ワーグナーのオペラ、「パルジファル」を視聴しました♪
いえ、「だからそれがどーした☆」という話ではあります(笑)。ただ、アーサー王伝説系のことを少しばかり調べていると、大体のところ物語として押さえておくべき「勘どころ」というのでしょうか。そうした中にパーシヴァルのことが多少なりあるのかな……と思ったというか(^^;)。
↓のお話の中では、パーシヴァルって、ローゼンクランツ騎士団のひとりとして名前でてくる程度なので、「アーサー王物語」の中の主要エピソードを多少なり読んでおくだけで十分とは思うものの……その時ふと、「そういや、ワーグナーのオペラにパルジファルってあったよなあ」と思いだしたんですよね。
それで、軽くググってみたところ――あらすじなどを読んでも自分的にあまりピンと来なかったということがあり、おそらくワーグナーの個人的解釈と言いますか、オリジナル要素の高いシナリオなのではないかと思い、それで興味を持ったわけです
内容のほうはとても素晴らしかったのですが、ここで(わたし自身のメモ書きとして)書いておきたいのが……元のアーサー王伝説のほうの「聖杯探求」物語とワーグナーのオペラとの違い――う゛~ん。そこまで書いてると、文章長くなりすぎるので、なるべく簡潔にまとめたいと思います(^^;)。
その~、わたしだけじゃなく、「アーサー王物語」と聞いて多くの方が思いだすのって、たぶんアーサー王が抜いたという聖剣(エクスカリバー)伝説のことや、アーサー王の奥方であるギネヴィア王妃と臣下のランスロットの不倫の物語……あとは、なんとなく聞いたことのある騎士の名としてはガウェインやパーシヴァルの名前などが上げられるような気がします。
もちろん、ご存知の方にとってはあまりにも有名すぎる物語として、それぞれの騎士としてのエピソードについても思い出されるものなのかも知れません。でもわたし、今回「アーサー王伝説」についてある程度読んでみるまでは、騎士パーシヴァルに纏わるエピソードについてよく知りませんでした(無知・笑)。
それで、たぶん「アーサー王と円卓の騎士」の物語の中でも「聖杯探求」に関わる物語って、かなり重要な位置を占めるものだと思うんですよね。「聖杯(サングレアル)」というのは、イエス・キリストが十字架上で息を引き取られてのち、ローマ兵がイエス・キリストの脇腹を刺した時、その傷から流れた血を受けた杯であり、ワーグナーのオペラではこの<聖槍>と<聖杯>の両方が非常に重要な役割を果たしています。
一方、元の「アーサー王伝説」のほうでは、聖槍も出てくるのですが、聖杯のほうがより高く、重要な役割を演じているような気がします。「聖杯探求」物語において、主要な登場人物はサー・ボウルズとパーシヴァル、それにガラハッドの騎士三人。ランスロットは武勇の人であり、この難事業に相応しい人物であるかのように思われますが、何分彼は自分の主君の奥方と通じているという罪によって、最初から資格がないんですよね
ボウルズとパーシヴァルとガラハッドは旅の途中、様々な誘惑に会いますが、三人の中で完全無欠のガラハッドのみが、聖杯のもたらす至福の状態に到達することが出来た……というところで、聖杯探求伝説は終わりを迎えます。
まあ、こんなふうに簡単にまとめてしまうと「なんのこっちゃら☆」という話ではありますが(汗)、こう見てくるとワーグナーは何故ガラハッドではなく、「パルジファル(パーシヴァル)」を主人公にしたのだろうか――という気がします。というのも、パーシヴァルとボウルズは、ガラハッドが生きたまま至福のうちに天へ上げられていくのを見送ってのち……パーシヴァルは敬虔な僧として生きることに決め、祈りと瞑想の生活を送るようになり、ボウルズは主君であるアーサー王の元へ戻り、このことの報告をしたとあるからです。
オペラの「パルジファル」の中にも女性に誘惑されるシーンがありますが、アーサー王伝説のほうでも、パーシヴァルは悪魔が化けた女性の誘惑に遭い、その損害を受けませんでしたが、でも誘惑自体には屈しているわけです。おそらくこれが、ガラハッドとは違い、パーシヴァルが聖杯の至福を受けることの出来なかった理由であったと思うわけですが、オペラとして物語を語るには……この誘惑に負けたパーシヴァルのほうが、見ている人々にとっても共感しやすいのではないでしょうか(^^;)。
「パルジファル」はなかなか深いオペラで、まず、アムフォルタス王がイエス・キリストのような姿で出てきます。とはいえ、彼はキリストのような苦しみや痛みを感じつつも、無論イエスと同じ救世主というわけではない。アムフォルタス王はもともとは<聖槍>と<聖杯>の守護者でありながら、クリングゾルという魔術師の仕向けたクンドリという女性の誘惑に遭い、その隙に聖槍を奪われると、聖槍を奪ったクリングゾルから攻撃され、脇腹に傷を受けた。その後も<聖杯>を仰ぎ見るという聖なる務めを行うものの――この脇腹の傷のもたらす痛みや苦しみが、この聖なる務めを行うのをこの上もなくつらいものにしている。
このアムフォルタス王の苦悩や苦痛というのは、他の人間には窺い知れぬほど苦しくつらい勤行であるにも関わらず、そのことをわからぬ人々から「今まで通り聖なる務めを行うように」と当たり前のように求められ続ける……そこでアムフォルタス王は死すら願うわけですが、聖杯を仰ぎ見るというこの聖なる務めを続ける限り、聖杯自体が不死の効果をもたらすゆえに、永遠に死ぬことも出来ず、この「限りなく続く苦痛と苦悩」を続けていくしかないという、恐るべきループの中にアムフォルタス王は嵌まりこんでいるわけです。
このような王の呪われた悲惨な状態から救いだす者として、パルジファルは預言された者でした。とはいえ、オペラの中のパルジファルは愚かで物を知らない若者らしく、「彼のような者が本当にアムフォルタス王を救うことなど出来るのだろうか?」と思われるような、粗野な人物であるようにさえ登場時には感じられます。
けれど、パルジファルは確かに魔術師クリングゾルから聖槍を取り戻し、わたしの見たオペラの中ではその旅の過程は詳しく語られていませんでしたが、おそらくは艱難辛苦の果てに、アムフォルタス王の元へ戻ってきたものと思われます。もしかしたら、同じワーグナーの「パルジファル」のオペラでも、演出によって違いがあるのかもしれないのですが……わたしが勝手に想像するには、パルジファルがこの<聖槍>を守りつつアムフォルタス王の国まで戻って来るのは、本当に大変なことだったろうと思います。
というのも、(これもわたしが勝手に想像するには)この聖槍によって天下無敵な者となり、襲いかかって来る敵の全員をブッ倒してパルジファルはここまでやって来た……というのではなく、この聖なる槍をそのような形で殺人の血で汚すことは許されないがゆえに(そうすると、聖なる槍の聖なる力が損なわれてしまうゆえに)、パルジファルはそのような状況下で、苦労しながらアムフォルタス王のいる国まで戻ってきたのではないかと思われるからなのです。
また、これもわたしが見たオペラの演出として――聖なる務めが果たされないと、この世界は戦争や強奪などによって荒れ廃れてしまうらしい。けれど、アムフォルタス王はパルジファルが最後に見て以降、聖なる務めは行っていないという。それほどの苦しみをアムフォルタス王に強いる行為であればこそ、アムフォルタス王は「このまま死なせてくれ」と思い、またその行為を自分に強いようとする部下の騎士たちには「いっそのことおまえの剣で殺してくれ」とまで言っています。
けれど、とうとうこのアムフォルタス王の苦しみが終わる時がやって来ました。この呪われた身のまま、苦悩と苦痛だけが永遠に続くかと思われたにも関わらず……預言でそうと語られていたとおり、パルジファルが<聖槍>を取り戻してくれたことにより、ここに<聖槍>と<聖杯>がふたつ揃ったことにより、アムフォルタス王の脇腹の傷は癒され、すべては以前と同じ「呪われるべきものは何もない」状態へと回復した――おそらくは、そうしたことなのだと思います。
この中で、わたしが個人的に一番感じた強いメッセージというのが、アムフォルタス王が呪われた身となり、苦しみにのたうちまわっている間、「真実なる天上の神はどこにいたのか」ということだったりします。
だって、そうですよね。イエス・キリストと同じく脇腹に傷を受け、その傷ゆえに苦しみにのたうちまわるアムフォルタス王を……そんな彼を救いうるとすれば神だけであるはずなのに、神はアムフォルタス王を見捨てたかのように、あるいは罪に対する罰をじっくりと味わえとばかり、かなり長い期間放っておかれたのですから。
また、アムフォルタス王が聖なる務めを行えなくなったことで、アムフォルタス王の父のティトゥレル王は、聖杯の恩恵に与れなくなったことにより、その後死亡している。ここは言うまでもなく、「父なる神の無理難題」にアムフォルタス王が応えられなくなったことにより、ティトゥレル王は普通の人が死ぬように亡くなり、その死体が棺に納められることになってしまった……といったような暗示を強く感じます。
「アムフォルタス王の、終わりのない限りなき苦しみ」は、他の誰にも理解されず、同情もされず、ただ今までと同じように「聖なる務めを行え」というようにだけ強制される……といったような種類のものでした。また、これもわたし個人の勝手な解釈ですが、もしアムフォルタス王が聖なる務めを行わないと、この世界は戦争が起きるなどして、正義が負け、混沌とした世の中へと成り果てるらしい。けれど、そうとわかっていても、アムフォルタス王はその苦痛と苦悩の重さにより、そのまま死にたいと願うくらい、その聖なる務めを行うのがつらくてつらくて堪らなかった――しかも、これほどの苦しみに対して誰ひとりとして同情すらしない。いや、したにしても、それは誰にもどうにも出来ない種類の出来事だった……。
いやあ~、ワーグナー深いっすねけれど、そんなアムフォルタス王にも、とうとう救いの夜明けが、パーシヴァルが聖槍を取り戻してくれたことによって訪れたわけです。わたしもまだ、一度見たきりの印象によってここの文章書いてるので……たぶん、他の方の演出のものなども数本見る必要があるとは思いつつ、今の世界の時相とも合わせると、とにかく物凄く考えさせられる内容だったと思います。
それではまた~!!
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(+今回の言い訳事項です(^^;)。また、水車小屋や粉屋のことについては、また機会があれば補足するやも知れませぬm(_ _)m)
>>昔から田舎でいとなまれ、この当時になると都市にも登場してきたのが、粉ひき(水車小屋)である。トロワにも数多くの水車小屋があり、その所有者は伯、司教、大修道院、施療院などさまざまだった。ほとんどは水路に設置されていたが、市の南側を流れるセーヌ川にもいくつかあった。水車小屋では水車が川に設置され、その横にあるドーム形の台の真ん中に石臼が据えつけてあった。麻袋に入った穀物が舟で運ばれてくると、粉ひきは石臼の上部の開口部に取りつけてある漏斗へ注ぎ込む。水流が水車を回すと、そのエネルギーが石臼を動かし、挽かれた小麦粉は台の下にセットされた麻袋へと落ちていった。
粉ひきの仕事は、ただ穀物を挽くだけにとどまらなかった。景気の悪いときには、粉ひきは魚を釣ったり、うなぎを槍で突いたりした。水車が生み出す動力は皮なめしや毛織物の縮絨(しゅくじゅう)をはじめとして、さまざまな職種に供給されるようになってきていた。下側の羽根にあたる水流によってゆっくりと回る仕組みの下射式水車なら、水流が水車の真ん中へ当たるようにすれば、水流の力を増すことができ、水車は下から回りはじめる。上射式水車なら、水流を水車の一番上の部分に当てるようにしてやれば、上から回りはじめるという仕組みだった。水車は重要ではあったが、一方で馬や牛を使った昔ながらの製粉もまだ健在だった。川や水車用の流水は冬に凍ったり、夏に干上がったりすることがあったが、動物なら季節を問わず働いてくれたからである。
(「中世ヨーロッパの都市の生活」ジョセフ・ギース&フランシス・ギースさん著、青島淑子先生訳/講談社学術文庫より)
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惑星シェイクスピア。-【33】-
「何故、あそこでせっかく快く我々を受け入れ、申し分ない食事まで振るまってくださったホリングウッド殿に突っかかったりしたのですか?」
カドールはそのことをギベルネスに問いただしたいがゆえに、彼と同室になることを選んでいた。久しぶりにこのように屋根のある家で休めるだけでも十分だというのに、一体どういうつもりなのかということを。
「じゃあ、あなたたちはこのことをおかしいと感じないということなんですね?」
今ではすっかり我を折るつもりでいたギベルネスであったが、それでもカドールに言われると若干ムッとするものがあったというのは事実である。
「つまり、この貧富の差がおかしいと思わないのか、ということですか?」
ギベルネスとカドールの間を仲裁するつもりで、タイスは彼らの間に割って入った。とはいえ、内心面白がっていた部分も彼にはあった。そしてそれはおそらく、隣にいるハムレットにしても同じだったに違いない。
「貧富の差だと?そんなもの、どこにでもある。俺だって名門騎士の家に生まれていなければ、ここの農民たちのように雑巾を絞りに絞って水が一滴も出ないほど重税を課されることにうんざりするという生活だったろうよ。だが、そんなことを憂えたところで一体なんになる?人はその生まれまでを選ぶことまでは出来ない。上に立つ者には上に立つ者の重い責任がある。それを出来るだけ忠実に担って生きていくこと以外、他にどんなことが出来るとでも?」
「俺の国の『知恵の書』と呼ばれる本に、次のような文言が書き記されている」ディオルグは、ギベルネスに助け舟を出してやるつもりで言った。普段、彼はこうした事柄について口を差し挟んだりすることはあまりないのだが。「『ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が掠められているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる』……つまり、下級官吏が民衆を虐げるように、上級官吏は下級官吏を虐げ、この上級官吏と呼ばれる者でさえも、さらなる上の権力者には媚びへつらい追従せねばならぬという意味だ」
「その意味するところは?」
カドールは若干棘のある目でディオルグを見た。いつもは彼のことを年長者として敬っているのだが。
「つまり、世の中はそのようにして堕落しているということだ。この書を書き記した賢人は、時の東王朝の王に仕える高官だった。王の側近として、王が心を許している者のひとりだった。ところがだな、王に衷心から正しいことばかり言うと疎まれるし、王と家臣として睦まじいばかりでいても、他の臣下たちから妬みを買う……この賢人は芸術や文学や詩学を愛好し、天下にある書物と名のつくものを読み漁り、王の覚えもめでたく、権力者として栄耀栄華を欲しいままにもしたが――最終的にその一切が虚しく、すべては風が吹けば消えるようなものでしかないと自身の書いたものに記しているわけだ」
「『空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう』」と、ハムレットは幼き頃、ディオルグから教えられた、その賢人の書物を暗誦して見せた。「『一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は昇り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る』」
「『すべてのことは物憂い』」と、タイスがハムレットの続きを引き受ける。「『人は語ることさえ出来ない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものはこれからもあり、昔起こったことは、これからも起きる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起きることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう』」
「『私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。だがそれもまた、風を追うようなものであると知った』」と、ハムレットがさらに続ける。「『実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい」しかし、これもまた、なんと虚しいことか。笑いか。馬鹿らしいことだ。快楽か。それが一体何になろう。私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだは葡萄酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてが虚しいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない』」
「よく覚えていたな、おまえたち」と、ディオルグは感心して微笑みつつ言った。「『私は再び、日の下で行なわれる一切の虐げを見た。見よ、虐げられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。虐げる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。私はまだ、命があって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行なわれる悪いわざを見なかった者だ。私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、虚しく、風を追うようなものだ』……」
「『ある州で、貧しいものが虐げられ、権利と正義が掠められるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる』」ハムレットは、先ほどディオルグが言った文言を繰り返して言った。だが、それはさらにこう続くのである。「『何にも増して、国の利益は農地を耕させる王である。金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、虚しい。財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。働く者は、少し食べても多く食べても、心地好く眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。しかも、人は一生、闇の中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許される命の日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、幸せを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ』」
「『知恵ある者は、愚かな者より何がまさっていよう。人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何かまさっていよう。目が見るところは、心が憧れることにまさる。これもまた、虚しく、風を追うようなものだ。今あるものは、何であるか、すでにその名がつけられ、また彼がどんな人であるかも知られている。彼は彼よりも力のある者と争うことは出来ない。多く語れば、それだけ虚しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろう。誰が知ろうか。影のように過ごす虚しい束の間の人生で、何が人のために善であるかを。誰が人に告げることが出来ようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを』」
「それで、結論としてあなたがたは、俺に……あるいは、俺とギベルネ先生に何が言いたいんです?」
<西王朝>の人間は<東王朝>の人間を憎み、<東王朝>の人間は<西王朝>の人間に我々よりも一体どんな勝ったところがあろうかと、大体のところ互いにそう思っているわけである。だが、このように<東王朝>の中にも立派な人物がいるのだということを、カドールにしても今は認めぬわけにいかなかった。
「とかく世の中ままならぬもの、ということさ」と、ディオルグが腕組みしたまま、面白がるような顔をして言う。「そしてそれは、王や国の有力者たちでさえもまったく同様である……そうした意味においてはみな平等であるが、結局のところ同じであるのならば、金と権力と食べ物と女も自由に出来たほうがいい、といったように読めんこともない。ただ、俺は今日の食卓で少々驚いたのさ。ギベルネ先生はそんなこと、とっくにご承知といったような、涼しい顔を普段はされておいでだ。ところが、実際にこれだけ貧富の差というものがありすぎるほどあって、隣人たちが苦しんでおってもそれを屁とも思わず、ムシャムシャ自分たちだけ美味しいものを食べ、いいものを着て平然としていられる――そんな人間の有り様を見て驚き、義憤を覚えたという、そのように見えるのが俺には何やら新鮮だったという、これはそうした話だ」
(いや、それほど格好いい話ではない)と思い、ギベルネスはむしろ己を恥じた。それならば、今すぐに自分だけでもこの屋敷を飛び出し、野宿でもしろという話でもある。
「ギベルネ先生。お約束します」と、ハムレットは<神の人>に向けて言った。「もしオレがこれから、この国の王になれたとしたら……こうした貧富の差というのを、急になくすということは出来なくても、まず、ここアヴァロンの地の人々の首から、そうした苦労のくびきをなくすということを先にお約束しておきたいと思います。法的な理屈としては、ここもまたすべて王の地であるから、その王の地を借りて耕させていただいている以上、そこから上がる収穫物はすべて王のものだという、そうしたことらしいです。また、師ユリウスの話によれば、こうした土地を突然彼らのものにして、そこから上がる収穫物をすべて自分たちのものにして良い……ということにしても、駄目だということでした。何故なら、彼らはそうしたことについて何も学んでこなかったし、むしろ混乱するだけだからと。まずは、そのあたりの指導の出来る者を上に置き、その人物が民たちから好かれるような人間であることが大切だという、そうしたことだったと思います」
ハムレットのこの結論によって、この夜、他の者はただ静かに眠った。ただ、ハムレットやタイスには不思議だったのだ。ユリウスはここ、アヴァロンの出身であるという。これは、本人がそう言っていたのだから、おそらく間違いないことであろう。だが、顔は似ているが、まったくの別人らしいとわかっているギベルネスが、普段は穏やかで、喧嘩どころか口論さえ嫌っているような節さえある彼が、この地の民のことについては黙っておけなかったのだ。彼らにとってこれは、ただの偶然とは到底思えぬ出来事だったと言える。
この翌日、やはり朝方には霧が濃く垂れ込めていたものの、午前中の早くにそうした濃霧も消え去り、あたりは湿気を含んだムッとするような熱気に包まれた。ハムレットたちは朝食ののち、ホリングウッド邸の裏手にある川の脇に、水車小屋があるのを見にいった。ギベルネス以外にとっては、水車小屋というのは見たことのある建物だったが、彼は写真や動画、あるいは観光案内の本によってしか見たことがなかった。ゆえに、どういった仕組みによって動いているのか、実に興味深かったといえる。
簡単にいえば、川の流れによって小屋の外側にある水車が回ることにより、小屋の中の石臼を挽く心棒が動き、これが穀類を砕くと彼らのよく知る白い粉になるわけだったが、石臼の動く重い音を聞きながら、ギベルネスはやはりこう言わずにおれなかったものである。
「これと同じものを、川の他の部分にも設置すれば、みんな平等に等しい数パンを焼くことが出来るのでは……」
「まったくわかってないなあ、ギベルネ先生は」
キリオンがチッチッチッというように、右手の人差し指を振る。
「そんなことしたら、ホリングウッドさんちの商売が上がったりになるじゃないか。だから、この村にはひとつしか水車小屋がないの。っていうか、この水車小屋がふたつに増えようと三つに増えようと、それはホリングウッドさんのものっていうか、メレアガンス州の領主のものってことだ。結局のところ、ここの村の人たちの好きには出来ないんだよ」
「…………………」
キリオンのこの言葉で、ギベルネスは初めてあることに気づいていた。今まで、滞在した場所が大きい城砦都市であったため、彼ははっきり気づかなかったわけだが、ギルデンスターン領地にあるという塩田や、ローゼンクランツ領地にあるという銀山や銅山など……支配の仕方の基本方式というのは、おそらく大体のところどこも似たようなものだったに違いない。ただ、民たちにオンボロ小屋に暮らさせ、ノミと同居していることがはっきりわかる襤褸を着る以外にないほど取り立ての方法が厳しいとまでは、ギベルネスにしても想像してなかったが。
だが、ここアヴァロンが農地として豊穣な土地柄らしいというのは、広い耕作地帯を一目眺めやるなりわかることではあった。ここアヴァロン州あたりの土地では、三圃式農業が行われており、秋蒔きのライ麦や小麦などを春先に収穫し、その後、大麦や燕麦、豆など、春蒔きしたものを秋頃収穫すると、家畜の放牧地(休耕地)としていた場所をそれぞれローテーションで順に入れ替えていくという農業方式らしい。他に、ここで栽培されているのは馬鈴薯、キャベツや玉ねぎやきゅうりといった野菜類、プラムやアプリコット、葡萄といった果物もあれば、味が薄くて水っぽいメロンやスイカなどもあるようだった。
こののち、ギベルネスが村の様子を見て回って気づいたことだが、確かに穀物類の収穫についてはそのほとんどがメレアガンス州の領主に納められるようではある。だが、やはり気候が温暖なためだろう。庭先からはラズベリーやカリンなど、季節に応じた果物が何かしら取れたり、その他味や形は悪いが、カブやキャベツといった野菜類がさして手入れなどせずとも適度に収穫できることによって――「食うに困る」というほどひどい生活状況でないらしいことがわかった。何より、一年中温暖なため、冬に備えて大量に食物を蓄えるという感覚が<西王朝>や<東王朝>の人々にはほとんどない。一応、比較的気温の下がる12~13月、1~2月というのはあるのだが、牛や馬に与える飼料がまったく野から消え去るということもないため、その間の干し草を納屋に大量に溜めておかなくてはならぬという事情もないわけである。
とはいえ、ギベルネスが隣の州であるメレアガンス州へ行ってみた時には、やはりまた別の意味で複雑な思いを味わうことにはなった。何故なら、メレアガンス州は織物が盛んな州であり、人々は農民でも家に代々伝わるタペストリーがあったり、女性ならばよそいき用のドレス、男性もまた一張羅の立派な衣装を最低一着くらいは持っているのが普通だったからである。つまり、小麦を輸出するかわり、そうした衣服を少しくらいは輸入できないものかと、またそう出来ないのは何故かについて、ギベルネスは思い悩むことになったわけである。
>>続く。