やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン

2009-10-09 15:15:07 | 教義
§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン


浄土真宗の信心が「二種深信」であるというお話をしたので、
所謂「異安心」についても、若干触れておこう。

「異安心」とは、浄土真宗の異端思想のことであるが、

法然上人とも親鸞聖人とも異なる信心では、
法然上人や親鸞聖人と同じ極楽浄土に行けないので、(注1)
自分の信心が「異安心」にならないためにも、
「異安心」について知っておく必要があるのである。

ところで、浄土真宗において「異安心」であることは、
その人やその「教え」に従う団体にとっても致命的なことであるから、
「異安心」かどうかを認定するためには、
慎重に検証を加えならなければならない。

ところが、きちんとした検証を加えることもなく、
特定の個人や団体を一方的に「異安心」呼ばわりする人がいるのは、
とても危険で嘆かわしいことである。(注2)

というわけで、「異安心」を認定するために、
最低限どのような手続きを踏まねばならないかのガイドラインを作
成した。

↓↓↓↓

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【「異安心」を認定する際のガイドライン】

★はじめに

いかなる人にも、他人の心の中は見えません。
したがって、ある人の信心が「真実信心」かどうかは、
本人と阿弥陀仏にしかわかるものではありません。

しかし、ある人によって説かれている「教え」が、
善知識方の「教え」に明らかに反するものの場合、
その人の信心は「異安心」である可能性が極めて濃厚です。

したがって、このガイドラインは、
ある人によって説かれている「教え」を検討することによって、
その人の信心が「異安心」であるかどうかを認定するためのものです。


★事前に準備するもの

ある特定の個人や団体を「異安心」と認定するために、
事前に準備しておかなければならないものを、
列挙しておきますので、まずはこれを入手しましょう。

a)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料

どのような「信心」であるかを知らなければ、
「異安心」かどうかは、わかりませんので、
必ずきちんとした資料を収集しましょう。

所謂「うわさ話」や、批判サイトや批判書での発言等は、
事実誤認があったり、捏造された資料である可能性がありますので、
資料としては認められません。

b)正しい「安心」の基準となるテキスト

「異安心」であることを認定するためには、
正しい「安心」がいかなるものであるかを知らなければなりません。
これらの資料が浄土真宗における正しい「信心」の判定基準になりますので、
必ず用意しましょう。

ただしこのテキストは、a)の立ち位置に応じて、
以下のように使い分けられます。

(b-1)浄土真宗内で、異安心を論じる場合は、
「浄土三部経・七高祖・親鸞聖人」までを基準にする。
(b-2)東西本願寺派における覚如上人・蓮如上人、高田派における真慧上人など、
浄土真宗でも、特定の派にのみ権威を認められている文献は、
判定基準としては、参照程度の扱いであり、(b-1)に抵触しない場合のみ、
参照することができる。
(b-3)親鸞聖人を宗祖と仰ぐ「浄土真宗」以外の、
法然上人を宗祖と仰ぐ浄土門の教義を判定する際は、
「浄土三部経・善導大師・法然上人」を基準とする。
cf.法然上人の「偏依善導一師」の立場に関しては
『選択集』16章参照

c)浄土真宗で、正しい「信心」がいかなるものであるかを説明した
テキスト。

例・・灘本愛慈『やさしい安心論題の話』(西本願寺)
   山田行雄『やさしい真宗信心のQ&A』(西本願寺)

上記b)に基づいて、浄土真宗でいかなる「信心」が正しいものであるか、
解説したテキストは、「異安心」を認定するのに参考になります。

ただし、このテキストは特定の「文化」の影響を受けている恐れがありますので、
必ず同時にb)を参照して、b)と抵触していなことを確認した上で、
使用していかなければなりません。

d)過去にどういう信心が「異安心」と認定されたかがわかる資料。

例・・中島覚亮『異安心史』(平楽寺書店)
   続真宗体系第18巻「異安心御教誡集」(真宗典籍刊行会)

過去の「異安心」の判例を知っておくと、
「異安心」認定が容易にできるようになります。

但し、これだけでは「異安心」認定はできません。
必ずb)を参照する必要があります。


★「異安心」認定までの手続き

準備ができたら、以下のプロセスで「異安心」を認定しましょう。

1)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料(a)から、
  「異安心」と思われる発言を典拠を挙げて抽出する。

2)上記の発言が、発言者の立ち位置に応じて、
  該当する(b)とどのような点で抵触するかを、典拠を挙げて説明する。

3)上記の説明が、自分独自の解釈や、
  自分の「文化」のみに固有の解釈でないことを、
  他の「文化」に属するテキスト(c)などからも証明できる場合は、
  それを指摘する。

4)さらにその発言が過去に「異安心」と認定されている場合は、
  それがわかる資料から(d)その判例を挙げておくのもいいでしょう。

だだし、その判例自体が誤っている可能性もありますので、
必ず、(b)を参照する必要があります。

そしてその判例が、(b)に抵触する場合は、
判例よりも、(b)を優先することは言うまでもありません。


★おわりに

カルトとは、

「誤謬・虚偽、詭弁・詭弁詐術満載の虚言・妄説を垂れ流した上、
その挙証・論証責任すら果たさ(せ)ず居直って憚らぬドグマ体系とその信奉者」

のことである。

と以前「カルト」を分かりやすく定義いたしましたが、

きちんとした「異安心」認定プロセスを踏まえず、
無責任に「異安心」というレッテルを貼って、
挙証・論証責任すら果たさ(せ)ず居直って憚らぬ輩は、
「カルト」と言われても仕方ありませんので、
「カルト」と言われないように、気をつけましょう。

さもないと、良識を疑われて、誰にも相手にされなくなり、
やがては言語空間から抹殺されてしまうことになるでしょう。


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【今日のまとめ】
1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、「異安心」である可能性も濃厚である。
5、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。


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注1 『御伝鈔』第七段参照

上人[親鸞]のたまはく、いにしへわが大師聖人[源空]の御前に、正信房・勢観房・念仏房以下のひとびとおほかりしとき、はかりなき諍論をしはんべることありき。そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかもかはるところあるべからず、ただひとつなり」と申したりしに、このひとびととがめていはく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」と。
善信申していはく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。
かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。
わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。ここに面面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。

なお、『御伝鈔』に書かれていることを「史実」として扱ってよいかどうかに関しては、検討を要する。
ただし、この「伝承」が伝えようとしている内容は浄土真宗の教義上、非常に重要である。


注2 例えば、以下のような論拠に基づか(け)ない異安心認定は極めて不当であり、このような不当な「異安心」認定を行って憚らない団体がどのように扱いを受けるかは、「ガイドライン」に述べた通りである

~~某チャンネルより~~

見えぬ自惚れ

ちょっと変わったことが起きると、「これが獲信」と思い込み、信心という極めて大切なことについて何の自制心もなく、「オレは信心獲得したぞ」と触れ回る者がいる。自分の体験に合わせて親鸞聖人の教えを聞くようになり、機に合わないところは聞かず、己の教学の不徹底に気づこうともしないから反省もない。
そんな自分の実態が分からないから、「こんな獲信の近道、なぜ教えてくれなかった」と大恩ある善知識にさえも謗法の刃を向ける。
自惚れの果ては、「こうすれば獲信できる」と、他人の信仰相談までやって自他ともに信仰の奇形児になり果てているのだ。
親鸞聖人のみ教えを破壊している大罪の自覚など、全くないのである。

自惚れは他人(ひと)に見えても身に見えぬ

以上、顕正新聞平成21年3月1日
三面「大喝」より引用
~~某チャンネルより~~


~~清森問答投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2より~~

(M支部長からBさんへのメールより抜粋)

大沼法竜は「化土往生の安楽椅子」、Iは「三業安心の安楽椅子」を説いた親玉です。聞法者に安楽椅子を与えることは、仏法を説く知識の絶対に犯してはならない大罪ですよ。彼らは、親鸞聖人の本当の教えを、そのまま伝える人ではなかったのです。

だから、IのつくったK会で救われたといっている人も、あの体たらくなのです。

親鸞聖人や覚如上人や蓮如上人が、一切語られなかったようなことを、平気で放言し、書きまくり、ネットに流し、自分の体験を自慢しているのです。そして、親鸞会に対するうらみ、つらみ、のろいの言葉を撒き散らして、多くの人を惑わしているのです。

あれが、まともな人の文章でしょうか。

ある学徒の方は、「気持ち悪いですね。信心決定してあんなふうになるのなら、しないほうがいい」とまで言われました。

本当に恐ろしいことです。

慢心のかたまりとなって、自分がどんな大罪を犯しているか、まったく気づいてもいないのでしょう。

可哀相な人だと思います。

~~清森問答投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2より~~