再生核研究所

色々な事を書きます。少しでも良い社会にしたいと思います。良い社会のために  -よっちゃんの想い から-

大手メーカー内定の大学生がホームレスに暴行し『mixi』に動画掲載について

2009-10-29 19:55:53 | Weblog
大手メーカー内定の大学生がホームレスに暴行し『mixi』に動画掲載
http://topics.jp.msn.com/life/column.aspx?articleid=164948

悲しくなる ニュース: 強いものが弱いものをいじめる、馬鹿にする風潮の 現われと言えると思います。どのような 社会を 世界を夢めているのか と考えると 哀しくなってしまいます。
次を 参考にして下さい。

1.4 再生核研究所声明 4(2007/3/17): 競争社会から個性を活かせる社会に:

現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、憲法第25条の精神を高揚させ 最低生活の保障による連帯を確認する事の必要性を訴えている(声明3)。いじめ、犯罪、モラルの低下、そして全国に広がる財政赤字など、それらの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される貧しい戦後の教育内容にあると考えます。考え方を変えるのは簡単ではありませんが 精神、考え方を競争社会から個性を活かせる社会に変えていく必要性があるのではないでしょうか。その理由は:

1)まず競争とは、1つの価値、ある判断の下での順位になり、その点では個性や、特殊性を排除した価値観の画一化に繋がる危険性を有している。例えば現在の受験制度では多くの場合に受験科目の得点で順位が定められ、概ねそれによって合格、不合格が定まり、その流れで入学の大学が定まり、そして同様に大学の伝統的な序列で一定の評価が定まっていく流れになっていると考えられる。もちろん伝統的に行われてきた体制はそれなりの理由があり尊重されなければならないと考えますが、評価をこれらで一元的に考えることには大きな問題があると思います。例えばそのような流れ以外の道を選んだ人たちの立場です。 スポーツ選手や、芸術家、芸能関係者、技術者、職人、棋士、実業家などなどです。

2)スポーツなどの世界では競争はかなり明確に理解でき、競争の世界として、もちろん結構だと思います。例えばお相撲さんは優勝を目指して努力されているわけです。しかし歌い手さんたちは それぞれの個性と持ち味を活かしていろいろな人が活躍されていますが、それとて、いろいろな評価が下されますが、その時の競争とは考えられてもお互いに芸を高めていくような いわば精進の競争であり大いに勧められるべき競争と言えます。

3)これに対して貧しい競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分の個性を活かせないところで、相手より優位に立とうする競争の事です。自分のむかないところで、無理して競争に駆り立てられている状況はないでしょうか。

4)日本の教育の重点が いわゆる学力中心で、知識中心になっていないでしょうか。そして、いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてのような一元的な価値判断が余りにも強すぎはしないでしょうか。 勉強の嫌いな子や勉強のできない子、いわゆる優秀でない人と言われている人が それゆえに低く見られてはいないでしょうか。勉強ができず、学力がなくても、いわゆる優秀でなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っているのにそれらが評価されず、また無視されるようにはなっていないでしょうか。これでは、勉強のできない子は学校が嫌いになり、やがて社会から疎外されるようになってしまわないでしょうか。絵が得意で感銘させる人や、工作がうまく名人的と思われる人の才能を引き出せない社会は社会の大きな損失にはならないでしょうか。運動会などやキャンプ生活などで多くの体験授業などがあれば いろいろな才能が発揮され、学力以外のいろいろな個性や、才能を発見できる機会が出て来るのではないでしょうか。もちろん実社会は大きな世界です。

5)学力中心による教育では、生徒の個性を活かせず、一元的な価値判断で多くの個性と才能をうずもらせてしまうだけではなく、才能を活かせない生徒は社会から疎外され、不満が増大する事になり、社会は不安定になると思います。

6)個性を活かせる社会とは 社会にはいろいろな人が必要であり、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていくような社会のことです。強い人も弱い人も、考える事が得意な人も苦手な人もそれぞれ長所もあり短所もありそれぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、苛めも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。

7)財政赤字について触れましたが、無いお金を使うという事自体が無責任の結果ではないでしょうか。短期的に赤字という事は仕方がないことですが、赤字を増大させていくというのは余りにも無責任と言われても仕方がないのではないでしょうか。これらの背後には学力を付けることばかりに走り、責任感の無い自己中心的な教育が生み出した日本人全体の精神的な土壌から起きているという根強い原因があるのではないでしょうか。

8)何かというと経済効果や活力のある社会という観点が問題になりますが、少数の自爆テロを起す人を抱える社会はどれほど、経済的にマイナスを生むことでしょうか。そのよう状況では例えば新幹線を守るにはどれほどの経費がかかることになるでしょうか。あらゆる所で、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して 社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会とは何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも、憲法第25条の精神を思い出すことは大変いい状況を生むのではないでしょうか。
皆さん 競争社会から個性を活かせる社会 を目指そうではありませんか。以 上

次の尊敬する大谷先生の文を参考にしてください

二十一世紀    (平成13年4月寄稿せず01)

年いよいよ水のごとくに迎ふかな   大野林火

だんだんそんな気になってきた。二十一世紀に入ったよ、といっても特にどうということもないが、来し方行く末を思う一つの区切りかも知れない。
1925年生まれの私が、20世紀をはじめて意識したのは、小学校低学年のころに、20世紀梨を知ったときである。梨のみずみずしさが、20世紀のみずみずしさを象徴しているように思われた。ところが長じて技術の世界で50年も暮しているうちに、20人の暮らしのためにはじまったのに、いつのまにか、市場や科学技術のために、人の暮らしがあるような感じがしだしたからである。なんだか主客転倒である。その源は、アメリカに代表される近代精神である。競争が最高で、勝った人が個人的に生活を謳歌するアメリカンドリームに象徴される。市場原理とか、グローバリズムなどがその流れをくむ。でもそんなことばかりしていると、世界は新しい世紀の終わらないうちに破滅する虞(おそれ)がある。
不思議なのは、日本の政党の中で、市場原理至上主義反対を掲げるところがないように思われることである。野党が、アメリカ式資本主義とは違う倫理観に立った新しい展望を掲げてくれれば、議論ははるかに深まるだろうにと思われてならない。
折しもNHKの人間講座で貝原益軒の話をしている。正に西欧主義とは正反対、欲望の限界を自覚して、「畏れ、慎み、惜しむ」事を倫理の基にしている。明治維新以来、最初はヨーロッパから、戦後はアメリカ経由で、抑制なし精神が日本にやってきた。でも最近ようやくヨーロッパを中心に、反省の気配もみえる。平成10年3月、オランダで益軒の国際シンポジウムがもたれたそうである。
個人的な生活を謳歌するよりは、自然との共生、家族の共生、他人との共生、他民族との共生、共生こそが21世紀の願望だと思うがどうだろう。
( 日だまりの風景 平成18年9月15日発行 大谷杉郎著 印刷所 太陽印刷工業(株)P172・P173より )