
質問です。
第2バチカン公会議に関する記事を読みました。第2バチカン公会議でリベラル派の草案が審議を通過してしまったことは大変驚きました。何故教皇様がそれを認めてしまっているのかがとても疑問に思います。歴代の教皇様によって誤謬だと認められてきたことまでもが認められるのは何かおかしいような気がいたします。いったい、バチカン内はどうなってしまったのでしょうか?これは大変なことだと言わなければなりませんね。
(匿名)
ご質問ありがとうございました。お答えします。
何故第2バチカン公会議で、歴代の教皇様たちによって誤謬として排斥されてきたことが、今度は声高く認められるようになってしまったのでしょうか?
おそらく、近代主義と呼ばれている非常に主観的な異端説のために、「昨日までは『間違い』とするのが賢明であったことが、今では新しく解釈し直して正しいとされなければならない、そうすることが賢明である」と間違って考える人が増えてしまったからではないでしょうか?
つまり、「真理は時と場所によって変わり、進化する」と誤った考えをする人が第2バチカン公会議で幅をきかせてしまったのではないでしょうか?
(教会によって排斥された近代主義については、聖ピオ10世の回勅『パッシェンディ』(1907年9月8日)をお読み下さい。)
ところで、現代の高位聖職者たちのメンタリティーについて、今年の7月に来日されるウィリアムソン司教様は、次のようなことを述べておられます。以下にその要点を申し上げます。
+ + +
故マラカイ・マルティン(Malachi Martin)は、その『この血の鍵“The Keys of This Blood” 』(1990)と言う本の中で、「ユダ・コンプレックス」という章を書いていますが、マラカイ・マルティンはカトリック教会の高位聖職者が第2バチカン公会議の新しい教会作りへと堕ちていったことをイスカリオトのユダと比較しています。ちょっと目には、現代カトリック教会で一生懸命働いておられる司教様たちや枢機卿様たちをイスカリオトのユダと比較するなどとは、あまりにもひどすぎる、乱暴であると思われるかも知れません。いくら何でも今の司教様や枢機卿様たちはイスカリオトのユダのように悪人ではないでしょう。
イスカリオトのユダも、初めはそんなに悪い男ではなかったのではないでしょうか。聖福音は私たちの主イエズス・キリストを裏切ることになるこの使徒について多くを語りません。御受難の前に12使徒の中に名前を加えられているだけです。ただ御受難の数日前に、マグダラのマリアが私たちの主イエズス・キリストの足に高価な香油を塗るのを見たユダは、しみったれたこと言って彼女に愚痴を言います。その時、聖ヨハネはユダが「会計係」の職務を裏切って盗みをはたらいていたことを述べています(ヨハネ12:2−6)。
私たちの主イエズス・キリストがこのときユダを優しくたしなめますが(マテオ26:10−13)もしかしたら、このためにユダは私たちの主を司祭長たちに銀貨30枚で売ろうと考えるようになったのかも知れません(マテオ26:14−16)。イスカリオトのユダは、最後の晩餐では何事もなかったかのように振る舞い、席を中座します。裏切り者はゲッセマニの園で私たちの主に接吻をし、後で背信したことに絶望します。血の値の金を司祭長たちに投げ返し、自分は自殺します。では、何故ユダはここまでするようになってしまったのでしょうか?福音書はそれについてほとんど語りません。
イスカリオトのユダの悲劇を考えると人間に与えられた自由意志という現実に突き当たります。私たちの主はユダがご自分を裏切るだろうと言うことを永遠の昔から誤ることなくよくご存じでした。私たちの主がもしイスカリオトのユダを使徒の一人としてお受けしたなら、私たちの主は天主として必ず、ユダの必要に応じたより大きな莫大な聖寵の恵みを降り注ぐようにこの使徒に恵んでいたに違いありません。もしもユダがそれを望んだならば、使徒職の3年間の間、全く自由に、完璧に望みのままに回心することが出来たのでなかったならば、私たちの主は使徒として彼を受け入れなかったでしょう。
しかしイスカリオトのユダはついに回心を望みませんでした。
マリア・ヴァルトルタは、『天主なる人の詩』という5冊の本の中で、イスカリオトのユダの性格を詳しく描写しています。この本はいろいろな議論を醸し出しています。ところで、「私たちの主によって述べられた」と言われていることの中に、面白い指摘があります。何故20世紀の半ば(教会内部で高位聖職者たちの背信を多く目の当たりにする特に現代!)に何故私たちの主がこのようなパノラマを見せたかというと「天主が特別の恵みを施した霊魂が堕落したその神秘を知らせるため、・・・天主のしもべと天主の子らがどのような経過をたどって堕落していき、悪魔のようになり、ついには天主を殺してしまうようになるか、自分たちの霊魂にある聖寵を殺すことによって、霊魂に住まわれる天主を殺すようになるのかということを知らせるため、・・・ユダという恐ろしいが非常にどこにでもある人物を良く研究しなさい・・・。どれほど多くの人々がユダを真似て、自分をサタンに渡して永遠の滅びへと突進していることか。」という理由だというのです。この本については、皆さんがご判断下さい。
ところでこの本では、イスカリオトのユダは知性的で才能のある、単純ではなく傲慢な、肉欲を求めこの世的な男として描かれています。ユダはイエズスの素晴らしい性格に気づきイエズスこそイスラエルの王であり救い主であると見抜くのです。ユダは何度も何度もイエズスに使徒の一人として受け入れてくれるように頼み込みます。イエズスの使徒の一人となれば王たるキリストの勝利に彼も与ることが出来るからです。ところで私たちの主はユダに何度も何度もご自分の王国が霊的な王国であることを警告します。表向きにはユダはイエズスの主張を受け入れます。しかし内部ではユダは自分の考えを捨てませんでした。イエズスは使徒となることがユダにとって、彼の回心と救いへとつながる最善の或いは唯一のものであるとご存じであったので、ついにユダの度重なる要求に道を譲り、彼が使徒となることを許すのです。
この本によると、3年間ユダは決して悪い男ではありませんでした。私たちの主は忍耐強く彼に教えました。ユダは自分の心の堅さを嘆いて涙を流し、良くなろうと心から努力するのです。しかし、このような時は過ぎ、特に嘘を平気でつくようになり、この世と肉欲と悪魔とに徐々に戻っていくのです。ついにユダはイエズスが単なる人間に過ぎないと確信するようになります。そしてユダヤの神殿当局がイエズスの亡き者にしようとしているのは正しいことであると思いこむのです。私たちの主は、ユダの滅びを食い止めたいと望みながら、それと同時に彼の自由を尊重します。イエズスの聖心は、ゲッセマニの園という最後の最後まで優しくユダに回心を促すのです。「友よ、おまえはここに何をしに来たのか?」と。
マラカイ・マルティンは次のようなことを書いています。"The Keys of This Blood" (pp. 660-676)
ユダは、最善の意向を持って私たちの主に仕えようとして使徒職を始め、多くの聖寵を受けました。ユダは私たちの主を捨て去ろうなどとは思ったこともなかったのです。私たちの主は、ユダに完全な自由を与えて望みのままイエズスから離れることを出来るようにしていたにもかかわらず、ユダは決して離れようとせず、常に御許にとどまったからです。
同じように、新しい教会を造ろうとしている聖職者たちは、自分の召命を非常によい意向で始めました。彼らは多くの聖寵を受け、私たちの主を愛しました。彼らには私たちの主を離れようという意向も、私たちの主の教会を破壊しようなどという意向も全くありません。それはユダと同じことです。ただ彼らが望むのは、私たちの主が自分たちの考えている通りにこの世に適応してくれることです。
ユダはイエズスの王国を心から望みました。そして将来の王国で自分が重要な役割を果たすことを。しかしイエズスは、政治的な王国を立てることを拒んだだろうし、神殿当局とぶつかり合うことを厭わなかっただろうし、この世離れしている生き方を止めようとしなかったでしょう。もしイエズスがユダの賢い意見を聞き入れて、神殿当局と仲良くなり、この世の生き方を理解さえしたら、適当な妥協をすることでイエズスはこの世的に大成功するでしょうし、イエズスの特別な才能と神殿当局の世俗的な影響力とが結び合わさってイエズスの王国は実現するでしょう。(しかしイエズスは、頑なにユダの意見を受け容れようとしないのです!)
同様に新しい教会を造ろうとしている聖職者たちは、カトリック教会が凱旋することと、自分たちが新世界秩序において重要な役割を果たすことを心の底から望んでいます。しかしカトリックの聖伝は、彼らの考えに興味がありません。実際、カトリックの聖伝はこの世とその支配者たちを排斥して止まないのです。新しい教会を造ろうとしている聖職者たちはそれに引き替えこの世を良く理解しています。もしもカトリック信者が、新しい教会を造ろうとしている聖職者たちの意見に聞き従ってくれたなら、全てのカトリック信者が聖伝を現代化することに同意してくれたなら、適当な妥協をすることによってカトリック教会は世界中で大成功をおさめるでしょう!聖伝の力と現代社会の革命の理想とが結びついて教会は大発展するでしょう。(しかし聖伝は、頑なに新しい教会を造ろうとしている聖職者たちの言うことを受け入れようとしないのです!)
ついにユダはイエズスがあまりにもこの世的ではないことにがっかりし目が覚めるのです。そして私たちの主が天主であると言うことを信じなくなっていまいます。イエズスは自分の才能を非現実的な王国のために無駄に使っており、普通の現実的な神殿当局に非常な迷惑をかけているのであるから、神殿当局がイエズスを処罰するのが良いだろう、と思うのです。
同様に、第2バチカン公会議以前の教会が現代世界と巧くやっていくことに失敗し、それに疲れた第2バチカン公会議以前の高位聖職者たちは、カトリックの聖伝が天主に由来するものであることを信じなくなってしまうのです。カトリックの聖伝は、素晴らしい現代世界のやり方への障害以外の何ものでもないので、公会議が聖伝をこの世に引き渡すのがもっとも良いだろうと考えるのです。そこで第2バチカン公会議というこの世との歴史的な妥協というユダの裏切りが起こり、私たちの主と現代世界を支配している敵とを織り混ぜ合わせた作った曖昧なものができ、私たちの主の聖伝を現代世界の権力者に引き渡したのです。
新しい教会を造ろうとしている聖職者たちは、客観的に見るとユダですが、カトリック教会の善を思って善意で新しい教会を造ろうとしているのです。実に彼らは「聖戦を戦っている」ユダです。なぜなら新しい教会を造ることによって、カトリック教会を彼らの理想の通りに改革することによって、教会とこの世界との両方が救われると彼らは確信しているからです。彼らはカトリックの聖伝がそのままであってはいけないと信じ、聖伝をこの世と妥協させなければならないと思いこんでいるのみならず、まだ教会内に残っている聖伝の残骸をも自分たちの思っている妥協の中に引きずり込むことをしなければならないと考えているのです。
ある日、新しい教会を造ろうとしている聖職者たちは、同じいにしえの悪しき世のために巨大な問題を抱えることになるでしょう。そして好むこと好まざるに関わらず、彼らはカトリックの聖伝に立ち戻らなければならないことでしょう。その時彼らはまた再び真の意味でカトリック教会の聖職者となり、この世とその精神を排斥するでしょう。その時、バチカンで働く聖職者たちが健康な精神状態に戻った時、彼らはカトリックの聖伝にいかなる問題も見つけ得ず、ましてや聖ピオ十世会に対しては勿論のことです。
願わくは、この日までカトリックの聖伝に私たちが皆忠実である恵みを天主が私たちに与え給わんことを!
2002年3月1日
+ウィリアムソン司教
(翻訳:トマス小野田圭志)
第2バチカン公会議に関する記事を読みました。第2バチカン公会議でリベラル派の草案が審議を通過してしまったことは大変驚きました。何故教皇様がそれを認めてしまっているのかがとても疑問に思います。歴代の教皇様によって誤謬だと認められてきたことまでもが認められるのは何かおかしいような気がいたします。いったい、バチカン内はどうなってしまったのでしょうか?これは大変なことだと言わなければなりませんね。
(匿名)
ご質問ありがとうございました。お答えします。
何故第2バチカン公会議で、歴代の教皇様たちによって誤謬として排斥されてきたことが、今度は声高く認められるようになってしまったのでしょうか?
おそらく、近代主義と呼ばれている非常に主観的な異端説のために、「昨日までは『間違い』とするのが賢明であったことが、今では新しく解釈し直して正しいとされなければならない、そうすることが賢明である」と間違って考える人が増えてしまったからではないでしょうか?
つまり、「真理は時と場所によって変わり、進化する」と誤った考えをする人が第2バチカン公会議で幅をきかせてしまったのではないでしょうか?
(教会によって排斥された近代主義については、聖ピオ10世の回勅『パッシェンディ』(1907年9月8日)をお読み下さい。)
ところで、現代の高位聖職者たちのメンタリティーについて、今年の7月に来日されるウィリアムソン司教様は、次のようなことを述べておられます。以下にその要点を申し上げます。
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故マラカイ・マルティン(Malachi Martin)は、その『この血の鍵“The Keys of This Blood” 』(1990)と言う本の中で、「ユダ・コンプレックス」という章を書いていますが、マラカイ・マルティンはカトリック教会の高位聖職者が第2バチカン公会議の新しい教会作りへと堕ちていったことをイスカリオトのユダと比較しています。ちょっと目には、現代カトリック教会で一生懸命働いておられる司教様たちや枢機卿様たちをイスカリオトのユダと比較するなどとは、あまりにもひどすぎる、乱暴であると思われるかも知れません。いくら何でも今の司教様や枢機卿様たちはイスカリオトのユダのように悪人ではないでしょう。
イスカリオトのユダも、初めはそんなに悪い男ではなかったのではないでしょうか。聖福音は私たちの主イエズス・キリストを裏切ることになるこの使徒について多くを語りません。御受難の前に12使徒の中に名前を加えられているだけです。ただ御受難の数日前に、マグダラのマリアが私たちの主イエズス・キリストの足に高価な香油を塗るのを見たユダは、しみったれたこと言って彼女に愚痴を言います。その時、聖ヨハネはユダが「会計係」の職務を裏切って盗みをはたらいていたことを述べています(ヨハネ12:2−6)。
私たちの主イエズス・キリストがこのときユダを優しくたしなめますが(マテオ26:10−13)もしかしたら、このためにユダは私たちの主を司祭長たちに銀貨30枚で売ろうと考えるようになったのかも知れません(マテオ26:14−16)。イスカリオトのユダは、最後の晩餐では何事もなかったかのように振る舞い、席を中座します。裏切り者はゲッセマニの園で私たちの主に接吻をし、後で背信したことに絶望します。血の値の金を司祭長たちに投げ返し、自分は自殺します。では、何故ユダはここまでするようになってしまったのでしょうか?福音書はそれについてほとんど語りません。
イスカリオトのユダの悲劇を考えると人間に与えられた自由意志という現実に突き当たります。私たちの主はユダがご自分を裏切るだろうと言うことを永遠の昔から誤ることなくよくご存じでした。私たちの主がもしイスカリオトのユダを使徒の一人としてお受けしたなら、私たちの主は天主として必ず、ユダの必要に応じたより大きな莫大な聖寵の恵みを降り注ぐようにこの使徒に恵んでいたに違いありません。もしもユダがそれを望んだならば、使徒職の3年間の間、全く自由に、完璧に望みのままに回心することが出来たのでなかったならば、私たちの主は使徒として彼を受け入れなかったでしょう。
しかしイスカリオトのユダはついに回心を望みませんでした。
マリア・ヴァルトルタは、『天主なる人の詩』という5冊の本の中で、イスカリオトのユダの性格を詳しく描写しています。この本はいろいろな議論を醸し出しています。ところで、「私たちの主によって述べられた」と言われていることの中に、面白い指摘があります。何故20世紀の半ば(教会内部で高位聖職者たちの背信を多く目の当たりにする特に現代!)に何故私たちの主がこのようなパノラマを見せたかというと「天主が特別の恵みを施した霊魂が堕落したその神秘を知らせるため、・・・天主のしもべと天主の子らがどのような経過をたどって堕落していき、悪魔のようになり、ついには天主を殺してしまうようになるか、自分たちの霊魂にある聖寵を殺すことによって、霊魂に住まわれる天主を殺すようになるのかということを知らせるため、・・・ユダという恐ろしいが非常にどこにでもある人物を良く研究しなさい・・・。どれほど多くの人々がユダを真似て、自分をサタンに渡して永遠の滅びへと突進していることか。」という理由だというのです。この本については、皆さんがご判断下さい。
ところでこの本では、イスカリオトのユダは知性的で才能のある、単純ではなく傲慢な、肉欲を求めこの世的な男として描かれています。ユダはイエズスの素晴らしい性格に気づきイエズスこそイスラエルの王であり救い主であると見抜くのです。ユダは何度も何度もイエズスに使徒の一人として受け入れてくれるように頼み込みます。イエズスの使徒の一人となれば王たるキリストの勝利に彼も与ることが出来るからです。ところで私たちの主はユダに何度も何度もご自分の王国が霊的な王国であることを警告します。表向きにはユダはイエズスの主張を受け入れます。しかし内部ではユダは自分の考えを捨てませんでした。イエズスは使徒となることがユダにとって、彼の回心と救いへとつながる最善の或いは唯一のものであるとご存じであったので、ついにユダの度重なる要求に道を譲り、彼が使徒となることを許すのです。
この本によると、3年間ユダは決して悪い男ではありませんでした。私たちの主は忍耐強く彼に教えました。ユダは自分の心の堅さを嘆いて涙を流し、良くなろうと心から努力するのです。しかし、このような時は過ぎ、特に嘘を平気でつくようになり、この世と肉欲と悪魔とに徐々に戻っていくのです。ついにユダはイエズスが単なる人間に過ぎないと確信するようになります。そしてユダヤの神殿当局がイエズスの亡き者にしようとしているのは正しいことであると思いこむのです。私たちの主は、ユダの滅びを食い止めたいと望みながら、それと同時に彼の自由を尊重します。イエズスの聖心は、ゲッセマニの園という最後の最後まで優しくユダに回心を促すのです。「友よ、おまえはここに何をしに来たのか?」と。
マラカイ・マルティンは次のようなことを書いています。"The Keys of This Blood" (pp. 660-676)
ユダは、最善の意向を持って私たちの主に仕えようとして使徒職を始め、多くの聖寵を受けました。ユダは私たちの主を捨て去ろうなどとは思ったこともなかったのです。私たちの主は、ユダに完全な自由を与えて望みのままイエズスから離れることを出来るようにしていたにもかかわらず、ユダは決して離れようとせず、常に御許にとどまったからです。
同じように、新しい教会を造ろうとしている聖職者たちは、自分の召命を非常によい意向で始めました。彼らは多くの聖寵を受け、私たちの主を愛しました。彼らには私たちの主を離れようという意向も、私たちの主の教会を破壊しようなどという意向も全くありません。それはユダと同じことです。ただ彼らが望むのは、私たちの主が自分たちの考えている通りにこの世に適応してくれることです。
ユダはイエズスの王国を心から望みました。そして将来の王国で自分が重要な役割を果たすことを。しかしイエズスは、政治的な王国を立てることを拒んだだろうし、神殿当局とぶつかり合うことを厭わなかっただろうし、この世離れしている生き方を止めようとしなかったでしょう。もしイエズスがユダの賢い意見を聞き入れて、神殿当局と仲良くなり、この世の生き方を理解さえしたら、適当な妥協をすることでイエズスはこの世的に大成功するでしょうし、イエズスの特別な才能と神殿当局の世俗的な影響力とが結び合わさってイエズスの王国は実現するでしょう。(しかしイエズスは、頑なにユダの意見を受け容れようとしないのです!)
同様に新しい教会を造ろうとしている聖職者たちは、カトリック教会が凱旋することと、自分たちが新世界秩序において重要な役割を果たすことを心の底から望んでいます。しかしカトリックの聖伝は、彼らの考えに興味がありません。実際、カトリックの聖伝はこの世とその支配者たちを排斥して止まないのです。新しい教会を造ろうとしている聖職者たちはそれに引き替えこの世を良く理解しています。もしもカトリック信者が、新しい教会を造ろうとしている聖職者たちの意見に聞き従ってくれたなら、全てのカトリック信者が聖伝を現代化することに同意してくれたなら、適当な妥協をすることによってカトリック教会は世界中で大成功をおさめるでしょう!聖伝の力と現代社会の革命の理想とが結びついて教会は大発展するでしょう。(しかし聖伝は、頑なに新しい教会を造ろうとしている聖職者たちの言うことを受け入れようとしないのです!)
ついにユダはイエズスがあまりにもこの世的ではないことにがっかりし目が覚めるのです。そして私たちの主が天主であると言うことを信じなくなっていまいます。イエズスは自分の才能を非現実的な王国のために無駄に使っており、普通の現実的な神殿当局に非常な迷惑をかけているのであるから、神殿当局がイエズスを処罰するのが良いだろう、と思うのです。
同様に、第2バチカン公会議以前の教会が現代世界と巧くやっていくことに失敗し、それに疲れた第2バチカン公会議以前の高位聖職者たちは、カトリックの聖伝が天主に由来するものであることを信じなくなってしまうのです。カトリックの聖伝は、素晴らしい現代世界のやり方への障害以外の何ものでもないので、公会議が聖伝をこの世に引き渡すのがもっとも良いだろうと考えるのです。そこで第2バチカン公会議というこの世との歴史的な妥協というユダの裏切りが起こり、私たちの主と現代世界を支配している敵とを織り混ぜ合わせた作った曖昧なものができ、私たちの主の聖伝を現代世界の権力者に引き渡したのです。
新しい教会を造ろうとしている聖職者たちは、客観的に見るとユダですが、カトリック教会の善を思って善意で新しい教会を造ろうとしているのです。実に彼らは「聖戦を戦っている」ユダです。なぜなら新しい教会を造ることによって、カトリック教会を彼らの理想の通りに改革することによって、教会とこの世界との両方が救われると彼らは確信しているからです。彼らはカトリックの聖伝がそのままであってはいけないと信じ、聖伝をこの世と妥協させなければならないと思いこんでいるのみならず、まだ教会内に残っている聖伝の残骸をも自分たちの思っている妥協の中に引きずり込むことをしなければならないと考えているのです。
ある日、新しい教会を造ろうとしている聖職者たちは、同じいにしえの悪しき世のために巨大な問題を抱えることになるでしょう。そして好むこと好まざるに関わらず、彼らはカトリックの聖伝に立ち戻らなければならないことでしょう。その時彼らはまた再び真の意味でカトリック教会の聖職者となり、この世とその精神を排斥するでしょう。その時、バチカンで働く聖職者たちが健康な精神状態に戻った時、彼らはカトリックの聖伝にいかなる問題も見つけ得ず、ましてや聖ピオ十世会に対しては勿論のことです。
願わくは、この日までカトリックの聖伝に私たちが皆忠実である恵みを天主が私たちに与え給わんことを!
2002年3月1日
+ウィリアムソン司教
(翻訳:トマス小野田圭志)