いのちの源

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境界は、人間の様々な生活様式に基づいて発展した

2019-10-21 17:38:48 | 賛美の心

 神は万物を造り、その全てについて境界を定め、その中であらゆる生き物を育んだ。万物があらゆる種類の生き物を育んでいたが、それと同時に、神は人間のために様々な生存手段を用意したので、人間の生存手段は1つだけでは無いことがわかる。また人間の生存環境も、1種類だけでは無い。神が人間のために様々な食料や水源を用意したことは既述したが、これは、人間の肉にある命を継続するために不可欠なものである。しかし、人間は全員が穀物を食べて生存しているわけではない。地理的環境や地形の相違に従って、人間には様々な生存手段がある。こうした生存手段は、全て神により用意されたものである。したがって、人間全員が主に農耕に従事しているとは限らない。つまり、人間全員が耕作により食料を得ているとは限らない。これが、本日話す3番目の項目である。境界は、人間の様々な生活様式に基づいて発展した。それでは、人間には、その他にどのような生活様式があるであろうか。それでは、人間には、その他にどのような食料源があるであろうか。それらの物事は、主なものが数種類ある。

 1番目は、狩猟の生活様式である。狩猟による生活様式については、皆知っている。あなたがたのうちに、狩猟して生活している者は居るであろうか。あなたがたは全員現代人であるので、狩猟の方法、銃の使用方法を知らない。あなたがたの食料源は、地から生まれる。狩猟生活者は、何を食べるだろうか。(獲物である。)こうした人々は、森で獲った鳥や獣を食べる。「獲物」とは現代の言葉である。狩人はそれを獲物とは考えず、それを食料として、あるいは日々の糧と考える。たとえば、狩人は鹿を獲った時、喜ぶであろう。「よかった。これで数日間の家族の食料は十分だ。」狩人が鹿を獲った時は、農民が土から作物を得た時と同様である。農民は土から作物を得るので、作物を見た時、農民は喜び、安堵する。「これで食料があるので飢える心配はない。」家族は作物を食べることができるので、飢えることは無い。農民の心は安堵し、満足する。そして狩人は獲物を見た時に安堵し、満足する。なぜなら、狩人は食料の心配をせずに済むからである。次の食事で食べるものがあれば、飢えることは無い。これが狩猟生活者である。狩猟を生業としている人々の生活環境は、通常どのようなものであろうか。狩人は、山の森で生活する。狩人は、生活の大部分において作物の栽培をせず、山の森で生活する。山の森には耕作に適した土地があるだろうか。耕作に適した土地を探すのは困難である。したがって、狩人は様々な生き物すなわち獲物を食べて生存する。これが通常の人間とは異なる生活様式の1番目である。

 2番目は、牧畜の生活様式である。牧畜で生活する者は耕作しないが、何をするであろうか。牧畜だけであろうか。あなたがたの中にモンゴル系の者が居れば、その者に遊牧民の生活について話をして欲しい。(生活の大部分を、牛や羊の放牧で過ごし、農耕は行わない。冬に家畜のを行って食べる。主食は牛肉と羊肉で、ミルクティーを飲み、乾燥させた米を食べるが野菜は殆ど食べることが無い。現在は各種交通手段が便利になったので、あらゆる野菜や穀類がある。モンゴル人はミルクティーを飲み、チベット人はバター茶を飲む。牧畜生活者は通年多忙だが、食事は豊かである。ミルク、乳製品、肉を欠くことは無い。牧畜生活者は従前ユルトに住んでいたが、現在はみな住宅を建てる。)モンゴル人は主として牛肉と羊肉を食べ、ミルクを飲み、馬に乗って牧畜を行う。これが牧畜生活者の生活様式である。牧畜生活者の生活様式は、悪いものでは無い。野原で風を髪に、顔に陽の光を受けながら牛や馬に乗り、現代生活のストレスは無い。牧畜生活者は、終日広々とした青空と草原だけを眺めている。牧畜生活者は、全員草原に住み、何世代にもわたって遊牧民の生活様式を継続することが出来る。草原での生活は、多少寂しいが、幸福な生活でもある。悪くない生活様式である。

 3番目は、漁の生活様式である。人類には、沿岸部や小さな島に住む人々が、ごく一部存在する。こうした人々は水に囲まれ、海に面している。漁民は漁を生業とする。漁を生業とする人々の食料は何であろうか。何を食料としているであろうか。様々な魚や海産物を食料としている。香港が小さな漁村だった頃、当時の香港の住民は漁を生業としていた。当時の住民は農耕を行わず、毎日漁に出ていた。当時の住民の主な食料は、様々な魚、肉、そして海産物であった。当時の住民は、時々魚と米、小麦粉、日用品を交換することもあった。漁を生業としている人々は皆、沿岸部に住んでいるが、一部の人々は船上に住んでいる。これが、沿岸部に住む人々の、一般人とは異なる生活様式である。沿岸部に住む人々は、漁に依存している。漁が収入源であり、食料源でもある。

 農民以外に、主として上記3種類の生活様式がある。牧畜、漁、狩猟を生業とする者を除く大部分の人々が、農耕を生業としている。それでは、農耕を生業とする人々には、何が必要であろうか。こうした人々には、土が必要である。農耕を生業とする人々は、何世代にもわたって、主として作物を栽培する。こうした人々は食料を地から得ている。栽培する作物が野菜であるか、果実であるか、穀類であるかを問わず、こうした人々は全員、地から日々の糧を得ている。

 こうした様々な人間の生活様式の前提条件は何であろうか。こうした人々が生存するには、環境の基本的維持が必要ではないだろうか。つまり、狩人が山や森、鳥や獣を失ったとしたら、狩人は生活が成り立たなくなる。したがって、狩猟を生業とする人々が山や森を失い、鳥や獣が居なくなったとしたら、狩人は生活の糧を得る源が無くなってしまう。こうした民族は、その後何処へ行き、何をするだろうか。こうした人々の生存の可能性の有無は不明となり、消滅してしまう恐れもある。また、牧畜を生業とする人々は、草原に依存している。こうした人々が依存しているのは、正確には家畜ではなく、家畜が生存する環境となっている草原である。草原が消滅したとしたら、こうした人々は、どこで家畜を放牧すれば良いだろうか。牛と羊は、何を食べるだろうか。家畜が無かったとしたら、遊牧民はどのような生業を営むだろうか。こうした人々は生業を失うであろう。生活の糧を得る手段が無くなったとしたら、人間はどうなるであろうか。生存の継続は極めて困難となり、人間に未来はなくなるであろう。水源が無くなったら、河川や湖沼は干上がってしまうであろう。生活を水に依存する様々な魚は、それでも存続するであろうか。全ての魚が絶滅するであろう。水と魚に生活の糧を依存する人々は、引き続き生存できるであろうか。こうした人々の食料が無くなり、生活の糧を得る源が無くなったとしたら、こうした人々は生存を継続できないであろう。生活の糧や生存に問題が発生するとすぐに、この種の人々は絶滅してしまうであろう。こうした人々は生存できず、絶滅して地上から消滅するであろう。そして、農業を生業とする者が土を失った場合、どのような結果となるであろうか。こうした人々は栽培出来なくなり、植物から食料を得られなくなるであろう。その結果、どうなるであろうか。食料が無かったとしたら、人間は餓死するのではなかろうか。人間が餓死した場合、その種の人間は消滅するのではなかろうか。そうしたわけで、これが様々な生態環境を維持する神の目的である。神が様々な環境や生態系を維持し、生き物をそれぞれの環境に維持する目的は、ただひとつである。その目的とは、様々な人々を育み、様々な地理的環境の中に生きる人々を育むことである。

 万物がそれぞれの律法を失ったとしたら、万物は存在しなくなるであろう。万物がそれぞれの律法を失ったとしたら、万物のうち、あらゆる生き物が存続不可能となるであろう。人間もまた、人間が自らの生存を依存している、自らの環境を失うであろう。人間がこれら全てを失うとしたら、人間は世代を超えて繁殖し、生存してゆくことが出来なくなるであろう。人間が現在まで生存してきたのは、神が人類を様々な方法で育むために、人間に対して万物を与えたからである。人間が現在まで、つまり今日まで生存してきたのは、神が様々な方法で人間を育んでいるからである。こうした好ましく秩序のある固定された生存環境により、地上の様々な種類の人間、様々な人種の人間が、予め定めた範囲内で生存出来るのである。この範囲や境界を越えることが出来る者は居ない。なぜなら、それらを定めたのは神だからである。


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