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やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)

2009-10-09 15:15:23 | 教義
§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)


「南無阿弥陀仏」の「名号」にどんな意味があるか?
前回までのレクチャーで、ちょっと詳しく解説した。
今回は、これを踏まえて浄土真宗の「信心」について解説する。

一口に「信心」と言っても、いろんな「信心」があるわけであるが、(注1)

浄土真宗の「信心」は他の「信心」とは全く異なる特別なもので、
「南無阿弥陀仏」の「名号」を受け取って、
阿弥陀仏がお作りになられたシステムに乗した人の「信心」だけが、
浄土真宗の「信心」になる。(注2)

この様々な「信心」の中で特別な、
浄土真宗の「信心」の内容を明確に表したのが、
所謂「二種深信」ということになる。(注3)



「二種深信」の内容に関しては、既にご存じであると思うが、
一応、簡単におさらいしておこう。
     ↓
深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。
一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。
二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、
衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。

(訳)
深心というのは、とりもなおさず深く信ずる心である。これに二種ある。
1)一つには、自分は罪深い迷える凡夫であり、はかり知れない昔から今にいたるまで、
常に迷いの世界に沈み、常に流転して、迷いから離れでる機会がないものである、
と心に決めて深く信じたということである。
2)二つには、かの阿弥陀仏は、
四十八願をもって衆生をおさめとって救われるのであるから、
疑いなくためらうことなくかの本願の力に乗じて、
まちがいなく浄土へ生まれることができる、と心に決めて
深く信じたということである。
(『観経疏』散善義)

1)・・機の深信
2)・・法の深信

ということになるわけだが、

ポイントになるのは、

阿弥陀仏が、どのような衆生を対象にして、
救済するためのシステムを構築したか?
(本願の生起本末)

を聞いて、それが本当のことであったと、
明らかに「知らされた」「わかった」になると、
(聞きて疑心あることなし)

この「オレ」というものが、
はかり知れない昔から今にいたるまで、
自分の力じゃ絶対に迷いの世界から離れることができない、
どうしようもないカス野郎だ!・・1)機の深信

であるということと、

阿弥陀仏が、そんなカス野郎をお目当てに、
とんでもないご苦労をしてシステムを作り、
それを完成させてくれているから、
そのシステムに乗じることによって、
この「オレ」が絶対間違いなく極楽浄土に往生して、
迷いのない存在になれる(成仏できる)!!・・2)法の深信(注4)


ということが同時に「知らされた」「わかった」ことになるということである。

これは、一つの「信心」を二つの角度から見たものだから、
どっちが先ということではなくて、
二つ同時に「知らされた」「わかった」になるものである。


自分が絶対に救われないカス野郎であるということが、
「知らされた」「わかった」から、(注5)
それを救うために阿弥陀仏が作ったシステムの凄さも、
同時に「知らされた」「わかった」になるわけであり、

阿弥陀仏の作ったシステムの凄さが「知らされた」「わかった」ら、
そこまでのシステムがなければ救われなかった、
自分のカス野郎加減も明らかに「知らされた」「わかった」になるのである。


だから、「南無阿弥陀仏」した人に、
「知らされた」「わかった」信心が「二種深信」であるから、

「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

これは非常に重要なことであるから、十分気をつけて欲しい。(注6)


【今日のまとめ】

1、様々な「信心」の中でも特別な、「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、二つの角度から明らかにしたものである。
3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

※次回は、所謂「異安心」について解説する。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 「信心」(=プラサーダ、信楽)の対象は様々である。

●SraddhA cetasaH prasAdaH. (AKBh 55, 6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

と世親菩薩が『倶舎論』で定義されているように、「プラサーダ」は仏教における代表的な「信」であり、阿弥陀仏信仰に限定されたものではない。

 その証拠に、

●athi kho no Avuso satthari pasAdo, atthi dhamme pasAdo. (MN. I.11)
(訳)友よ、我々には師に対するプラサーダ、法に対するプラサーダがある。

というように、パーリのマッジマ・ニカーヤ(中部)のような所謂「小乘経典」にも「プラサーダ」は説かれているし、同じくパーリのサムユッタ・ニカーヤ(相応部)には、

●pasAdehi KokAlika SAriputta-MogggallAnesu cittaM. (SN. VI, 9)
(訳)コーカーリカよ、サーリプッタとモッガーラーナに対してお前は心をプラサーダにせよ。

というように、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラーナ(目連)に対する心の「プラサーダ」が勧められている。

 したがって、仏教において「プラサーダ」の対象は一様ではなく、ある人が「プラサーダ」を起こした際には、その「プラサーダ」が何を対象とした「プラサーダ」であるが問題となる。


注2 「信心」(=信楽、プラサーダ)を得たことが、イコール「南無阿弥陀仏」の六字の「名号」を受け取ったことであることは、§6において、『御文章』5帖13通に基づいて述べた。


注3 「真実の信心」=「二種深信」に関しては以下参照。

『教行信証』信巻の「三心一心問答」には、第十八願の「至心・信楽・欲生我国」が「信楽」におさまり、それが「一心」であり、「真実の信心」であると述べられている。

 ●今三心の字訓を按ずるに、
  真実の心にして虚仮雑ること無し、
  正直の心にして邪偽雑ること無し、
  真に知んぬ、
  疑蓋間雑無きが故に、是を「信楽」と名く。
  信楽は即ち是れ一心なり。
  一心は即ち是れ真実信心なり。

『教行信証』信巻「一心轉釈」に、「真実信心」=「深心」=「深信」=「金剛心」であることが述べられている。

 ●然れば、願成就の一念は即ち是れ専心なり。
  専心は即ち是れ深心なり。
  深心は即ち是れ深信なり、
  深信は即ち是れ堅固深信なり、
  堅固深信は即ち是れ決定心なり、
  決定心は即ち是れ無上上心なり、
  無上上心は即ち是れ真心なり、
  真心は即ち是れ相続心なり、
  相続心は即ち是れ淳心なり、
  淳心は即ち是れ憶念なり、
  憶念は即ち是れ真実の一心なり、
  大慶喜心は即ち是れ真実信心なり、
  真実信心は即ち是れ金剛心なり、
  金剛心は即ち是れ願作仏心なり、
  願作仏心は即ち是れ度衆生心なり、
  度衆生心は即ち是れ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり、
  是の心は即ち是れ大菩提心なり、
  是の心は即ち是れ大慈悲心なり、
  是の心は即ち是れ無量光明慧に由りて生ずるが故に。
  願海平等なるが故に発心等し、発心等しきが故に道等し、
  道等しきが故に大慈悲等し、大慈悲は是れ仏道の正因なるが故なり。

『愚禿鈔』の「深心」にも、「深心」=「深信の心」=二種の深信
=「他力の金剛心」であると述べられている。

  深心と言ふは即ち是れ深信之心なり。
  亦二種有り。
  『一には決定して、
   「自身は、現に是罪悪生死の凡夫、
    曠劫より已来常に没し常に流転して、
    出離の縁有る事無し」
   と深信す。
   二には決定して、
   「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまふこと、
    疑無く慮無く、彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」
   と深信す』と。
  今斯の深信は、他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。


これらによって、「真実の信心」=「一心」=「信楽」=「二種の深信」であることは明らかであり、

「真実の信心かどうか?」=「一心かどうか?」=「信楽かどうか?」=「二種の深信どうか?」

ということになる。


注4 親●会では、「救われる」という言葉は「信楽になる」という意味だけに使われているようである。
 しかし「法の深信」で知らされるのは、自らが阿弥陀仏のシステムに乗ずることによって間違いなく極楽浄土に往生して、迷いの世界から解放されるということである。
 これは、『観経疏』散善義の本文を読めば明かであり、そのようなシステム全体を、親鸞聖人が「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」と呼ばれたことは§1で既に述べた通りである。


注5 「凡夫」(プリタグ・ジャナ、異生)という言葉は、「輪廻を繰り返して種々の世界に生まれてしまうもの」という意味であり、単なる「愚かな者」「無知な者」ではない。自力では絶対に救われない存在を表す言葉である。


注6 この「ヘンテコドグマ」に関しては§10注4、並びに以下のQ&A参照。

Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」について

Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ

Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」

§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン

2009-10-09 15:15:07 | 教義
§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン


浄土真宗の信心が「二種深信」であるというお話をしたので、
所謂「異安心」についても、若干触れておこう。

「異安心」とは、浄土真宗の異端思想のことであるが、

法然上人とも親鸞聖人とも異なる信心では、
法然上人や親鸞聖人と同じ極楽浄土に行けないので、(注1)
自分の信心が「異安心」にならないためにも、
「異安心」について知っておく必要があるのである。

ところで、浄土真宗において「異安心」であることは、
その人やその「教え」に従う団体にとっても致命的なことであるから、
「異安心」かどうかを認定するためには、
慎重に検証を加えならなければならない。

ところが、きちんとした検証を加えることもなく、
特定の個人や団体を一方的に「異安心」呼ばわりする人がいるのは、
とても危険で嘆かわしいことである。(注2)

というわけで、「異安心」を認定するために、
最低限どのような手続きを踏まねばならないかのガイドラインを作
成した。

↓↓↓↓

▽▽▽▽▽

【「異安心」を認定する際のガイドライン】

★はじめに

いかなる人にも、他人の心の中は見えません。
したがって、ある人の信心が「真実信心」かどうかは、
本人と阿弥陀仏にしかわかるものではありません。

しかし、ある人によって説かれている「教え」が、
善知識方の「教え」に明らかに反するものの場合、
その人の信心は「異安心」である可能性が極めて濃厚です。

したがって、このガイドラインは、
ある人によって説かれている「教え」を検討することによって、
その人の信心が「異安心」であるかどうかを認定するためのものです。


★事前に準備するもの

ある特定の個人や団体を「異安心」と認定するために、
事前に準備しておかなければならないものを、
列挙しておきますので、まずはこれを入手しましょう。

a)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料

どのような「信心」であるかを知らなければ、
「異安心」かどうかは、わかりませんので、
必ずきちんとした資料を収集しましょう。

所謂「うわさ話」や、批判サイトや批判書での発言等は、
事実誤認があったり、捏造された資料である可能性がありますので、
資料としては認められません。

b)正しい「安心」の基準となるテキスト

「異安心」であることを認定するためには、
正しい「安心」がいかなるものであるかを知らなければなりません。
これらの資料が浄土真宗における正しい「信心」の判定基準になりますので、
必ず用意しましょう。

ただしこのテキストは、a)の立ち位置に応じて、
以下のように使い分けられます。

(b-1)浄土真宗内で、異安心を論じる場合は、
「浄土三部経・七高祖・親鸞聖人」までを基準にする。
(b-2)東西本願寺派における覚如上人・蓮如上人、高田派における真慧上人など、
浄土真宗でも、特定の派にのみ権威を認められている文献は、
判定基準としては、参照程度の扱いであり、(b-1)に抵触しない場合のみ、
参照することができる。
(b-3)親鸞聖人を宗祖と仰ぐ「浄土真宗」以外の、
法然上人を宗祖と仰ぐ浄土門の教義を判定する際は、
「浄土三部経・善導大師・法然上人」を基準とする。
cf.法然上人の「偏依善導一師」の立場に関しては
『選択集』16章参照

c)浄土真宗で、正しい「信心」がいかなるものであるかを説明した
テキスト。

例・・灘本愛慈『やさしい安心論題の話』(西本願寺)
   山田行雄『やさしい真宗信心のQ&A』(西本願寺)

上記b)に基づいて、浄土真宗でいかなる「信心」が正しいものであるか、
解説したテキストは、「異安心」を認定するのに参考になります。

ただし、このテキストは特定の「文化」の影響を受けている恐れがありますので、
必ず同時にb)を参照して、b)と抵触していなことを確認した上で、
使用していかなければなりません。

d)過去にどういう信心が「異安心」と認定されたかがわかる資料。

例・・中島覚亮『異安心史』(平楽寺書店)
   続真宗体系第18巻「異安心御教誡集」(真宗典籍刊行会)

過去の「異安心」の判例を知っておくと、
「異安心」認定が容易にできるようになります。

但し、これだけでは「異安心」認定はできません。
必ずb)を参照する必要があります。


★「異安心」認定までの手続き

準備ができたら、以下のプロセスで「異安心」を認定しましょう。

1)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料(a)から、
  「異安心」と思われる発言を典拠を挙げて抽出する。

2)上記の発言が、発言者の立ち位置に応じて、
  該当する(b)とどのような点で抵触するかを、典拠を挙げて説明する。

3)上記の説明が、自分独自の解釈や、
  自分の「文化」のみに固有の解釈でないことを、
  他の「文化」に属するテキスト(c)などからも証明できる場合は、
  それを指摘する。

4)さらにその発言が過去に「異安心」と認定されている場合は、
  それがわかる資料から(d)その判例を挙げておくのもいいでしょう。

だだし、その判例自体が誤っている可能性もありますので、
必ず、(b)を参照する必要があります。

そしてその判例が、(b)に抵触する場合は、
判例よりも、(b)を優先することは言うまでもありません。


★おわりに

カルトとは、

「誤謬・虚偽、詭弁・詭弁詐術満載の虚言・妄説を垂れ流した上、
その挙証・論証責任すら果たさ(せ)ず居直って憚らぬドグマ体系とその信奉者」

のことである。

と以前「カルト」を分かりやすく定義いたしましたが、

きちんとした「異安心」認定プロセスを踏まえず、
無責任に「異安心」というレッテルを貼って、
挙証・論証責任すら果たさ(せ)ず居直って憚らぬ輩は、
「カルト」と言われても仕方ありませんので、
「カルト」と言われないように、気をつけましょう。

さもないと、良識を疑われて、誰にも相手にされなくなり、
やがては言語空間から抹殺されてしまうことになるでしょう。


△△△△△


【今日のまとめ】
1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、「異安心」である可能性も濃厚である。
5、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。


――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 『御伝鈔』第七段参照

上人[親鸞]のたまはく、いにしへわが大師聖人[源空]の御前に、正信房・勢観房・念仏房以下のひとびとおほかりしとき、はかりなき諍論をしはんべることありき。そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかもかはるところあるべからず、ただひとつなり」と申したりしに、このひとびととがめていはく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」と。
善信申していはく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。
かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。
わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。ここに面面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。

なお、『御伝鈔』に書かれていることを「史実」として扱ってよいかどうかに関しては、検討を要する。
ただし、この「伝承」が伝えようとしている内容は浄土真宗の教義上、非常に重要である。


注2 例えば、以下のような論拠に基づか(け)ない異安心認定は極めて不当であり、このような不当な「異安心」認定を行って憚らない団体がどのように扱いを受けるかは、「ガイドライン」に述べた通りである

~~某チャンネルより~~

見えぬ自惚れ

ちょっと変わったことが起きると、「これが獲信」と思い込み、信心という極めて大切なことについて何の自制心もなく、「オレは信心獲得したぞ」と触れ回る者がいる。自分の体験に合わせて親鸞聖人の教えを聞くようになり、機に合わないところは聞かず、己の教学の不徹底に気づこうともしないから反省もない。
そんな自分の実態が分からないから、「こんな獲信の近道、なぜ教えてくれなかった」と大恩ある善知識にさえも謗法の刃を向ける。
自惚れの果ては、「こうすれば獲信できる」と、他人の信仰相談までやって自他ともに信仰の奇形児になり果てているのだ。
親鸞聖人のみ教えを破壊している大罪の自覚など、全くないのである。

自惚れは他人(ひと)に見えても身に見えぬ

以上、顕正新聞平成21年3月1日
三面「大喝」より引用
~~某チャンネルより~~


~~清森問答投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2より~~

(M支部長からBさんへのメールより抜粋)

大沼法竜は「化土往生の安楽椅子」、Iは「三業安心の安楽椅子」を説いた親玉です。聞法者に安楽椅子を与えることは、仏法を説く知識の絶対に犯してはならない大罪ですよ。彼らは、親鸞聖人の本当の教えを、そのまま伝える人ではなかったのです。

だから、IのつくったK会で救われたといっている人も、あの体たらくなのです。

親鸞聖人や覚如上人や蓮如上人が、一切語られなかったようなことを、平気で放言し、書きまくり、ネットに流し、自分の体験を自慢しているのです。そして、親鸞会に対するうらみ、つらみ、のろいの言葉を撒き散らして、多くの人を惑わしているのです。

あれが、まともな人の文章でしょうか。

ある学徒の方は、「気持ち悪いですね。信心決定してあんなふうになるのなら、しないほうがいい」とまで言われました。

本当に恐ろしいことです。

慢心のかたまりとなって、自分がどんな大罪を犯しているか、まったく気づいてもいないのでしょう。

可哀相な人だと思います。

~~清森問答投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2より~~

§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル

2009-10-09 15:14:54 | 教義
§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル


それでは、前回の「ガイドライン」を踏まえて、
今日は具体的に「異安心」のサンプルを見ていこう。

まず浄土真宗の伝統的な「異安心」に関して、
山も山さんがサクッと解説してくれたものを、以下に引用しておく。
↓↓↓
~~2008-08-28弥陀に救われたら何がハッキリするか2より
引用~~

異安心と言ってもいろいろありますが、長くなるので、代表的なものを今回は書きます。

土蔵秘事→これは有名ですが、親鸞聖人の長子善鸞がはじめたものと言われていますが、儀式によって信心を授けるものをいいます。
知識がそれでよいと認定したり、信心をいただいた年月日時を覚えていなければならないというものです。

十劫安心→阿弥陀仏が十劫の昔、本願を建てられたときに、すでに私たちは助かってしまっている、だから今は分からないだけで死んだら極楽なのだというものです。

地獄秘事→地獄行き間違いないと(自分で)ハッキリしたのが救われたことだと思っているもの

機決定→自分でこれでよいと決めた異安心

またおいおい書いていきますが、いづれも特徴は、「自分でこれで間違いないと決めている信心」が、すべて異安心です。

また、「こうしておけばいつかは助かるだろう」と思っているのも異安心です。

親鸞聖人が

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証総序)

と仰有り、蓮如上人が

「他力の信心ということをば、今既に獲たり。」
「弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明かに知られたり。」(御文章2帖目13通)

と言われたのと異なり、「いつかは」とか「○○だから大丈夫だろう」「○○だから間違いない」という安心は、すべて異安心です。
(真実信心ではないという意味で)

~~2008-08-28弥陀に救われたら何がハッキリするか2より
引用~~


「異安心」はこれだけではなく、「現代の新しい異安心」もあるので、
このような「異安心」にもならないように注意がいるだろう。
↓↓↓
~~現代の新しい「異安心」より~~

某所より

510:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:33:48 ID:t6+HHvif
浄土真宗親鸞真会狂学性典(7)

問(32)

異安心の名を十あげよ。

答(32)

○十講安心
○十燈正因
○不倫秘事
○盗作づのり
○断章決定
○タイヤキ覚知
○脱税邪義
○華光秘事
○高森だのみ
○ドメイン往生

511:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:42:14 ID:t6+HHvif
問(33)

十講安心とはどんな異安心か。
何をどう間違ったものか、喩えで示せ。

答(33)

○十講制度が出来た昔にすでに我々は保身できてしまっているのだから、
今さら謝罪することも釈明することもいらぬという人達のこと。

○組織のでき上がったのを、免罪符をもらったことと早合点した間違い。
局長になっていても不倫すれば組織のガンは治らない。
(こんなことさえ判らぬ人達)

512:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:45:49 ID:t6+HHvif
問(37)

十燈正因の異安心とは、どんなことか。

答(37)

○高額財施さえしていれば助かる、と信じている人達。

513:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:53:54 ID:t6+HHvif
問(38)

不倫秘事の異安心の特色を六つあげよ。

答(38)

○絶対に秘密を守れと言う。
○夜中に秘事を授ける。
○本会の二代目善知識から「気持ちよい」と具合が認可される。
○不倫によって地位を貰う。
○証拠写真を撮った年月日時に覚えがなければならぬ、とやかましく言う。
○証拠ビデオがアップされた後は、会員がいなくなる。

518:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)04:27:39 ID:t6+HHvif
問(39)

断章決定とは、どんな異安心か。

答(39)

前後を無視し、自分でここがよいと思った部分の言葉だけを使う。

519:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)04:31:35 ID:t6+HHvif
問(40)

タイヤキ覚知とは、どんな異安心か。

答(40)

○おごられたタイヤキのことを覚えておらねばならぬ、
覚えておらねば生かしてはおかぬ、という異安心

520:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)04:33:04 ID:t6+HHvif
問(42)

ドメイン往生とは、どんな異安心か。

答(42)

阿弥陀如来の本願はさておきドメインに御報謝しているままで助かる、という異安心。

~~現代の新しい「異安心」より~~


いずれにしても、

★浄土真宗の信心である、「二種深信」と異なった信心

は「異安心」である。(注1)


そして、

>「必堕無間の後生の一大事」がわからないと、
>阿弥陀仏の本願はわからないのでございます!

と言うような「特殊文化」でもって、
「異安心」を認定することができないのは言うまでもない。(注2)

このように不当な「異安心」認定をするような人の「信心」は、
「プラサーダ」(信楽)=「二種深信」とはほど遠い、
「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の、(注3)(注4)
一種の「異安心」のようなものの可能性が高いと思われる。


【今日のまとめ】
1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の
「信心」は、「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。


※次回は、「信心」と「念仏」の関係についてレクチャーする。


――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 詳しくは、§11浄土真宗の「信心」(二種深信)参照。

注2 詳しくは、「苦笑の独り言」【地球人にガミラス星人の「文化」は適応されない】参照。

~~以下引用~~
>必堕無間の後生の一大事

これって、清森氏や浄土宗の人によって、限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」であることが既に証明済みなんだよね(苦笑)。

「清森問答」【質疑応答82】

「化土往生する人」を親鸞聖人がお説きになられていますが、
獲信した人以外は無間地獄なんでしょうかね~?(苦笑)

それから「昿劫を逕歴」=「無間地獄に堕在」とする根拠ってないよね(苦笑)。

「清森問答」【質疑応答83】

>親鸞聖人が「全人類は逆謗である」という説き方をされていませんので、必堕無間の根拠には、ならないと思います。

>五悪段につきましても、必堕無間とは、どこにも説かれていません。すべて三悪道として教えられています。無間地獄ならば、寿命が短いということはありません。

>つまり、五悪段で説かれていることは、悪人は三悪道に堕ちる、
ということであって、「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません。

だそうです。

「一切衆生必堕無間」というドグマはどっから導き出されるんでしょうかね~(苦笑)。

「清森問答」【質疑応答84】

>まして、化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説くことを否定するのは、善知識方の説き方を否定することになるので、間違いだと思います。

だそうです。

それでも「一切衆生必堕無間」というドグマを優先するのは勝手だけど、
化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説いている善知識とは、
別の「文化」であることは自覚する必要がありますな(苦笑)。

「清森問答」【親鸞会教義の相対化・28】

「一切衆生必堕無間」は、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとも抵触するドグマのようですね。

私は、親鸞聖人も蓮如上人も、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えを受け継いだ方だと思っておりますが、
「一切衆生必堕無間」をドグマとする「文化」は、
そのドグマと曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとの間に、
どのように整合性を付けるつもりなのでしょうかね~(苦笑)。

日蓮聖人の思想との整合性は、なんとかつきそうな気がしますけどね(苦笑)。


あと、こんなのもありましたね。

「地獄に堕ちるわよ~!」は、
仏様でもない人が他人に対して言っちゃダメみたいですよ(苦笑)。

【親鸞会教義の相対化・26】
まず、以下の記述を見ていただきたいと思います。

若佛子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過。教人説罪過。
罪過因罪過縁罪過法罪過業。
而菩薩聞外道惡人及二乘惡人説佛法中非法非律。常生悲心教化是惡人輩。
令生大乘善信。
而菩薩反更自説佛法中罪過者。是菩薩波羅夷罪
(『梵網経』大正蔵経vol.24.p.1004c.)

(訳)
仏の子よ。
もしも出家や在家の菩薩や、比丘・比丘尼の罪過を自ら説き、他の人に教えて罪過を説かせたならば、それは罪過の原因となり、罪過の条件となり、罪過の法(教え)となり、罪過の業となる。

だから、菩薩は外道である悪人、さらに二乗である悪人が、仏法の中において法でないものや律でないものを説いているのを聞いたならば、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化して、大乗の善なる信心を生じさせなさい。

それなのに、菩薩がかえって更に自ら仏法の中における罪過を説いたならば、これは菩薩としては教団追放に値する罪なのである。

これは、釈尊が「仏の子」すなわち仏弟子に仰った言葉です。

釈尊は、出家者・在家者を問わず、仏弟子が他の人の罪過を、自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることは、

それはその行為が、新たな罪過の原因となり条件となり、罪過となる教えとなり、罪過となる行為になるのでしてはいけない。

そのように禁じておられます。


つまり仏教者は、他の人に

「地獄に堕ちるわよ!」

と言ってはいけないのです。

それはなぜでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得が仏教の業報思想ですが、現在行った行為の果報が、必ず来世に得られるものであるかどうかは、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないし、その行為が、本当に地獄に堕ちるような果報をもたらすものであるかどうかも、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないからです。

それなのに、他の人に「地獄に堕ちるわよ!」と言って、その人が地獄に堕ちることがなかったらどうなるでしょうか?

そうです。

「地獄に堕ちるわよ!」と言った人こそが、妄語の罪を犯し、その罪過をうけなければならなくなるのです。

だから釈尊は、仏弟子が、他の人の罪過を自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることを禁じられたのです。

仏弟子が、罪過を犯した人に対する時は、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化し、大乗の善なる信心を生じさせるように、ひたすら導いていかなければならないのです。

それでは多くの仏典で、地獄や地獄行きの業が説かれているのはなぜでしょうか?

それは、釈尊が三明・六神通(※)という仏智でもって、どのような悪業を作った人が地獄に行くかを知り、そのような悪業を犯さないように、仏弟子逹に教えてくださっているからなのです。


一方、私達は三明・六神通からはほど遠い罪悪生死の凡夫です。

その私達が、罪業とその業果を論じる場合は、釈尊が、三明・六神通でご覧になったものをお説きになった経典に基き、「釈尊が『こういう業にはこういう果報がある』と仰っていた」という形でしか論じることはできないのです。


三明六神通を獲得してもいないのにも関わらず、凡夫のはからいで、

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

と言う人は、仏教徒でも仏弟子ではありません。


【親鸞会教義の相対化・30】
>これは私あてではないが真宗の同行として納得できない。

私の言葉足らずで、納得していだけなかったのではないかと思います。
若干でありますが、補足説明をさせて頂きます。


>親鸞会は(一切衆生)必墮無間だけしか言わんのでお
かしいのです。
>必墮無間と叱りつける人が仏弟子ではないとは私は思わない。
>(「一切衆生必墮無間」という言葉や概念はおかしいでしょう。)

Nobodyさんの仰りたいこと、よくわかっているつもりです。

創造主である神の、絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えている、キリスト教などを代表するセム系一神教に対して、仏教では、「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想=「因果の道理」が人間の倫理を支えているわけですから、人間のどのような行為が原因になって、どのような結果を受けることになるのか、それを説かなければ、仏弟子は倫理を説くことができないことになります。


そのために、仏教では古来より、

★過去世でどのような行為をした人が、現世でどのような果報を受けたのか?
★現世でどのような行為をした人が、来世でどのような果報を受けるのか?

これを、釈尊が仏智でもってご覧になったことをお話しになった話を経典や律典から抜粋して、業報の実例集、業報説話集と言える、“アヴァダーナ文献”というものが編纂されたのです。
これに基づいて仏弟子逹は、釈尊の言葉に基づき、どのような業因によって、いかなる果報を受けるかを話していったのです。

したがってNobodyさんの以下の言葉は、

>理解した上で、他の人に必墮無間と叱りつけることが
>あってもよいのではないのかな。

正確には、

==========================
仏弟子は、三明六神通を獲得した仏の言葉に基づいて、
必墮無間の人を「必墮無間」と叱りつけなければならない。
==========================

ということになると思います。

蓮如上人に関しては、恐らく上記の範囲内での発言であり、「一切衆生必墮無間」という経典にない言葉を捏造したわけではありませんし、kkhate(=kkk)さんのように、「私の後生は必定
地獄らしい」という自分の問題を、根拠もなく「全ての人」に一方的に当てはめ、「そうだろうなあ」と仰っているわけではないので、仏弟子であると言えます。


最後に、“アヴァダーナ文献”の代表的なものである“ディヴィヤ・アヴァダーナ”が、この度、世界で初めて全訳されましたので紹介させて頂きます。

平岡聡『ブッダが謎解く三世の物語』上下(大蔵出版)

これなどを読んで頂いて、釈尊がお説きになった業報の実例に基づいて、必墮無間の人に対して「必墮無間」と叱りつけるならば、何の問題もありません。

凡夫のはからいで、仏弟子にあるまじき行為をすることもなくなります。



強い放射線の中でしか生きられないガミラス星人がその「文化」を地球人に押しつけて、
地球人に「放射線は必要だよね!」と言うのはおかしいでしょ?(苦笑)

限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」を、
議論の前提にするなんてのは全くもって不当ですわ(苦笑)。


>分かってない

特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
まあ納得ですけどね(笑)。
~~以上引用~~


(注3)「プラサーダ」と「バクティ」と「思考停止」の違いに関しては、§4の注4参照。

(注4)「分かってない安心」を、元親●会講師のメル友が以下のように解説くださった。

~~以下、メル友の解説~~

>>分かってない
>↑
>特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
>まあ納得ですけどね(笑)。

この「分かってない」「わかっとらん」は、親鸞会ではよく使われる言葉です。
いわゆる「親鸞会定義の異安心者」に対して、会の講師が、会員にいうとき使われます。

【用例】
会員「○○さんって、最近みないけどどうしたのでしょうか?」
講師「○○さんは、親鸞会をやめてしまった。彼は分かってなかった。」
「○○さんも、わかってなかったということです」
「あんな者のいうことを信じるなんて、わかってない」
「彼らは異安心だからわかってないんです」

会員「なぜこんな建物が必要なのですか?」「なぜ○○(会の財施や、人集めなどの方針」なのですか?」
講師「そんなことをいうものは、わかっていない」

というように、「わかっていない」の主語がハッキリしないために、聞かされた方は、自分で起こした疑問について全否定されるので、「自分は分かってない→自分では理解できない→自分は考える力がない→考えないでおこう」とだんだんと、思考停止のスパイラルに陥っていきます。

この「分かってない」も、いってみれば異安心といってもいいでしょう。

・分かってない安心→会員に「わかってない」「全然わかってない」ということによって、会員を思考停止にして安心する異安心

~~以上、メル友の解説~~

§14 「信心」と「念仏」

2009-10-09 15:14:40 | 教義
§14 「信心」と「念仏」


ここで、「信心」と「念仏」の関係について述べておこう。
結論から先に述べるが、

★「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えてはいけない。

これは、非常に重要である。

法然上人は、

「名号を聞いても、信じなければ聞いてないのと同じである。
 信じたと言っても、念仏を申さなければ信じたことにはならない。
 念仏申しなさい。」

と仰っておられ、(注1)
その教えを受け継いでいる親鸞聖人も、
しっかり信じることと念仏申すことをセットにしておられる。(注2)(注3)

「親鸞聖人の教えで大事なのは信の一念だけである!」
と言って、
「行の一念」を軽んじる輩もいるようであるが

親鸞聖人が、

「信を離れた行はない。
 行の一念を離れた信の一念もない。」

と仰っておられるのを忘れてはならない。(注4)

そして、所謂「信行両座の法論」も、
「真実の信心」と「念仏」を分離しないという、
法然上人や親鸞聖人の教えに、抵触しない解釈でなければならない。(注5)


それと、「信」の立場からは、

★「一念」で往生できると「信じる」。

わけであるが、

「行」の立場からは、

★生涯できる限り念仏申していく。

ことが大切である。

これは法然上人が仰っておられることであるが、(注6)
親鸞聖人も受け継いでおられる。(注7)(注8)

覚如上人や蓮如上人の言葉も、このコンテクストで読まないと、

「お礼だから、してもしなくてもいい」

等という、念仏申すことを軽視する、誤ったドグマになってしまうのである。(注9)(注10)

「南無阿弥陀仏」についてかなり詳細にレクチャーしたので、
読者諸兄は、そのような誤ったドグマからは既に脱却されているであろう。(注11)


【今日のまとめ】
1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
6、上記は法然上人のみならず、親鸞聖人も教えておられることである。
7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、このコンテキストで解釈していかなければならない。
8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。

※次回は、「信前の念仏」のお話をする。
「念仏は総て信後、報謝の念仏に限る」というドグマとの対決である。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 法然上人には以下の言葉がある。

名号を聞くといえども、これを信ぜずば、これを聞かざるがごとし。
これを信ずといえども、これを唱えずば、これを信ぜざるがごとし。
ただつねに念仏すべし。
(「四巻伝」三、「九巻伝」二)


注2 親鸞聖人はお手紙の中で、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、
ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。
また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、
疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。
本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。
このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
『親鸞聖人御消息』

とお答えになられていて、「本願を信じて念仏申す」がきちんとセットになっている。


注3 上記の親鸞聖人の立場は、主著『教行信証』においても同様である。

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、
その意これ一つなり。なにをもつてのゆえに、
三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。
これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。
(『教行信証』信巻)

というように、疑う心のまったく混ざらないのが、「真実の一心」=「金剛の信心」=「真実の信心」であるとした上で、

真実の信心はかならず名号を具す。
名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。

と述べて、必ずその「真実の信心」が「名号(=念仏)」を具えていることが明らかにされている。

そして同じく『教行信証』の行巻に、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。

とあり、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、
よく衆生の一切の志願を満てたまふ。
称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。
正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

とあるように、この「真実の信心」が具えている「名号(=念仏)」が、「衆生の一切の無明を破し」「よく衆生の一切の志願を満てたまふ」「最勝真妙の正業」であると明らかにされている。


注4 以下参照。

信の一念・行の一念ふたつなれども、
信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、
ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。
この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、
信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、
行をはなれたる信はなしとききて候ふ。
また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
『親鸞聖人御消息』(7)


注5 したがって「信行両座の法論」の意義は以下のように解釈できる。

 この法論を「信心vs念仏」と解釈してしまうと、「真実の信心」と「念仏」を分離してしまう、法然上人や親鸞聖人の教えに抵触した解釈になってしまう。
 したがって、「真実の信心」が「念仏」を具すものとした上で、
「どのタイミングで阿弥陀仏の救いを得るか?」という法論であったと解釈すべきである。

例えば『歎異抄』の第一条には、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

とあり、「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」に、阿弥陀仏の「摂取不捨の利益」を受けるとある。

これはつまり、

「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」

の時点で、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になったということであり、この瞬間に信心決定した人となり、間違いなく極楽浄土に往生する人になるということである。

もちろん「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」わけであるから、この後にこの人は、まもなくお念仏を申すわけであるが、
その最初の一声が出る前に、地球が滅びる等の何らかアクシデントがあったとしても、この人は阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になっていて、間違いなく極楽浄土に往生できるわけである。

その阿弥陀仏の摂取を受ける瞬間が「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」か、その後に出される一声の念仏の後かという問題が、
この「信行両座の法論」で問題になるべきポイントであると、解釈すべきなのではないかと思われる。


注6 法然上人には以下のような言葉がある。

●行は一念十念なお虚しからずと信じて、無間に修すべし。
一念なお生る、況や多念をや。
(『一紙小消息』)

(訳)
行に関して言うならば、「一回の念仏、十回の念仏でも往生のためになる」と信じて、間を置かずに申し続けるべきである。
一回の念仏でも往生できる。まして多くの念仏で往生できることはいうまでもない。


●一念十念に往生をすといへばとて、念佛を疎相に申すは、
信が行をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定におもふは、行が信をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定に思ふは、念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり。
其故は、阿彌陀佛は、一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、
念ごとに往生の業となるなり。
(「勅伝」21、「つねに仰せられける御詞」)

(訳)
一念十念の念仏だけでも往生できるからと言って、
念仏をいい加減に申すならば、それは信が行を妨げることになる。
逆に「一瞬一瞬、常にこれを続けるということ」と述べられているからと言って、
一念では往生できるかどうかわからないと思うならば、それは行が信を妨げることになる。
また「一念の念仏で往生できるかどうかわからない」と思うのであれば、一念一念繰り返し念仏申すごとに、往生できるかどうか疑う念仏になってしまう。
そのわけは、阿弥陀仏は、一念のお念仏によって、一度極楽浄土へ往生ができることを、本願で定めておられるのであるから、
一念一念お念仏を申すごとに、それが極楽浄土に往生することができる行為になるのである。


注7 親鸞聖人の『一念多念証文』は、上記の法然上人の教えを詳しく述べたものである。詳しくは以下の全文を参照。

親鸞聖人『一念多念証文』全文


注8 これは参考までにであるが、聖覚法印の『唯信鈔』にも以下の言葉があり、上記の法然上人の教えは、法然門下に共通したものであることは明かである。

つぎに念仏を信ずる人のいはく、
「往生浄土のみちは、信心をさきとす。
信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。
『経』(大経・下)にすでに〈乃至一念〉と説けり。
このゆゑに一念にてたれりとす。遍数をかさねんとするは、
かへりて仏の願を信ぜざるなり。念仏を信ぜざる人とておほきにあざけりふかくそしる」と。

まづ専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、
つぎに一念の義をたてて、みづから念仏の行をやめつ。
まことにこれ魔界たよりを得て、末世の衆生をたぶろかすなり。

この説ともに得失あり。往生の業、一念にたれりといふは、
その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、
すこぶるそのことばすぎたりとす。
一念をすくなしとおもひて、遍数をかさねずは往生しがたしとおもはば、
まことに不信なりといふべし。往生の業は一念にたれりといへども、
いたづらにあかし、いたづらにくらすに、
いよいよ功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、
これをとなへば、終日にとなへ、よもすがらとなふとも、
いよいよ功徳をそへ、ますます業因決定すべし。

善導和尚は、「ちからの尽きざるほどはつねに称念す」といへり。
これを不信の人とやはせん。ひとへにこれをあざけるも、
またしかるべからず。一念といへるは、すでに『経』(大経・下)の文なり。
これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。このゆゑに、一念決定しぬと信じて、
しかも一生おこたりなく申すべきなり。これ正義とすべし。
念仏の要義おほしといへども、略してのぶることかくのごとし。


注9 覚如上人の『口伝鈔』には、以下の言葉がある。

一、一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事。
このこと、多念も一念もともに本願の文なり。
いはゆる、「上尽一形下至一念」(礼讃・意)と等釈せらる、これその文なり。
しかれども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、
「上尽一形」は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。
そのこころ、経釈顕然なるを、
一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこころえみだす条、
すこぶる経釈に違せるものか。
さればいくたびも先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、
他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、
そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。
これすなはち「上尽一形」の釈にかなへり。


注10 蓮如上人の『御文章』二帖三通には、以下の言葉がある。

一、開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、
もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、
本願を信楽する体とす。
されば先達より承りつたへしがごとく、弥陀如来の真実信心をば、
いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、
一念をもつては往生治定の時剋と定めて、
そのときの命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり。
これによりて、平生のとき一念往生治定のうへの仏恩報尽の多念の称名とならふところなり。
しかれば祖師聖人(親鸞)御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。
これをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて真宗のしるしとす。


注11 §9~11,ならびにQ&A(3)~(5)参照。

§15 所謂「信前の念仏」について

2009-10-09 15:14:28 | 教義
§15 所謂「信前の念仏」について

 前回の解説で、「真実の信心」と「念仏」が切り離せないことも、
「念仏はお礼だから、してもしなくてもいい」とは絶対に言えないことも、ご理解いただけたと思う。

 しかし、こういう話をしても、
「念仏は信後に限る」という方が必ず出てくるであろう。
(注1)

 本当に「念仏は信後に限る」と言えるかどうか、
 まず、親鸞聖人の師匠である法然上人にお聞きしよう。



 法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、
心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人に対し、
「功を積み徳を累ぬれば時々猛利の心も出で来るなり」と、
いずれの行よりも優れた功徳のある「念仏」を勧めておられる。(注2)

「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」の人は、もちろん「信前」である。

 その「信前」の人に「念仏」を法然上人がお勧めになられているのに、
「念仏は信後に限る」とは口が裂けても言えない。


 それに、「我が心をも護り信心をも催す(うながす、引き起こす)」ために、
「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられるから、(注3)
「念仏は信後に限る」とは、絶対に言えない。


 そして親鸞聖人は、

信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし
(『正像末和讃』66)

と仰っておられる。(注4)

「往生を不定におぼしめさん人」
=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」
=「信心の人」(信後の人)におとらないように、

「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」
と仰っておられるわけであるから、

親鸞聖人が「信前の人」に、「称名念仏はげむべし」
と勧めておられることは絶対に否定できない。


 なお、一応断っておくが、親鸞聖人は法然上人の教えを受け継がれた方であるから、
当たり前の話であるが、親鸞聖人の言葉は、法然上人の教えに抵触しない解釈をしなければならない。(注5)


【今日のまとめ】

1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。

2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。

3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。

4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。

5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。


※「親鸞聖人は教え方が違う!」「親鸞聖人の教えは三願転入である!」と反論したくなった方は、とりあえず脊髄反射は控えて、次回の「三願転入の話」をじっくり読んでから反論して頂きたいと思う。



――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 例えば、以下のような発言。

 真宗の教義の骨格は、「信心正因、称名報恩」であり、信心一つで助かるのであって、称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。
(『こんなことが知りたい』1p.126-127)


注2 『念仏往生義』浄土宗聖典vol.4.pp.524-525

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。
その心の内にまた弥陀を憑(たの)む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。
いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、
こころざしの験(しるし)なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。
始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒(いたずら)に暮れなん事、後悔先に立つべからず。


注3 『十二箇条問答』浄土宗聖典vol.4.pp.445-446

問うていわく、かようの愚痴の身には聖教をも見ず悪縁のみ多し。
いかなる方法をもてか我が心をも護り信心をも催すべきや。

答えていわく、その様一つにあらず。
あるいは人の苦に遇うを見て三途の苦を思いやれ。
あるいは人の死ぬるを見て無常の理を解れ。
あるいは常に念仏してその心を励ませ。
あるいは常に善き友に遇いて心を恥しめられよ。
人の心は多く悪縁によりて悪しき心の起るなり。
されば悪縁をば去り、善縁には近づけなりといえり。
これらの方法一品ならず。時に随いて計らうべし。

つまり、

「我が心をも護り信心をも催す」ために、
1)人が苦しんでいる姿を見て、他人事と思わず、現世や来世で自らがやがて苦しむかもしれないこととして受けとめていく。
2)人が亡くなっていくのを見て、他人事と思わず、無常の空しさや恐ろしさと真正面から向き合って、後生の一大事の解決に取り組むきっかけとしていく。
3)常に念仏をお称えして、阿弥陀仏との関係を深めて、自らの心を勵ましていく。
4)善い法の友を持ち、互いに勵ましあいながら、その人たちに負けないように、その人たちの友として恥ずかしくないように、精一杯努力していく。

普段からこれを一つ一つ心がけていくことが、大切であると法然上人は仰っておられる。


注4 以下の言葉も信前の念仏を勧めたものである可能性がある。

 往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして、御念仏そうろうべし。
(『親鸞聖人御消息』25)

 しかし、「往生を不定におぼしめさん人」(=信前の人)に対して、「まずわが身の往生をおぼしめして」とあるので、あくまでも「信後の念仏」のみを勧めた言葉である。と解釈することも不可能ではない。


注5 以下の親鸞聖人の言葉等に基づき、親●会においても「法然上人の教え=親鸞聖人の教え」という立場を取っている。この点に関しては素晴らしいことであると考える。
 親鸞聖人の言葉を法然上人の教えに抵触する意味に解釈し、「親鸞聖人の教えは法然上人の教えと異なる」「親鸞聖人の教えは法然上人の教えを超越している」と主張する態度は、親鸞聖人ご自身の御心を裏切る行為である。

●『高祖和讃』源空讃

曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし

阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ
化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまひにき

●『歎異抄』二章

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、
また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ。