やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル

2009-10-09 15:14:54 | 教義
§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル


それでは、前回の「ガイドライン」を踏まえて、
今日は具体的に「異安心」のサンプルを見ていこう。

まず浄土真宗の伝統的な「異安心」に関して、
山も山さんがサクッと解説してくれたものを、以下に引用しておく。
↓↓↓
~~2008-08-28弥陀に救われたら何がハッキリするか2より
引用~~

異安心と言ってもいろいろありますが、長くなるので、代表的なものを今回は書きます。

土蔵秘事→これは有名ですが、親鸞聖人の長子善鸞がはじめたものと言われていますが、儀式によって信心を授けるものをいいます。
知識がそれでよいと認定したり、信心をいただいた年月日時を覚えていなければならないというものです。

十劫安心→阿弥陀仏が十劫の昔、本願を建てられたときに、すでに私たちは助かってしまっている、だから今は分からないだけで死んだら極楽なのだというものです。

地獄秘事→地獄行き間違いないと(自分で)ハッキリしたのが救われたことだと思っているもの

機決定→自分でこれでよいと決めた異安心

またおいおい書いていきますが、いづれも特徴は、「自分でこれで間違いないと決めている信心」が、すべて異安心です。

また、「こうしておけばいつかは助かるだろう」と思っているのも異安心です。

親鸞聖人が

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証総序)

と仰有り、蓮如上人が

「他力の信心ということをば、今既に獲たり。」
「弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明かに知られたり。」(御文章2帖目13通)

と言われたのと異なり、「いつかは」とか「○○だから大丈夫だろう」「○○だから間違いない」という安心は、すべて異安心です。
(真実信心ではないという意味で)

~~2008-08-28弥陀に救われたら何がハッキリするか2より
引用~~


「異安心」はこれだけではなく、「現代の新しい異安心」もあるので、
このような「異安心」にもならないように注意がいるだろう。
↓↓↓
~~現代の新しい「異安心」より~~

某所より

510:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:33:48 ID:t6+HHvif
浄土真宗親鸞真会狂学性典(7)

問(32)

異安心の名を十あげよ。

答(32)

○十講安心
○十燈正因
○不倫秘事
○盗作づのり
○断章決定
○タイヤキ覚知
○脱税邪義
○華光秘事
○高森だのみ
○ドメイン往生

511:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:42:14 ID:t6+HHvif
問(33)

十講安心とはどんな異安心か。
何をどう間違ったものか、喩えで示せ。

答(33)

○十講制度が出来た昔にすでに我々は保身できてしまっているのだから、
今さら謝罪することも釈明することもいらぬという人達のこと。

○組織のでき上がったのを、免罪符をもらったことと早合点した間違い。
局長になっていても不倫すれば組織のガンは治らない。
(こんなことさえ判らぬ人達)

512:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:45:49 ID:t6+HHvif
問(37)

十燈正因の異安心とは、どんなことか。

答(37)

○高額財施さえしていれば助かる、と信じている人達。

513:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)03:53:54 ID:t6+HHvif
問(38)

不倫秘事の異安心の特色を六つあげよ。

答(38)

○絶対に秘密を守れと言う。
○夜中に秘事を授ける。
○本会の二代目善知識から「気持ちよい」と具合が認可される。
○不倫によって地位を貰う。
○証拠写真を撮った年月日時に覚えがなければならぬ、とやかましく言う。
○証拠ビデオがアップされた後は、会員がいなくなる。

518:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)04:27:39 ID:t6+HHvif
問(39)

断章決定とは、どんな異安心か。

答(39)

前後を無視し、自分でここがよいと思った部分の言葉だけを使う。

519:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)04:31:35 ID:t6+HHvif
問(40)

タイヤキ覚知とは、どんな異安心か。

答(40)

○おごられたタイヤキのことを覚えておらねばならぬ、
覚えておらねば生かしてはおかぬ、という異安心

520:神も仏も名無しさん:2009/02/11(水)04:33:04 ID:t6+HHvif
問(42)

ドメイン往生とは、どんな異安心か。

答(42)

阿弥陀如来の本願はさておきドメインに御報謝しているままで助かる、という異安心。

~~現代の新しい「異安心」より~~


いずれにしても、

★浄土真宗の信心である、「二種深信」と異なった信心

は「異安心」である。(注1)


そして、

>「必堕無間の後生の一大事」がわからないと、
>阿弥陀仏の本願はわからないのでございます!

と言うような「特殊文化」でもって、
「異安心」を認定することができないのは言うまでもない。(注2)

このように不当な「異安心」認定をするような人の「信心」は、
「プラサーダ」(信楽)=「二種深信」とはほど遠い、
「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の、(注3)(注4)
一種の「異安心」のようなものの可能性が高いと思われる。


【今日のまとめ】
1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の
「信心」は、「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。


※次回は、「信心」と「念仏」の関係についてレクチャーする。


――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 詳しくは、§11浄土真宗の「信心」(二種深信)参照。

注2 詳しくは、「苦笑の独り言」【地球人にガミラス星人の「文化」は適応されない】参照。

~~以下引用~~
>必堕無間の後生の一大事

これって、清森氏や浄土宗の人によって、限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」であることが既に証明済みなんだよね(苦笑)。

「清森問答」【質疑応答82】

「化土往生する人」を親鸞聖人がお説きになられていますが、
獲信した人以外は無間地獄なんでしょうかね~?(苦笑)

それから「昿劫を逕歴」=「無間地獄に堕在」とする根拠ってないよね(苦笑)。

「清森問答」【質疑応答83】

>親鸞聖人が「全人類は逆謗である」という説き方をされていませんので、必堕無間の根拠には、ならないと思います。

>五悪段につきましても、必堕無間とは、どこにも説かれていません。すべて三悪道として教えられています。無間地獄ならば、寿命が短いということはありません。

>つまり、五悪段で説かれていることは、悪人は三悪道に堕ちる、
ということであって、「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません。

だそうです。

「一切衆生必堕無間」というドグマはどっから導き出されるんでしょうかね~(苦笑)。

「清森問答」【質疑応答84】

>まして、化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説くことを否定するのは、善知識方の説き方を否定することになるので、間違いだと思います。

だそうです。

それでも「一切衆生必堕無間」というドグマを優先するのは勝手だけど、
化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説いている善知識とは、
別の「文化」であることは自覚する必要がありますな(苦笑)。

「清森問答」【親鸞会教義の相対化・28】

「一切衆生必堕無間」は、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとも抵触するドグマのようですね。

私は、親鸞聖人も蓮如上人も、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えを受け継いだ方だと思っておりますが、
「一切衆生必堕無間」をドグマとする「文化」は、
そのドグマと曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとの間に、
どのように整合性を付けるつもりなのでしょうかね~(苦笑)。

日蓮聖人の思想との整合性は、なんとかつきそうな気がしますけどね(苦笑)。


あと、こんなのもありましたね。

「地獄に堕ちるわよ~!」は、
仏様でもない人が他人に対して言っちゃダメみたいですよ(苦笑)。

【親鸞会教義の相対化・26】
まず、以下の記述を見ていただきたいと思います。

若佛子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過。教人説罪過。
罪過因罪過縁罪過法罪過業。
而菩薩聞外道惡人及二乘惡人説佛法中非法非律。常生悲心教化是惡人輩。
令生大乘善信。
而菩薩反更自説佛法中罪過者。是菩薩波羅夷罪
(『梵網経』大正蔵経vol.24.p.1004c.)

(訳)
仏の子よ。
もしも出家や在家の菩薩や、比丘・比丘尼の罪過を自ら説き、他の人に教えて罪過を説かせたならば、それは罪過の原因となり、罪過の条件となり、罪過の法(教え)となり、罪過の業となる。

だから、菩薩は外道である悪人、さらに二乗である悪人が、仏法の中において法でないものや律でないものを説いているのを聞いたならば、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化して、大乗の善なる信心を生じさせなさい。

それなのに、菩薩がかえって更に自ら仏法の中における罪過を説いたならば、これは菩薩としては教団追放に値する罪なのである。

これは、釈尊が「仏の子」すなわち仏弟子に仰った言葉です。

釈尊は、出家者・在家者を問わず、仏弟子が他の人の罪過を、自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることは、

それはその行為が、新たな罪過の原因となり条件となり、罪過となる教えとなり、罪過となる行為になるのでしてはいけない。

そのように禁じておられます。


つまり仏教者は、他の人に

「地獄に堕ちるわよ!」

と言ってはいけないのです。

それはなぜでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得が仏教の業報思想ですが、現在行った行為の果報が、必ず来世に得られるものであるかどうかは、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないし、その行為が、本当に地獄に堕ちるような果報をもたらすものであるかどうかも、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないからです。

それなのに、他の人に「地獄に堕ちるわよ!」と言って、その人が地獄に堕ちることがなかったらどうなるでしょうか?

そうです。

「地獄に堕ちるわよ!」と言った人こそが、妄語の罪を犯し、その罪過をうけなければならなくなるのです。

だから釈尊は、仏弟子が、他の人の罪過を自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることを禁じられたのです。

仏弟子が、罪過を犯した人に対する時は、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化し、大乗の善なる信心を生じさせるように、ひたすら導いていかなければならないのです。

それでは多くの仏典で、地獄や地獄行きの業が説かれているのはなぜでしょうか?

それは、釈尊が三明・六神通(※)という仏智でもって、どのような悪業を作った人が地獄に行くかを知り、そのような悪業を犯さないように、仏弟子逹に教えてくださっているからなのです。


一方、私達は三明・六神通からはほど遠い罪悪生死の凡夫です。

その私達が、罪業とその業果を論じる場合は、釈尊が、三明・六神通でご覧になったものをお説きになった経典に基き、「釈尊が『こういう業にはこういう果報がある』と仰っていた」という形でしか論じることはできないのです。


三明六神通を獲得してもいないのにも関わらず、凡夫のはからいで、

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

と言う人は、仏教徒でも仏弟子ではありません。


【親鸞会教義の相対化・30】
>これは私あてではないが真宗の同行として納得できない。

私の言葉足らずで、納得していだけなかったのではないかと思います。
若干でありますが、補足説明をさせて頂きます。


>親鸞会は(一切衆生)必墮無間だけしか言わんのでお
かしいのです。
>必墮無間と叱りつける人が仏弟子ではないとは私は思わない。
>(「一切衆生必墮無間」という言葉や概念はおかしいでしょう。)

Nobodyさんの仰りたいこと、よくわかっているつもりです。

創造主である神の、絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えている、キリスト教などを代表するセム系一神教に対して、仏教では、「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想=「因果の道理」が人間の倫理を支えているわけですから、人間のどのような行為が原因になって、どのような結果を受けることになるのか、それを説かなければ、仏弟子は倫理を説くことができないことになります。


そのために、仏教では古来より、

★過去世でどのような行為をした人が、現世でどのような果報を受けたのか?
★現世でどのような行為をした人が、来世でどのような果報を受けるのか?

これを、釈尊が仏智でもってご覧になったことをお話しになった話を経典や律典から抜粋して、業報の実例集、業報説話集と言える、“アヴァダーナ文献”というものが編纂されたのです。
これに基づいて仏弟子逹は、釈尊の言葉に基づき、どのような業因によって、いかなる果報を受けるかを話していったのです。

したがってNobodyさんの以下の言葉は、

>理解した上で、他の人に必墮無間と叱りつけることが
>あってもよいのではないのかな。

正確には、

==========================
仏弟子は、三明六神通を獲得した仏の言葉に基づいて、
必墮無間の人を「必墮無間」と叱りつけなければならない。
==========================

ということになると思います。

蓮如上人に関しては、恐らく上記の範囲内での発言であり、「一切衆生必墮無間」という経典にない言葉を捏造したわけではありませんし、kkhate(=kkk)さんのように、「私の後生は必定
地獄らしい」という自分の問題を、根拠もなく「全ての人」に一方的に当てはめ、「そうだろうなあ」と仰っているわけではないので、仏弟子であると言えます。


最後に、“アヴァダーナ文献”の代表的なものである“ディヴィヤ・アヴァダーナ”が、この度、世界で初めて全訳されましたので紹介させて頂きます。

平岡聡『ブッダが謎解く三世の物語』上下(大蔵出版)

これなどを読んで頂いて、釈尊がお説きになった業報の実例に基づいて、必墮無間の人に対して「必墮無間」と叱りつけるならば、何の問題もありません。

凡夫のはからいで、仏弟子にあるまじき行為をすることもなくなります。



強い放射線の中でしか生きられないガミラス星人がその「文化」を地球人に押しつけて、
地球人に「放射線は必要だよね!」と言うのはおかしいでしょ?(苦笑)

限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」を、
議論の前提にするなんてのは全くもって不当ですわ(苦笑)。


>分かってない

特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
まあ納得ですけどね(笑)。
~~以上引用~~


(注3)「プラサーダ」と「バクティ」と「思考停止」の違いに関しては、§4の注4参照。

(注4)「分かってない安心」を、元親●会講師のメル友が以下のように解説くださった。

~~以下、メル友の解説~~

>>分かってない
>↑
>特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
>まあ納得ですけどね(笑)。

この「分かってない」「わかっとらん」は、親鸞会ではよく使われる言葉です。
いわゆる「親鸞会定義の異安心者」に対して、会の講師が、会員にいうとき使われます。

【用例】
会員「○○さんって、最近みないけどどうしたのでしょうか?」
講師「○○さんは、親鸞会をやめてしまった。彼は分かってなかった。」
「○○さんも、わかってなかったということです」
「あんな者のいうことを信じるなんて、わかってない」
「彼らは異安心だからわかってないんです」

会員「なぜこんな建物が必要なのですか?」「なぜ○○(会の財施や、人集めなどの方針」なのですか?」
講師「そんなことをいうものは、わかっていない」

というように、「わかっていない」の主語がハッキリしないために、聞かされた方は、自分で起こした疑問について全否定されるので、「自分は分かってない→自分では理解できない→自分は考える力がない→考えないでおこう」とだんだんと、思考停止のスパイラルに陥っていきます。

この「分かってない」も、いってみれば異安心といってもいいでしょう。

・分かってない安心→会員に「わかってない」「全然わかってない」ということによって、会員を思考停止にして安心する異安心

~~以上、メル友の解説~~