§7 聴聞(何を「聞く」のか?)
これまでの解説で、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じるのに、
「信心」(=信楽、プラサーダ)が必要なことも、
それが何の力によって得られるかも明かになった。
ところで、浄土真宗においては、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
疑いが完全に晴れた「信心」が、
阿弥陀仏が作ったシステムに
乗ずるための「信心」ということになる。
そして、その「信心」を獲得するために、
「聴聞」が勧められるのである。(注1)
ところでこの「信心」は、
極めて速やかに「あっ」という間もないままに獲得できるから、
「時尅の一念」と言われる。(注2)
しかし、その「信心」を獲得するまでの期間は、
人によっていろいろで、
どのような人も一緒というわけではない。(注3)
もちろん「あっ」という間に、
信心獲得できるまでの期間が短い方がよいが、
全ての人がそういう人というわけではなく、
頑張って聴聞をしているのにも関わらず、
歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、
そんな人はどうしたらよいか?
という疑問も当然出てくるのである。
「後ろ向き発言禁止」の某団体では、
このような疑問を口に出すことすら不可能であったかもしれないが、(注4)
このような人の悩みにも対処できるのが浄土真宗の教えであり、
そのような相談ができる雰囲気は大切である。(注5)
【今日のまとめ】
1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
疑いが完全に晴れた「信心」である。
2、その「信心」になることによって、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。
※次回は、
歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、
↑
この人がどうしたらええか解説するで!
――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 願成就文を親鸞聖人は以下のように解説されている。
・経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
『教行信証』信巻
・「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり、また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。
『一念多念証文』
また、親鸞聖人の教えを受けて蓮如上人は以下のように述べておられる。
・かるが故に、阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき「衆生、仏に成らずば我も正覚ならじ」と誓いまします時、その正覚已に成じたまいしすがたこそ、今の南无阿弥陀仏なりと心得べし。これ即ち、我らが往生の定まりたる証拠なり。されば、他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
『御文章』4帖8通
・他力の信心を獲るというも、これしかしながら、南无阿弥陀仏の六字のこころなり。この故に一切の聖教というも、ただ南无阿弥陀仏の六字を信じせしめんがためなり
『御文章』5帖
・阿弥陀如来の仰せられけるようは、「末代の凡夫、罪悪の我らたらん者、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし」と仰せられたり。
『御文章』4帖
・されば、「南无阿弥陀仏と申す六字の体はいかなる意ぞ」というに、「阿弥陀如来を一向にたのめば、仏その衆生をよく知ろしめして、救いたまえる御すがたを、この南无阿弥陀仏の六字に現したまうまり」と思うべきなり。
しかれば「この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば助かるべきぞ」なれば、何の煩いもなく、もろもろの雑行、雑善をなげ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、二心なく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明を放ちて、その光の中に摂め入れ置きたまうなり。
これを即ち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとは申すなり、また不捨の誓約ともこれを名くるなり。
『御文章』3帖4通
・それ、当流の安心のすがたは如何ぞなれば、先ず「我が身は十悪五逆五障三従のいたずらものなり」と深く思いつめて、その上に思ふべきやうは、「かかる浅ましき機を、本と助けたまへる弥陀如来の不思議の本願力なり」と深く信じ奉りてすこしも疑心なければ、必ず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなわち他力真実の信心を得たすがたと云うべきなり。
『御文章』2帖15通
注2 このことの解説に関しては、以下の記述に問題はない。
チ●ーリップ企画【第12回】信楽は一念で獲得より
次に第二の、その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということに就いて明らかにしよう。
釈迦は『成就文』に「信楽を獲る」のは、「信心歓喜せんこと乃至一念せん」と、「一念」であると鮮明に説かれている。では「一念」とは何か、親鸞聖人にお聞きしたいと思う。
この『成就文』の「一念」を、法然上人は「行の一念」とされているのに、親鸞聖人は「信の一念」と説き、それを「時尅の一念」と「信相の一念」で教えられている。(両聖人の違いについては後日、述べよう)
先ず、「時尅の一念」に就いてであるが、聖人はこう仰っている。
「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは信楽開発の時尅之極促を顕はし、広大難思の慶心を彰すなり」(教行信証)
ここで親鸞聖人の仰せになっていることを、易しく言うと次のようなことだ。
「阿弥陀仏の本願の『信楽』を、釈迦は成就文に『信心歓喜せんこと乃至一念せん』と説かれているのは、本師本仏と仰ぐ弥陀の本願の最も尊く優れているのは、一念の救いである」と言われているのである。
「一念の救い」とは、先ず、弥陀の救いは極めて速いということ。
「名号」を聞即信と頂き破闇満願し、広大難思の慶心の身に救われるのは、分秒にかからぬ速さである。
だから聖人は「極速円融の真詮」とも弥陀の救いを言い、聞即信の一念だから「極速」、一念で大満足させられるから「円融の真詮」と仰っている。
なぜ、弥陀の救いは、こんなに速いのか。覚如上人は『口伝抄』に、その訳をこう記される。
「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」
平易に言うと、常に阿弥陀仏の救いの相手は、直前に死が迫っている無常迅速の人(十方衆生)だからである。もし三刹那かかる弥陀の救いだとすれば、一刹那後に死ぬ人を救うことはできないだろう。
だから阿弥陀仏の本願の最も優れて尊く大切なのは、「一念の救い」であり、「一念の救い」こそが、弥陀の本願の肝要であり至極の教えであると、釈迦や親鸞聖人は言われているのだと、覚如上人は仰っているのである。
中国の曇鸞大師という人は『浄土論註』に、
「譬えば、千歳の闇室に光もし暫く至れば、すなわち明朗なるが如し。闇あに室に在ること千歳にして去らず、と言うことを得んや」
と、例えで明来闇去闇去明来、明かりが来たのが先か、闇が晴れたのが先か、弥陀の一念の救いの速さを教えていられる。
だから真実の信心(一念の救い)には、信楽開発した一念がある。信楽が開発したとは、一念で弥陀の本願に疑い晴れ、往生一定と極楽往き間違いなしと、大安心大満足の心になったことをいう。
例えれば、生来、目が見えなかった人が名医の手術で開眼した一刹那とでもいうか、地獄より行き場のない者と知らされたと同時に、私一人を助けんがための弥陀のご本願でありましたと驚天動地する、不可称不可説不可思議の一念である。
~~以上引用~~
注3 法然上人には、以下の言葉がある。
人の心は頓機漸機とて二品に候なり。
頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。
物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、
足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、
まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、
ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、
年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562
(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。
頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、
漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。
たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、
足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、
足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、
最後には必ずお参りすることができるのと同じように、
浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、
時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。
ところで『会報』vol.3p.55~宿善(2)には、
~~以下引用~~
よって宿善の厚薄は、また聞法心の強弱によって知ることが出来る。仏教では宿善深厚の人を頓機といい、宿善薄弱な人を漸機といわれる。頓機の者は一度の法筵に遇っても信を獲るが、漸機の人は法筵を重ねて、漸く信を獲得するのである。丁度、枯松葉と青松葉のようなものである。
枯松葉はマッチ一本ですぐに火がつくけれども、青松葉に火をつけようとしても、プスープスー水をはじいて、中々火はつきにくい。それと同様に頓機は御慈悲の火がつきやすい状態になっている人だから、すぐにも仏凡一体と燃え上るが、漸機は今日もカラボコ、今日も落第どう聞けばよいのか、どれだけ聞けばわかるのかと、ブスブス小言ばかりいって、流転しているのである。しかも漸機の者は圧倒的に多く、頓機は稀なのである。
記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子の中では、わが親鸞聖人と蓮生房と耳四郎の三人のみが頓機である。
聖人の門下では明法房、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に頓機の者は少なく、漸機の者は多しと仰せられている。
~~以上引用~~
とあるが、この解説は、『和語灯録』所収の上記の法然上人の言葉には基づいていないようである。
注4 親鸞会教義の相対化・46参照
<禁止事項>
【後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章】
【発言】
※自分だけでなく、周囲の人のやる気を削ぐような発言はしない。
1)できません。
2)無理です。
3)わたしのような者はダメです。
4)感謝の心がでてきません。
5)こんなやり方にはついてゆけません。
6)そんなことを言われても困ります。
7)少しも悪いと思えません。
8)辛いです。苦しいです。
【顔(表情)】
※額にシワをよせた表情はしない。
1)泣くと、その涙でなお悲しくなる。
※『ベッピンも笑顔忘れりゃ五割引き』
【姿勢】
※腰を押されるようにして、堂々と歩く。
【文章】
※後ろ向き発言と同じ文章は書かない。
注5 『蓮如上人御一代記聞書』(86)に以下の記述がある。
一、蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。
(訳)
蓮如上人は「素直に自分の心の中にあるものを言いなさい。ものを言わないで黙っているものは恐ろしいことである」と仰った。
「信心のある者も、信心のない者も、包み隠さず心の中にあるものを言いなさい。心の中にあるものを言うからこそ、他の人に心の奥底で思っていることがわかり、人に直してもらうこともできるのである。だから包み隠さずにものを言いなさい」と仰った。
これまでの解説で、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じるのに、
「信心」(=信楽、プラサーダ)が必要なことも、
それが何の力によって得られるかも明かになった。
ところで、浄土真宗においては、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
疑いが完全に晴れた「信心」が、
阿弥陀仏が作ったシステムに
乗ずるための「信心」ということになる。
そして、その「信心」を獲得するために、
「聴聞」が勧められるのである。(注1)
ところでこの「信心」は、
極めて速やかに「あっ」という間もないままに獲得できるから、
「時尅の一念」と言われる。(注2)
しかし、その「信心」を獲得するまでの期間は、
人によっていろいろで、
どのような人も一緒というわけではない。(注3)
もちろん「あっ」という間に、
信心獲得できるまでの期間が短い方がよいが、
全ての人がそういう人というわけではなく、
頑張って聴聞をしているのにも関わらず、
歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、
そんな人はどうしたらよいか?
という疑問も当然出てくるのである。
「後ろ向き発言禁止」の某団体では、
このような疑問を口に出すことすら不可能であったかもしれないが、(注4)
このような人の悩みにも対処できるのが浄土真宗の教えであり、
そのような相談ができる雰囲気は大切である。(注5)
【今日のまとめ】
1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
疑いが完全に晴れた「信心」である。
2、その「信心」になることによって、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。
※次回は、
歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、
↑
この人がどうしたらええか解説するで!
――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 願成就文を親鸞聖人は以下のように解説されている。
・経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
『教行信証』信巻
・「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり、また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。
『一念多念証文』
また、親鸞聖人の教えを受けて蓮如上人は以下のように述べておられる。
・かるが故に、阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき「衆生、仏に成らずば我も正覚ならじ」と誓いまします時、その正覚已に成じたまいしすがたこそ、今の南无阿弥陀仏なりと心得べし。これ即ち、我らが往生の定まりたる証拠なり。されば、他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
『御文章』4帖8通
・他力の信心を獲るというも、これしかしながら、南无阿弥陀仏の六字のこころなり。この故に一切の聖教というも、ただ南无阿弥陀仏の六字を信じせしめんがためなり
『御文章』5帖
・阿弥陀如来の仰せられけるようは、「末代の凡夫、罪悪の我らたらん者、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし」と仰せられたり。
『御文章』4帖
・されば、「南无阿弥陀仏と申す六字の体はいかなる意ぞ」というに、「阿弥陀如来を一向にたのめば、仏その衆生をよく知ろしめして、救いたまえる御すがたを、この南无阿弥陀仏の六字に現したまうまり」と思うべきなり。
しかれば「この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば助かるべきぞ」なれば、何の煩いもなく、もろもろの雑行、雑善をなげ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、二心なく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明を放ちて、その光の中に摂め入れ置きたまうなり。
これを即ち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとは申すなり、また不捨の誓約ともこれを名くるなり。
『御文章』3帖4通
・それ、当流の安心のすがたは如何ぞなれば、先ず「我が身は十悪五逆五障三従のいたずらものなり」と深く思いつめて、その上に思ふべきやうは、「かかる浅ましき機を、本と助けたまへる弥陀如来の不思議の本願力なり」と深く信じ奉りてすこしも疑心なければ、必ず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなわち他力真実の信心を得たすがたと云うべきなり。
『御文章』2帖15通
注2 このことの解説に関しては、以下の記述に問題はない。
チ●ーリップ企画【第12回】信楽は一念で獲得より
次に第二の、その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということに就いて明らかにしよう。
釈迦は『成就文』に「信楽を獲る」のは、「信心歓喜せんこと乃至一念せん」と、「一念」であると鮮明に説かれている。では「一念」とは何か、親鸞聖人にお聞きしたいと思う。
この『成就文』の「一念」を、法然上人は「行の一念」とされているのに、親鸞聖人は「信の一念」と説き、それを「時尅の一念」と「信相の一念」で教えられている。(両聖人の違いについては後日、述べよう)
先ず、「時尅の一念」に就いてであるが、聖人はこう仰っている。
「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは信楽開発の時尅之極促を顕はし、広大難思の慶心を彰すなり」(教行信証)
ここで親鸞聖人の仰せになっていることを、易しく言うと次のようなことだ。
「阿弥陀仏の本願の『信楽』を、釈迦は成就文に『信心歓喜せんこと乃至一念せん』と説かれているのは、本師本仏と仰ぐ弥陀の本願の最も尊く優れているのは、一念の救いである」と言われているのである。
「一念の救い」とは、先ず、弥陀の救いは極めて速いということ。
「名号」を聞即信と頂き破闇満願し、広大難思の慶心の身に救われるのは、分秒にかからぬ速さである。
だから聖人は「極速円融の真詮」とも弥陀の救いを言い、聞即信の一念だから「極速」、一念で大満足させられるから「円融の真詮」と仰っている。
なぜ、弥陀の救いは、こんなに速いのか。覚如上人は『口伝抄』に、その訳をこう記される。
「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」
平易に言うと、常に阿弥陀仏の救いの相手は、直前に死が迫っている無常迅速の人(十方衆生)だからである。もし三刹那かかる弥陀の救いだとすれば、一刹那後に死ぬ人を救うことはできないだろう。
だから阿弥陀仏の本願の最も優れて尊く大切なのは、「一念の救い」であり、「一念の救い」こそが、弥陀の本願の肝要であり至極の教えであると、釈迦や親鸞聖人は言われているのだと、覚如上人は仰っているのである。
中国の曇鸞大師という人は『浄土論註』に、
「譬えば、千歳の闇室に光もし暫く至れば、すなわち明朗なるが如し。闇あに室に在ること千歳にして去らず、と言うことを得んや」
と、例えで明来闇去闇去明来、明かりが来たのが先か、闇が晴れたのが先か、弥陀の一念の救いの速さを教えていられる。
だから真実の信心(一念の救い)には、信楽開発した一念がある。信楽が開発したとは、一念で弥陀の本願に疑い晴れ、往生一定と極楽往き間違いなしと、大安心大満足の心になったことをいう。
例えれば、生来、目が見えなかった人が名医の手術で開眼した一刹那とでもいうか、地獄より行き場のない者と知らされたと同時に、私一人を助けんがための弥陀のご本願でありましたと驚天動地する、不可称不可説不可思議の一念である。
~~以上引用~~
注3 法然上人には、以下の言葉がある。
人の心は頓機漸機とて二品に候なり。
頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。
物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、
足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、
まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、
ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、
年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562
(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。
頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、
漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。
たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、
足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、
足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、
最後には必ずお参りすることができるのと同じように、
浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、
時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。
ところで『会報』vol.3p.55~宿善(2)には、
~~以下引用~~
よって宿善の厚薄は、また聞法心の強弱によって知ることが出来る。仏教では宿善深厚の人を頓機といい、宿善薄弱な人を漸機といわれる。頓機の者は一度の法筵に遇っても信を獲るが、漸機の人は法筵を重ねて、漸く信を獲得するのである。丁度、枯松葉と青松葉のようなものである。
枯松葉はマッチ一本ですぐに火がつくけれども、青松葉に火をつけようとしても、プスープスー水をはじいて、中々火はつきにくい。それと同様に頓機は御慈悲の火がつきやすい状態になっている人だから、すぐにも仏凡一体と燃え上るが、漸機は今日もカラボコ、今日も落第どう聞けばよいのか、どれだけ聞けばわかるのかと、ブスブス小言ばかりいって、流転しているのである。しかも漸機の者は圧倒的に多く、頓機は稀なのである。
記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子の中では、わが親鸞聖人と蓮生房と耳四郎の三人のみが頓機である。
聖人の門下では明法房、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に頓機の者は少なく、漸機の者は多しと仰せられている。
~~以上引用~~
とあるが、この解説は、『和語灯録』所収の上記の法然上人の言葉には基づいていないようである。
注4 親鸞会教義の相対化・46参照
<禁止事項>
【後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章】
【発言】
※自分だけでなく、周囲の人のやる気を削ぐような発言はしない。
1)できません。
2)無理です。
3)わたしのような者はダメです。
4)感謝の心がでてきません。
5)こんなやり方にはついてゆけません。
6)そんなことを言われても困ります。
7)少しも悪いと思えません。
8)辛いです。苦しいです。
【顔(表情)】
※額にシワをよせた表情はしない。
1)泣くと、その涙でなお悲しくなる。
※『ベッピンも笑顔忘れりゃ五割引き』
【姿勢】
※腰を押されるようにして、堂々と歩く。
【文章】
※後ろ向き発言と同じ文章は書かない。
注5 『蓮如上人御一代記聞書』(86)に以下の記述がある。
一、蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。
(訳)
蓮如上人は「素直に自分の心の中にあるものを言いなさい。ものを言わないで黙っているものは恐ろしいことである」と仰った。
「信心のある者も、信心のない者も、包み隠さず心の中にあるものを言いなさい。心の中にあるものを言うからこそ、他の人に心の奥底で思っていることがわかり、人に直してもらうこともできるのである。だから包み隠さずにものを言いなさい」と仰った。