やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§1 「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」

2009-10-09 15:18:14 | 教義
§1 「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」

 結論から申しますが、

★「仏教の目的」は「成仏」である。

ということになります。

仏教の「八万四千の法門」は、全てこれを目的にしていて、
「成仏を目的にしない仏教」は「仏教」とは言えません。

これは、

★極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する。

「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」であっても変わることはあり
ません。

極楽浄土は「成仏」するための場所であって、(注1)
阿弥陀仏が衆生を救済するために立ててくださった「本願」は、
最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムなのです。(注2)

そして、親鸞聖人が「横超」と仰っているのは、
このシステムを明かにした
「願成就一実円満の真教」=「真宗」を意味してるのです。(注3)


【今日のまとめ】
 1、「仏教の目的」は「成仏」である。
 2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
 3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
 4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
 「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。



――――――――――――――――――――――――――――――――――
※本文は可能な限り簡潔に書くので、詳しい資料や解説は以下の注
をご覧ください。

注1 『無量寿経』において極楽浄土は、仏にまみえて菩提をきわ
めつくし成仏する場所である。

●実にまた、アーナンダよ、かの国に生まれた菩薩たちはすべて、
仏にまみえることと法を聞くことから遠のかず、菩提をきわめつく
すまで、(地獄などの悪い境界に)墮落することのないものであ
る。また、彼らはすべて、そのときから以後、(前)生のことを記
憶していないものとはけっしてならないであろう。ただしかし、
ちょうど私がいま(現にここにあらわれて)いるように諸仏・世尊
が世間にあらわれれるとき、五つの濁りが起こっているそのような
カルパの乱れのなかに(生まれたいと)、かつて立てた誓願(に
よってそれを誓った菩薩たち)は別として、である。
『無量寿経』サンスクリット文和訳


注2 極楽浄土に往生した人が成仏するためのシステムは以下のよ
うになっている。

1)世尊よ、もしも私の仏国土に生まれるであろう衆生逹の全て
が、大いなる涅槃にいたるまで、正しい状態にあることに決定した
ものとならないようであったら、その間は、私はこの上ない完全な
正覚を覚ることはないであろう。
『無量寿経』第11願サンスクリット文和訳

 私(=阿弥陀仏)の仏国土(=極楽浄土)に生まれる「全ての衆
生」が、大いなる涅槃(=成仏)に至るまで、正しい状態にあるこ
とに決定(=正定聚)したものにならなければ、阿弥陀仏は仏にな
らないと誓っている。

2)実にまた、アーナンダよ。かの国(極楽)に既に生まれ、現に
生まれ、やがて生まれるであろう衆生逹の全てが、涅槃にいたるま
で正しい状態にあることが決定している。
それはなぜかと言うと、そこにおいては、いまだ(覚りに至ること
が)決定していないものと、邪な状態にいたることが決定している
ものの二つの集まりが、存在しているということもないし、仮に示
されることもないからである。
『無量寿経』第11願成就文 サンスクリット文和訳

 そして、その本願が実現して、極楽に生まれる「衆生逹の全て」
が、「涅槃」にいたるまで正しい状態にあることが決定している。
 さらに、極楽においては、覚りに至ることが決定しないものと、
邪な状態にいたることが決定しているものは、存在しないことも示
されている。

 1)は阿弥陀仏の誓願。2)は阿弥陀仏の誓願が実現したことを
証明する釈尊の言葉であり、 いずれも極楽浄土に往生する
「全ての衆生」が、大いなる涅槃(=成仏)に至ることが、決定し
ていることを証明する文である。


注3 『教行信証』信巻参照

●横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂
に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは
大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成
就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・
九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には
品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真
道を超証す。ゆゑに横超といふなり。『教行信証』信巻

ここに書かれている内容を簡単にまとめると、

【聖道門】【方便】「竪出」・・大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教
     【真実】「竪超」・・大乗真実の教
【浄土門】【方便】「横出」・・三輩・九品、定散の教、化土・懈
慢、迂回の善
     【真実】「横超」・・願成就一実円満の真教、真宗

ということになり、

【聖道門】【方便】である「竪出」、
【聖道門】【真実】である「竪超」、
【浄土門】の中でも【方便】である「横出」、

これらに対して、

【浄土門】【真実】である「横超」が、
「一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証」するシ
ステムである、
「願成就一実円満の真教」=「真宗」であることを明かにしている。


§2 極楽浄土に生まれるためのシステム

2009-10-09 15:17:58 | 教義
§2 極楽浄土に生まれるためのシステム


 前回の話で、以下のことが明かになった。

1、「仏教の目的」は「成仏」である。
2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
  「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。


 ところで「浄土真宗」の教えは、最終的には、「成仏」を目指すが、直接的には、極楽浄土に「往生」することを目指すので、

★何によって極楽浄土に生まれるか?

が大事になる。

 そして、これを明かにしたのが、

★「阿弥陀仏の十八願文」なのである。(注1)



 その内容は、わかりやすい言葉で言えば、

★阿弥陀仏の本願に対する疑いが晴れ、
 念仏申す心のおき、たとえ何回でも念仏申した人を、
 間違いなく極楽浄土に生まれさせよう。
 それができないなら、私は仏にならない!!

という内容で、(注2)

阿弥陀仏がこのマニフェストに基づいてとてつもない実践をし、
その結果、このマニフェストが実現し、(注3)(注4)
衆生が極楽浄土に往生させるためのシステムを完成されているから、

私逹が、そのシステムに乗ずることによって、間違いなく極楽浄土に往生することができます。

 したがって、「極楽浄土に生まれる」こと抜きで、本願文解釈をしては絶対にならない。



【今日のまとめ】

1、阿弥陀仏がマニフェスト(48項目)の第十八番目(第十八願文)は、「本願を信じた人を極楽浄土に生まれさせる」システムを作ることである。
2、阿弥陀仏はマニフェストを実現したから、西方極楽浄土で仏様になっている。
3、阿弥陀仏がマニフェストを実現して完成してくれたシステムによって、衆生は極楽浄土に往生することができる。



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1『無量寿経』所説の十八願文は以下の通り。

●たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

なお、wikiArcでは以下のように現代語訳されている。

●わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。


注2 十八願の「若不生者」が「極楽浄土へ生まれる」ことを意味しているのは、言語の構造上、単語の格関係が明確であるサンスクリット文を見ても明々白々である。

●世尊よ、私が覚りに到達したとき、無量で数えきれない仏国土でわたしの名前を聞いて、その私の仏国土に生まれたいという心をおこし、もろもろの善根を振り向ける衆生たちが、もしも十度までも心をおこしても、彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら、そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう。
 ただし、直ちにその報を受けなければならない程の極悪な行為をした衆生や、正法を誹謗するという覆いにおおわれている衆生は除いてである。

『無量寿経』十八願に対応するサンスクリット和訳(親鸞会教義の相対化21より)


★若不生者不取正覚(極楽浄土へ往生)
→彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら

 また、サンスクリットが読めなくても、親鸞聖人の解釈をきちんと知っているならば、解釈を間違うことはない。

●「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
『尊号真像銘文』


注3 「本願」は既に実現しているから「本願」である。

「誓願」の原語は「プラニダーナ」であり、「本願」の原語は「プールヴァ・プラニダーナ」であり、明確に区別されている。
「プールヴァ」は「以前の」「過去」という意味であり、「本願」とは「仏が過去に菩薩だった時に立てた誓願」という意味であり、「現在では既に実現している誓願」という意味になる。


 このことを法然上人は以下のように述べておられる。

●本願と云うことは、もとのねがいと訓ずるなり。もとのねがいと云うは、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもって、称してむ衆生を、我が国に生ぜしめんと云うことなり。かるがゆえに本願というなり。『四箇条問答』昭法全p.700

(訳)
 本願とは「もと(過去)の願い」と訓ずるものである。
「もと(過去)の願い」というのは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった昔に、「迷いの世界から抜け出せずにいる衆生を、わずか一遍でも称えた念仏の功徳によってわが浄土に往生させよう」
と誓ったものである。そういうわけで本願というのである。


また、『選択集』の第三章において、

Q 法蔵菩薩の四十八願は成就されたのか?
A 『無量寿経』の願成就の文を読めば、四十八願の一々が達成されていることは明らかである。第十八の念仏往生願の達成のみを疑う必要はない。
 また、四十八願のそれぞれの末尾に、「願が達成されなければ仏にはなるまい」と誓っておられ、しかも阿弥陀仏は成仏以来、十劫を経ている。

という問答が設けられており、阿弥陀仏の誓願が成就して「本願」つまり、「過去の誓願」「完成した誓願」となっていることが証明されている。


●問うて曰く、一切の菩薩、その願を立といえども、あるいはすでに成就せる有り。また今だ成就せざる有り。未審し、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就したまうとやせん、はたいまだ成就したまわずとやせん。

 答えて曰く、法蔵の誓願一一に成就したまえり。何となれば、極楽界中にすでに三悪趣無し。まさに知るべし。これすなわち無三悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文にまた地獄、餓鬼、畜生諸難の趣無しと云えるこれなり。
 また彼の国の人天寿終って後、三悪趣に更ること無し。まさに知るべし、これすなわち不更悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文に、また彼の菩薩乃至成仏まで悪趣に更らずと云えるこれなり。

(中略)

 第十八の念仏往生の願、あに孤り以て成就したまわざらんや。然ればすなわち念仏の人皆以て往生す。何を以てか知ることを得たる。
 すなわち念仏往生の願成就の文に、「諸有る衆生その名号を聞いて信心歓喜して、乃至一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と云えるこれなり。

 およそ四十八願、浄土を荘厳す。華池宝閣、願力に非ずということ無し。何ぞその中において独り念仏往生の願を疑惑すべきや。如之、一一の願の終わりに、もし爾らずば正覚を取らじと云えり。而るに阿弥陀仏成仏したまいてより已来、今において十劫なり。成仏の誓いすでに以て成就せり。まさに知るべし、一一の願虚しく設くべからず。故に善導の云く、「彼の仏今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからず、衆生称念ずれば必ず往生を得。」已上



「信じて念仏申したものを極楽浄土に救い取る、それができなければ私は仏にはならない」と過去において、仏になる前の阿弥陀仏が誓願を立てたわけであるが、現在、その誓願が実現し「本願」になっているから、阿弥陀仏は、西方極楽浄土で仏となっている。

 そして誓願が実現していることが『無量寿経』において釈尊によって説かれ証明されているから、阿弥陀仏が過去に誓った誓願が嘘ではなく、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申したならば間違いなく往生することができるのである。



 このことを善導大師は、

●もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ。彼の仏、今現に世に在(ましま)して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生を得と。『往生礼讚』

(訳)
 もし私が仏になっても、十方の衆生が、私の名前を称えること、少ないもので十声の者に至るまで、もしも往生できなかったならば、私は仏にならない。そう誓った阿弥陀仏は、現在に西方極楽浄土におられて仏になっておられる。だから、仏が昔に誓った重要な誓願が嘘ではなく、人々が「南無阿弥陀仏」とお念仏申せば、必ず往生できる。ということを、よく知るべきである。

とお説きになられている。この文は『選択集』の先の文の後にも引用され、親鸞聖人が『教行信証』の後序において、


 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
 同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生」(礼讃)の真文とを書かしめたまふ。

と述べておられることからも、浄土真宗においても非常に重要な文であることは明かである。



注4 「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈するのは、「本願」が何であるかを全く理解してないことに起因する誤りである。

参照 「正覚を取らじ」は「命を捨てる」??(追記あり)

§3 阿弥陀仏の救いは平生から

2009-10-09 15:17:42 | 教義
§3 阿弥陀仏の救いは平生から


前回まで、阿弥陀仏の作ってくれたシステムが、
衆生を極楽浄土に「往生」させて、
最終的に「成仏」させてくれることが明らかになりました。

ところで、このシステムによって衆生が救われるのが、
「死後」ではなく「平生」であることを、
法然上人が明かにしてくださっています。(注1)

親鸞聖人はこれを踏まえて、
「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見たならば、(注2)

★衆生が「信楽」を得たその瞬間に、
「往生」が確定して「成仏」も確定する。

ことを明らかにしてされております。(注3)

浄土真宗では、これを「不体失往生」と言います。(注4)

したがって、「不体失往生」の根拠は、
「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければなりません。(注5)


【今日のまとめ】
 1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムで救われるのは「平生」である。
 2、そのことは法然上人が明かにしてくださった。
 3、親鸞聖人は「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見ることにより、「信楽」を得たその瞬間に、「往生」が確定して「成仏」も確定することを明かにした。
 4、浄土真宗では、このことを「不体失往生」と言う。
 5、したがって、「不体失往生」の根拠は「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければならない。



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 以下の文参照。

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。

平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)

なお、善慧房証空上人も「この世での救い」を積極的にお説きになられていることは、晄かである。

参照親鸞会教義の相対化・77(投稿)


注2 参考までに、サンスクリット文『無量寿経』願成就文は以下の通り

●およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、

★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられている。



注3 親鸞聖人が「若不生者」を「極楽浄土への往生」と解釈されながら、本願成就文の内容を踏まえて「平生業成」「現生不退」の意味を十八願に補っておられることは、『尊号真像銘文』を見れば明かである。

『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
 本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。

----------------------------------------------------------------------
「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。


注4 『口伝鈔』参照

 上人[親鸞]のたまはく、先師聖人[源空]の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信(親鸞)は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といふ。小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。
 ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人[源空]の御前に参じて申されていはく、「善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみくだんのおもむきを一々にのべまうさるるところに、大師聖人[源空]の仰せにのたまはく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて「さぞ」と仰せあり。
 これによりて両方の是非わきまへがたきあひだ、そのむねを衆中よりかさねてたづねまうすところに、仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。
念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。
このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」。



注5 親鸞聖人の言葉の用例から、【若不生者不取正覚】と
  【即得往生住不退転】を時間軸上の配置すると以下のようになる。


【若不生者不取正覚】
★「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
『尊号真像銘文』(1)

★「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。
『尊号真像銘文』(10)

至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる!
ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる!


「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。
『唯信鈔文意』

若不生者のちかひ=穢土をすてて真実報土にきたらしむ!


【即得往生、住不退転】
★「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。
『唯信抄文意』

信心をうれば→すなわち往生す=不退転に住す=正定聚の位に定まる=成等正覚=即得往生


そんでもって『尊号真像銘文』の(1)の方を読むと、
「若不生者不取正覚」よりも時間的に前の時点で、

真実信心をえんとき→摂取不捨の心光にいる→定聚のくらいにさだまる

とある。

★如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
『尊号真像銘文』


つまり「即得往生住不退転」と「若不生者不取正覚」を時間軸上に配置すると、

真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
             ↑                 ↑
        「即得往生、住不退転」        「若不生者不取正覚」

となる。

§4 「信楽」と「正定聚」の関係

2009-10-09 15:17:26 | 教義
§4 「信楽」と「正定聚」の関係


阿弥陀仏の本願に対して「信楽」を得た瞬間に、「正定聚」になることを、「不体失往生」と言うわけであるが、

★「信楽」・・阿弥陀仏の本願に対する信心
★「正定聚」・・完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地

ということは、仏教の常識として知っておく必要がある。(注1)


この二つは、因果関係にあって密接に関係しているが、(注2)
この二つをイコールにしてしまうと、
これまでツッコミを入れてきた某浄土真宗系新興宗教のドグマのように、
いろいろな問題が発生してしまうことになる。(注3)


なお、「信楽」は「プラサーダ」であって、
「バクティ」や「思考停止」でないことも、
キッチリ理解しておかなければならない。(注4)

極楽浄土に往生することを願うのであれば、
「バクティ」や「思考停止」ではなくて、
「プラサーダ」を目指さなければならない。



【今日のまとめ】

1、「信楽」は「阿弥陀仏の本願に対する信心」、「正定聚」は「完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地」である。
2、この二つは、因果関係にあって密接に関係している。
3、しかし、この二つをイコールにしてしまうと、親●会のヘンテコドグマのように、様々な問題が発生してしまう。
4、「信楽」は「プラサーダ」であって、「バクティ」や「思考停止」ではない。
5、極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」ではなく「プラサーダ」を目指さなければならない。



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 サンスクリット文『無量寿経』願成就文には、

●およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

というように、

★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、
          ↓
★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられているが、

★「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。

★阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。

これは、『無量寿如来会』の願成就文も共通である。


●『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。(『教行信証』信巻に引用された『無量寿如来会』の願成就文)

★信受本願(真実信心を得る)
 →無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば

★即得往生住不退転(正定聚のくらいにさだまる)
 →願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと



注2 親鸞聖人の言葉に基づいた、以下の解説がわかりやすい。


~~~以下引用~~~
656:神も仏も名無しさん:2008/06/27(金)09:13:05
ID:eu09B6u2
>>653の続き

 しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
 つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
 それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」という同義語反復になってしまいます。
 ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。


658:神も仏も名無しさん:2008/06/27(金)09:28:21
ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願前念命終
 即得往生後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。
~~~以上引用~~~

 また、「信受本願」「即得往生住不退転」「若不生者不取正覚」を図にすると、以下のようになる。

 1)      2)                3)
 真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
    ↑         ↑              ↑
 「信受本願」   「即得往生、住不退転」     「若不生者不取正覚」
   =前念(因)        =後念(果)


なお、

●しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

とあるように、1)と2)は「即のとき」というように、時間を介在しないから同時であるが、明確に因果関係にあるので、これをイコールにすることはできない。



注3 更に詳しくは以下を参照。

参照 「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係
参照 ちび●墓穴!(再掲)
参照 「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う(再掲)
参照 「どこに「死後」って書いてあるの?」→ちび●ボコボコ!!
(再掲)


注4 「プラサーダ」と「バクティ」と「思考停止」の違いは以下の通り。


【プラサーダ】

 仏教における信仰の観念は、また極めて古い時代からプラサーダと云う語を以て表示される。それはまた「澄浄」とも「喜」とも訳された。すなわち仏教における信仰は、仏の法を信じて、心がすっかりしづまり澄み切って、しづかな喜びの感ぜられる心境をいうのである。
 従ってちょうどプラサーダに相当する語を、西洋の言語のうちに見出すことは困難である。仏教の信の心境は、しづかな、おちついたものであって、熱狂的、狂信的な信仰からは、およそかけはなれたものである。
(中村元『東洋人の思惟方法』第一部p.189)


【バクティ】
 後代のヒンドゥー教信仰において、シュラッダーに代わって最重要の概念となるものはバクティである。√bhajという語根に由来するこの語の原義は、分割あるいは参与である。それがいわば最高神への参入という意味に転じ、結局、最高神に対する真摯熱烈な絶対帰依としての信仰・崇拝を指す語として、シヴァ教、ヴィシュヌ教諸派の間で近代に至るまで弘く用いられるようになっていったのである。
 バクティはつねに人格神に対する熱烈な情愛を伴うものであり、その点でインドの他の信仰形態と趣を異にしている。人間が最終的解脱に至る最重要の及至は唯一の道がバクティであると考えられることが多く、その意味でバクティこそヒンドゥー教信仰のかなめであるということができる。
(『岩波哲学・思想辞典』pp.815-816「信仰」)


【参考思考停止】

●意味
 考えるのをやめること。あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。
「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。

●使われる場面
 基本的に、きちんと論証する手間を省いて「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人達を指す時に使用する」
 簡単に言えば「ダメ。ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対、崇拝しろ」と主張したい人が使う。
(「参考思考停止とは」はてなダイアリーより)


注5

●世親菩薩『倶舎論』
SraddhAcetasaHprasAdaH.(AKBh55,6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

●梵文『無量寿経』願成就文

ye kecit sattvAs tasya 'mitAbhasya tathAgatasya nAmadheyaM
Sr.n.vanti,
SrutvA cAntaSa ekacittotpAdam apy adhyASayena prasAdasahagatam
utpAdayanti,
sarve te 'vaivarttikatAyAM saMtis.t.hante 'nuttarAyAH samyaksaMbodheH.

(訳)およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、プラサーダ(浄らかな信)を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

とあるように、仏教における「信」は「プラサーダ」であり、極楽浄土に往生することを願う人が起こすべき心も「プラサーダ」である。
「プラサーダ」(浄らかな信)は、「しずめる」「浄化する」
「喜悦する」「滿足する」という意味をあらわす動詞、pra-√sad
から作られた名詞であり、「心が澄みきって清らかとなり、静かな喜びや滿足の感じられる心境」のことであり、「バクティ」とも「思考停止」とも、全く異なるものである。
 極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」じゃなくて「プラサーダ」を目指さなければならない。

§5 何の力によって信心を得るか?

2009-10-09 15:17:11 | 教義
§5 何の力によって信心を得るか?


ここまで述べてきたように、
衆生が極楽浄土に往生し、最終的に成仏するためのシステムを
阿弥陀仏が作ってくださったわけであるが、
衆生がそのシステムに乗じなければ、
その阿弥陀仏のシステムは作動することができない。(注1)

そして、このシステムの乗ずるのに必要なのが、
「信心」(=信楽、プラサーダ)であることは、
既にご存じのことであろう。(注2)

それにも関わらず、某新宗教団体のドグマでは、
本願の解釈を、

阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

としてしまっているために、

事実上、所謂「十劫安心」を肯定してしまうことになってしまう。
(注3)

これが、どん程誤ったドグマであるかは、
これまでのツッコミを読まれた方には明かであろう。(注4)



【今日のまとめ】
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」(=信楽、プラサーダ)である。
3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。


※それでは、私達が何の力によって信心を得るか?

これに関しては、次回詳しく述べよう。


――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 以下のエピソードが、このことを端的に表しているであろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ある時、一休禅師が蓮如上人に歌を送った。


阿弥陀にはまことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生をのみぞたすくる

(訳)
阿弥陀仏には、本当の慈悲がないのではないか?
阿弥陀仏をたのむ衆生だけを救うと言っているではないか!


これに対し、蓮如上人は以下のような歌を返されたそうである。


阿弥陀には隔つる心はなけれども
蓋ある水に月は宿らじ

(訳)
阿弥陀仏には、衆生を別け隔てするような心はないが、
蓋をしてしまった水面に月を写すことができないように、
阿弥陀仏の本願を疑い阿弥陀仏の救いを拒む人を、
阿弥陀仏は救うことができないのである!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


注2 以下の親鸞聖人の言葉を参照。

●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻

これは、「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になれば、「本願力回向の信心」を獲得するので、極楽浄土に往生することが確定するということである。
逆に言えば、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなければ、「本願力回向の信心」を獲得することができず、極楽浄土に往生することも確定しないということである。

そして、

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』

とあるように、阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、衆生がそれを受け取らないために、残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるのである。


注3 以下のCさんのツッコミが素晴らしい。

かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(後半)より

もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!


注4 ツッコミ!参照