やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§15 所謂「信前の念仏」について

2009-10-09 15:14:28 | 教義
§15 所謂「信前の念仏」について

 前回の解説で、「真実の信心」と「念仏」が切り離せないことも、
「念仏はお礼だから、してもしなくてもいい」とは絶対に言えないことも、ご理解いただけたと思う。

 しかし、こういう話をしても、
「念仏は信後に限る」という方が必ず出てくるであろう。
(注1)

 本当に「念仏は信後に限る」と言えるかどうか、
 まず、親鸞聖人の師匠である法然上人にお聞きしよう。



 法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、
心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人に対し、
「功を積み徳を累ぬれば時々猛利の心も出で来るなり」と、
いずれの行よりも優れた功徳のある「念仏」を勧めておられる。(注2)

「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」の人は、もちろん「信前」である。

 その「信前」の人に「念仏」を法然上人がお勧めになられているのに、
「念仏は信後に限る」とは口が裂けても言えない。


 それに、「我が心をも護り信心をも催す(うながす、引き起こす)」ために、
「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられるから、(注3)
「念仏は信後に限る」とは、絶対に言えない。


 そして親鸞聖人は、

信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし
(『正像末和讃』66)

と仰っておられる。(注4)

「往生を不定におぼしめさん人」
=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」
=「信心の人」(信後の人)におとらないように、

「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」
と仰っておられるわけであるから、

親鸞聖人が「信前の人」に、「称名念仏はげむべし」
と勧めておられることは絶対に否定できない。


 なお、一応断っておくが、親鸞聖人は法然上人の教えを受け継がれた方であるから、
当たり前の話であるが、親鸞聖人の言葉は、法然上人の教えに抵触しない解釈をしなければならない。(注5)


【今日のまとめ】

1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。

2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。

3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。

4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。

5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。


※「親鸞聖人は教え方が違う!」「親鸞聖人の教えは三願転入である!」と反論したくなった方は、とりあえず脊髄反射は控えて、次回の「三願転入の話」をじっくり読んでから反論して頂きたいと思う。



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注1 例えば、以下のような発言。

 真宗の教義の骨格は、「信心正因、称名報恩」であり、信心一つで助かるのであって、称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。
(『こんなことが知りたい』1p.126-127)


注2 『念仏往生義』浄土宗聖典vol.4.pp.524-525

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。
その心の内にまた弥陀を憑(たの)む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。
いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、
こころざしの験(しるし)なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。
始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒(いたずら)に暮れなん事、後悔先に立つべからず。


注3 『十二箇条問答』浄土宗聖典vol.4.pp.445-446

問うていわく、かようの愚痴の身には聖教をも見ず悪縁のみ多し。
いかなる方法をもてか我が心をも護り信心をも催すべきや。

答えていわく、その様一つにあらず。
あるいは人の苦に遇うを見て三途の苦を思いやれ。
あるいは人の死ぬるを見て無常の理を解れ。
あるいは常に念仏してその心を励ませ。
あるいは常に善き友に遇いて心を恥しめられよ。
人の心は多く悪縁によりて悪しき心の起るなり。
されば悪縁をば去り、善縁には近づけなりといえり。
これらの方法一品ならず。時に随いて計らうべし。

つまり、

「我が心をも護り信心をも催す」ために、
1)人が苦しんでいる姿を見て、他人事と思わず、現世や来世で自らがやがて苦しむかもしれないこととして受けとめていく。
2)人が亡くなっていくのを見て、他人事と思わず、無常の空しさや恐ろしさと真正面から向き合って、後生の一大事の解決に取り組むきっかけとしていく。
3)常に念仏をお称えして、阿弥陀仏との関係を深めて、自らの心を勵ましていく。
4)善い法の友を持ち、互いに勵ましあいながら、その人たちに負けないように、その人たちの友として恥ずかしくないように、精一杯努力していく。

普段からこれを一つ一つ心がけていくことが、大切であると法然上人は仰っておられる。


注4 以下の言葉も信前の念仏を勧めたものである可能性がある。

 往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして、御念仏そうろうべし。
(『親鸞聖人御消息』25)

 しかし、「往生を不定におぼしめさん人」(=信前の人)に対して、「まずわが身の往生をおぼしめして」とあるので、あくまでも「信後の念仏」のみを勧めた言葉である。と解釈することも不可能ではない。


注5 以下の親鸞聖人の言葉等に基づき、親●会においても「法然上人の教え=親鸞聖人の教え」という立場を取っている。この点に関しては素晴らしいことであると考える。
 親鸞聖人の言葉を法然上人の教えに抵触する意味に解釈し、「親鸞聖人の教えは法然上人の教えと異なる」「親鸞聖人の教えは法然上人の教えを超越している」と主張する態度は、親鸞聖人ご自身の御心を裏切る行為である。

●『高祖和讃』源空讃

曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし

阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ
化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまひにき

●『歎異抄』二章

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、
また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ。