産業・経済そのほか速

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二度とリストラしない

2015-02-07 13:41:27 | キャリア・教育
二度とリストラしない 

大山健太郎 69 アイリスオーヤマ社長

 

 <19歳でトップに>

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  •   父の余命がわずかだと知らされたのは1963年、高校3年の夏でした。

      大学進学はあきらめました。1年後に父は死去、大阪府東大阪市の小さなプラスチック加工会社を19歳で継ぎました。

      悲しむ暇はありません。8人きょうだいの長男として、家業を守り、家族を養っていくことにただただ必死でした。しかし、右も左も分からない若者が成功するほど商売は甘くない。もうけが少ない下請け仕事ばかりだったので、社員が帰った後、一人で機械を動かして何とか利益を出しました。

      大学生活を楽しむ友達を横目に「このまま下請けでは終わりたくない」との思いを強くしました。22歳の時、初めての自社製品として、真珠養殖用のプラスチック製ブイを開発しました。それまでのガラス玉より安くて丈夫なので、飛ぶように売れました。続く田植え機用の育苗箱もヒット。水産や農業の市場が大きい宮城に新工場を作りました。

     <大阪を閉鎖>

      第1次石油危機はまさに荒波でした。石油の価格が高騰している時は注文が殺到したのですが、価格が下がると反動で売り上げが半減しました。「ごめん。このままでは倒産する」。そう頭を下げて、150人いた社員の半数をリストラし、大阪の拠点の閉鎖を決断しました。土地が広く、機械も新しい宮城で再建を図るしかないと考えたのです。

      「会社の目的は永遠に存続すること」を経営理念としたのはこの時です。もう二度とリストラはしない。今も毎週、社員と唱和しています。

      商品は企業向けから、生活に密着した消費者向けに切り替えました。景気動向に左右されにくいと考えたからです。園芸用品、透明な衣装ケースなどを開発し、主な販路としたホームセンターが増えていくのとともに会社は再び成長しました。

     <被災地企業の使命>

      2011年3月11日は千葉の展示場にいました。宮城に戻ったのは2日後の朝。工場は天井が抜け落ち、家族が安否不明の社員も大勢いました。

      救援と事業の復旧、どちらを優先すればいいのか。一晩悩み抜いた末、社員にこう呼びかけました。「非情だが、工場の復旧を優先してください。必要とされる商品を早く被災地に届けるのは我々にしかできない」。涙声でした。

      生活用品を作る被災地企業としての使命感が我々を動かしました。地震で自動倉庫システムが故障。余震が続く中、命綱をつけて30メートルの高さの棚まで登り、カイロやマスクを取り出した社員もいました。

      会社の永続のためには、絶えず商品を開発しなければなりません。毎週、社員から新商品の提案を聞き、私がその場で可否を判断する会議を開いています。商品化は半年後。年間1000種類以上の新商品を出し、発売3年以内の商品が売上高の半分以上です。消費者の不満やニーズを考え続ければ、アイデアは尽きません。(聞き手 山内竜介)

     

      《メモ》 1964年大阪府立布施高卒、大山ブロー工業所(大阪府東大阪市)の代表に就任。78年、本拠を宮城県に移転。91年に社名をアイリスオーヤマに変更した。

      ホームセンターを主な販路に、収納ケースや家具、家電、コメなど1万5000種以上を製造している。グループの2014年3月期の売上高は2672億円。


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