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やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§16 所謂「三願転入」について

2009-10-09 15:14:15 | 教義
§16 所謂「三願転入」について


前回、「信前の念仏」を親鸞聖人も勧めておられることを証明したが、

親鸞聖人は「三願転入」をお説きになっておられるから、
「信前の念仏」は二十願のプロセスの人に説かれたもので、
十九願のプロセスにある人には「諸行」が勧められている。

と反論される方も、おられるだろう。(注1)

そのような方のために、所謂「三願転入」について触れておこう。


そのような主張をされる方は、親鸞聖人が『教行信証』化土巻で、
「以下の道程を歩まれている」とお話されていることを、根拠にしておられる。(注2)

1)【万行諸善の仮門】を出て、【双樹林下の往生】から離れた。
2)【善本徳本の真門】に入って、【難思往生】を願う心を起こした。
3)【選択本願の大海】に転入して、【難思議往生】を遂げようと欲する。

そして、1)2)3)が、
本願で言うと、それぞれ十九願・二十願・十八願に対
応して、
浄土三部経で言うと、それぞれ
『観経』『阿弥陀経』『大無量寿経』に対応するから、

[三願][三経][三門]
[三往生]
1)万行諸善=十九願=観経=要門→双樹林下の往生
2)善本徳本=二十願=小経=真門→難思往生
3)選択本願の大海=十八願=大経=弘願門→難思議往生

こういう構造になって、

「とりあえず1)からスタートしなければならない!」

ということで、

「お金を持ってきなさい!ただ働きしなさい!
 お友達を連れてきなさい!サークルを作って学生を誘いなさい!
 アニメを売りなさい!」

という「善(?)」に励んでいるわけである。(注3)

 さて、このような「活動」が、「万行諸善」と言えるかとりあえず置いておいて、
(私は、言えないと思うが。。)


 これが、親鸞聖人の「体験告白」であって、
親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。
ということは、まず踏まえておかなければならない。
(注4)(注5)


【今日のまとめ】
1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。


 とりあえず、今日はここまで確認しておいて、話が長くなるので、続きは次回に述べる。

★「仏が衆生に何を求めているか?」が、次回のポイントである。


注1 例えば以下のような解説をしている「文化」に属する皆様が、このような反論をするのではないかと思われる。

以下引用

高森顕徹著『こんなことが知りたい』vol.4pp.106-110

二〇 三願転入とはどんなことか

問 三願転入と、よくききますが、三願転入とは、どんなことでしょうか。

答 大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、四十八のお約束があります。
弥陀の四十八願といいます。
その中で
「あらゆる人を救う」
と誓われた願が三つあります。十八、十九、二十願がそれです。
十八願は、卒直に阿弥陀仏が
「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
と、本心を誓われたものですから、王本願といいます。
ところが、自惚れ強く、相対の幸福しか知らない私達を、絶対の幸福にまで導くことは大変で、種々の方便が必要だったのです。
十九、二十の願は、その為に誓われたものです。
十九願には、「十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、どうしたら平和な安楽な世界に生まれることが出来るのか。
それには、悪を慎み、善を励まなければならないと奮発心をおこし、あらゆる善を一生懸命実行して、その力で我国(浄土)に生まれたいと願う者は、臨終に諸仏菩薩にとりまかれて迎えにゆこう」
と、約束なされています。
因果の道理は宇宙の真理、善因善果、悪因悪果、自因自果には寸分の狂いもない。
知っただけでは観念の遊戯に終わり、実行しなければ善果は得られない、と真面目に全力尽してやってみると、悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて泣かざるを得ません。
二十願はそんな人に誓われた弥陀のお約束です。
「十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、念仏を称え、その功徳の力で、我国(浄土)に生まれたいと願う者は、必ず、思いを遂げさせてあげよう」と。
そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、つとめればつとめる程、散乱粗動の心ばかりが見えて来て、こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、こんな乱れた心で称えていても本当に助かるのだろうか、と不安な心が出て来ます。
また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、功徳にならぬように思えるので、悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、見えて来るのは悪ばかり。
励めば励むだけ、乱れる心はやまず、悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しいから、こんな者でも死んだらお助け、と安心し喜ぼうとしますが、助かっていないから喜ばれる筈がありません。
法の尊さに感激した時は、助かるようにも思いますが、悪性が現れると、こんあことでは助からんのではなかろうかと、堕ちるような気がする。
念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、参ってみたり堕ちてみたり、つねに不安動乱がやまないのです。
十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、次の十八願で絶対の幸福へ転入させようとするのが、弥陀の狙いなのです。
後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、
後生の一大事と聞いても驚かず、
絶対の幸福といっても、ウンともスンともこたえず
何のことかい、とせせら笑っているのが私達の本性です。
親鸞聖人は、逆謗の屍といわれました。
この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、命を投げ出すとお約束なされているのが弥陀の十八の誓願です。
こうまできかされても、聞き切らぬ渋太い私であったのかと照らし出され、進むに進まれず、やめるにやめられず、にっちもさっちもならぬところを三定死といいます。
一切の助かる望みが切れた時と、大慈悲心が徹到した時とは同時で、まことなるかな、弥陀の本願、己れ忘れて踊り上がり、ようこそ、ようこそ南無阿弥陀仏と噴き出るお念仏を仏恩報尽の念仏というのです。
無辺の智恵と、無限の慈悲を体得しますから、底の知れない懺悔、高さの知れない
歓喜、広さの知れない苦悩の晴れた味に、遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。
この十八願に誓われた絶対の幸福、無碍の一道に出るには、十九、二十願の道程を
通らなければならないことを発見し、教導なされたのが親鸞聖人です。
その体験を三願転入というのです。

以上引用


注2『教行信証』化土巻より

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。

果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。

ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を?うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。


(苦笑ちゃん訳)
 このようなわけで、愚禿釈の親鸞は、龍樹菩薩や天親菩薩のような論主の解釈を仰ぎ、曇鸞大師や善導大師のような祖師方の教えを受けることによって、久しくさまざまな行や諸善を修行する方便の要門【万行諸善の仮門】を出て、永く【双樹林下の往生】から離れた。

 そして、自力の念仏の功徳を積む方便の真門【善本徳本の真門】に入って、ひとすじに【難思往生】を願う心を起こした。

 しかしいまや、その方便の真門からも出て、【選択本願の大海】に転入した。速やかに難思往生を願う心を離れて、【難思議往生】を遂げようと欲するのである。

 阿弥陀仏が、必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をお立てになったのは、まことに意義深いことである。

 ここに久しく、阿弥陀仏の本願の海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い御恩に報い感謝するために、真宗の教えの要となる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称えるのである。いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのである。


注3 某巨大掲示板に、注1で紹介した「文化」の主張を端的にまとめた記述が掲載されていたが、非常に的を得ているのではないかと思う。

以下引用

400:神も仏も名無しさん:2009/03/11(水)20:58:36
ID:d3pLMFdy
親鸞会で言う「善」の基準ってなんだろうか?
彼らの主張によれば「極楽に行くための縁、手がかりになるもの」ということらしいが

・「阿弥陀仏は全人類を極楽に往生させるために18願をたてられた」
      ↓
・「18願まで導くための方便として19、20願を建立した」
      ↓
・「19願のこころを釈尊は一切経において廃悪修善として教えられた」
      ↓
・「廃悪修善を六度万行として要約された」
      ↓
・「六度万行の第一が布施である」
      ↓
・「布施とは、財施・法施である」
      ↓
・「財施とは真実の仏法、善知識のためにお金や労働力を提供することである。法施とは真実の仏法を人々に伝えることである」
      ↓
・「真実の仏法は親鸞会でしか教えていない。よって親鸞会にお金や労働力を提供し、親鸞会に多くの人を勧誘しなければならない」

 結局、お金を持ってきなさい、ただ働きしなさい、お友達を連れてきなさい、サークルを作って学生を誘いなさい、アニメを売りなさい、それが「善」ですよ、ということ。

以上引用


注4 投稿文・三願転入「しなければ」助からないという、言い方の影響を考える参照

以下引用

■三願転入の御文は、親鸞聖人の「体験告白」

親鸞聖人ご自身が阿弥陀仏に救われた体験告白をされたのが、三願転入の御文です。
三願転入の御文は、親鸞聖人の教行信証全6巻の化土巻に書かれているものです。

「ここを以て、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く雙樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に廻入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻)」

最初に「愚禿釈の鸞」とありますから、間違いなく「親鸞は」という、親鸞聖人ご自身の体験告白文です。親鸞聖人ご自身は、自身の救われた具体的な体験告白というものはほとんどされていません。ご自身の名前を出して「このようにして弥陀に救われた」と告白されている部分は、これ以外には

「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)」

の他にはありません。

■「体験告白」は重視されなかった親鸞聖人

このことから分かることは、親鸞聖人ご自身が、救われた人の具体的な体験を書くことを重要視されていなかったと言うことです。「このようにして救われた」と書くと、それは「救われる方法」ということになり、「このようにすれば救われる」と聞く人が多いからです。

親鸞聖人の書かれた浄土真宗の根本聖典である教行信証は、阿弥陀仏の教、阿弥陀仏の行、阿弥陀仏の信、阿弥陀仏の証について書かれたものです。「私たちの」教・行・信・証を書かれたものではありません。
親鸞聖人がもっとも力を入れて書かれたのは、教行信証の信巻です、その信巻とは、阿弥陀仏の本願に誓われた信心について書かれている者です。ですから、浄土真宗は「信心為本」の教えと言われ、阿弥陀仏から賜る信心一つで救われる教えです。

親鸞聖人の教えを、そのまま伝えられた蓮如上人は、親鸞聖人の教えについて、「聖人一流の章」では、一言で

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候(御文章5帖目10通・聖人一流)」

と言われています。

阿弥陀仏から賜る他力の信心一つで救われるのが浄土真宗ですから、「私がこうしたから助かる」という言い方はできません。個人的な体験談を語るということは、聞いた人が、「私がこうしたら助かる」という方法(自力の行で助かる)があるように思ってしまうからです。

ご自身の体験談を書かれた「三願転入の御文」が、教行信証の化土巻末に書かれているのはそのためです。
ことさら重要視されていなかったことは明確です。覚如上人や、蓮如上人が、ご自身が「このようにして救われた」という体験談を書かれなかったのも、自身の体験談を語ることの危険性を考えられた上でのことです。

「三願転入の御文」は体験談である以上、このような道を通って救われたとは書かれていますが、救われた後振り返って「すべて阿弥陀仏の願力の働きによって救われたのであって、自分の教、行、信、証は一つもなかった」ということを書かれたものです。

■三願転入「しなければ」救われない?

そのように書かれている三願転入の御文であっても、真実信心を獲得していない人にことさら強調して説けばどうなるでしょうか。まして三願転入「しなければ」救われないと言えば聞いた人はどう思うでしょうか?

『「三願転入の御文」にあるように私が行動しないと救われない』としか思えなくなるでしょう。
ここで大事なのは、三願とは、「阿弥陀仏の」18願、19願、20願の三願ですから、「阿弥陀仏の三願」の願力によって救われたと親鸞聖人が告白されているのであって、「親鸞が」こうして、こうして、こうなったから救われたと言われているのではないということです。

三願転入「しなければ」と聞けば、「私が」三願転入の御文の通りに行動しなければと大半の人が思うのではないでしょうか。
親鸞聖人が三願転入の御文で、告白されたのは、「阿弥陀仏の願力によって三願転入させられたから、現在弥陀に救われる事ができたのだ」と、救われた後振り返って知らされたことを、阿弥陀仏の願力からいわれたものです。ということは、阿弥陀仏に救われるまでは、阿弥陀仏の18願の願心も、19願の願力も、20願の果遂の誓いもハッキリ分かるものではないということです。

三願転入の御文の最後に言われているのはそのことです。

「選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻・三願転入の御文)」

阿弥陀仏の18願の救いに一念で救われ、20願の往生の心を離れて、18願で誓われた報土往生を死ねば遂げる身になることができました。18願の世界に必ず出させてみせるという果遂の誓い(20願)は本当であった、といわれています。
18願の救いに救われて、20願は本当であったと振り返って言われいるのであって、救われる前に、自分は19願の願力に引っ張られているとか、20願の願力に引っ張られていると明確に分かるものではありません。

まして、「自分で」19願の行をして、20願の念仏を称えたから出られたとは言われていないのが、親鸞聖人の三願転入の体験告白なのです。

すべて阿弥陀仏の働きによって救われるのでありますから、「私が」三願転入(でいわれようなことを実行)しなければ助からないと思うのは間違いです。
??以上引用??


注5 近年は、親●会も個人の「体験告白」を「教え」として語ってはいけない教義にシフトしている。

清森問答質疑応答162より

機相…(語られていない)とは、

★何時、何処で、どのように獲信した、というような各人各様、違うことは、説かれていないと言うことです。

★また、あの人は獲信している、あれはしていないなどと言われていないことを言うのです。

§17 阿弥陀仏の本願の行

2009-10-09 15:14:01 | 教義
§17 阿弥陀仏の本願の行

ここで大切なことを確認しておくが、

親鸞聖人の所謂「三願転入」のうちで、
「万行諸善」「要門」に当たる『観無量寿経』において、
最終的に釈尊がお勧めになられたのが「念仏」で、(注1)

されにそれを善導大師が解釈されて、

阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、
釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、
衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。

と述べられ、(注2)

その教えを法然上人も受け継いでおられることを、
忘れてはならない。(注3)

そして、法然上人が『選択集』最後の十六章に書かれた、実践的結論と言える、

速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば・・

1)「聖道門」「浄土門」という二種の優れた法門の中で、「浄土門」を選んで入る。
2)「正行」と「雑行」の二行の中で、「正行」を選んで実践していく。
3)「正定の業」と「助業」の中で、「正定の業」(阿弥陀仏の名号を称えること)を專らに実践していく。

という言葉は、(注4)
親鸞聖人も主著『教行信証』の行文類に引用され、

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。
大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

とコメントされているから、
当然ながら、浄土真宗においても従わなければならない。(注5)


それでは、なんで阿弥陀仏は十九願と二十願を立てられたのか?
ということになるが、

★阿弥陀仏の十八願を信じようとしない人を導いて、
十八願の世界に入れるため。

に決まっている。

いかなる行も及ばない末代の衆生のために、
阿弥陀仏が名号を作ってくださり、
それを受け取った人を必ず救う、と仰っておられるのに、(注6)
それを信用せず、

「何かをしなけらばならない!」

と思ってしまう、阿弥陀仏の御心がわからない衆生・・。

そんな衆生にも心を向けて、なんとか十八願の世界に導きいれようとした、
「巧みな手段」(方便)の願が、十九願と二十願なのである。(注7)

だから、「本意の願」である十八願の世界に、
一刻も早く入ろうとしなければならない。(注8)

そのために善知識がお勧めになられているのは、
聴聞と信前の念仏であるから、それを最優先にしなければならない。(注9)

それが、できなくなるような環境ならば、
速攻で脱出しなければならない。(注10)(注11)


【今日のまとめ】

1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
  阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
  阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
  親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。

2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
  この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。

3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。

4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
 「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。

5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
  それができなくなるような環境からは脱出すべきである。


※次回から、「まだ納得できない人」のために、質疑応答形式で更に掘り下げた解説を行う。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 詳しくは以下参照。

『観無量寿経』において、釈尊は定散二善を述べた終わった後、流通分において阿難に、

●汝好く是の語を持て、是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。

(訳)
あなたはこの語をよくたもちなさい。
「この語をたもて」というのは、無量寿仏の名号をたもてということである。

と仰っている。


注2 詳しくは以下参照。

善導大師は『観経疏』において、上記の釈尊の教えを以下のように解釈されている。

●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)


注3 法然上人は上記の善導大師の言葉を『選択集』(第12章)に引用され、また同じく『選択集』で以下のように述べておられる。

もし仏像を造ることや堂塔を建立することを、
極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
お金のない貧しい者は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
しかし現実には、裕福な人は少なく、貧しい人は甚だ多い。

もし智慧にすぐれ才能に溢れていることを、
極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
愚かで智慧のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
しかし現実には、智慧のある人は少なく、愚かな人は甚だ多い。

もしお経に書かれた教えを、沢山見たり聞いたりすることを、
極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
少ししか見たり聞いたりしていない人は、
きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
しかし現実には、沢山聞いた人は少なく、
少ししか聞いていない人は甚だ多い。

もし戒や律をきちんと守ることを、
極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
戒を破ってしまったり、もともと戒のない人は、
きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
しかし現実には、戒を守れる人は少なく、戒を破ってしまう人は甚だ多い。

この他の念仏以外の諸行に関しても、これに準じて知るべきである。
以上のことから、これらの念仏以外の諸行をすることを、
極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
往生できる人は少なく、往生できない人は多いだろう。

だからこそ、阿弥陀仏は過去において法蔵比丘であった時に、
平等の慈悲にうながされて、あまねく全ての人々を救うために、
仏像を造り堂塔を建立する等の念仏以外の諸行を、
極楽浄土に往生するための本願にせずに、
ただ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す一行だけを本願とされたのである。
(第三章)


注4 『選択集』十六章

1)
それ速やかに生死を離れんと思わば、
二種の勝法の中に、
しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選びて、淨土門に入(い)れ。

(訳)
速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば、
二種の優れた法門の中で、
しばらく聖道門をとどめておいて、浄土門を選んでそれに入りなさい。

2)
浄土門に入(い)らんと思わば、
正雑二行の中に、
しばらく諸々の雑行を抛(なげす)てて、選びて正行に帰すべし。

(訳)
浄土門に入ろうと思うのであれば、
正行と雑行の二行の中で、
しばらくさまざまな雑行をなげうって、正行を選んでそれに帰しなさい。

3)
正行を修せんと思わば、
正助二業の中に、なお助業を傍(かたわら)にして、選びて正定を專(もっぱら)にすべし。

正定の業というは、すなはち、これ佛の御名(みな)を称するなり。
名を称すれば必ず生まるることを得(う)。
佛の本願によるが故に。
『勅伝』巻十八、「選択集」第十六章(昭法全三四七頁)

(訳)
正行を行おうと思うならば、
正定の業と助業の中で、さらに助業をわきにおいて、正定の業を選んで專らに行うべきである。

正定の業とは、すなわち阿弥陀仏の名号を称えることである。
阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず極楽浄土に往生することができる。
それは、阿弥陀仏の本願によるからである。


注5 親鸞聖人は、「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。

三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。
ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。
いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。
真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。
なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、
仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、
願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。
いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。
三経一心の義、答へをはんぬ。
(『教行信証』化身土巻)

しかし、この「他力の信心」と善導大師・法然上人・親鸞聖人がお説きになられている「念仏」が切り離して考えられないものであることは、既に述べた通りである。

詳しくは、§14「信心」と「念仏」参照。


注6 例えば以下の法然上人の言葉を参照。

酬因感果(しゅういんかんか)の理(ことわり)を、
大慈大悲の御心のうちに思惟して、
年序そらにつもりて、星霜五劫におよべり。
しかるに善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を巡らして、思惟し給えり。
しかも、我別願をもて浄土に居(こ)して、
薄地低下(はくじていげ)の、衆生を引導すべし。
その衆生の業力によりて生まるるといわば、かたかるべし。
我、すべからく、衆生のために永劫(ようごう)の修行をおくり、
僧祇(そうぎ)の苦行を巡らして、万行万善の果徳円満し、
自覚覚他の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、
その成就せんところの、万徳無漏の一切の功徳をもて、
我が名号として、衆生に称えしめん。
衆生もしこれにおいて、信をいたして称念せば、
我が願にこたえて、生まるる事を得べし。
『勅伝』巻三十二、「登山状」(昭法全四二七頁)

(訳)
阿弥陀仏は、「どうすれば仏になることができるだろうか」という理論を、
大いなる慈悲の御心でもって考えているうちに、
年月はいつの間にか過ぎていき、五劫という途方もない時間が過ぎた。
そして衆生の能力や理解を判断して、巧みに教え導こうとお考えになられた。
「この私は、私だけの特別の願を立てて浄土に住して、
何の取り柄もなくもがき苦しんでいる衆生を、導いていこう。
もしも、そのような愚かな衆生が、自分で行ったよい行いの力によって、
極楽浄土に生まれるというのであれば、それは難しいであろう。
だからこそ私は、当然のこととして衆生のために、
果てしない時間修行を行い、無数の苦行を積んで、
ありとあらゆる修行・善行の結果として得られる功徳を獲得し、
自ら覚り、他を覚らせるための仏道を極めて、
その結果完成した、ありとあらゆるけがれなき全ての功徳を、
私の名号に込めて、衆生に称えさせよう。
だからもしも衆生が、私のこの本願を信じて、私の名号を称えたならば、
私の誓願の通りに、極楽浄土に生まれることができるであろう。」


注7 「方便」(UpAya.ウパーヤ)は、「近づく」「到達する」という意味の動詞から派生した名詞で、「仏の覚った真理に近づく手段・方法」のことである。
仏の覚ったものは「真理」であるが、その真理に人々を導こうとして説かれる教えや方法は、それ自体「真理」そのものではない。
なお、「自分の目的実現のためには他人にうそをつくことも仕方ない」という意味で、「うそも方便」という言葉があるが、「方便」は本来、仏教語であり、そこには「嘘」とか「虚妄」という意味は存在しない。


注8 親鸞聖人が編纂された法然上人の遺文集である『西方指南抄』所収の法語である「十七箇条御法語」には、以下の記述がある。

●第十九の願は諸行之人を引入して念仏之願に帰せしめむとなり。
『昭法全』p.470

また、『安心決定鈔』の冒頭に以下の記述がある。

●浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。
弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。
余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。

この書物は著者は不明であるが、第8代宗主蓮如上人の指南によって本願寺派では聖教とみなされている。


注9 聴聞、信前の念仏については、それぞれ以下の記事を参照。

・聴聞について・・
§7聴聞(何を「聞く」のか?)
§8なかなか信心獲得できない人のために・・

・信前の念仏について・・
§15所謂「信前の念仏」について


注10 以下の法然上人の言葉を、勝手に改変しないでそのまま受け取るべきである。

現世を過ぐべき様は、念仏の申されんかたによりてすぐべし。
念仏の障りになりぬべからん亊をば、厭い捨つべし。
一所にて申されずば、修行して申すべし。
修行して申されずば、一所に住して申すべし。
ひじりて申しされずば、在家になりて申すべし。
在家にて申されされずば、遁世して申すべし。
ひとり籠もり居て申されずば、同行と共行(ぐぎょう)して申すべし。
共行して申すされずば、ひとり籠もり居て申すべし。
衣食(えじき)適(かな)わずして申されずば、他人に助けられて申すべし。
他人の助けにて申されずば、自力にて申すべし。
妻子も従類も、自身助けられて念仏申さん為なり。
念仏の障りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。
所知所領(しょちしょりょう)も、念仏の助業ならば大切なり。
妨げにならば、持つべからず。
『勅伝』巻四十五、「十二問答」


(訳)
この世を生きていく方法は、お念仏が申せるように過ごしなさい。
お念仏の妨げになると思われることは、やめなさい。

一カ所に定住しながらでは念仏が申せないのであれば、諸国を行脚しながら申しなさい。
諸国を行脚しながらでは念仏が申せないのであれば、一カ所に定住して申しなさい。

出家者だから念仏が申せないというのであれば、在家者になって申しなさい。
在家者だから念仏が申せないというのであれば、世俗を離れて申しなさい。

一人でひきこもってでは念仏が申せないというのであれば、
志を同じにする仲間(同行)と一緒に申しなさい。
人と一緒では念仏が申せないというのであれば、一人でひきこもって申しなさい。

衣食などの生計が立ちゆかなくなって念仏が申せないというのであれば、
他の人に助けてもらいながら申しなさい。
他の人に助けてもらっていては念仏が申せないというのであれば、
自分で生計を立てて申しなさい。

妻や子がいることも、一族や家来、付き従う者がいるということも、
自分がその人たちに支えられながら、念仏を申すためなのである。
それが念仏申すことの妨げになるのであれば、決して持ってはいけない。

領地を修めるということも、それが念仏申すことの助けになるのであれば大切である。
念仏を申すことの妨げになるのであれば、領地を持つべきではない。


この御法語は、

「死後、極楽浄土に往生することに関しては、
阿弥陀様の本願を信じてお念仏申せば、間違いなく往生できるとわかりましたが、
この世で生きている間はどのように生きたらよろしいのでしょうか?」

という質問に法然上人がお答えになったものである。


注11 なお、法然上人が「持戒の行」「孝養の行」を勧めておられる言葉があるが、「持戒の行」「孝養の行」は「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、「念仏の行」は「阿弥陀仏の本願の行」なので最優先に勤めるべきものである、と教えておられていることに注意しなければならない。

●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。

§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義

2009-10-09 15:13:49 | 教義
§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義


※原稿を読んでくれたダチ(元親●会講師)との質疑応答形式になってます。


【ダチ】

 19願とか修善は方便なのだから、対機なのであって、すべての人に勧められたとは思わないのですが、少なくとも必要な人に対しては、修善の勧めがあったわけで、それは否定されるべきものなのでしょうか?(苦笑さんが否定しているという意味ではなくて、一般論的にどうなんでしょう)

 つまり、19願の教えが必要な機に対して、そこで知らされるべきものを、まだ得ていない人に対しても、「一刻も早くそこから出るべき」と言えるのかどうかが疑問です。

 「一刻も早く出ろ」と言っても出られない機だから、方便としての修善が勧められているのであって、そういう機に対しては、修善を勧めることが結果的に「一刻も早くそこから出よ」と言うことになると思うのですが、どう思われますか?



【苦笑】

いい質問ですね。

「修善をしなきゃアカン!」という人に対して・・

★阿弥陀仏が修善を勧めた。

ということじゃなくて、

★その人がシステムから外れないように、
 セーフティーネットとして、十九願を立てた。

ということがポイントになると思います。


「修善をしなきゃアカン!」というのは、カス野郎な自分の力が、
極楽浄土に往生するのに何か役立つかのように思う「自力」の心であり、
こんなものがいくらあって頑張っても、
極楽浄土に往生することには役にも立ちません。

それでも、そういう人もいずれそういう思いからリタイヤして、
十八願の世界に入るようにセーフティーをかけているのが、
十九願の意義ということになります。(注1)

これは阿弥陀仏の仕事であって、浄土門の教えを説く人の仕事ではありません。


したがって、極楽浄土に往生しようと思っている人
(=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
阿弥陀仏の本願を無視することになりますので、
法然上人や親鸞聖人の流れを汲む浄土門の教えとしてはアウトです。(注2)

ましてや、どっかの親●会のように、
「極楽浄土への往生」目的でもなく、
「信心決定」目的で「諸善」を勧めちゃうのは、
「諸行往生」にすらならない、完全にセーフティーのかからない、
「ヘンテコドグマ」ということになりますね(苦笑)。(注3)

ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
(=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
極楽浄土に往生する目的ではなく、この世で成仏する目的で諸善を勧め、
そこからリタイヤして、「極楽浄土に往生しよう」と思ってもらう。
というのは「あり」です。(注4)


あと、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」生きる努力をするものですから、
できる限り頑張ってしたらいいと思いますし、(注5)

阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことですが、
「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰ってませんね。(注6)



【今日のまとめ】
1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
  阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
  セーフティーとして立てられたのが十九願である。

2、極楽浄土に往生しようと思っている人
  (=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
  極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
  阿弥陀仏の本願を無視することになる。

3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
  「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。

4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
  (=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
  この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。

5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
  「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。

6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
  「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
  「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。


※次回は、「『教行信証』化身土巻の内容はプロセスだからやらなきゃダメ!」
という考え方について考察するで!!


――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 親鸞聖人が編纂された法然上人の遺文集である『西方指南抄』所収の法語、「十七箇条御法語」には、


「第十九の願は諸行之人を引入して念仏之願に帰せしめむと也」(昭法全p.470)

とある。


注2 『無量寿経』において釈尊は、極楽浄土へ往生するための行として、念仏と諸行の両方をお説きになっておられる(三輩段)。

この念仏と諸行の関係について法然上人は『選択集』四章において、

・廃立・・衆生に諸行を廃して念仏を拠り所とさせるため。
・助正・・諸行を念仏の助けにするため。
・傍正・・念仏にも諸行にも上中下三段階を立てるため。

この三つの解釈が可能であると述べ、

ただしこれ等の三義、殿最知り難し。
請う、諸の学者、取捨心に在るべし。

(和訳)
ただしこれらの三義の、優劣は知りがたいものである。
どうか、これを学ぶ多くの人たちは、
自分自身の判断で、取捨しなさい。

と述べた上で、

今もし善導に依らば、初めを以って正と為すのみ。

(和訳)
ただし、今もし善導大師の教えに依ってあえて言うならば、
初めの廃立を正しい解釈とするのみである。

と述べておられるので、これが法然上人の本音であると言える。


注3 某所に、とてもよい問題が掲載されていた。

~~以下引用~~

535:神も仏も名無しさん:2009/06/30(火)12:21:35 ID:aFbNIyl5

今回の講師試験の問題

Q、「諸行往生」とはどんなことか、一言で書け。また、それは正しいか、間違いか、答えよ。

A、諸善をすれば善のできない自分が知らされて救われるということで、間違い。

例として、
親鸞聖人の20年間の比叡山での御修行で、機の深信が知らされたという邪義。
19願の入り口にも入っていない講師部員や、30年、40年求めたくらいでは分からないと教えられ、
親●会の会員は、この世では救われないから、親●会の求道は遠生の結縁と考えている邪義など。

この世で救うという18願ではないので、明らかな間違い。

参考までに、
精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、諸行往生でもない、カルトの教え。

~~以上引用~~

また、以下のコメントも秀逸だった。

~~以下引用~~

569:神も仏も名無しさん:2009/07/01(水)07:06:46ID:y/2OT4/
i
>>535

(中略)

親鸞会は体失往生ですから、諸行往生なのですね。
19願の善を実践して、善のできない自分であったと知らされることがいつあるのか?
19願の善を実践させるということは、長い長い時間が当然必要ですので、不体失往生ではないですよ。

諸行往生は間違い、と教えながら、諸行往生を目指していることを、会員は知るべきでしょう。

会長のトリックは巧妙なのです。

570:神も仏も名無しさん:2009/07/01(水)07:16:09 ID:y/2OT4/i

(中略)

これは、諸行往生の教えから派生した会長独自の教えです。

善のできない自分であったと知らされる財施とは、全財産を親鸞会に差し出せ、ということです。しかし、全財産を差し出して善のできない自分であると知らされると思いますか?

会長に絶対服従するには、人間をやめなければなりません。余りにも理不尽で、方向が頻繁に変更されますので、どの指示に服従するのでしょうか?犯罪も厭わない指示がこれまでいくつもありました。
全ての指示に服従するには、人間をやめるか、超人にでもならなければ無理です。

金集めと会長への絶対服従が、会員を苦しめ、不体失往生を妨げている最大の原因です。

~~以上引用~~


注4 以下の法然上人の言葉を参照。

●釈迦も、世に出で給ふ事は、弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。『津戸三郎へつかはす御返事』

(訳)
釈尊がこの世に現れたというのは、阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
しかしそれは人々の能力に応じたのであって、決して釈尊の本心によるものではなかった。
だから念仏は、阿弥陀仏にとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
釈尊にとっては、それをひろめることがこの世にお出ましになられた真の目的だったのである。
他の念仏以外の行とは、全く違うのである。


注5 以下の法然上人の言葉を参照。

●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
 「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。


注6 以下の法然上人の言葉を参照。

●念仏して往生するに不足無しといいて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
例えば、父母の慈悲は、良き子をも悪しき子をも育むめども、よき子をば喜び悪しき子をば嘆くが如し。
仏は一切衆生を哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
良き地に、良き種を、まくかんが如し。構えて、善人にして、しかも念仏を修すべし。これを真実に、仏教に従うものという也。
「念佛往生義」

(訳)
念仏申せば極楽浄土に往生できる!ということで、
やってはいけない悪いことを平気でやって、
やらなくてはならないことをまったくやらないで、
念仏も頑張って申さないというのは、
仏教のあるべき掟に反することなのである。

たとえば、父母が子どもにかける慈悲の気持ちというのは、
よい子であっても悪い子であっても、
あたたかく見守ってなんとか育てようとするものであるが、
我が子がよりよく育ってくれたら喜ぶし、
我が子が悪いことをするようなら嘆いてしまうようなものである。

ちょうどそのように、阿弥陀仏は一切衆生を憐れんで、
よい人であっても、悪い人であっても、
へだてなく極楽浄土へと救いとるが、
衆生がよい人になってくれたら喜ぶし、
悪い人になってしまったら悲しんでしまうものである。

だから、よい土地によい種をまくように、
しっかり心に決めてぜひとも、よい人になろうとして、
さらに念仏申すべきである。

それが、本当に、仏の教にしたがう者と言えるのである。

§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?

2009-10-09 15:13:35 | 教義
§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?

※今回も「ダチ」との質疑応答形式です。


【ダチ】

 セーフティーネットというのは分かりやすいですね。
 最終的には、自力修善では仏になれない、弥陀の願力によらねばならないというのが結論になると思います。

 阿弥陀仏のお仕事というのは、よく分かるのですが、浄土門の教えを説く人の仕事ではないというのは、「説く必要が無い」ということになるのでしょうか?

 教行信証の化身土巻は、19願の解説であり、聖教の引用の多くは観無量寿経疏であり、特に散善義は多いです。

 観無量寿経の中には定散善が説かれていますが、特に散善については一般的な仏教で言う修善に当たると思います。

 これは、念仏に導く方便とは思いますが、方便である修善についても浄土三部経で触れられているということは、浄土門に19願の教えもあると解釈はできないでしょうか?

 もし浄土門で説かないなら、教行信証化身土巻は書く必要がなかったという気がしますし…

 もちろん、某会のように「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」などという意味ではなく、対機として、有りうるのではないかという疑問です。


【苦笑】
う~ん。
『教行信証』化身土巻は、

「これじゃあアカンよ」
「こういう思いで浄土往生を求めていたら、それは自力の信心だよ」
「これは法然上人や私と同じ信心じゃないから、気をつけなさいよ」

という位置づけで書かれたものであり、
実際、十八願に基づいて往生しようとしている人の中に、
そういう人がいっぱいいるから、気をつけましょうね。

という位置づけで書かれたものであって、
確かにそこにいる人にとってはプロセスなわけだけど、

それは、一刻もはやく「抜けなきゃいけないプロセス」なわけですから、
「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で、
説いていかなければならないものだと思います。(注1)

『選択集』の四章で説かれる、廃・助・傍の三義も最終的に、善導大師解釈=法然上人の本音でいうと、
「諸行は廃のために説く!」なわけですし、(注2)
第十二章でも、念仏は立てるために説いて、定散は廃するために説く。
というのが結論になってますしね。(注3)(注4)

そういうことを「説く」のであれば、大いに説いたらいいと思います。
ただ、そういう見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
「諸行に励め!!」と説いてしまうのは、少なくとも、
法然上人や親鸞聖人の門下の教えではないと思います。


>「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」

まあ、これは論外ですけどね(苦笑)。(注5)


【今日のまとめ】

1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。

2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」というのが本音である。

3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。

4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。

※次回は、「浄土門以外の教え」の位置づけに関して説明するよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 「それをせえ!」ではなく「それじゃだめよ!」という意味であることは、以下の親鸞聖人の言葉を読めば明白である。


●まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。
みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。
おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。
かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
『教行信証』化身土巻

(訳)
いま、まことに知ることができた。念仏を専ら修していても、雑心(自力が混じった心)なものには大きな喜びの心を得ることができない。だから善導大師は『往生礼讃』で、「(雑心の者は)仏の恩に報いようという思いがなく、行を修めても驕慢の心がおきる。いつも名誉や利益を求めているために、その人は「私」というとらわれの心に(自力)に覆われて、同行の人や善知識に親しみ近づくことがなく、進んで雑縁に近いて、極楽浄土に往生するための行を自ら妨げ、人を妨げるのである」と仰った。
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、他力の信心を伴った念仏を自力の行でもって補い助けようという気持ちが混入し(助正間雑し)、自力の定散の行でもって極楽浄土に往生しようという心が起きるため(定散心雑する)、迷いの世界から離れることができないのである。
自分の力で流転輪廻を渡ろうとするならば、どれほど限りなく長い時を経ても、阿弥陀仏の本願力に帰して、信心の大海に入ることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。
大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人と呼ばれる人逹も、阿弥陀仏が与えてくださった本願の名号を自分の力で作った功徳として称えてしまうために、他力の信心を生ずることができず、阿弥陀仏の仏智を知ることができないのである。
阿弥陀仏が衆生が極楽浄土に往生するための因をお作りになられたことを知ることができないので、真実報土に往生することができないのである。

注2 §18の注2参照。

注3 善導大師は『観経疏』において以下のように述べておらえる。

●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)

法然上人は上記の善導大師の言葉を『選択集』(第12章)に引用されている。


注4 さらに法然上人には、以下のような言葉もある。

念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住して発し給ひたる事なれば、
人を、きらうことは、候(そうら)はぬなり。
佛の御心は、慈悲をもて体とすることにて候ふなり。
されば『観無量寿経』には、
「仏心というは、大慈悲これなり」と説かれて候。

善導和尚この文を受けて、
「この平等の慈悲をもっては、普く一切を摂す」と釈し給へり。
一切の言、広くして、もるる人候ふべからず。
されば、念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地の誓願なり。
世の種々の行は本地の誓いにあらず。

釈迦も、世に出で給ふ事は、
弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。

『勅伝』巻二十八、「津戸三郎へつかはす御返事」(昭法全五七二頁)

(訳)
念仏を申すことによって極楽浄土に往生することができるという、
阿弥陀仏の誓願は、
全ての人を平等に救うという慈悲の心から起こされたものであるから、
「あの人は救わない」というように人を選んだりするものではない。
仏の御心というものは、慈悲がその中心となるものなのである。
だから『観無量寿経』には、
「仏の心というのは、大きな慈悲のことなのである」と説かれているのである。

善導大師は、この文を受けて、
「この平等である慈悲をもって、普く全ての人々を救い取る」と解釈している。
「一切」という言葉は、広くという意味であって、
この救いにもれる人がいるはずがない。
だから、念仏を申すことによって極楽浄土に往生することができるという、
阿弥陀仏の誓願は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、
お建てになられた誓願なのである。
念仏以外の行は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、
お誓いになられた行ではないのである。
釈尊がこの世に現れたというのは、
阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
しかしそれは人々の能力に応じたのであって、
決して釈尊の本心によるものではなかった。

だから念仏は、
阿弥陀仏のとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
お釈迦様にとっては、それをひろめることが
この世にお出ましになられた真の目的だったのである。
それが、念仏以外の行との違いなのである。


注5 これに関しては§8の注5で述べたが、再掲載しておく。

『歎異抄』第18章には、施入物の大小を云々することが誤りであり、宝物を仏前になげたり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まることはないということが述べられている。

一仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


また、蓮如上人も、財施によって救いがあるかのように教えることの間違いを指摘しておられる。

●これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
『御文章』1帖11通

§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

2009-10-09 15:13:21 | 教義
§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

※今回も、ダチ(元親●会講師)との質疑応答形式です。


【ダチ】(その1)

とりあえず分かりました。

とりあえず、と言いますのは、諸善を実際やらないと心から納得できないよ~
という人は、浄土門以外の教えを聞かねばならないのか。

つまり、浄土門以外の教えを説く人も、(機によっては)必要ということになるのでしょうか。

まあ、必要だから釈尊が浄土門以外の教えも説かれたのかも知れませんが。


【苦笑】(その1)

必要な人がいるから、やっぱそういう教えを説く人もいるんでしょうね~。

成仏したくなくて、天国に行きたい人(他宗教の人)とか、
極楽浄土に往生したくない人とか、自分でこの世で成仏したいと思う人(他宗の人)とか、
極楽浄土に往生したいけど、そのために念仏以外の行をしたいと思う人(往生浄土を求める異解異修の人)もいるから、

そういう人のために、そういう人にあった教えを説く人ちゅうものやっぱ必要だし、
それはそれで意味があるから、存在してるんだと思いますよ。

限りなく可能性は少ないけど、能力さえあれば救われる可能性は0じゃないわけですからね~。(注1)

それを否定するのは、法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてもアウトでしょうし、(注2)(注3)
「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトやと思います。(注4)


【ダチ】(その2)

私としても、他宗を謗るという考えは、仏教に合わないと思います。
機に応じて、必要があって説かれたものですから。

だけど、親●会は仏教でもないし、常識の範囲で許される宗教でもないから、容認は出来ませんね…
カテゴリーとしては、悪徳商法か暴力団に近いように思っています。


【苦笑】(その2)

全く同感です(苦笑)。

親●会独自のヘンテコドグマを、
「ドグマ」として説くのであれば別にとやかく言うつもりはありませんが、
それを「仏教」とか「親鸞聖人の教え」と詐称するならば、
「違うよ!」と言うしかないでしょうね~。

ダンマパダ所収の以下の釈尊の言葉を読んだら、
「一刻も早く、親●会から脱出してもらわな」と思ってしまいますよ(苦笑)。

       ↓↓↓

116 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。
善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。
悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。

118 人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。
善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。

119 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。
しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。

120 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。
しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。

121「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でももたされるのである。
愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、
やがてわざわいに満たされる。

122「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、善を軽んじるな。
水が一滴じつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。
気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、
やがて福徳に満たされる。

123 同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、
危険な道を避けるように、
また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。

124 もしも手に傷がないならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。
傷のない人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪が及ぶことがない。

125 汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、
そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。
風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

126 ある人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墮ち、
行いの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎ(=涅槃)に入る。

127 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、
およそ世界のどこにいても、悪業から逃れることのできる場所は無い。

128 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、
およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所はない。

(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』(岩波文庫)より)



【今日のまとめ】

1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
  能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。

2、それを否定するのは、
  法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。

3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。

4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
  悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
  仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。


※次回は、これまでの「まとめ」だよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 『選択集』八章、『観経疏』散善義に以下の記述がある。

●諸仏の教行、数、塵沙に越え、稟識の機縁、隨情一に非ず。
 譬えば世間の人の、眼に見つべく信ずべきごときは、
 明能く闇を破し、空能く有を含み、地は能く載養し、
 水は能く生潤し、火は能く成壊するがごとし。
 かくのごとき等の事、ことごとく待対の法と名づく。
 目に即して見つべし。千差万別なり。
 何にいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。
 隨って一門を出ずれば、すなわち一煩悩門を出ず。
 随って一門に入れば、すなわち一解脱智慧門に入る。
 これに為って縁に随って行を起して、各解脱を求む。
 汝何を以てか、すなわち有縁に非ざる要行を将て、我を障惑するや。
 然るに我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。
 すなわち汝が求むる所に非ず。
 汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。
 また我求める所に非ず。
 この故に各楽う所に随って、その行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。
 行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、
 凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。
 もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。
 少し功労を用いるに、多く益を得るなり。

(訳)
多くの仏の教えと修業の方法は、塵や砂の数ほどに多く、
それを受ける人たちの素質も能力もさまざまで、
それぞれの心にふさわしい教えも、また多い。
たとえば、光が闇を照らし、大空が何ものをも受け入れ、
大地が草木を育て、水がうるおって生長をうながし、
火がものをつくったり焼いて破壞したりすることは、
誰もが自分の目で見て確め信じることができる。
これは光と闇、空と有、水と火というように
相対的にはたらく不思議な作用をもっているので
待対の法と名付けなれているが、いずれも目で見て確かめることのできるもので、
その現象はさまざまである。
ましてや、仏法の考えもおよばない力にどうしてさまざまな利益がないのだろうか。
そのようなはずはあるまい。
仏の教えは八万四千もあるといわれ、煩悩も限りなくある。
したがって教えの一つの門を出れば迷いの一つの門を出ることになり、
教えの一つの門を入れば迷いや苦しみを離れた智恵の門に入ることになる。
いずれにせよ、縁のあるままにつとめ、
自分に最も適した教えによって、悟りを求めるようにせよ。
それにもかかわらず、そなたたちは、たとえそれが重要な修業の一つであっても、
縁遠いものをもってきて修業をすすめ、我われをまどわしさまたげようとするのか。
今、我われが願い求めているのは、我われに最もふさわしい修業法であり、
そなたたちが求めようとしているものではない。
そなたが願い求めているのは、そなたにとって最もふさわしいものであろうが、
我々が求めているものではない。
誰もが、それぞれ願うところにしたがい、最も自分にふさわしい修業をすれば、
必ず早く迷いの世界を出て、悟りを得ることができる。
仏の道を歩もうとする修業者は、このことをよく知ってほしい。
もし、教えを学ぼうとするならば、凡夫の立場から聖者の境地に至り、
さらに悟りを得て仏になるまで、自由自在に誰にもさまたげられることなく学ぶように。
また修業したいと思うなら、あれもこれもと試みることなく、
最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ。
こうした方法をとれば、多少の苦労はあっても、大きな利益を得ることができよう。



注2 以下参照

●法然上人『七箇条起請文』

一、別解別行の人に対して、愚痴偏執の心をもて、本業を棄置せよと称して、あながちにこれをきらひわらふ事を停止すべき事。」
(学問及び修行の違っている人に向かって、愚かにして偏屈な心で、
『自分自身の宗の教えに勤めているのを捨てよ』と言って、むやみに馬鹿にしたり、あざわらったりすることをやめなさい。)

しかもこれは「起請文」であり、仏に対する誓いであり、仏に対する誓いと異なる真意などというものが法然上人には断じて存在しない。


●親鸞聖人は『御消息』6(『末灯鈔』2)

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。

●蓮如上人『御文章』

以下のように、他宗や他の宗教への誹謗や批判を厳重に戒められている。

 そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。
 まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。

 そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故毀呰他人法雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(1帖14通、※以下1-14と表記)

 あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくをさめおきて、他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。
(2-1)

 他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。
(2-3)

 それ、当流に定むるところの掟をよく守るといふは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもって本意とするなり。しかりにちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもってわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人(親鸞)の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。
(2-13)

 そもそも、当流門徒中において、この六箇条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、もつてのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかん輩は、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。

一、神社をかろしむることあるべからず。
一、諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一、諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一、守護・地頭を疎略にすべからず。
一、国の仏法の次第非義たるあひだ、正義におもむくべき事。
一、当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。


 一つには、一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止観)といへるはこのこころなり。されば今の世の衆生、仏法を信じ念仏をも申さん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆゑに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。

 二つには、諸仏・菩薩と申すは、神明の本地なれば、今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいはれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆゑに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。
そのいはれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においてはかぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもつて本とすべし。

 五つには、国の仏法の次第当流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今以後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがへして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。
(3-10)

 しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。
ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。
(4-1)


※なお、高森氏が所謂「思想先行型」の解釈を行い、これらの教えを意図的に無視していることに関しては、以下参照。

「文献学」と「思想先行型文献学」


注3 特に親鸞聖人が、聖道門を修している方を、「既に覚って仏になられた仏や菩薩が、私達を導くために現れてくださった方」と位置づけられていることは注目に値する。

●聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、
 われらがこころをすすめんがために、
 仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
 仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。
 これみな聖道門なり。
 権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、
 かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
 『親鸞聖人御消息』(1)

(訳)
「聖道門」の教えというのは、すでに仏になられた方が、私達を導くために示してくださった、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗の至極の教である。
仏心宗とっは、世間に広まっている禅宗のことである。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教や、小乗等の教も、これらは全て「聖道門」の教えである。
「権教」というのは、既に覚って仏になられた仏や菩薩が、仮にさまざまな姿を現して私達を導いてくださっているから、「権」というのである。


注4 最古の仏典と言われているスッタニパータに以下の記述がある。

偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、
これらに依存して他の説を蔑視し、
自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、
「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。(887)

かれは過った妄見を以てみたされ、
驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、
みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。(889)

自分の道を堅くたもって論じているが、
ここに他の何びとを愚者であるとみることができようぞ
他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、
かれはみずから確執をもたらすであろう。(893)

一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、
さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
一切の哲学的断定を捨てたならば、
人は世の中で確執を起こすことがない。(894)

これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、
―かれらはすべて他人からの非難を招く。
また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。(895)

たとい称賛を得たとしてもそれは僅かなものであって、
平安を得ることはできない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、
とわたしは説く。
この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、
論争をしてはならない。(896)

(中村元訳『ブッタのことば』岩波文庫)