人生に必要なことは、すべて梶原一騎から学んだ

人間にとって本質的価値「正直、真面目、一生懸命」が壊れていく。今こそ振り返ろう、何が大切なのかを、梶原一騎とともに。

冷静になれ

2007年02月21日 | あしたのジョー

いよいよ試合がの時が来た。少年院の寮の対抗戦が行われるのだ。力石は第一寮、ジョーの寮の一回戦は第11寮になった。

西は、「ほんまにほっとしたわ。一寮には力石徹、七寮には青山がひかえとるんやからなあ」とつぶやく。それを聞いたジョーは激怒する。力石を恐れるのはともかく、青山を恐れるとはどういうことか!

西は正直にいう「得体の知れん青山の成長ぶりがジョーをこっぴどく傷つけるような気がしてならんのや・・・」

ジョーはむきになるが、それをなだめるように西はいう

 

「ジョー・・・冷静になってや・・たのむさかい

冷静だけが、得体の知れんものから身を守る武器やと思うのや・・

 

明らかに、何か自分には理解できない現実がそこにある。強がってみたとて、それがプラスになるはずもない。むしろ、空虚な強がりは、心にスキをつくるだけだ。地に足がつかなくなるだけだ。

何事においてもそうである。今、自分に何が起こっているのかわからない、ただならぬ事態であることは確かだ。

そこで、右往左往すれば、がむしゃらに動けば、気は紛れるだろう。しかし、解決に近づいている保証はない。むしろ問題をこじらせているだけかもしれない。

遭難したとき、闇雲に動き回れば体力を消耗して、助かるものも助からないということはよくある。それよりも、事態を見極めるため、できるだけ体力を消耗しないように、食料も無駄にしないようにじっと息を潜めて時を待つ、それによって助かることが多い。

2001年、海で遭難した船長が38日間の漂流の末、奇跡的に救助された。助かろうとしなかったことが助かることにつながったときいた。「『あきらめる』というのは仏教用語で、物事をあきらかに見る、とか見極めるという意味」ということも、そこから知った。不安でたまらないときこそ、何もせず事態を見極めるべきなのだが、人の心はととても弱く、現実を見極めるどころか、衝動的にあるいは思いつきで行動して現実から目をそらそうとしてしまうものだ。

以前、他のブログでも書いたが、CUBEという映画のセリフを思い出す。絶望的なトリップが張り巡らされた四角い箱(キューブ)に閉じこめられた人々。脱出をめぐってトラブルが相次ぐ。その時、これまで数々の難攻不落の収容所を脱走してきた脱獄のプロがいう。

考えるな、想像もするな、目の前のことだけに集中しろ

 脱出は難しい。自制心が必要だ

苦しいときこそ、現実を見つめて、むやみに不用意なことはしない。時として、何もしないことが一番の解決につながる。

思い出した、先日、バラエティ番組で、楽天監督 野村克也が言っていた

覚悟にまさる決断なし」もうだめだと思ったら、覚悟を決めて、煮るなり焼くなり勝手にしろ、矢でも鉄砲でも持ってこい!覚悟を決めて素のままで現実に対峙する。

肝に銘じておこう。

 


現実を見ろ

2007年02月19日 | あしたのジョー

第二回目の少年院ボクシング大会は迫っている。収容生たちは、おのおの練習に熱が入る。ジョーは今度こそ、力石に勝ちたいのだが、肝心の段平はジョーに見向きもせず、虚弱な青山を特訓している。当てつけのように・・・

ある時、青山と予選試合をした収容生が血まみれ状態でノックアウトされた。一体何が起こったのか、ひ弱な青山がどんな手でこれほどひどいダメージを与えることができたのか・・ジョーは周りにいた者たちに必死で聞き出そうとするが、皆目見当がつかない。

過敏なまでに青山を気にするジョー。西はいう

「青山の存在や。いままでは目の隅にも感じなかったほどの青山の存在が・・・

今やジョーの中で大きく大きくふくれあがっちょる」

ジョーは反論する

「勝手な推測はやめろっ俺は青山なんざ・・・」

西は言う

 

「自分をごまかすのはいい加減やめにしいな。なんでもっと厳しく現実を見つめようとはせんのや。ほんまはうっすらと気がついておりながら・・・・なして無理に目をそらそうとするんや、ジョーらしくもない」

 

ジョーは青山の凄惨なノックアウト劇を、意地になってたいした問題ではないことにしようとしている。まぐれか何かだと思いこもうとしている。

なぜか?よわっちい青山にそんな芸当ができるわけがない・・・という理由ではないだろう。段平オヤジが一体何を仕込んだのか。自分には何も教えようとせず、こんな短期間にあんな弱い青山をどんな手で、ここまで強くしたのか。そんな方法があるならどうして自分に教えてくれないのだ!そんな思いが、言葉にはしないまでも、心の奥底でジョーを混乱させているのだ。

もう段平には頼らん、自分の力で正々堂々と闘ってやると宣言したものの、ジョーはまだ自信を持てないのだ。昔のジョーなら、何の根拠もなく、青山など鼻にもかけず、自分の強さを疑わなかっただろう。

しかし、ジョーはボクシングの奥深さを知ってしまった。単なるけんかではなく、ボクシングという技術のすごさを。それは、素人の自分にはどうしても及ばない世界だ。師の教えを請わないとだめなのではないか。目の前に段平がいる、段平の力を借りたいという依存心、そしてそれが満たされない事による苛立ち。

独立心と依存心の葛藤がここに起こっている。その葛藤が、現実を冷静に見ることを妨げている。それが手に取るように分かる西は、現実をみろ、そして、冷静に自分の力で現実に対処しろと厳しく指摘するのだ。

ジョーと突き放す段平、突き放されてうろたえるジョーを一見厳しく、しかし、決して見捨てず支え続けようとする西・・この先どうなるのか

ジョーは恵まれてる。ジョーほどの我が強く、人の意見に従わない人間。ともすると、「じゃー勝手にしろ」と放り出されそうな人間だが、根気よくよいことも悪いことも見守ってくれている人たちがいる。

あしたのジョーはあたかもジョーの成長だけが目立つが、段平の的確なセコンド、西の献身的な友情があっての話なのだ。人は一人では生きられない。大勢との関わりが必要なのではない。ほんの一握りの、本当に大切な関係があれば生きていける。本当に大切な関係は輝かしい物でも、誰かに自慢できる物でもない。自分にとってのみ大切な何かだ。他の誰にも認められなくても、自分にとって大事な物を大事にすべきなのだ。自分にとってのみ大事な物を、本当に大事な物というのだ。


自力で

2007年02月16日 | あしたのジョー

少年院全体にボクシング熱が広がっていた。社会のルールから逸脱し、ぐれて生きてきた少年達がルールのある闘いの為に汗水垂らしてトレーニングを始めた。

ジョーも今度こそ力石に勝ちたい。力石はプロのプライドにかけて負けるわけにはいかない。ジョーは段平に「あしたのために=その5,6・・」どんどん教えてほしいと頼んだが、なぜか段平は冷たい。それどころか、よわよわしい青山に、筋がいいといって個人指導を始めた。焦るジョー、いったい何が段平にそんな行動をとらせたのか、自分が失礼なことをしたなら謝るから・・・ついにみなの前で土下座までして、ボクシングをおしえてほしいと懇願したが、それでも段平はジョーの願いに応えることなく去っていった。

プライドまでぼろぼろにされたジョーは雨の中に飛び出し叫ぶ

 

「ようし・・・たのまん。こうなったら意地でも拳キチなんぞのコーチは受けんっ。自力で・・・自力で堂々と対抗試合にのぞんでやるっ」

 

西は「おっおっちゃんとジョーの・・あのふたりの師弟の間には何かあったらしい。炎がメラメラと燃え始めたような気がする。

正体は検討がつかんけど・・・うっかり早わかりしようとしたり、手をふれたりしたりすれば、やけどをするような・・・青白く・・・はげしく・・・あつい炎が・・・や!」

 

当初は、段平にボクシングを強要されることに抵抗し、人の夢に巻き込もうといしているだけだとののしったジョーも、今や段平を必要とするようになっていた。

本気でボクシングに打ち込もうとしたとき、指導者の必要に目覚めたのだ。段平はおもったより優秀なトレーナーだ、力石に勝つには段平の指導が必要だと認めたのだ。何もかもが初めての体験だった。初めて人に頼ること、人に教わることを知ったジョーに待ち受けていた試練は・・・

大人が子供にものを教えるとき、頼らせる指導は容易だ。「なんでも聞きなさい、いつでも頼っていいんだよ。君は一人じゃない。私がついているから大丈夫だよ」

子供の時はそれでいい。しかし、いずれは、長く生きていけば一人で乗り切らなければいけない場面に遭遇するだろう。誰にも頼れない、自分の力で乗り越えるしかない、その時人はどうするのか・・・。

ここで大切なことは、一人で乗り切る力は、しっかりした信頼関係の裏付けの元でしか育たない。しかし、頼る気持があれば、一人で乗り切る力は育たない・・・矛盾だ。

頼ることを教えるのは簡単だ。しかし、頼らない力を身につけさせるのは難しい。一歩間違えば、見捨てられたと思われ傷つくだけだ。信頼関係もこわれてしまう。頼らない力が身につくどころか、せっかく身につけた頼る力も失ってしまう・・・

頼る力を身につけ、その後に頼らない力を身につける・・そうやって人は成長していくのが理想だ。現実には、そんな理想的なトレーナーに遭遇すること、そんな教育者に恵まれること、そんな大人に出会えることは難しい。

 

 


ボクシング

2007年02月12日 | あしたのジョー

力石との闘いは、ジョーの才能に火をつけた。そしてまた、ジョーとの闘いによって力石にも火がついた。

ジョーは段平に「あしたのため4,5,6,7・・早く教えてくれ」と焦る。ジョーの才能を確信したはずの段平だが、何を思ったのか、それ以降何も教えてくれない。片手でクワをつかって耕すのが次に教えることだったと言い、次に進みたかったらそれを続けろというだけだ。

かたや力石は、本気のトレーニングを始めた。もともと自分はプロボクサー、相手はただのチンピラ、素人ボクシング。それなのに、1ラウンドKO宣言を破られるどころか、ダブルKOになってしまった。プロのプライドは二度目の失敗を絶対に許さない!

力石はいう

「もう敵意はねえ、憎悪もねえ。つまりけんかじゃねえってことさ。今度はボクシングをやる・・・じっくりとな!」

練習をみていた収容生がいう

「す・・するてえと・・もうジョーの野郎が憎くねえってんですか?あの小憎らしいジョーの野郎が・・・」

「わからねえやつらだな。ボクシングのリング上にはけんかはない!ありえんのだ!

 

あるべきは高級で非情で磨き抜かれた技術のみだ。芸術なんだ拳闘は!それをついけんかのつもりになったことが、この間の引き分けの原因さ。鈍っていたんだ、長い少年院暮らしで・・・

 

だがよ闘志は別だ。今の俺の闘志は、この間、ジョーとリングでグラブを交えた時とは比べものにはならないぜ。猛り狂っているんだ、腹の底から。闘志がよ!」

それを見た段平は戦慄する。このままでは絶対に勝てない。しかし、この先を教えるのは難しい・・特にジョーの性格では。普通のやり方ではとてもできないだろう。

「あしたのために=その5」いよいよもって教えなくてはならない、それは今までのどれよりも厳しいぜ、残酷だぜ、泣くなよジョー・・・段平は心の中でつぶやいた。

 

懸命にやることと感情的になることの違いは微妙で難しい。一生懸命やろうとすると、人はどうしても感情的になる。感情的になれば、結局は自分の力をだせなくなる。判断力・集中力を失うだけだ。

危機的状況であればあるだけ、感情をコントロールしなくてはならない。感情をむき出しにするのは、ある意味甘えなのだ。自分で解決するというより、自分の感情を分かってくれて、相手が何とかなってくれることを無意識に期待している。自分自身を放り出してしまっているわけだ。

嘆こうがわめこうがどうにもならない時、自分で何とかするしかないとき、その時は冷静さを保たなくてはならない。ここで勘違いしてはいけないのは、人の助けを借りてはいけないという事ではない。人の助けを借りることも、自覚的に意識的にするということだ。「すみません、~なので手を貸してください」と言えばよい。泣きわめいて、あるいは気を失って、誰かが助けてくれるのを待つ。それはそれで仕方がないだろう。目指すところは、冷静に人との助けを求められるようになることだ。そのためには、自分の弱み、限界、羞恥を見せることの恐れを乗り越えなくてはならない。

これもトレーニングだと思う。


ジョーの奇行

2007年02月11日 | あしたのジョー

ボクシングによって、少年院はすっかり変わってしまった。みな目標を見いだしたのだ。苦労する理由、頑張る理由、しかも誰からも強要されたわけではない。目標がはっきりしたので、面白くもない農作業にも力が入る。「これが終われば練習ができる!」

収容生たちが大騒ぎしながら作業をするなか、一人離れて黙々と作業をするジョー。しかもわざわざ苦労するような方法で・・何を考えているのか・・

「なんだあ、あのくわの使い方は・・・左手を怪我でもしとるのかい」

「のんびりやってやがるなあ、ジョー兄いは・・・

片手をポケットにつっこんで作業をやるなんでちいとばかしぶったるんでるんじゃない?」段平も、ドヤ街の子供達もきょとん顔だ。

西は言う

「最近のジョーは・・・一事が万事あの調子なんや

いもほりもスコップを使わず素手で掘り出すし、雑草取りも草の根っこに指を二本づつ引っかけるだけで、青色吐息で引き抜きよる・・・どないつもりが知らんが、わざと骨が折れるようなしかたばかりやりたがるんや

 

西はうすうす気づいていた、ジョーはこの野外作業のすべてをボクシングを結びつけておるんじゃないかと。

段平は驚いた。もしそれが本当なら、自分が思っていた以上の大物だ。段平が確認するとジョーは言った。今度こそ、力石には負けられない。そのためには手首を強くしなくてはいけない。前の試合で、力石のパンチがやたら効いた。それは当たる瞬間に手首がしっかり返っていたからだ。ボクシングの命はスナップだと気づいたのだと。

一試合でそれに気づいた天性の才能がどうかというより、大事なことは、その後のジョーの生き方だ。わざわざ苦労するような事をする。しかし、それは大いなる目標に向かっているわけだ。それだけでどうにかなるわけではない、遠回りでも、馬鹿げた苦労だと人に思われても、自分の信じるところに従って地道に続ける。短時間、短期間頑張ることは誰でもできる。しかし、日々の生活を苦労するやり方に変えていくのは困難なことだ。こういう行為を「行」とか「修行」という。

燃え上がる炎は心の内に秘め、一つ一つ、地道に、すぐに形にはならないことを、あしたを信じて続けること、そういう行為の尊さを今の社会は忘れてしまった。今日やったことの結果があした得られることを望む社会。望む結果が得られないと怒り出す社会・・・

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」昔はよく言われた言葉だ。それが、自分の血肉となり、いつか遠い未来にきっと自分を支える力になる。そう信じて人々は歯をくいしばって生きていた時代・・それがよかったのかどうか分からないが、それが死語になってしまった今の社会は何か寂しい。


秩序の誕生

2007年02月10日 | あしたのジョー

ジョーと力石の死闘は、ダブルノックダウンで終わった。少年院第一回目のボクシング大会は、あまりにも壮絶な幕切れによって、終わってしまうのかと思われた。しかし、予想に反して展開されたのは、他の院生たちがこぞって、自主的にボクシングを始める姿だった。リングを囲んで盛り上がる院生たち。

それを見守る看守たちは、「まるでけんかじゃないか、まったく、めちゃめちゃ流けんかボクシングだ」と揶揄した。

しかし、白木葉子は気づいた。

「いつのまにか、みんなの間に、ちゃんとしたルールがきめられていますわっ。

社会の秩序を守らなかったために、この少年院に送られてきた収容生達の世界に、誰に押しつけられのでもない自主的な秩序が初めて生まれたんです。

それに激しい憎しみをたたきつけあいながらも、とにかく最後までルールのもとに戦い抜いた二人が教えたのだと思います。」

 

段平も同意する。

「限りなく流された血と数知れず繰り返されたダウンとを生け贄に偉大な感動を呼び起こし、その感動のもとに厳しい掟と秩序がみんなの腹の中にしみこんでいったんだ。」

 

言葉では教えられないことがある、本を読んでも伝わらないことがある。人が本当に理解するというのは、頭で理解するのではなく、体で理解するということだ。さまざまな感情を交えた体験、特に恐れ、不安、羞恥、嫉妬、屈辱など、できれば避けたいような感情を伴った体験だけが、本当の意味で人の血となり肉となる。体で覚えたことは忘れない。忘れるわけがない、記憶ではなく心身を巻き込んだ一つのプロセスを細胞が理解したのだから。

一度自転車に乗れるようになった人は、一生、自転車に乗れるといわれる。自転車だけではなく、数限りない一見些細な体験、習慣の積み重ねで今の自分が成立している。習うより慣れろ!という言葉がある。記憶したり頭で理解するのではなく、体が自動的に反応するように訓練するのだ。人にはそういう力が備わっている。

今や、小賢しい知識や記憶の断片、試験をクリアすればおしまいというような些末なことに能力を使わされている。気の毒なことだ。真の体験は、未知なる領域に全身全霊をかけて、ぶつかり、体の痛みと心の痛みを実感しながら、細胞で覚えていくことだ。その時必要なのは、そういった恐ろしいプロセスを、黙って見守ってくれる人の存在だ。その人は、ぎりぎりまで手出しせずに見守り、危ないと思ったら必ず助けてくれる。助けてくれる保証はないのだが、助けてくれると信じられる存在が必要なのだ。

自分の能力に見合った体験を、自分の能力を知った上で見守ってくれる支えの元で、積み重ねることができた人は幸福である。必ずしもそういった生き方ができるわけではない。こういった体験は、経済力も、学歴も、社会的地位も、なにも関係ない。魂と魂の関わりだから。だから、それはドヤ街の中でも、少年院の中でも起こりうることなのだ。逆に、恵まれた家庭で、有名学校にいったとて経験できるとは限らないことなのだ。

そういう意味で人は平等なのだ。見てくれは不平等でも、魂は平等なのだということを忘れてはいけない。


生きていてよかった

2007年02月06日 | あしたのジョー

特等少年院内で、ついにジョーと力石の試合が始まった。力石は、少年院に入る前はプロボクサーで大型新人といわれていた実力の持ち主だ。にわか仕込みのボクシングで勝ち目はあるわけはない。

段平は、試合前にジョーに一撃必殺のクロスカウンターを伝授した。試合でジョーは、何度も何度もダウンを奪われた。半死半生の状態、そこにとどめを刺そうと全力で襲いかかる力石。そのタイミングを待っていたジョーのクロスカウンターが炸裂した。

両者ノックダウンで試合は終わった。

試合後、段平は語る

「勝ったといわせてもろうても、さしつかえあるまい。まるっきりの素人が、プロの大型新人と引き分けたんだ

・・・さっき 偶然の怪我の功名というたが・・・それも、数限りないダウンから、数限りなく立ち上がったジョーの根性があったればこその話」

 

「なんちゅうか・・・流れ流れてドヤ街までしずみ、さんざん人にさげすまれて生きてきたが・・・

生きとってよかったと・・・しみじみ思っとるぞ・・・・

なあ、わしのジョーよ・・・う・・・ううう う・・・・う おおお・・・うおおおおお~~おおっ・・」

 

段平は泣いた、勝った負けたではない。ジョーと出会えたことのうれしさに泣いた。

しみじみ思った、今までの自分の人生は、どうしようもないものだった。しかし、それはすべて、ここでジョーに出会うためのものだったのだと段平は確信したのだろう。

損得ではない、ジョーにボクシングの才能があり、こいつならチャンピオンになれると計算できたからでもない。こんなすばらしい男に出会えたことがうれしい。その先、どんな運命が待っていようがかまわない。この男とともに生きて死ねるのなら、それでいい。未来など保証されていなくても、あしたを信じてともに生きていける。そう、ともに生きて行くに足る男に出会えたことが、心から魂のそこからうれしい。その喜びに段平はむせび泣いたのだ。

男が男に惚れる、人が人に惚れる。男女間のすいたほれたの話ではない。人は誰かを心から信じることができれば、他に何もなくても生きていける。どんな屈辱にも耐えることができる。たぶんそうだ・・と思う。