを仕掛けてやるぜ。世紀の大げんかをな」

 

野獣カーロスを得て、ジョーの野獣が目覚めていく。過去のトラウマはもはやどこにもない。食うか食われるか・・古代パンクラチオンの復活だ。

人々は自分にはとてもできないが、心の奥底で自分の野生を感じている。力のなさが、ブレーキとなり、理性的に行動しようとする。

ルールにこだわるのは、それを超えたときに何が起こるのか知っているからだ。近代の歴史は、人の野生を奪い、文明という虚構に、それを封じ込めてきた。それはそれでよし。野生のあこがれは、スポーツへの昇華されたが、そのスポーツも洗練された野生とは言い難い。

飼い慣らされた現代人は、どこかに野生の暴発を心待ちにしている。それがゆがんでくると、野生ではなく、残忍さを醸し出してくる。

この先、我々の文明は野生と理性をどうやって折り合わせていったらよいのだろう。健全な野生すらどこかに封じられてしまった時代に、そのエネルギーがどこに暴発していくのか・・

健全なケンカができない文化はやっぱりおかしいんだよ。


笑って死ねる

2007年10月09日 | あしたのジョー

いよいよジョーとカーロスリベラの世紀の一戦が始まった。

不自然に陽気に振る舞う段平は、6オンスのグラブをジョーにつけるだんになり、手の震えを隠せなかった。「こんなグラブでカーロスの一撃をくらったら、おめえのあごは・・」

不安を隠せない段平にジョーはいう「あごがくだけるってんなら、カーロスにしたって同じ条件じゃねえか!」

豪毅に振る舞うジョーに、弱音を吐き続ける段平

「かわいい選手になんにも、作戦も指示できねえセコンドはつれえ・・・

何にもいうことができねえセコンドは惨めだ・・・」

これから試合が始まろうというのに、弱音を吐き続ける段平に対し、ジョーは怒るでもなくつぶやく

「へっへっへ おれは何か今、不思議なくらいさわやかな心境だぜ。

竹刀や木刀じゃない、待ちに待った真剣勝負だ。力一杯打ち合って、もし俺がぶっ殺されたって悔いはない。

笑って死ねそうな気がするさ

 

覚悟を決めた人間は強い。カーロスは、ジョーにとってまるで恋人のようだ。自分に眠る野生に火をつけた。カーロスも同じだ。どうしても見過ごすわけにはいかない相手・・・お互いの野生が呼び合い。ついに相まみえる時がきた。

勝ち負けではない、お互いの肉体と肉体、魂と魂、それを心底ぶつけ合える相手。そんな相手は滅多に出会えるものではない。ジョーにとっては、力石以来、初めてであったのだ。そんなカーロスは、ジョーにとりついた力石の亡霊も追い払ってくれた。

逃げれば追われる。消そうとするとわいてくる・・・・そんな恐怖に打ち勝てるのは戦いだけだ。腹を据えて、自分の全身全霊をぶつけて戦う。そんなときに、人は一皮むけて、一回り成長するのだろう。

今までの自分を守りつつ成長できるはずはないのだ。今までの自分をかなぐり捨てて、自分を滅却しきったとき、新たな自分が再生し、一回り大きくなって生まれ変わるのだろう。

そして、そういう気持ちになれる相手、そういう気持ちになれる場面、対象、それがあってこそ、人は成長できる。

カーロスを前に、ジョーはすべてを捨てる覚悟ができた。いやすべてを捨ててでもカーロスの底を見てみたい、体で味わってみたい・・底知れぬ力にふれてみたいと思ったのだ。

自分と魂が五分の相手、それに出会えるかどうか、その出会いを生かせるかどうか、その出会いにすべてをすてて飛び込む勇気を持てるかどうか・・そんなとぎすまされた時間を生きている現代人はいないだろう。

だからあこがれるのだ、そういう姿に。自分にはとてもまねできない、でも本当はそういうことなんだよな。そんなことをぶつくさ考えて、うんうん頷きながら漫画を読んでいる中年オヤジは、やっぱどっかへんかね。


悪魔か女神か

2007年09月24日 | あしたのジョー

段平のミスによって、失格に終わったカーロスとの四回戦エキジビション。

再度対戦を望むカーロスと、危険を察知し、直ちに帰国しようとするロバート。

カーロスもこのときばかりは一歩も引かない。それはそうだ、ついにカーロスは真のライバルに巡り会えたのだ。ジョーも力石以来、魂が共鳴するような相手についに出会えた。

そこへ葉子がまたまた、提案する。今度は6オンスのグラブで10ラウンドフルに戦うメインイベントでやればいいと。

ジョーは葉子にいう

「それにしても・・なんともはや、驚いたね、あんたって人は

時々思いもかけないような運命の曲がり角に待ち伏せしておいてふいに俺を引きずり込む・・・まるで悪魔みたいな女だぜ」

「迷惑だったかしら」という葉子に

「迷惑なんかじゃない。その悪魔が、おれの目にはヒョイと女神に見えたりするからやっかいなのさ。へへへ・・それそれ。そんな鋭い目でにらむのはやめてくれ」

 

葉子もそれほど計算ずくで行動している訳でもない。人と人が関わることに、そんな細かい計算が入り込む余地もない。

しかし、それぞれの持つ運命の糸が、自然に絡み合い、一つの道につながっていくのだ。人と人との関係というのはそういうものだ。

ある程度の読み、ある程度の計画、それに偶然の要素・・そしてもっとも重要なのはおそらく「運命」とか「縁」とかいうものだろう。

何をどう画策したとて、縁なきところには何も生まれはしない。逆に、何もしなくても縁は向こうからやってくる。自分から求めるエネルギーと向こうからやってくるエネルギーが共鳴したとき、大きな変化が起こる。そのタイミングは自ら導ける物でもない。ただ、日々魂をとぎすませ、強い意志を持っていれば(それが表面に現れていようがいよまいが)、タイミングを物にするチャンスも広がるだろう。

人生は計算では動かない。万が一のタイミングのために、何も起こらない9999の日常を怠らずまじめに精進する、それが人生だとわしは思う。


エキジビションマッチ

2007年09月23日 | あしたのジョー

カーロスとのエキジビションマッチが始まった。世間は何の緊張感もなく、ただのショーくらいに思っている。落ちぶれたジョーの実力など鼻にもかけていないのだ。

練習で過剰なテンションを発揮するカーロスを何に殺気だっているのかわかっていなかった。

わかっているのは、ジョー、段平、葉子、そしてカーロスとロバートだけだ。

世間は、このエキジビションを仕組んだのは白木ジムなので、力石を殺された腹いせにリング上でジョーに制裁を加えるくらいに思っていた。

そして、ついにゴングはなった。ジョーはいつかのスパーリングでロープ際から、ロープの反動を利用したクロスをカーロスにかましていた。それを警戒してくるだろうと予測して、ロープ際の作戦をとった。

カーロスは、ジョーを買いかぶっていたと不敵な笑みを浮かべ、ロープ際でストレートではなくアッパーを放った。その瞬間、カーロスは悶絶した。

ジョーはカーロスがそうくることを予想し、アッパーをかわして、ロープの反動を利用したボディブローを放ったのだ。

ゴングに救われたカーロス。ロバートはいう

「カーロス、今更恥ずべき話だが・・・お互い最初の直感に素直に従っておくべきだったようだな・・」

「どうもそういうことらしい・・・・だがそんな失敗など、今、この身のうちにふつふつとこみ上げてくるうれしさやゾクゾクと血のたぎるような喜悦にくらべれば問題じゃない。

ついに出会ったんだぜ、ロバート。このカーロス・リベラがもてる技術のすべてを駆使し、命の限りすべて燃やし尽くせる真のファイターにさ・・・!」

いろいろ作戦を教示するロバートを制してカーロスはいう

「あの、ジョー・ヤブキを相手に、へたに作戦など立てない方がいい。ふふふ、久しぶりに気兼ねなく打ち合える相手を見つけたんだぜロバート。小細工はいらん。

わかるかいロバート?今はただ、のびのびと本能の命ずるままに力一杯戦ってみたいんだ。それだけだよ」

ロバート「わかった・・ユーの本能を信じるよ・・・」

そこから壮絶な打ち合いが始まった。ジョーはカーロスのお株を奪う、ストレートを打ちながらひじうちをかまし、ダブルノックダウンとなった。

リングの外に落ちたジョー。カウントかすすみ、もう少しでリングにもどれるという、その瞬間、思いあまって段平はこともあろうにジョーの尻を押してリングにもどしてしまった。そして、ジョーは即失格を宣言された。

怒り出す観客たち。物と罵声が飛び交う

段平を責め立てる会場に、ジョーが一括する「がたがたさわぐんじゃねー」

ジョーはいう

「力石戦以来、つきまとっていたモヤモヤが全部燃え尽きちまったみたいで・・・なんだかこうさわやかな風が体の中を吹き抜けるようにえらく気分がいいんだ」

そう、ジョーはカーロスのテンプルに思いっきり強打をぶち込んだが、吐き気におそわれることはなかった。ついにジョーはトラウマから抜け出せたのだ、葉子の荒療治とカーロスの野生によって。


カーロスの実力

2007年09月22日 | あしたのジョー

カーロスリベラがついに牙をむいた。予告通り、いやそれどころか、1ラウンド開始直後にストレート一発で日本チャンピオンのタイガー尾崎をマットにしずめた。

カーロス側は、これまでの流れはすべて計算通りだったと告白する。そして、マネージャのロバートはビジネスを終えて早々にベネズエラに引き上げようとする。

しかし、そこにジョーが絡んできて、カーロスを挑発する。カーロスもスパーでの借りがあるし、ジョーの実力に気づいている。カーロスの野生がジョーの野生と共鳴しあっているのだ。

白木葉子はエキジビション4回戦を提案し、それに法外の報酬を提示した。そして、カーロストvsジョーの対戦が実現することになった。

ジョーはつぶやく

これの意志とはべつに、いずれこうなるように仕組まれていたような気がしないでもないがね、葉子さん。まあ、いいさ。サイは投げられたんだ。問題はエキジビションだ。そう問題はエキジビションの4回戦だ。ふふふふ、そこで食うか食われるか・・・さ?

葉子は落ちていくジョーの魂を救いたかった。ジョーに優しさは似合わない。やさしさ、いたわりでよみがえる玉ではない。

ジョーの野生に火をつける・・そうすれば、あの生き生きとしたジョーがもどってくるだろう。ストーリーの中で言語化はされていないが、葉子の思惑は容易によみとれる展開だ。

さまよえる魂ジョーの安住の地はどこにあるのか・・・葉子は、その先にどういう結果が待っていようが、ジョーをジョーらしく生きさせるためには、ジョーの野生を最大限まで発揮させるしかないと思っている。のりちゃんもジョーに思いを寄せ、なんとか安全に平和に生きてほしいと願っている。段平はその間で揺れ動いている。

そしてそのどの思いも、何か違うのではないかとうすうす感じながら、人々の思いを引きつける何かがジョーにある。

ジョーは何にも縛られることなく自由に生きたいと思っている。そして、自分はそうしていると思っている。しかし、その周りには、様々な立場の人々がジョーの生き方に巻き込まれていき、ジョー自身も拳闘地獄に完全に絡め取られていく。

自由とは何なのか・・・何もしないこと、何にもしばられないことなのか・・

それとも、それぞれの運命に従い、矛盾に満ち、葛藤に満ちた生き方に準ずることなのか・・。

不自由の受容、それこそが自由なのかもしれない。


拳闘の魔力

2007年09月09日 | あしたのジョー

カーロスリベラは、世界ランキング上位にはいっているが、看板倒れのだめボクサーとして世間に披露した、全く作戦通りに。そして、まんまと日本チャンピオン、タイガー尾崎との対戦まで到達した。さらに、右指をたてて天にかざし「1分以内にKOしま~す」と宣言した。その姿に、かつて少年院での力石の姿が重なったのだ。ジョーの魂に火がついた。久しぶりに生き生きとした姿を見せるジョー。

しかし、丹下拳闘クラブにもどった時には、段平は酒浸りの自堕落な生活をしていた。カーロスリベラに興味をしめすジョーの話をちゃかし、カーロスのことをだめボクサーと決めつける。

ジョーは、段平がわざと関心のないふりをしていることに気づいていた。白木ジムで、ジョーとスパーリングをしたときにあわてふためいたことから明らかだ。

ジョーは段平に訴える

「おれが燃えるのがなぜ怖いんだ!何をおびえてやがるんだ!どうしたい 返事をしろよ返事をっ」

段平はいう

「け・・拳闘の・・拳闘の魔力ってやつは、つくづくおっかねえ・・・。

いってみりゃ・・・一度、拳闘にとりつかれると、どんな、うつくしい悪女の魅力よりも、とことん男を血迷わせ・・・狂わせ、若さにたぎる血の最後のひとしずくまで、すいつくしたあげくのはてに・・・・・ボロボロにされてポイ・・・・さ

「去る者は追わず・・・おめえもいい加減に拳闘を見放すんだ。足をあらうんだ。これ以上のめりこんじゃいけねえ!聞いてるのか、おいっ」

ジョーはいう

「ボクシングジムの会長が親心を出すようになっちゃおしまいだな。まっ上の看板、書きかえて、駄菓子屋でもはじめるんだな」

「今後はいっさいおれのまわりをうろちょろするのはやめてもらう!おれはおれの歩きたい道を一人だけで歩くっ」

 

自らも拳闘に人生をだめにされた段平。ジョーの快進撃の間は夢をみることができた。ともに心地よい夢をみていた。そして、自分をだめにした拳闘界に復讐を果たすようで気分がよかっただろう。

しかし、現実は重かった。一夜の夢が覚めてみれば、自分の秘蔵っ子が、命より大事なジョーが、自分と同じようにボロボロになっていく、拳闘地獄の中で人生を狂わせれていく。そんな姿に耐えられなかった。

はじめは何とか復活してほしいと願った。しかし、惨めに壊れていくジョーの姿に、厳しい現実を突きつけられ、正気にもどった。正気にもどれば、また酒浸りの生活だ。

問題はここからだ。それでもジョーは拳闘を続けるという。協力してくれないなら、せめて足を引っ張らないでくれという。そして、自分でやるから、もう放っておいてくれと。

これは親子の物語でもある。親は子に期待し、前に前に引っ張ろうとする。しかし、どうしようもない現実に直面するとうろたえだし、今度は安全なところに引き留めようとする。そんな親を振り切って、自分の足で歩き始めるところから、本当の人生が始まる。そして本当の親子関係が始まる。

ジョーは蘇り、拳闘の世界に戻るだろう。その背景で動いていたのは、ジョーと段平の関係なのである。こうなれば、親は子を先回りすることはできない、後ろから黙って見守るしかない。その先に、どれほどの苦難が待ち受けていようが、もはや親には何もしてやることはできないのだ。


草拳闘

2007年08月19日 | あしたのジョー

ジョーは試合中に醜態をさらし、もはや表のボクシング界からは愛想をつかされた状態になった。ジョーはそれでも拳闘にしがみつき、草拳闘の世界に落ちていった。ただし、ジョーの魂は死んだのではなく、再生をもとめ、再生を信じて拳闘の世界にしがみついたのだ。


一方、カーロスもついに表舞台にでてきた。いい加減な男ぶりをさんざんアピールして、世界ランキングも6位と目立たぬ立場で日本人選手、南郷とのマッチをくんだ。試合が始まるまえに、南郷側はカーロスの実力に気づきあわてふためく。南郷自身も試合が始まる前から完全に萎縮してしまった。
しかし、試合が始まると、カーロスのボクシングはへたくそで、打たれ弱い。徐々に南郷側は調子にのって責め始めた。すべては演技だと知らずに。


それと平行して、ジョーの草拳闘試合のデビュー戦が始まろうとしていた。プロモーターはジョーに八百長の筋書きを説明した。しかし、ジョーは拒否する。


こんなドロ沼のドサに身を落としてまでも拳闘を捨てることができないこのおれに・・・あんたは八百長をやれっていうのかい。あまりに残酷すぎやしねえか?あまりにもよ!」

八百長試合が始まるその時、夕立になり、大雨と落雷による停電で試合は中止となった。宿にもどってテレビをつけると、まさにカーロスの試合の最中だった。テレビを食い入るようにみるジョー。他の仲間は麻雀に興じている。


それまで、南郷断然有利で進んでいた試合、最終ラウンド開始の一瞬でカーロスのストレートが二発きまり、一瞬で逆転勝利になった。まさにラッキーであるかのような演出。
しかし、ジョーは見逃さなかった、ねらい澄ましたストレートを打ち込み、そのまま肘打ちをかます、それを同じ場所に二回、計四発!
その試合を見てから、ジョーの中の野生が目覚め始めた。草拳闘界のメインの男もそれに気づいた。そして試合中にジョーにつぶやく。
「東京に帰れ。そして、そのカーロスって男とやりあえ」と。ついにジョーに転機が来たのだ。

 

腐っても鯛。どこまで落ちても最後の誇り、プライドは捨てない。そういう気概が薄れてきた時代だ。


かつては、古いところでは「武士は食わねど高楊枝」、松本零士の好きだった「負けるとわかっていても男には戦わなくてはならない時がある」とか、男は命がけで誇りを守るものだという教えが、漫画、映画などのなかにあふれていた。古き良き日本文化だ。肉体が傷つくより、誇りが傷つけられることを恐れたのだ。
そこまでして守るべき「誇り」とは何なのか。そんなもので食っていけないといって、どんなに惨めなことをしてでも食うことを優先するという場合もある。それは大事なことであり、むしろそれは誇りある生き方だと思う。
北斗の拳で妹アイリをさがし、胸に七つの傷を持つ男を追っている南斗水鳥拳のレイは言った「その男を捜し出し、妹を救うまでは、泥をすすっても生きる」と。どんなに惨めな状況になっても自分にとって一番大事なものを守り抜くという気概だ。

誇りとは「目に見える形、格好」ではない。むしろ、目に見えるものはどんなひどくて、かっこうわるくて、だめなように見えても、見えるものの向こうにある見えざる部分、そこにしっかりと揺るぎなく、いかなる不当な力にも屈せず、貫き通す、守り通すものを「誇り」という。それは極めて主観的なものであり、人から見ればばかばかしい、くだらないものみ見えたりもする。人に理解を求めることが難しいものなのだ。

今の時代、見かけの形、格好を気にして、人の評価で自分を支える文化が主流になってしまった。まったく寂しいことだ。そういう誇りなき生き方が、だらだらの文化をつくっているのだと思う。今、誇りがどうのこうのというと、文化人からは「右傾、男性優位、懐古主義、戦争に向かう道」という声が聞こえそうだ。若い人たちからは「うぜえ、意味ねえ」などと言われそうだ。
そう、誇りなどというものは人に語るものではないし、同意を求めるものでもない。自分の心の中にしまっておけばよい。そういうものを「誇り」と呼ぶのだ。