カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

第2バチカン公会議とは:5

2017-01-18 21:06:41 | 第二バチカン公会議
第2バチカン公会議とは:5

 私たちは、今から第2バチカン公会議がこの2つの形態のどれにも入らないことを見てみます。そして、この2つの形態のどちらでもない場合の教導職の権威について検討してみます。

異論4:公会議は「公会議後の教会」の教導職の表現である

 カトリック教会の教導権は単なる正真の教導職であって不可謬とは限らないとしても、大きな権威を持っています。この権威には敬虔な内的な服従が要求されます。ですから、この権威を批判するには細心の注意が必要です。では、第2バチカン公会議は、カトリック教会の正真の教導権を体現しているのでしょうか。

 たしかに、正真の教導権であるために必要な能動因(causa efficiens)が備わっています。なぜなら教皇と司教たちが行った公会議だからです。しかし、質料因はどうでしょうか?つまり、啓示された信仰の遺産の伝達が在ったと言えるでしょうか?

 ラッチンガー枢機卿(Cardinal Ratzinger)は、公会議は教会の外に生まれた教義、つまり私たちの主イエズス・キリストに対立するこの世から来た教えを、教会の中に導入させるために開かれたと言っています。

「第2バチカン公会議が教会と世界とのかかわりの見なおしを望んだのにはそれなりの理由があった。事実、たとえ教会の外に生まれたとしても、正しくふるいにかけられれば教会のヴィジョンの中に受け入れられる諸価値も存在する。この幾年かにこの任務は実施された。それにしても、教会と世界という2つの現実が葛藤もなく出会い、さらにはためらうこともなく一体化することができると考えるような人は、教会のことも世界のことも知っていないことになろう。」(メッソーリ『信仰について——ラッツィンガー枢機卿との対話』p49分かりやすくするために訳し変えたところもあります。)

 確かに公会議には、ラッチンガー枢機卿の述べていることに類比することがあります。

「公会議はまず第1に、今日特に高く評価されているような諸価値を、信仰の光のもとに判断し、その源泉である天主に関係付けようと考える。これらの価値は天主が人間に与えた才能から生み出されたものである限り、非常に良いものであるが、人間の心の腐敗によって、それらが正しい秩序からはずされることも稀ではない。そこで浄化が必要となる。」(現代世界憲章11)

 公会議はこれらの価値を「判断し」、「浄化」することを語っています。しかし、公会議はいかなることも排斥しませんでした。このような排斥もせずに、どのように判断し浄化することができたでしょうか。ただ教父たちの大多数が受け入れてくれるようなやり方でこれらの価値を「関係付けようと」するにとどまったのではないでしょうか。この価値を愛し、賛美し、褒め称えることをのみしたのではないでしょうか。

 公会議は更に「司祭の役務と生活に関する教令」の中でも、「教会の内的刷新、全世界における福音の宣布、現代世界との対話という司牧的目的を達するため」と、第2バチカン公会議固有の目的を述べています。

 この現代世界との対話についてパウロ6世教皇が第2会期の開催演説の中でこう語っています。

「公会議は、現代社会に通ずる橋をかけることを望んでおります。…あなた方もまた、あなた方の仕事にではなく人類家族の仕事に従事し、またあなた方同志のではなく人々との対話を望まれたのです。」(『歴史に輝く教会 公会議解説叢書6』 p364)

 この同じパウロ6世は、1965年12月7日、公会議の有名な閉会(第9公開会議)の演説の中で、公会議とこの世の人間中心の価値との関係についてこう言っています。この演説の内容は、その当時日本の訳者の理解を超えるものだったようです。

「天主から切り離された世俗的な人間中心主義L'humanisme laique et profaneが、恐るべき巨大さをもって現れ、いわば公会議に挑戦してきました。

 人となった天主の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。紛争でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。良きサマリア人の昔の話が公会議の霊性のモデルでした。すなわち、限りない好感(sympathie sans bornes)が公会議全体を侵略しました。人間の必要を発見し(そしてこの地上の子がますます自分を偉大とするに従って、この必要はますます大きくなるのです)それが私たちの会議の注意をまったく奪い取りました。

 現代の人間中心主義者humanismeである皆さんも、少なくともこの功績を公会議に認めてください。あなた方は最高の諸現実の超越性を放棄していますが、私たちの新しい人間中心主義humanismeを認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するle culte de l'hommeものなのです。…愛情と賛美の流れが公会議から現代世界にあふれて流れ出しました。」(『歴史に輝く教会 公会議解説叢書6』 p444)

 公会議は現代世界の価値、特にそのリベラリズムと人間中心主義を自分のものとして取り入れることに専念しました。しかし、教導職はこの世の価値を自分のものとするためにあるのではありません。教導職は啓示された信仰の遺産を伝達するためにあるのです。

「何故なら、聖霊はペトロの後継者に約束されたが、それは彼らが聖霊の啓示のもとに新しい教義を知らしめるためではなく、使徒たちによって伝えられた啓示、すなわち信仰の遺産を、聖霊の助力を持って彼らが聖なるものとして守り、忠実に提示するためであった」(第1バチカン公会議)からです。

 私たちの主はこう言っていたではなかったでしょうか。「私の教えは私のものではなく、私を遣わされたお方の教えである」(ヨハネ7:16)と。そして私たちの主イエズス・キリストは、ご自分が真実な方であるということを証明するためにこうおっしゃったのです。「自分で語るものは自分光栄を求めているが、遣わしたものの光栄を求めるものは真実であって、その中にはうそは無い。」(ヨハネ7:18)「弟子は先生以上のものではない。」(マテオ10:24)もしも教導職を代表する人々が、彼らを遣わしになった方の教えを教えていないとすると、彼らの教えの真実性を確実に信じることができません。

ピオ12世教皇はその回勅フマニ・ジェネリスの中でこう言っています。

「天主は実にその教会に、私の既に言いました諸源泉と共に、生ける教導職を與えました。これは信仰の遺産の中にぼんやりとしか、いわば暗示的にしか含まれていないことを明らかに照らしそれを取り出すためです。」

 すると、次のような反論があるかもしれません。教会は教会外に生まれた真理を自分のものとして取り入れたことがあるのではないか、例えばアリストテレスの哲学をその真の部分において受け入れたではないか、と。

 区別を明確にしなければなりません。ガリグ・ラグランジュの言う通り教会はアリストテレスの全哲学を自分のものとしたのではなく、この哲学の中に表明された常識を取り入れたのでした(cf. R. Garrigou-Lagrange, Le Sens Commun, la philosophie de l'etre et le formules dogmatiques, Paris, Desclee de Brouwer, 1936)。教会は人間の自然な理性の働きの結果を取りれたのです。何故なら、教会は人間の自然な理性の働きには反対するのではないからです。

 第2バチカン公会議において同化しようとした「価値」と言うのは、ルフェーブル大司教の言うように「フランス革命の原理であり、人権」だったのです。つまり、一言で言うと、教会の教導職によって何度も何度も繰り返し排斥された自由放埓主義(リベラリズム)だったのです。

 ピオ9世教皇は1864年にシラブスの中で次の命題を排斥したではないでしょうか。

「ローマ教皇は進歩と自由主義と新しい文明と和解し歩調を合わせることができるし、そうしなければならない。」Romanus Pontifex potest ac debet cum progressu, cum liberalismo et cum recenti civilitate sese reconciliare et componere. (DS2980)

 更に次のような反論があるかもしれません。天主が啓示した事柄を判断するのは私たちに属することではなく、従って、天主が啓示した内容ではないことを教導職が私たちに話しているからと言って、この教導職の行使を私達は拒否する権利は無いのではないか、と。

 この議論は、教導職が不可謬権を行使して何かを教えている場合になら、当てはまるかもしれましん。しかし、第2バチカン公会議の場合は、不可謬ではない教導職を使っています。過去の最も有名で権威のある神学者たちは、教導職が過去の教導職、あるいは人間の理性と矛盾対立する場合のことを取り扱っています。信仰は理性の上に接がれて、理性を完成するものです。信仰は理性を破壊するものではありません。権威ある神学者達によれば、そのような時には教導職は権利を乱用しているのであって、彼らの教えには権威が無いと言っています。

 聖トマス・アクイナスは、もし権威者が自分の範囲外のことに関して権威を行使するときには、彼らに従ってはならないと言っています。

「もし長上が目下に、自分がその長上の下に属していない範囲のことについて命令を下すとき、この目下は自分の長上に従う義務を負わない。」(II-II, q. 104, a. 5)

 また、次のような反論があるかもしれません。公会議の目的はいろいろあって、リベラルな価値や人間中心主義的な価値を受け入れるためだけにあったのではない、と。

 ところで、カトリック神学はこう教えています。Bonum est integra causa, malum ex quocumque defectu.つまり、善が成り立つためには全てが揃っていなければならず、必要なものが欠けている場合には、それが何であろうと悪いものとなる、ということです。

 教導職の目的とはなんでしょか。教導職の存在理由は、天主のした啓示をそのまま伝達することです。もし、この伝える内容に別物を入れてしまったとしたら、教導職の対象を変えてしまい、ついには教導職の本質までも変えてしますことを意味します。もし、教導職の中に、リベラルな価値や人間中心主義を混ぜてしまったら、この変化は付属的なことではなく本質的な変化を意味するのではないでしょうか。もし、そうなら、第2バチカン公会議の教導職は、一体何の権威を持ってこれらを教えているのでしょうか。第2バチカン公会議の教導職に属する権威は、新しいタイプの権威ではないでしょうか。つまり、純粋に人間による教導職ではないでしょうか。ちょうど大学の教授が自分の権威を持って何かを教えているのに似た権威ではないでしょうか。

 カトリックの教導職は、天主の権威を持って語ります。普遍の絶対の真理を天主の権威を持って押し付けるのです。カトリックの司教達は、リベラルなこの世の価値や、他宗教の価値、人間中心の世界観をカトリック信者に教えるために牧者や教師と立てられているのではありません。聖霊はこれらを教えるために司教たちに与えれれるのではありません。もし司教達が、この世の価値や、人間中心の世界観を教えるとしたら、それは自分の素質や自分の教養に訴えて教えるのです。司教達はカトリック司教としてではなく、「人間に関する専門家experts en humanité」としてこれを教えている、と言えるではないでしょうか。

 もちろん、第2バチカン公会議の教えの中には、それ以前のカトリックの教導職の教えの一部がありえます。その場合には、この教えは、カトリック教導職の持つ権威をそのまま教授し、第2バチカン公会議の中で取り上げられたからと言ってその権威が無くなるわけではありません。ただし、第2バチカン公会議の中で取り上げられたからと言って、その教えの権威が補足されたということは少しもありえません。

 また、第2バチカン公会議の教えの中には、それ以前のカトリックの教導職が教えた教えと矛盾対立するものがあります。例えば、信教の自由に関する宣言や、偽りの宗教の価値についてです。第2バチカン公会議の中にこのような矛盾対立が存在すると言うことは、公会議に集った「人類に関する専門家」たちは、この問題を取り扱うのに、自分たちが思っていたよりも大したことがなかったと言えましょう。従って、彼ら私達は信頼すると言うよりも、不信の念を抱くのが相応しいのではないでしょうか。

 フィレンツェの公会議で出されたアルメニア人のための宣言について、フランスの有名な雑誌『聖職者の友L'Ami de Clerge』誌は、編集長が次のように書いています。この記事は、たとえ公会議によって公布された宣言であっても、これはまったく権威の無いものであると言っています。この記事は、フランスの権威のある大辞典である『カトリック神学大辞典』に引用されています。そして、この引用を持って、最後の意見についての私たちの議論を終えることにします。

「この文書全体を、その形式とその内容において、通常教導権に復元してみると、もっと賢明で同時にもっと単純な、首尾一貫としたものになるのではないだろうか。…公会議は定義を下しているところはどこにもない。従ってここに私達は権威plena auctoritasに関する誤りを見ることができる。公会議が特別教導職の荘厳な権威を持って介入しているところはどこにもない。…

 ここから何が言えるだろうか。もしこの論理が正しければ、ここから、アルメニア人への宣言と言う文書は公会議によっていかなる価値も与えられていないと言うことである。これらの文書に価値を与えるのは公会議ではない。公会議は、これらの文書を別のところから取ってきてそれを記録するだけである。…公会議は『これが教会の通常の教えである、私達はそれについてもはや詮索する余地はない』と言うだけである。」(L'Ami du Clerge 1925, p 175‐176, quoted in DTC, "Ordre", col. 1321‐1322 (A. Michel).


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