こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ピアノと薔薇の日々。-【14】-

2021年04月26日 | ピアノと薔薇の日々。

 

 ええと、今回も特に前文に書くことない気がするので……前回【13】に出てきた本の紹介でも軽く、と思いました(^^;)

 

 まあ、「この描写、必要か?」みたいには自分でも思いはしたものの……ボーヴォワールとサルトルについての箇所に関しては、

 

 

 を参考にさせていただきましたm(_ _)m

 

 わたしがボーヴォワールの本を読んだのは、一体何年前のことだったかなあと思います。なんにしても、相当昔のことですが、本屋で「第二の性」を見かけた時、何故か「この本は絶対に買って読まなければいけない!」という強い引力を感じ、読むことになったのを物凄くよく覚えています

 

 実際、そのくらい威力のある本でもありましたし、男性が読む場合はどうかわかりませんが(笑)、女性が読む場合にはボーヴォワールの著作って、その後を生きる上で人生が180度変わるくらいの可能性が今もあると思うんですよね。

 

 彼女がいなければ、女性の解放運動はなかったか、あったにしても今より相当遅れていた可能性が高く、わたしの中ではフェミニズム=ボーヴォワールくらいなものですが、今は彼女の存在や思想を抜きにしてフェミニズムについて語られることが多い気がするので……このあたりのことが「もっと当たり前の前提」であるべきでないかな、なんてたま~に思うことがあります(^^;)

 

 

 こちらの本に関してはまったくお薦めしないのですが(笑)、でも自分的にはものすっごく面白かったです♪(^^)

 

 有名なゲイの写真家、ロバート・メイプルソープの伝記なのですが、ゲイ関係の描写について嫌悪感を覚える方がいらっしゃるかもしれない可能性のあること、またメイプルソープに関しては「なんという嫌な奴……」と感じて読み終わるだけ――という場合もあると思いますので、それで人には薦められないように感じるわけですが、パティ・スミスのファンの方であれば、彼女の伝記としても読める一冊ではないかという気がします

 

 著者のパトリシア・モリズローさんは、膨大な人々へのインタビューを元に、淡々と事実のみを積み重ねていく……といった、非常に信頼性の感じられる文章を綴っておられるのですが、自分的にその真面目な趣きの文章を読んでいて――むしろそれであればこそ大爆笑と言いますか、「え?これ、絶対笑いを狙ってるよね?」としか思えない箇所がいくつもあって、ちょっと手首の疲れる重い本なのですが、その本を持つ手を震わせつつ、何度も大笑いさせていただきました。。。

 

 いえ、わからない方にはわからなくていいのです……でも、自分的にはすごくいい本というか、素晴らしい労作と思いましたし、ちょっとお高めの本でもあるのですが、値段に見合うだけのもの――いえ、もしかしたらそれ以上の笑いものを与えてくれる本でもありました♪

 

 あと、今回出てくるナツメロは、グラシェラ・スサーナさんの「サバの女王」ということで、最後にこちらのほうを貼って、今回の前文の終わりにしたいと思いますm(_ _)m

 

 

 

 それではまた~!!

 

 

 

     ピアノと薔薇の日々。-【14】-

 

『ああ、マキか?』

 

 大晦日の夜に、パリでなど何も起きなかったというような声色だった。マキの気のせいでなければ(そのうち、電話が来るだろうと思っていた)というような、そんなふうにも感じられる声。

 

「わたし、あなたに少し、話したいことがあって……」

 

『そりゃそうだろうな。ただ、今俺、これから会議があって……必ずこっちからかけ直すよ。だから……』

 

「わたし、妊娠したの。それで、子供のほうは必ず生むつもりでいるから!話のほうはそれだけよ。あなたの援助なんて必要ないけど、友達に相談したら、いつか子供が父親のことを知りたがったらどうするのとか、相手の人にも知る権利があるとか色々言うから……それで一応知らせておこうと思っただけ!それじゃ」

 

 マキは用件を言い終えると、ブッツリ電話を切ってやった。(ああ、スッキリした!)と思うのと同時、君貴からすぐ電話がかかってくる。

 

『それで、おまえは俺にどうして欲しいんだ?』

 

「べつに、どうもして欲しくないわ。それより、これから会議なんでしょ?わたしのことはいいから、仕事のほうへ戻ったら?」

 

 ここで、君貴は英語で何か言ったが、当然マキにはわからなかった。それから、再び彼の声が送話口に戻ってくる。

 

『内輪の会議なんでな。先にはじめてろと言っておいた。それより、子供を生むとなると、仕事のほうを休まねばならんだろ?他に、出産費用のほうもかかるだろうし……俺には、おまえに金を出してやる権利があるぞ』

 

「反対しないの?」

 

『反対する権利が俺にあるのか?逆に、マキが墜ろしたいと言ったとしても、俺に反対する権利などないだろう?何分、俺は仕事で忙しくて世界中飛び回ってる。まあ、もしマキがカトリックで、墜ろすことは出来ないし、かといって育てられないとしたら――俺のほうで引き取るしかないだろうがな』

 

「それは……あなたが育てるってこと?」

 

『正確には少々違うだろうな。そういう子育ての専門家でも集めて、どうにか育児していくしかないだろうって話だ。とりあえず、その場合においては、俺にも流石に里子に出すような選択肢まではない』

 

「…………………」

 

 マキはこの時初めて、親友たちの忠告を聞き入れ、彼に電話して良かったと思った。妊娠したと聞いても、驚くでもなく――マキの取り違いでなければ、君貴には彼なりに責任を取るつもりがあるらしい。

 

『なんにしても、こんなに大切な話は電話なんかですべきことじゃない。そのうち、会えないか?というかおまえ、仕事のほうはいつ辞めるんだ?』

 

「仕事は辞めないわ。この子を育てていくのに、必要なことだから……べつにわたし、あなたにお金だせって脅迫するために電話したわけじゃないの。とにかく、もし無事子供を出産したとしたら――この子がある程度大きくなった時、あなたのことをお父さんだって話してもいいかどうかを聞きたかったの。父親の役目を果たせなんて言わないわ。だけど、自分の父親がどんな人かくらい、子供だったら知りたいと思うのは当然のことでしょ?」

 

『ふうん。なるほど……なんにしても、そのうち時間を作って東京へ行くよ。その時に、色々詳しく話しあおう』

 

「わたし、あなたに会いたくないの!」

 

 マキは、本心とは真逆のことを言った。もちろん、マキにも会いたい気持ちはある――けれど、顔と顔を合わせた瞬間、どうなるかが彼女にもわからないだけに、そういう意味では会いたくなかった。

 

『わかってるさ。その、マキが妊娠のことを話した友達とも、「サイッテーの二股男」だのなんだの、散々言いまくったんだろうな。だけど、おまえの腹の子は母親であるマキだけのものってわけじゃない。なんでも、マキの望んだとおりにしてやるよ。せめてもの罪滅ぼしに』

 

「…………………」

 

 マキは君貴ともう一度会うことに、最終的に同意した。そして、彼にしても急を要する案件だと認識してはいたのだろう。その翌週の土曜には、時間を作り、マキの住むアパートまでやって来た。

 

 彼がやって来るというので、部屋を綺麗に片付けておいたとは思われたくなく――マキはあえて、適度に散らかった部屋というのを演出しておいた。けれど、唯一失敗したことには、母・真知子のテープを棚のあたりに無造作に置いておいたことだったかもしれない。

 

「へえ。サバの女王?シバじゃないのか?」

 

 君貴は一切悪びれた様子もなく、最後にこの部屋へ来た時とまったく同じ態度でマキの部屋へ上がりこみ……最初に目についたそのテープを手に取っていた。

 

「そうよね。あなたにとっては、ヘンデルの『シバの女王の入城』ってところなんじゃない?とにかく、それは全然関係ないの」

 

「ふうん。聞いてみてもいいか?」

 

「そんなこと、今はどうだっていいでしょ!それより……」

 

 マキはカッとして、君貴の手からナツメロを収めたテープを取り返そうとした。『わたしはあなたの愛の奴隷、命も真心もあげていたいの』……なんていう曲を聴ながら泣いていただなんて、彼には絶対知られるわけにいかない。

 

「そんなに怒ることないだろう?サバの女王なんて、魚の鯖の女王ってわけでもないんだろうしな」

 

「いいから!必要最低限のことだけ話したら、とっとと帰って。わたし、もうあなたとは二度と会いたくもないって、本当にそう思ってるんだから」

 

(嘘だな)と、君貴は思ったが、(まあ、そういうことにしておこう)と思った。妊婦を怒らせるのは、お腹の子供のためにもよくない。

 

 マキはとりあえず、お茶を入れた。といっても、お茶菓子はなしだ。ただ、子供のことについて業務的に話し合うだけ話し合って、彼には帰ってもらうつもりだった。

 

「あえて聞きたいんだがな。マキには墜ろすっていう選択肢はなかったのか?」

 

「それは、あなたがそうして欲しいってこと?」

 

 マキは、(彼はやっぱり、本心としてはそうなのだろうか)と思い、内心で傷ついた。

 

「いや、電話でも言ったろ?子供を生むのはマキだから、どちらにするのかも、マキに選択権がある。ただ、おまえまだ……二十三っていったっけ?だから、そんなに若くして母親になるより、もっと遊びたかったとか、そういう気持ちはないのかと思って」

 

「ないわ。あと、この間の二月で二十四になったの。仲のいい友達のひとりはもう結婚して子供もいるし……赤ん坊を育てていくことについては、色々教えてもらえると思ってるの。職場の人たちもわたしが妊娠したって聞いたら、それまでわたしがやってた雑用を進んでやってくれるようにもなったし……第一、もう四か月近くになるのよ。堕ろすなんてこと自体、もうできないわ」

 

 いや、今の段階であればギリギリどうにか堕胎はできる。だが、母体にかかる負担も大きい……といったように、マキは妊娠についてネットで色々調べていた時に知った。

 

「そうか。でもおまえ、なんか全然妊婦っぽくないな。前と変わらず、全然ほっそりしてるし」

 

「着やせして見えるってだけじゃない?なんだったら、お腹を見せてあげてもいいけど……この子、もうお腹を蹴るの。もっともわたし、あなたがそういうことに興味あるとは、あまり思ってないんだけど」

 

「なんでそう思う?」

 

 当たっているだけに、君貴は一瞬ギクリとした。今日も、彼ははっきり言ってしまえば、マキに会いにきた。お腹の子供については、実は君貴は今もあまり興味がない。だが、彼女に会える口実が出来たことについては喜んでいたし、(流石は俺の子だ)といったようには思っていたのである。

 

「なんとなく、かな。だってあなたの態度、電話で話してた時から思ってたけど……無条件で子供が出来たことを喜ぶ父親とはまるきり違ったものね。責任はあるから金は出すとか……そうだわ。わたしね、本当にあなたには連絡するつもりなかったの。なんでかっていうとね、あなたの恋人のレオンさんのことを思ったら、子供ができたなんていう話、迷惑以外の何ものでもないでしょ?」

 

「そうだなあ。だがまあ、そのうち機会を見て必ず話すよ。そしたらあいつはまた、俺がマキと子供に会うことについては腹を立てたりするだろうけど――まあ、それであいつが俺から離れていくなら、それまでのことだからな」

 

「嘘つき!」

 

 マキはだんだん、本気で腹が立ってきた。

 

「いい?わたしはね、正直もう君貴さんのことなんかどうでもいいのよ!ただ、どんな理由にしても、わたしとあなたが会ったりしてることがわかったら、レオンさんが気を悪くするだろうなと思うから――むしろそっちのほうが耐えられないくらいなのよ!あなた、自分がどんなに凄い人と一緒にいるか、本当にわかってるの!?」

 

「そ、そりゃわかってるさ。何分あいつはピアノ界の巨匠だからな。つか、デビューして以降ずっと、十六歳にしてこの風格だの、十七歳にしてすでに巨匠の風格さえ漂うピアニズムだの言われてる奴なんだから。その上あの美貌だ。いまだにファンの女どもが『レオンさまーっ!』なんて言って、握手してもらえただけで失神しちまうくらいだからな」

 

 ――これは本当である。レオンはピアニストとしてデビューした当時から、女性ファンの反応が物凄く、彼のコンサートでは失神者が出る、救急車がコンサートホールの外で待機している……というのは、今では有名な話になりすぎて、新聞や雑誌でも取り上げられなくなってしまっているほどである。

 

「それだけじゃないわ。人間としても、とても素晴らしい人よ。戦争のあった国でチャリティー・コンサートを開いたり、アフリカに学校や病院を建てたりとか……わたし、あなたがゲイで、恋人があんな凄い人だなんて最初から知ってたら、今ごろ絶対妊娠してないって言い切ることが出来るくらいだもの」

 

「やれやれ。あいつの二重人格にも困ったもんだ」

 

 じろっとマキに凄い目で睨まれて、君貴は肩を竦めていた。玉露は出たが、食べるものが何もない。そこで勝手知ったるなんとやらで、君貴は勝手に戸棚を開けて、そこからピエール・マルコリー二のチョコレートを取りだした。

 

「やめてよ。それ、人からもらったものなのよ」

 

「べつにいいだろ。なんだったら、次に会う時にでも、同じチョコ買って持ってきてやるから……それよか、なんで女はこうも無条件にあいつの味方をするんだろうな。おまえ、パリであいつに何言われたか覚えてないのか?まあそりゃ、元を正せば俺が悪いにしても――あ、そうだ。俺とレオンが双子の兄弟なら、マキは妹だって話したらあいつ、『この近親相姦の変態野郎!』とか言ってたっけ」

 

「何よ、それ。とにかく、今はもうわたしがいなくなったことで、あなたたちはうまくいってるんでしょ?あなた、レオンさんのこともっと大切にしなきゃダメよ。離れていくならそれまでだなんて、本当はそんなこと、これっぽっちも思ってないくせに」

 

「…………………」

 

(変な女だな、本当に)

 

 君貴はそう思った。彼の予想としては――『ゲイだということを隠していた』ことについて、一番責められるだろうと思っていたのだ。だが、マキと話している感じにおいて、そうしたことに対する拒絶感や嫌悪感のようなものは、あまりないようだった。

 

「俺とあいつの関係は、俺とあいつにしかわからんことだからな。俺がレオンと離れたいと思っても、あいつのいない人生など俺には考えられないし……それはあいつにとっても同じなんだ。もう今のような関係になって六年くらいになるんだっけな。まあ、その間お互い色々あった。で、お互いに短い間距離を取っていたこともある。けど、結局相手がいないと物足りない虚しい時間が続くみたいになって――また定期的に会う生活がはじまるわけだ。俺はあいつに、マキとの間にあったことはイレギュラーな出来事だったと説明した。だから、マキとの関係がこの先どうなるかはわからないって……で、今おまえは俺の子を妊娠してる。マキのほうで俺と二度と会わないと心に決めたところで、何かあってまた俺とは会うことになるさ。それで、そのことの何が悪いのかが、俺にはさっぱりわからない」

 

「そりゃ、悪いでしょ」

 

 マキは、こうして君貴と再び会えたことを嬉しいと感じていたし、そのことは彼にもわかっているはずだった。そして、自分でもそのことを恥かしいと思っていた。嬉しい、という感情をどうしてもうまく隠しきれない自分のことが……。

 

「たぶん君貴さんは……レオンさんとは同性愛だから、そのあたりがピンと来ないのよ。もし彼が女性だとしたら、ようするにレオンさんが本妻ってことじゃない。それで、奥さんとの間にはなんらかの事情があって子供が出来なかったのに、外の愛人のほうが妊娠したみたいな、これはそういう話なのよ!道徳的に考えた場合、本来ならあっちゃいけないことなの。そのくらい、あなたにだってわかるでしょ?」

 

「いや、よくわからんな」

 

 君貴はこのマキの言い分を面白いと感じたようだった。

 

「第一レオンは女じゃないし、俺たちは結婚もしてない。だが、俺にはレオンと別れてマキと結婚することも出来ない。まあ、なんとも身勝手な男の言い分だが、俺は自分の良心を誤魔化すためにも、マキが妊娠したことに対して金くらい出したいと言ってるんだ。で、マキのほうでは金を受け取ったからって変に卑屈になることなく、もらって当然の慰謝料くらいに思っておけばいいんじゃないか?」

 

「ひどい人ね!毎月……ううん。大体三週間くらいの間隔で、あんな手紙なんか送ってきたりして。こっちはあなたのこと忘れようと思ってるのに、混乱するじゃない。あと、モリスさんにもわたしが心の底から感謝してたって言っておいて。あの人、きっとわたしが失恋の悲しみの極致にいると思ったんでしょうね。あなたのことには一切触れてなかったけど、わたしをイメージした香水を友人に作らせたって言って、送ってくださったの。くちなしの花の香りにも似た、すっごくいい香りの香水。世界中の女性が彼のサロンに夢中なのも当然よね。あんなに細かいところまで気配りできる男の人なんて、わたし生まれて初めてだもの」

 

 マキはミナたちに言わなかったが、実は三週間置きくらいに、その時滞在していた場所から、君貴は彼女にエア・メールを送ってきていた。しかも、手紙の中に言葉は何もない。ただ、赤やブルーやピンク、淡いオレンジの花びらをぎっしり詰めた手紙を送ってきた。スペインやアメリカ、ベルリンなど、消印は様々だった。封筒は異国的な情緒ある、素敵なものを使用しており、初めてマキがそれを受けとった時は――中に詰まっていたのはダークな色合いの赤い薔薇だった。メッセージ・カードのようなものが何もないので、マキは当然(どういう意味?)と思った。その次には、青い花びらがぎっしり詰まっていた。マキはその時、『悲しいが、別れよう』という意味なのかと思った。ところが、次にピンク色の薔薇の花びらが届き……その甘やかな芳香を嗅いで、またわけがわからなくなった。そして、オレンジ色の花びらが届いた翌日、マキは君貴に電話したわけだった。

 

「侘びの言葉もないって意味だよ。けど、おまえのことを考えない日は俺にはないっていうのも本当のことだ。本当は、おまえの誕生日であるバレンタインにも何かプレゼントを贈ろうとは考えた。だがまあ、ちょっとあざとすぎるかと思ってな」

 

「もう!なんて人なのよ。別れるなら別れるで、きっぱり切り捨てられたほうが……この場合、むしろ相手のためになるとは思わなかったの?あと、レオンさんの気持ちを考えたら、そうするのが当然でしょ!」

 

「俺は、おまえの気持ちもレオンの気持ちも考えない。いや、少しくらいは当然考えるが、一番考えるのは自分がどうしたいかだ。そのくちなしに似た香りの香水瓶っていうのは、モリスの恋人の調香師が作ったものじゃないか?まったく、ゲイにしておくのがもったいないような奴だよな、あいつも」

 

 マキもあとから知ったことだが、<モリス・ジュリアン美容研究所>は、世界中の女性から大人気だった。彼が得意とするアロマ・マッサージは常に予約でいっぱいであり、その他、モリスが厳選した材料によって恋人と一緒に造った化粧品やボディオイル、美容サプリメントなど……一品何か商品が増えるだけで、飛ぶように売れているようだった(彼の顧客である有名モデルや女優、その他セレブなマダムなどが、SNSでその評判を広めてくれるのである)。

 

「本当に、真心のある素晴らしい人よ。レオンさんもそうだけど、ゲイとかなんとか関係ないの!人間として素晴らしい人たちだと思うわ。あと、カールさんも……もしあの人に会ったらジャパニーズ・ガールがお礼を言ってたって伝えておいて」

 

「ふふん。さてはおまえ、ブタの失恋話を聞かされて、じーんと感動したって口か?まあ確かにな。ニューヨークあたりじゃ「結婚してないいい男を見たら、ゲイだと思え」って言われてるくらいだからな。モリスはたぶんあれだろ。大学時代くらいまで、日本で過ごしてるから……日本式の気配りが出来る男ってことなのさ。つまり、あいつは見てくれはフランスのパリジャンだが、中身は完璧日本人なんだ。俺と逆ってことだよ。俺は見た目が日本人の、中身はヨーロッパ人だから」

 

「ふうん。なるほどね。確かにわたしも君貴さんと話してると、日本語でしゃべってるのになんかあんまり日本人らしくないしゃべり……みたいには思うものね」

 

 結局この日、君貴はマキの手料理を食べて帰っていった。「泊まっていってもいいか?」と聞かれたが、「絶対にダメ!」と即答しておいた。

 

「なんでだ?流石に俺も妊婦に手をだすほど、今日は飢えてないぞ」

 

「そういうことじゃないの!あなた、人の話聞いてた?わたし、今じゃもうすっかり、あなたの顔の横にレオンさんが背後霊みたいに見える状態なのよ。彼のことを考えたら、今後はそういうことは一切抜きの、ドライな関係でいきましょ。君貴さんがわたしに言えるのは、今後は子供のことで「ああする」とか「こうする」ってことだけなんだって、そう心しておいて」

 

「ふーん。つまらんな。おまえ、そろそろ安定期に入ったんだろ?だったら、そんなに激しく突いたりしなければ……」

 

「あーもう、聞きたくないっ!あなたのそういう無神経なとこ、ほんっと大嫌いっ!!子供の胎教っていう意味でもよくないとか、父親として思わないわけ!?」

 

 マキは両耳を塞いで首を振った。君貴としては、妊娠期は女性のほうでもしたいが、言いだせずに我慢していることがある……と、ネットに書いてあったから言ってみただけなのだが。

 

「わかったよ。でも俺は、『たとえ嫌われても、愛してる』よ、おまえを」

 

「……もうっ!!最初から知ってたんじゃないのっ!!サバの女王っ!!」

 

 このあと君貴は愉快そうに笑い、「シメサバの女王のことなぞ何も知らんさ」と言って、マキのこめかみのあたりにチュッとキスして出ていった。『わたしはあなたの愛の奴隷、たとえ嫌われても愛しているわ』というのは、グラシェラ・スサーナの歌うシバの女王、二番の歌詞である。

 

 マキは君貴が帰ったあと、ドキドキする胸を静めるのが大変だった。(ダメよ、絶対こんなんじゃ……こんなことしてたら、また同じことの繰り返しになっちゃう)――一生懸命そう思おうと努力しても、もう無理だった。かといって、これからは電話やネットを通してしか連絡を取りあわないというのも、現実的ではない。

 

 そしてこの時、お腹の子がマキのことを蹴った。

 

「あら、パパが帰っちゃったのがわかったの?そうねえ。そのうちまた、君の様子を聞きにやって来るとは思うけど……」

 

 マキはそう口に出して言ってみてから、大きな溜息が出た。お腹を庇うようにして、ソファに座る。君貴は結局、お腹の子供には一度も触れようとすらしなかった。

 

(あの人は、わたしとの子供のことなんかどうとも思ってないんだわ。ただ、今目の前で起きてることが面白いとか、そういう価値基準でしか動かないっていう、ようするにそういう人なんじゃないかしら……)

 

 だが、普段はそんな感じの君貴も、去年の大晦日付近は少しくらいは血を見たというのか、地獄の思いを多少は舐めたに違いない。今にして思えば、君貴がパリを案内してくれる間、彼の態度が時折ちぐはぐだったことをマキは思い出す。帰国後、(だったらあのセックスはなんだったのよ!?)とマキも思ったわけだが、あの状況で自分に何もしないというのも、彼にしてみればありえないことだったろうとも……今は少しくらいならわかる。

 

(結局、それで妊娠しちゃったんだものね。人生に意味のないことなんてない……とまでは、わたしも思わないけど――でもわたし、ほんとにこの子に助けられてる。そうじゃなかったら、自分から君貴さんに電話するなんて絶対できなかったわ)

 

 マキは妊娠がわかって以来、時々自分のことを(怖いな)と感じることがある。というのも、ひとりで部屋にいる時、しょっちゅうお腹の子に話しかけてしまうのだが――ハッと気づくと、あたりはただしーんとしている……そんなことが、何回となくあった。

 

「ほんと、シングルマザーの人ってすごいわよね。わたし、あんな人にでも縋りたいっていうくらい、時々心が弱くなっちゃうくらいだもの。あと、お金も何も出さずに、逃げ出しちゃう男の人も多いことを思えば……君貴さんは気前よく『金は出してやる』って言ってくれるだけでも、少しはマシなのかしら……」

 

 この時、マキは束の間とはいえ、幸せだった。自分は決してひとりではなく、そしてこんな狭い場所とはいえ、父親と母親と子供とが三人一緒に揃ったのだから……。

 

 このあとマキは、君貴の送ってくれた手紙をリビングのテーブルへ持ってきた。花びらのほうは今も枯れていない。つまり、ドライフラワーにした花びらを、わざわざこうしてたくさん手紙に詰めて送ってきたということなのだろう。

 

「ねえ、どう思う?君のパパは一体、何を考えてるんでちょうね?君が実際に生まれてきたあと、脳天でも打ったみたいに、態度が変わってくれるといいでちゅけどね……」

 

 そう赤ちゃん言葉で呟きつつ、マキはそれはあまり望めそうにない気がした。「自分の子供というものが、こんなに可愛いだなんて!」といったようになってくれればいいのだが――その点、マキは自分の父親が子育てに無関心な人だったため、君貴のような人間のことが少しだけわかるのだ。

 

 つまり、どういうことかというと……これはマキが母親から聞いた話なのだが、マキの父親という人は自分の妻の妊娠中も、自分に赤ん坊などいないように振るまっていたという。家事を手伝うことも一切なく、週末は独身時代と同じく遊び歩いていたらしい。マキの母親の真知子も、(そういう人なんだから仕方ない)と思い、諦めていたという。

 

『でね、臨月を迎えて、わたしが大変になっても、わたしの大きいお腹がまるで見えないみたいな態度なのよ。それで、本当にもうすぐ生まれるって時にも、友達とマージャンしたりしてて……「おまえ、カミさんどうしてんだ?」とか、「そろそろ生まれるんだろ?」みたいに言われて――事情がわかってくると、友達三人から麻雀牌を思いっきり投げつけられたらしいわ。で、「帰れ、帰れ!」、「腹のでかい女房放っておいて、マージャンしてる場合じゃないだろうが!」って言われて帰ってきた次の日に、マキが生まれてきたってわけ』

 

 これは、真知子がもう癌で長くないとわかってから、彼女が自分のライフストーリーの一部として話してくれたことである。つまり、その頃にはマキにも『そうだよね。お父さんは何につけてもそういう人だったもんね』とわかっているため――子供として傷つくといったことは一切なかった。

 

『本当にねえ。その頃、近所に住んでた田中さんのこと、覚えてる?お父さんがもうそりゃ子煩悩でね。でも、聞いたところによるとあの人のうちも、実際に子供が生まれるまでは結構冷淡な感じだったんですって。ところが、実際に子供が生まれてきてみると百八十度態度が変わって、ものすっごい子供を可愛がって、家事も手伝ったりなんだり、色々してくれるようになったって……あーあ。うちの旦那もそうなればいいけどなと思ったけど、無理だったわ』

 

 マキは妊娠が発覚して以来、自分の母親のことを思い出す機会が多くなっている。『もしお母さんがいたら、色々教えてもらえるのに』とか、『孫が出来たことがわかったら、お母さんがとれほど喜んだことだろう』と思い、感傷的な涙が溢れることもあった。

 

「でもたぶんあの人は――お父さんタイプなんじゃないかと思うわ、お母さん……」

 

 両親の離婚後、マキは一度だけ父親とショッピングセンターで再会したことがある。父親の月城智英(尾崎という苗字は、マキの母の旧姓である)は、若い妻に付き従うようにして、ベビー用品売場でカートを押していたのだった。

 

 もちろんマキはその時、父親の姿を無視しようとした。けれど、何故か向こうのほうで娘の姿に気づくなり、追いかけてきたのである。マキはショッピングセンター内にあるベンチに父と並んで座り、少しの間話をした。「学校生活は楽しいか?」とか、「何か困ってることはないか?」などなど……仮に学校生活がまるで楽しくなく、いじめにあっていたとして――この人に一体何が出来るのだろう、マキはそう思った。

 

 もともと、マキと父親の間には小さな頃から心理的距離があった。もちろん、マキの父親は父兄参観に来たこともあったし、小学生の時の運動会にも毎年参加していた。けれど、それは何か「そうしないとなんとなく世間体が悪いから」参加している……といったように娘のマキには感じられることだった。マキの母親も「毎月給料に手をつけないで丸々渡してくれるっていう以外、夫としてなんの取り柄もない人だった」と言っていたことがある。そして、ふたりの夫婦関係を見ていて、それは娘のマキにもよくよく納得できることだったのである。

 

 夏休み、マキは家族三人で毎年旅行へ行った。けれどそれにしても、「何かそういうものらしいから」という感じでどこかへ連れていってくれるのであって――何か、父親として迸る熱意があって子供を叱ったり、あるいは子供のためにサプライズを計画するといった熱心さはない人だったと言ってよい。

 

 マキはそうしたこと全般について、父親に対しなんの文句も不満も持っていなかった。むしろ、運動会や何かしらの学校行事に参加したりと、仕事も忙しいのに「悪いな」と思っていたくらいだった。マキとしては、何か義理のような家庭サービスであったにせよ、毎年夏休みは旅行へ行くのが楽しみだったし、家族三人だけの大切な思い出もたくさんある。それで十分だと思っていた。

 

 ただこの時、マキはあるひとつのことが不思議だっただけなのだ。マキの母親の真知子は、演歌に出てくる見返りを求めない女性のように、父によく尽くしていた。彼は妻の作ってくれる料理にまったく無関心で、美味しいものを作ってくれるのも当たり前、洗濯してくれるのも当たり前、掃除してくれるのも当たり前――家事に関しては、本当に何もしない人だった。にも関わらず、若い愛人を作って離婚した。そして今、新しい妻との間に子供がおり、さらにはもうひとりを彼女は妊娠中なのだ。おそらく、ちらと見た夫婦の力関係において、今は父親が家事全般において「何もしていない」ということだけは絶対ないだろう。

 

『ほんと、マキの母さんはいい女だった。離婚してみるまで、それが父さんにはわからなかったんだ……』

 

 いくつか世間話をしたあと、マキの父はそう言って涙を流していた。マキはといえば、『それ、一体どういう涙?』と、軽蔑した目で隣の父のことを見ていたが、この時も彼は娘の<本当の気持ち>といったものに、まるで気づいてないようだった。自分のことしか考えていない――そしてマキは『男というのは、そういう生き物なのだ』と、高校生にしてすでに悟っていたという、何かそうしたところがあった。

 

 こう言ってしまうと、マキが何か父親に対して恨みを持っていると思われそうだが、むしろマキは彼に感謝していた。八歳の頃、女性の首吊り遺体を発見した時にアドバイスしてくれたように、マキの父親はたまには娘にとってためになることをしてくれたし、『こういう人もいるんだな』と、家庭内で他人を見るように父親というひとりの人間、ひとりの男性を間近で眺めることで――彼女にとっては子供として、いい意味でも悪い意味でも学習できることがたくさんあったからである。

 

 ゆえに、マキとしては、君貴がミナの夫のように「すっかり子供に夢中!」といったようになってくれるのが理想と感じつつも……彼がもし自分の父親と同じ駄目タイプの人であっても、耐性がついているだけに、驚きはしないということだった。

 

 けれど、それでもやはりマキは、失望することには失望した。出産後、君貴がすぐ子供に会いに来なかったことも、豪華なタワーマンションの一室を彼女に与えただけで、『もう俺に出来ることは終了した』とばかり、赤ん坊にもあまり会いにこず、息子と顔を合わせてもどこかよそよそしい態度だったことに対して。

 

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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