やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§6 「名号」と「光明」

2009-10-09 15:16:54 | 教義
§6 「名号」と「光明」


前回の続き。


 私達が何の力によって信心を得るか?

「名号」が因、「光明」が縁となって、私達は阿弥陀仏の本願に対する「信心」が獲られる。
 これも私逹を救うために、阿弥陀仏が作ってくださったシステムであることは、言うまでもない。(注1)

 阿弥陀仏によって与えられる「信心」は、阿弥陀仏が作った名号(至徳の尊号)を「体」としている。(注2)

 そして、「南無阿弥陀仏」という「名号」は、「悪を転じて徳を成す正智」そのもので、(注3)
 広大な海に喩えられるぐらい、ありとあらゆる善根功徳が詰め込まれてるから、それを受け取って「信ずる」人になれば、阿弥陀仏のシステムに乗じて、絶対に生死を繰り返す輪廻の世界にはとどまらないのである。(注4)


だから、

★「信心(=信楽、プラサーダ)を得た!」

ということは即ち、

★「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」

ということになるのである。(注5)


 しかし、阿弥陀仏が「名号」を完成させてくれたからと言って、この「私」が、その「名号」を受け取らなければ、「信心」とはならないし、
 したがって阿弥陀仏の作ってくれたシステムも作動しないということは、本願の解釈を間違って「十劫安心」のような信心に陥っている(?)、(注6)「あの」高●氏でも言っておられることである。(注7)


 繰り返すが、私達が、信心の体である「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は、「光明」でもって働きかけてくれてるが、
 私達が「名号」を受け取って、「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。(注8)

 ほっといても「信心」が得られるならば、何のために「聴聞」するかわからなくなってしまう。(注9)



【今日のまとめ】

1、阿弥陀仏が作ってくださった、「名号」が因、「光明」が縁となって私達は「信心」を得ることができる。

2、「信心を得た!」ということは、阿弥陀仏が与えてくれる「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」ということである。

3、「名号」を受け取らなかければ「信心」とはならない。

4、私達が「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は「光明」で働きかけてくれている。

5、しかし、私達が「名号」を受け取って「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。


※次回は、「聴聞」についてである。


――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 詳しくは、以下の解説参照。


「信楽の身」になるための働きより

清森問答 質疑応答138 コメント覧より

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』【四・光明名号因縁の事】(p.685)に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。


しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、明確に区別しなければなりません。
第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。
これでは十劫安心になってしまいます。
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。



清森問答 質疑応答139 コメント覧より


B(本物)さんの解説

第18願の内容は、直接的には
「信心を獲た人に当益を与える」ですが、この願が成就したことによって、信心を獲た一念で、当益が得られることが確定し、副産物として現益も獲られます。
ですから、成就文には現益が説かれていますし、親鸞聖人も『尊号真像銘文』(p.586)に、「乃至十念」と「若不生者」の解釈の間に現益の意味を挿入しておられます:
「この真実信心を得む時、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まると見えたり。」
ですから、結果的には現当二益が誓われていると理解できます。

ただし、その「現益」も、真実信心を獲得することによって獲られるものであって、
「信心」と「現益」とは因果関係にあります。
一念同時ではありますが、決して同じ概念ではありません。

「信心を獲た人に現当二益を与える」と誓われた、という理解は正しいですが、
「全ての人に信心を与える」と第18願で誓われた、ということにはなりません。


●光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号摂化十方但使信心求念」(礼讃)とのたまへり。
「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。
しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。
本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。
しかれば日輪の出づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしるべし。『執持抄』四


注2 以下の記述に基づく。

●如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無礙・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心を以て、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に廻施したまえり。
すなわちこれ利他の真心をあらわすが故に、疑蓋まじわること無し。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体と為せるなり。
『教行信証』信巻


注3 以下の資料に基づく。

●円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なり。『教行信証』総序


注4 以下の資料に基づく。

●『浄土論』にいはく、「観仏本願力遇無空過者能令速満足功徳大宝海」とのたまへり。
この文のこころは、「仏の本願力を観ずるに、まうあうてむなしくすぐるひとなし、よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」とのたまへり。「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。
「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。「無」はなしといふ、「空」はむなしくといふ、「過」はすぐるといふ、「者」はひとといふ。むなしくすぐるひとなしといふは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。
「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、よしといふ、「速」はすみやかにといふ、疾きことといふなり、「満」はみつといふ、「足」はたりぬといふ。「功徳」と申すは名号なり、「大宝海」はよろづの善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらずもとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに大宝海とたとへたるなり。
『一念多念証文』


注5 以下の資料に基づく。

●それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。
しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。
このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。かかる殊勝の道理あるがゆゑに、ふかく信じたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
『御文章』5帖13通


注6 前回の§5参照。


注7 以下参照。


真宗の骨格

 阿弥陀佛によって完成された南無阿弥陀佛の名号には一切衆生の苦悩を抜き、無上の安楽を与える働きがあることは、すでに述べて来た通りであるが、これは、丁度肉体の病苦を癒し健康の慶びを与えてくれる良薬のようなものであるから、法然上人も、この阿弥陀佛の名号を妙薬に喩えわが親鸞聖人もまた、「如来誓願の薬は能く智愚の毒を滅す」と弥陀の尊号を良薬に喩えていわれるのはまことに適切な譬喩といわねばならぬ。
 このように味ってみれば薬の調合はすでに了ったわけである。今や正しく病人がこの薬を呑む場合に臨んでいる。浄土真宗、親鸞聖人の御教では、六字が阿弥陀佛の手元にある時は、名号といい、その名号が吾々の心中に与えられ佛心と凡心が一体となったところを信心といい、六字が口に声となって称えられた時は、有難うございましたという佛恩報謝の念佛というのが定判である。
 蓮如上人は、これを
「この佛心(名号)を凡夫の方に授けましますとき信心とは名づくるなり」
「されば南無阿弥陀佛と称ふる心は如何ぞなれば、阿弥陀如来の御助ありつることの有難さ尊さよと思ひて、それを慶び申すこころなり」
と教えていられるのでも明らかである。薬はいくら完成されていても、また如何にそも薬に特効があろうとも吾々が呑まなければ、何んにもならないように、十劫の昔から名号は成就していても吾々が受け取らなければ、何んにもならない。
誠に呑む人がなければ折角調合せられた薬も、その甲斐がない。単に甲斐がないというよりも薬そのものの存在意義がないからである。吾々がこの名号、大功徳を受けとらねば弥陀の五劫の思惟も永劫の苦行も水泡に帰し名号は画餅に等しくなってしまう。
 故に、如来が我々凡夫にこの大功徳宝を与えてやりたいとの真心を名号の南無の二字にこめてあるからこれを発願廻向という。
『証文』には
「廻向は本願の名号をもって十方衆生にあたへたまう御のりなり」
と説き、蓮如上人は御文章三帖八通に
「阿弥陀如来の凡夫の為に御身労ありて此の廻向(名号)を我らに与へんが為に廻向成就したまいて」、
とあるように阿弥陀佛の本願は成就完成した名号を一切衆生に与えて救わんとせられたこと以外にはなかったのである。吾々がこの弥陀の本願を聞信し名号を受領し佛凡一体となった時を信心決定というので、この時に名号大功徳が我ものとなり佛智全領するから破闇満願、抜苦与楽に救われるのである。
 故にいくら名号が成就されていても吾々が受け取って吾らの信心とならねば救われない。真宗は信心正因であって名号正因といわないのは、その為である。『正信偈』に「本願名号正定業」とは仰有ってあるが如来の手元にある名号では吾々は救われないから正因とはいわれないのだ。
 吾々が名号を受けとれば破闇満願、抜苦与楽の力有のあることを正定之業といわれたのだが受け取らずに向うに眺めているだけでは、出来上がった話をきいているだけでは、出来上った話をきいているだけでは、救われないから正因とはいわれないのである。
 御馳走が出来ていても食べねば、腹はふくれません。
 御飯の室に入っていても食べねば餓死します。
 御馳走は名号であり食べて満腹したのが信心である。
 隣にどんな美人が居ても結婚するまでは関係がない。
 結婚するまでは隣の娘といい、一緒になれば妻と変るように、娘は名号であり、妻となったのが信心である。
 故に信心獲得したか、どうかが真宗の眼目であり肝要なのだ。
これを蓮如上人は、御文章のいたるところに強調なされているが、二帖二通には
「開山聖人の御一流には、それ信心ということをもって先とせられたり。この信心を獲得せずば極楽には、往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」
とか二帖、三通には
「然れば祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一つに限れり、これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす」
とか、五帖十一通には
「当流には信心の方をもって先とせられたる。その故をよく知らずば徒事なり」
等、とあるは、このことである。
『法事讃』上に有名な「謗法闡提廻心皆往」とあるのは、廻心されたものは謗法も闡提もみな救われるが廻心されねば必堕無間なのだ。廻心されたかどうか、名号を受けとったかどうかが皆往となるか必堕となるかの分岐点となるのだ。
 にもかかわらず、真宗の布教師の中には「囮事の一声自己を識得す」という禅宗の言葉で真宗の信心を語る者があるが、これは絶対間違いである。
 囮事の一声とは、たとえば、お婆さんが財布を自分が持ちながら忘れて財布を探している時「あんたの手にもっているじゃないか」と注意されて「ハー」と気のついた時発する声であるが真宗の信心も丁度このように吾々にはもとより助かっているのだがそれを知らないだけで迷うているのだから、それを知ったのが信心だというのである。
 こんな説教が実に多いが十劫安心の親玉である。
 これは「本来もっていたものに自覚する」という考え方が基礎になっているから、真宗の絶対他力廻向の弥陀の本願に反する邪義である。
 親鸞聖人は「教行信証」信巻に
「真実信心は、我ら凡夫には本来法爾として所有していないから如来が円成して我ら煩悩悪業邪智の心中に廻施して下さるものだ」
と述べ、いたるところに「真実信心をうる」とか、「獲得すれば」とか、「和讃」には、
「真実報土の正因を二尊のみことにたまわりて」
とか、あくまでも如来よりたまわる信心であることを明示され、覚如上人も
「三経の中に観経の至誠心、深心等の三心をば凡夫のおこすところの自力の三心ぞと定め大経所説の至心、信楽欲生等の三心をば他力よりさずけらるるところの佛智とわけられたり」
と邪義のつけいる余地のない明説がなされているのだから充分注意せねばならない。(『会報』vol.2pp.64-68)


注8 これに関しては、§5で詳しく述べた通りである。


注9 これに関しては、次回詳しく述べる予定である。

§7 聴聞(何を「聞く」のか?)

2009-10-09 15:16:37 | 教義
§7 聴聞(何を「聞く」のか?)

これまでの解説で、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じるのに、
「信心」(=信楽、プラサーダ)が必要なことも、
それが何の力によって得られるかも明かになった。

ところで、浄土真宗においては、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
疑いが完全に晴れた「信心」が、
阿弥陀仏が作ったシステムに
乗ずるための「信心」ということになる。

そして、その「信心」を獲得するために、
「聴聞」が勧められるのである。(注1)


ところでこの「信心」は、
極めて速やかに「あっ」という間もないままに獲得できるから、
「時尅の一念」と言われる。(注2)

しかし、その「信心」を獲得するまでの期間は、
人によっていろいろで、
どのような人も一緒というわけではない。(注3)


もちろん「あっ」という間に、
信心獲得できるまでの期間が短い方がよいが、
全ての人がそういう人というわけではなく、

頑張って聴聞をしているのにも関わらず、

歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、

そんな人はどうしたらよいか?

という疑問も当然出てくるのである。

「後ろ向き発言禁止」の某団体では、
このような疑問を口に出すことすら不可能であったかもしれないが、(注4)

このような人の悩みにも対処できるのが浄土真宗の教えであり、
そのような相談ができる雰囲気は大切である。(注5)


【今日のまとめ】
1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
疑いが完全に晴れた「信心」である。
2、その「信心」になることによって、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。


※次回は、

歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、
        ↑
この人がどうしたらええか解説するで!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 願成就文を親鸞聖人は以下のように解説されている。

・経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
『教行信証』信巻

・「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり、また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。
『一念多念証文』



また、親鸞聖人の教えを受けて蓮如上人は以下のように述べておられる。

・かるが故に、阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき「衆生、仏に成らずば我も正覚ならじ」と誓いまします時、その正覚已に成じたまいしすがたこそ、今の南无阿弥陀仏なりと心得べし。これ即ち、我らが往生の定まりたる証拠なり。されば、他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
『御文章』4帖8通


・他力の信心を獲るというも、これしかしながら、南无阿弥陀仏の六字のこころなり。この故に一切の聖教というも、ただ南无阿弥陀仏の六字を信じせしめんがためなり
『御文章』5帖


・阿弥陀如来の仰せられけるようは、「末代の凡夫、罪悪の我らたらん者、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし」と仰せられたり。
『御文章』4帖


・されば、「南无阿弥陀仏と申す六字の体はいかなる意ぞ」というに、「阿弥陀如来を一向にたのめば、仏その衆生をよく知ろしめして、救いたまえる御すがたを、この南无阿弥陀仏の六字に現したまうまり」と思うべきなり。
しかれば「この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば助かるべきぞ」なれば、何の煩いもなく、もろもろの雑行、雑善をなげ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、二心なく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明を放ちて、その光の中に摂め入れ置きたまうなり。
これを即ち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとは申すなり、また不捨の誓約ともこれを名くるなり。
『御文章』3帖4通


・それ、当流の安心のすがたは如何ぞなれば、先ず「我が身は十悪五逆五障三従のいたずらものなり」と深く思いつめて、その上に思ふべきやうは、「かかる浅ましき機を、本と助けたまへる弥陀如来の不思議の本願力なり」と深く信じ奉りてすこしも疑心なければ、必ず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなわち他力真実の信心を得たすがたと云うべきなり。
『御文章』2帖15通



注2 このことの解説に関しては、以下の記述に問題はない。

チ●ーリップ企画【第12回】信楽は一念で獲得より

 次に第二の、その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということに就いて明らかにしよう。
 釈迦は『成就文』に「信楽を獲る」のは、「信心歓喜せんこと乃至一念せん」と、「一念」であると鮮明に説かれている。では「一念」とは何か、親鸞聖人にお聞きしたいと思う。

 この『成就文』の「一念」を、法然上人は「行の一念」とされているのに、親鸞聖人は「信の一念」と説き、それを「時尅の一念」と「信相の一念」で教えられている。(両聖人の違いについては後日、述べよう)

 先ず、「時尅の一念」に就いてであるが、聖人はこう仰っている。

「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは信楽開発の時尅之極促を顕はし、広大難思の慶心を彰すなり」(教行信証)

 ここで親鸞聖人の仰せになっていることを、易しく言うと次のようなことだ。

「阿弥陀仏の本願の『信楽』を、釈迦は成就文に『信心歓喜せんこと乃至一念せん』と説かれているのは、本師本仏と仰ぐ弥陀の本願の最も尊く優れているのは、一念の救いである」と言われているのである。

「一念の救い」とは、先ず、弥陀の救いは極めて速いということ。
「名号」を聞即信と頂き破闇満願し、広大難思の慶心の身に救われるのは、分秒にかからぬ速さである。
 だから聖人は「極速円融の真詮」とも弥陀の救いを言い、聞即信の一念だから「極速」、一念で大満足させられるから「円融の真詮」と仰っている。

 なぜ、弥陀の救いは、こんなに速いのか。覚如上人は『口伝抄』に、その訳をこう記される。

「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」

 平易に言うと、常に阿弥陀仏の救いの相手は、直前に死が迫っている無常迅速の人(十方衆生)だからである。もし三刹那かかる弥陀の救いだとすれば、一刹那後に死ぬ人を救うことはできないだろう。
 だから阿弥陀仏の本願の最も優れて尊く大切なのは、「一念の救い」であり、「一念の救い」こそが、弥陀の本願の肝要であり至極の教えであると、釈迦や親鸞聖人は言われているのだと、覚如上人は仰っているのである。

 中国の曇鸞大師という人は『浄土論註』に、
「譬えば、千歳の闇室に光もし暫く至れば、すなわち明朗なるが如し。闇あに室に在ること千歳にして去らず、と言うことを得んや」
と、例えで明来闇去闇去明来、明かりが来たのが先か、闇が晴れたのが先か、弥陀の一念の救いの速さを教えていられる。

 だから真実の信心(一念の救い)には、信楽開発した一念がある。信楽が開発したとは、一念で弥陀の本願に疑い晴れ、往生一定と極楽往き間違いなしと、大安心大満足の心になったことをいう。
 例えれば、生来、目が見えなかった人が名医の手術で開眼した一刹那とでもいうか、地獄より行き場のない者と知らされたと同時に、私一人を助けんがための弥陀のご本願でありましたと驚天動地する、不可称不可説不可思議の一念である。
~~以上引用~~


注3 法然上人には、以下の言葉がある。

人の心は頓機漸機とて二品に候なり。
頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。
物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、
足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、
まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、
ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、
年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562

(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。
頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、
漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。
たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、
足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、
足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、
最後には必ずお参りすることができるのと同じように、
浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、
時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。

ところで『会報』vol.3p.55~宿善(2)には、

~~以下引用~~
 よって宿善の厚薄は、また聞法心の強弱によって知ることが出来る。仏教では宿善深厚の人を頓機といい、宿善薄弱な人を漸機といわれる。頓機の者は一度の法筵に遇っても信を獲るが、漸機の人は法筵を重ねて、漸く信を獲得するのである。丁度、枯松葉と青松葉のようなものである。
 枯松葉はマッチ一本ですぐに火がつくけれども、青松葉に火をつけようとしても、プスープスー水をはじいて、中々火はつきにくい。それと同様に頓機は御慈悲の火がつきやすい状態になっている人だから、すぐにも仏凡一体と燃え上るが、漸機は今日もカラボコ、今日も落第どう聞けばよいのか、どれだけ聞けばわかるのかと、ブスブス小言ばかりいって、流転しているのである。しかも漸機の者は圧倒的に多く、頓機は稀なのである。
 記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子の中では、わが親鸞聖人と蓮生房と耳四郎の三人のみが頓機である。
 聖人の門下では明法房、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に頓機の者は少なく、漸機の者は多しと仰せられている。
~~以上引用~~

とあるが、この解説は、『和語灯録』所収の上記の法然上人の言葉には基づいていないようである。


注4 親鸞会教義の相対化・46参照

<禁止事項>
【後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章】

【発言】
※自分だけでなく、周囲の人のやる気を削ぐような発言はしない。
1)できません。
2)無理です。
3)わたしのような者はダメです。
4)感謝の心がでてきません。
5)こんなやり方にはついてゆけません。
6)そんなことを言われても困ります。
7)少しも悪いと思えません。
8)辛いです。苦しいです。

【顔(表情)】
※額にシワをよせた表情はしない。
1)泣くと、その涙でなお悲しくなる。
※『ベッピンも笑顔忘れりゃ五割引き』

【姿勢】
※腰を押されるようにして、堂々と歩く。

【文章】
※後ろ向き発言と同じ文章は書かない。


注5 『蓮如上人御一代記聞書』(86)に以下の記述がある。

一、蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。

(訳)
 蓮如上人は「素直に自分の心の中にあるものを言いなさい。ものを言わないで黙っているものは恐ろしいことである」と仰った。
「信心のある者も、信心のない者も、包み隠さず心の中にあるものを言いなさい。心の中にあるものを言うからこそ、他の人に心の奥底で思っていることがわかり、人に直してもらうこともできるのである。だから包み隠さずにものを言いなさい」と仰った。

§8 なかなか信心獲得できない人のために・・

2009-10-09 15:16:19 | 教義
§8 なかなか信心獲得できない人のために・・


歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、

この人はどうしたらいいのか?
この疑問を、親鸞聖人の師匠である法然上人に尋ねてみよう。


法然上人は、

「時間がかかっても、必ず喜べる時が来るから、
それまで習いなさい!」

と教えてくださっている。

歓喜する心、
「極楽浄土への往生は間違いない」の確信、
「自分の死後がどうなるか」の不安の解決、

これを求めて焦る人も、必ず喜べる時は来るから、

★念仏申すことを続けることができるようになった人

を目指して、それまで習うことが大事であり、
そのために「聴聞」し続けなけらばならない。(注1)


★他力の救いは一念
★阿弥陀仏の慈悲が時間をかけて浸透してくる人もいる

この二つは全く矛盾していない。
阿弥陀仏の救いは等しいが、それを受ける人は一様ではないのである。

「疑いがバッチリ晴れる」ということは、確かに簡単にできないかもしれないが、

水がずっとずっと流れ続けていけば石ですら穴があくように、
石のように固く固くなった心にも、
阿弥陀仏の本願がいかなるものかを繰り返し聞くことによって、
少しずつ少しずつ、阿弥陀仏の慈悲が浸透していって、
やがて貫通して本願に対する疑いが晴れる時がくる!

ということは、蓮如上人も仰っておられる。
したがって、「浄土真宗」の名の下に法然上人の言葉を否定することはできない。(注2)


いずれにしても、「聴聞」で「信心」が得られるように、
自ら積極的に環境を整えていくことが、とても大事なことである。
(注3)


「そもそも善知識の能といふは、
一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、
ひとをすすむべきばかりなり。」
by.蓮如上人(『御文章』2帖11「五重義章」)


間違っても、この言葉に反すること教えている、
「自称善知識」から「聴聞」してはいけない。(注4)(注5)(注6)


【今日のまとめ】
1、なかなか「信心」を得られない人も、時間がかかっても、必ず「信心」を得られる時は来る。
2、その時まで諦めずに「聴聞」を続けることが大事である。
3、「聴聞」で「信心」を得られるように、
自ら積極的に環境を整えていくことが大事である。
4、それができなくなるような教えを説く、自称「善知識」から「聴聞」をしてはいけない。

※次回、「南無阿弥陀仏」の六字の名号に、どんな意味があるかを解説する。

――――――――――――――――――――――――――――――――――


注1 以下の禅勝房が伝える法然上人の言葉を参照。

禅勝房のいわく、上人仰せられていわく、
今度の生に念仏して来迎に預からん嬉しさよと思いて、
踊躍歓喜の心の発りたらん人は、
自然に三心具足したりと知るべし。
念仏申しながら後世を嘆く程の人は三心不具の人なり。
もし歓喜する心いまだ起らずば漸漸(ぜんぜん)に喜び習うべし。
また念仏の相続せられん人は我三心具足したりと知るべし。
『諸人伝説のことば』(浄土宗聖典vol.4pp.485-486)

(訳)
禅勝房が伝え聞くところを言った、
「法然上人が仰ることには、
今この度の生涯において、念仏を申していて、
『阿弥陀仏に迎え取って頂くことができるのはんと嬉しいことだ』
と思うような、踊躍歓喜の心が起こった人は、
おのずから、三心(極楽浄土に往生する人が持つ三つの心)
を具えた人であると知るべきである。

念仏を申していながら、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人は、
三心をそなえていない人である。

もしも歓喜する心がまだ起きていないのであれば、
時間がかかっても必ず喜べる時が来るからそれまで習いなさい。

また念仏申すことを続けることができるようになった人は、
『私は三心を具えた』ということを知りなさい。


注2 以下の蓮如上人の言葉に基づく。

一「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、
心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、
御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
『蓮如上人御一代記聞書』(193)

(訳)
「極めて固いものは石であり、極めて柔らかいものは水である。
しかしその柔らかい水が石に穴をあけることができるのである。
もしも心の底を徹していったならば、仏の覚りすら、
どうして成就することができないことがあろうか(いや絶対に成就する)」
という古い言葉すらある。

どれほど信心のないものであっても、聴聞を心に入れていくならば、
阿弥陀仏の慈悲が我が身に伝えられていくのであるから、
必ず信心を得ることができるのである。
ただひたすらに仏法は聴聞することに尽きるのである。


注3 以下の蓮如上人の言葉を参照。

一人のこころえのとほり申されけるに、
わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、
仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、
やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、
前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。
その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

(訳)
ある人が自分の思いをありのままに語って、
「私の心は篭に水を入れるようなもので、
仏法のことを聞いている座ではありがたくも尊くも感じるのですが、
その場を離れると、すぐにもとの心に戻ってしまいます」と申し上げたところ、

蓮如上人は、
「その篭を水につけよ!篭である我が身を仏法の水にひたしておくのがよい!」
と仰せになられた。


注4 例えば以下のような記述参照。

こんなことでは後生の解決どころか、この世の事すら解決出来ないではないか、情けない。それどころか又、会費があがったとか、又お金を集めるとか、思ってはならぬ心がムクムクと出て来ます。財施をすれば凡て自分の宿善になるのだと知りながら悲しい心が出て来ます。
【顕正新聞昭和44年5月】

思えば我々親鸞会々員が今日こうして生まれ難き人間界に生を受け、聞き難き仏法を聞かせて頂いているのも阿弥陀仏、そして高森顕徹会長先生ましませばこそである。いわば世界中で最高の洪恩を蒙っている幸せ者である。ところが我々は、受けた恩徳は無量であるのに返す財施は限りあるどころか雀の涙ほども出来ない横着者であるこれでは助かりようがない。
【同紙昭和45年5月】

どうせくだらんところにしか使わない金だ。それらの金銭を真実の仏法を弘める為に布施をさせるのが仏法の重さを知らされた者の責任ではないか。酔生夢死の人生を過ごそうとしている人々に尊い仏縁を与える為に金の使い方を教えてあげる、これが真の仏法者の務めである。何不自由もない釈尊が一生涯托鉢乞食行をなされた精神は、くだらんところへ散在する金品を吸い上げ、召し上げて彼らに仏縁を結ばせる為ではなかったか。(中略)親鸞会に布施せられた財施のみが十方衆生を生かし末代の宝として生きかえるであろう。
【同紙昭和53年10月】

「もういい加減な求道はできません。何としても今生で信心決定するため、新本部財施に命をかけます」
【同紙昭和61年6月】

財施をするのは損をするということではなく、自分が徳をすることです。家や田んぼを売っても損はしないのです。計算して財施するというのは嫌々ながらやることです。そうではなく、喜んでお金を出す。それが喜捨なのです。家を売っても、アパートで生活すればいいのです。喜捨をしないのは親鸞学徒ではありません。(本部報恩講での高森顕徹会長の説法)
【米本和広著教祖逮捕p165】

金のある者には、大法の為にどんどん使うように勧めたらよい。
自損損他のアブクゼニを、大法の為に活かすよう仕向けるのは、大慈大悲である。
この精神を恥ずかしく思うのは、仏法の尊さがまだ分かっていないのだ。
法もまた財なり、財もまた法である。(巻頭言・高森顕徹会長の言葉として)
【顕真平成15年9月】

【悲願の法城(親鸞会の集金ビデオ)再掲】より

~~~~以下引用~~~~
それねぇ、人にこう、あの、お金でもモノでもあげると、
人のもんになる風に思うでしょ?
これ全然違うんです。
あげた者のモノになるんですよ。
だから絶対損にならないんです。
ドンッ、ドン、あげたらいいんですよ。
ゼッッタイに、あの、損しないから。
だから喜んで捨てなさい、喜んであげなさいちゅうことで
喜捨と言われるんですよ。
喜ばにゃならんのですよ?
人に物をあげる。特に仏法に布施をする。
これはもう、イッチバンの善ですから、
だからその、もう喜ばにゃならんことなんですよ。

あの人は、あんだけしか出されんのに、私あの人よりも
何で余計出さにゃならんやろ、って
トンデモない話ですよ!そりゃ
喜んで・・・・出さなければならない。
みんな自分の物になるんですよ?
絶対、人のモンにならないんですよ。
で、それが自因自果ということですから、その、やはり
自因自果という因果の道理がワカランところから
食堂なんか行ったらね、千円でも二千円でも、安いね
ここの店は、って出しても、仏法のためになら
千円出すときに、あの人、五百しか出してらんのに、
私、ナンデ千円出さんな・・・
まるで損するように思うでしょ?
これ、ゼンッゼン因果の道理がワカッテナイ
っちゅうことですよ、仏法ワカッテナイっていうことですよ。
その人の信仰はその程度や、っちゅうことですよ。
絶・・・対、損にならないですよ。
その喜捨した、何ジュウ倍戻ってくるからっ。
私なんか、何百倍戻ってくるとりますよ。
そんなちょっとやそっとじゃないですよ。だから、
ヨロコンデ・・・あげればいいんですよ。
ヨロコンデあげなきゃならんことですよ。
ヨロコンデ捨てる・・・仏法のために
これが中々ワカランのやね。因果の道理が、
あの、ワカラナイ、ワカッテないから。
絶・・・対に損しないんですよ。布施をして。

もちろん、その布施をする相手ぇ間違ったらダメですよ。
これ、いつも、皆さん、あの、お聞きのとおり。
ちゃんとお釈迦様は、どーゆう相手に布施を、せよ
と教えておられるから。
こりゃいつも聞いておられるとおりですから。

だから・・・そのうえでですよ、布施をして施して
損ということは、絶対ないですよ。

家も田んぼも畑もゼンブ売って、仏法に布施してでも、
絶対に損はないです。
明日からどこで住めば、
そりゃアパートへ入りゃいいんです。
絶対に損はないです。

だから喜んでさせてもらわなければならないこと
なんですから、喜捨と言われるんですが
まるでね、税金かなんかとられるようなこと思っとったらね、
ゼンゼンそりゃ布施と違うんですよ。
これは、あの、喜捨でないんですよ。
税金ちゅうのは国家権力が、ね、無理やりに・・・・
奪い取っていくんですから、もし税金払わんものあったら
こりゃもう、酷い目に会わんにゃならんのやから、
それが嫌ややで、仕方っ無しに出しとんのが税金なんだで。
布施というのは喜捨というのはそんなもんでないんですよ
・・・・・・・・・なっ、国家権力っというもの、そういうものに
恐れて出すんのと違うんだから。わが身のために出すんですから
自分が、けっ、自分がよい結果を得るために
種を蒔くんですから・・・・種蒔くところが無かったらね、
大根もニンジンもできてこないんやからね、
畑へ感謝しなきゃならないですよ?
いくら大根の種持っとったってね
蒔く畑が無かったらね、大根とれねぇんだから・・・・・
私たちは最高の仏法という宝も、タカッ、
仏法というハタケ持っとるんでしょ?
その仏法というハタケに種を蒔くんですよ。
・・・・そしてそのハタケからできてきたものゼンンンブ、
自分のもんになるでしょ
ハタケのもんにならないんですよ
・・・・・・・・・・ここがまるでね、ハタケへ種蒔くと、
その、種も、その種からできてくる大根もニンジンも
みんなハタケのもんになるように思っ、思うからね。
・・・こりゃ、全く間違いで、因果の道理、いわゆる自因自果
・・・これがゼンゼンわかってない、信じられてない、ということですよ。
・・・絶対損はないですから
・・・・ドンドン、ドンドン、仏法のために財施、喜捨すれば
するっ、ほどいいんです。大変に幸せなことなんです。
得するヒトは、ね、幸せになるヒトは、そうするヒトなんです。
これが善因善果自因自果。
その逆が悪因悪果自因自果ですよ。
欲ばっかりして、ね、出すのは、仏法のために・・・
舌出すのもイヤやと。そんんなことしとるから
ダンダン、ダンダンお金も来ないし、物にも恵まれないし、
全部詰まってくるんですよ。
お金にも物にも恵まれたかったならば・・・ドンッドンッ、
喜捨をすることです。布施をすることです。
そうすれば全てに恵まれるから。
それをね、もう、出来るっだけ仏法のために
出さんように、出さんように、ね
それで、なにもかも恵まれないんですよ。・・・・・・・・・・・・・
その考え方を、ね、ヒックリ返さなかったらっ。
・・・・・・・・・それがそのね、仏法の根幹である
因果の道理をどれだけ、あの、わかっているか、
信じているか、ということなんですよ。
だから信仰が進めば、必ず、進めば進むほどそうなるんですよ。


まぁ、この方だけのあれに答えておられませんから。
「御喜捨の心掛けと因果の道理について、聞きたい、今一度聞きたい」
ということで、今こう話しとるんですよ。

「収入に対して計画を立てなかなか喜び喜びさせていただくことが」
これね、計算しとったらもう絶対出せないですよ、仏法に。
・・・・これだけ出したら、あとこうなってこうなって、こりゃ足らんぞ。
これだけ余ると、余っただけで大体こうかと

そんんなの、アカンですよ。

何しろね、そういう計算を捨てるの!
計算を捨てさせんの。
そして、因果の道理のみを信じるわけ。

こんな計算しとるからね、絶対ダメなんだ。
余って出るはずねぇもん。
余ったら全部銀行やっちょる。(聴衆笑い)
銀行はこれで持ってくるならもういわんからね集めたろうかね。
んなもん、どうして仏法出すカネが出てくるんや
計算しとったら。
そんなことないドンドン、御喜捨しなさい。ドンドン、
あの、布施をしなさい。
それはだぁ~れのモノにもならないんです。
アンタのモンになるんです。結果は。

あのぉ~、みなさんが財施をせられたのは
ワタシのもんになるなんかってね、
クダラン心配しなさんな。(聴衆笑い)
私は倍にして出しとるから。
みん~な、出したアンタのモノになります。
私が布施をしたらワタシのモノになるんです。結果は。
アンタらの布施したモノを私が拾ったれっていうたら、
私がね、ヒン、貧乏になるだけです。
出す人が豊かになるんです。
出せば出すっほど豊かになっていくんです、し、
幸福になるんです。
そこ入れりゃ、入れるっほど不幸になるんです。
そういうことです因果の道理ってのは。

だから「収入に対して計画を立てる」

立てなさんなこんなモン(聴衆爆笑)

なにしろ、喜んで出しなさいっ、ねっ。アンタね、
幸せを欲しかったら出しなさいっ
ということです。

私はね、世間のヒト見とっと、ほんとにね、
なんと気の毒というか、ね、ちょっ、大根が出ん大根が出んっちゅうに。おい、蒔いたか種?(聴衆笑い)
ゼンッゼン、大根の種、蒔いた、蒔かんとって、
大根が出ん、大根が出ん、言うとんねん

キチガイかい!ってオマエ

畑行ってね、まだ大根が出ん、まだ大根が出ん、
言うとんねん
何時タネ蒔いたんやオマエ、何も蒔いとらん
蒔かんモンが出るかっちゅうの!
蒔きなさい、必ず出てくるから。人に施しなさい。
人に親切しなさい、必ず恵まれるから。
逆にはならんのだから。アンタのために蒔くんだで。
アンタのため、自身のために出すんだて。
そういうことがね。あの因果の道理ということです。

いくらそういうてもね、ん~、なこと言うたって中々ちょっ、
計画を立てんとおれるかとそん~なこと言う、思っとる
もんバッカリだから、貧乏なもんバッカリなんだわ。
苦しんどるもんバッカリなんだわ。
私の言うとぉ~りにやってごらん。
因果の道理に・・・従ってやっててごらん。
みんな幸福になるんです。
それ、やるかやらんかダケです。
信ずるか信じないかのダケです
信じて実行するかしないかダケです。
私はやっただけっす。そら私のためです。ね
~~~~以上引用~~~~


注5 『歎異抄』第18章には、施入物の大小を云々することが誤りであり、宝物を仏前になげたり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まることはないということが述べられている。

一仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


また、蓮如上人も、財施によって救いがあるかのように教えることの間違いを指摘しておられる。

●これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
『御文章』1帖11通


注6 このことに関連して親鸞聖人は以下のように仰っておられる。

●善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。『親鸞聖人御消息』

この言葉が「全人類が五逆謗法だから、それを避けて無人島で暮らしなさい」という意味ではなく、「五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくな」という意味であることは、既に清森氏が指摘済みである。

※清森問答 質疑応答143

もしも、「頭、変になられたんじゃないですか?」というように、釈尊を謗るような教えを説く自称「善知識」がいたならば、そのような「謗法の人」からは離れ、「同座」しないことが「親鸞聖人の教えに従う」ことになる。

※清森問答 親鸞会教義の相対化・82

§9 南無阿弥陀仏(1)本願招喚の勅命

2009-10-09 15:15:59 | 教義
§9 南無阿弥陀仏(1)本願招喚の勅命


ここで、「南無阿弥陀仏」の六字の名号に、如何なる意味があるか
を解説しておこう。(注1)

「南無阿弥陀仏」の六字の意味を、はじめて明かにしたのは善導大師で、
以下のように解釈しておられる。(注2)(注3)


★「南無」  →「帰命」
       →「発願回向」
★「阿弥陀仏」→「即是其行」



これを、親鸞聖人は『教行信証』で次のように解釈しておられる。
(注4)

★「帰命」  →「本願招喚の勅命」
★「発願回向」→「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」
★「即是其行」→「選択本願」

ここでポイントになるのは、

この『教行信証』の解釈が、「南無阿弥陀仏」の中身である、
「帰命」も「発願回向」も「即是」も、
その主語が全部【阿弥陀仏が】になっているということである。


★「本願招喚の勅命」とは、【阿弥陀仏が】私に、
「ワシを信じるのだ!」と命令しているということである。

私が極楽浄土に往生して最終的に成仏するためのシステムは、
【阿弥陀仏が】既に完成させてくださっていて、
あとは私がそれを信じてシステムに乗ずるだけの段階になっている。

だから、【阿弥陀仏が】、
「私を信じて、このシステムに飛び込んで来なさい!!」
と「招き」「喚んで」「命令」しておられるのである。


★「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」とは、
私が極楽浄土に往生して最終的に成仏するための「働き」である、
「行」というものが、全部【阿弥陀仏が】与えてくださったものである。
ということである。

【阿弥陀仏が】作ってくれた「働き」が、
私の所に届くことによって、私は極楽浄土に往生することができる。
しかし、それが届かなかったら、往生することはでけない。

だから、【阿弥陀仏が】、
なんとかしてその「働き」を私に与えようとしているというのが、
この「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」なのである。


★「選択本願」というのは、
私を極楽浄土に往生させて成仏させるために、
【阿弥陀仏が】与えてくださった「働き」が、
他の誰でもなく、【阿弥陀仏が】自ら選びとってくださったもので(「選択」)、
【阿弥陀仏が】過去に誓った誓願を実現されて完成された(「本願」)ものである。
ということである。



このように、「南無阿弥陀仏」というものは、
私のような衆生の勝手な計らいでなされたものじゃなくて、

★「私を信じて私が作ったシステムに乗じてくれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【勅命】で、

★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】で、

★「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】なのである。

このように「南無阿弥陀仏」は、全て【阿弥陀仏が】作ったものなので、

「南無阿弥陀仏」の六字の「名号」に、
私のようなものを極楽浄土に往生させて、最終的に成仏までさせるような、
人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっているのである。(注5)



だから、【阿弥陀仏が】作った、この「南無阿弥陀仏」の「名号」を、【衆生が】「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)するということが、

即ち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる、
「信心」を【衆生が】獲得するということになるのである。(注6)



このことは、『尊号真像銘文』における解釈を読むと更によくわかる。
解説が長くなるので次回に述べよう。


【今日のまとめ】
1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
 「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
★「私を信じて私が作ったシステムに乗じてくれ!!」という【勅命】、
★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
★「私が選択して完成させたシステムだから間違いない!!」という【選択本願】、
として解釈されている。
4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、私が「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
  【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

※来週も大切やから、見逃しちゃダメよ!!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 このことは、「六字釈義」として所謂「安心論題」でも取り扱われている。

浄土真宗教学の「伝統」として蓄積されたものであり、非常によくまとまっているので、以下に参考までに挙げておく。

~~以下引用~~
六字釈義

〔題意〕
名号六字の義を窺い、名号は願行・悲智を円具して、よく衆生を往生成仏せしむる行体なることを明らかにする。
〔出拠〕
「玄義分」「今此の観経の中の十声の称佛は、即ち十願・十行有りて具足す。云何が具足する。南無と言ふは即ち是帰命なり、亦是発願回向の義なり。阿弥陀佛と言ふは即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得。」
「行文類」の六字釈に「しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、至なり、また帰説(よりたのむ)なり、説の字は、悦の音なり。また帰説(よりかかるなり)なり、説の字は、税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。
ここをもつて帰命は本願招喚(まねくよばう)の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。」
「尊号真像銘文」に「善導和尚云「言南無者即是帰命亦是発願回向之義言阿弥陀仏者即是其行以斯義故必得往生」(玄義分)文「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。
「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。」「執持鈔」
「そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまへり。」とあり。御文章四帖目十通・四帖目十四通などある。
〔釈名〕
「六字」とは南無阿弥陀仏のことで、今はこの名号に願行具足せる義を釈する。
〔義相〕
摂論家の人々が、『観経』下々品の十声の称名は唯願無行であって、往生別時意であるというのに対し、善導大師は、この称名には願行を具足しているから、順次の往生を得るのである旨を明らかにされた。すなわち、「南无」というのは帰命であるが、また発願回向の義もあり、「阿弥陀仏」というのはその行である。このように所称の名号に願行を具足しているから必ず往生を得るという。
宗祖はこの善導の釈を承けて、行文類には、名号六字の本質を「帰命」と「発願回向」と「即是其行」の三義で解釈され、三義をいずれも仏に約して、「発願回向」は能回の悲心(願)、「即是其行」は所回の智徳(行)とし、「帰命」をその回施の相状(本願招喚の勅命)とされる。そしてかかる悲智円具の名号を聞信する故、即時に仏因円満して正定聚に入る(「必得往生」の釈)と示されたのである。
『銘文』にあっては、六字の三義を衆生に約して、「帰命」を機受の心相、「発願回向」をその義別とし、「即是其行」を体徳とされている。
その他、『執持鈔』、『御文章』などそれぞれ釈相は異なるが、いずれも名号六字に衆生を往生成仏せしめる悲智、願行の徳が其足していることを明らかにされるのである。
〔結び〕
名号は、衆生の造作をからず、法体の独用をもってよく衆生を証果に到らしむる行体である。
~~以上引用~~


注2 『観経疏』玄義分

●いまこの観経の中の十声の称仏は、即ち十願十行ありて具足す。
いかんが具足する。南無といふは、すなわちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなわちこれその行なり。この義をもっての故に必ず往生を得。

注3 この部分の解釈に関しては、以下の記述に問題はない。

~~以下『会報』vol2.南無阿弥陀佛とは(一)より~~

この尊高無比の名号、尊号、嘉号を善導大師は
『南無というは帰命、亦是、発願廻向の義なり、阿弥陀佛というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生することを得るといえり』と教えて、南無とはタノム機の方であり、阿弥陀佛とは助くる法の方である。
タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。
善導大師が出世せられた時代は、各宗に高徳名僧が踵を接して輩出せられた中国佛教の全盛時代であった。
当時、有名な天台、嘉祥淨影等の諸大師が競うて『観無量寿経』の講釈を試みていた時である。
所謂、淨影の義疏、天台疏、嘉祥疏である。
これらの方々にはともに観経の下三品に具足十念で即得往生すると説かれているが実際は、そんなウマイことはないのだ。
何故かといえばいやしくも浄土に往生するには必ず願と行の二つの条件が具備せねばならない。
然るに、この下々品の人間は無善造悪で、業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。
南無は帰命、帰命とは身命をなげ出して佛にお願いすることだから南無阿弥陀佛ということは阿弥陀佛さま、私をどうか助けて下さいと口でいって往生を願求するのみだから行はない。
唯願無行だ。
だから十念の称名念佛は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。
今はただ遠生の結縁になるだけである。
にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。
別時意趣とは、無著菩薩の書かれた『攝大朱論』の中に、佛の説法に四悪趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。
これは、勇猛精進に勤められぬ怠惰なものに対する説法に仕方である。
諭えば一日一円の貯蓄で億万長者になれるぞと云えば、如何なる怠惰な者でも、その身になりたいと思って精進する心をおこすだろう。
しかしこれは一日一円の始末で長者になるのではなく所謂、塵も積れば山となると言うのと同じで大変な長期間かかるわけである。
それをあからさまに云うてしまえば怠惰なものは近づかないから、恰も即時に長者になれるように説法せられたのだ。
だから南無阿弥陀佛だけで直に助かるのではなく、ただ遠生の結縁となって何れの時にか浮かぶ縁になるということである。
しかし、これをあからさまにいうては近づかないから直ちに救われるように説かれたので別時意趣の方便説であるときめつけたのである。
この様な別時意趣説は、ただに天台嘉祥、浄影のみではなく、それ以前にも多くあったのであるが、かかるさ中に善導大師が現われ、これらの迷妄誤解をケ゛キ破する為に「今、我が延ぶるところ、佛の願意に叶いませば夢中に霊相を示し玉え」と日々、阿弥陀経を誦すること三遍、念佛三万遍相続され十方諸佛に証明を乞われたという。
かくて夜毎に化佛来りて一々佛に指図のままに観経を解釈せられたのが有名な『観無量寿経疏』であり、「一字一句加減すべからず写さんと欲する者、一に経法の如くせよ」とまで仰せられている。
この観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して
「大体、観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀佛の目的でないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修行が出来ようか、佛の慈悲は苦なるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。
しかもその南無阿弥陀佛の名号は諸師の言われるような唯願無行では絶対にない。何故なら、南無というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀佛というは即ち是その行なり、如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。願と行とが六字の中に、ととのえて有るから必ず往生が出来るのだ。
願行具足といっても凡夫が願を起し、凡夫が行を修して行くのなら、凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。仏の願行を機無、円成するが故に佛の世界に、行かれるのだ。だから遠生の結縁では絶対にない。帰命の一念に必得往生出来るのだ。」
大信海化現の善導でなければ出来ない妙釈に、諸師は黙し、ここに十方衆生の救われる無碍の大道は開かれたのだ。
~~以上『会報』vol2.南無阿弥陀佛とは(一)より~~


注4 『教行信証』行巻

●ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。

(訳)
こういうわけで「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願による勅命なのである。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って久遠の昔に、衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる心を言うのである。
「即是其行」とは、阿弥陀仏が発願し回向されたその行が、選択本願による行であることを表している。


注5 詳しくは§6で述べた通りである。

また『無量寿経』巻下東方偈には、以下の記述がある。

●その阿弥陀仏の本願力によって、阿弥陀仏の名を聞いて極楽に往生しようと欲すれば、皆ことごとく彼の国に至って、自然と不退転に至る。


注6 これに関しては§7で詳しく述べた。

§10 南無阿弥陀仏(2)勅命にしたがひて召しにかなふ

2009-10-09 15:15:38 | 教義
§10 南無阿弥陀仏(2)勅命にしたがひて召しにかなふ

『教行信証』の「南無阿弥陀仏」の解説が、

 ★「帰命」→「私を信じてシステムに乗じよ!!」
  という【勅命】

 ★「発願回向」→「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
  という【発願・回向】

 ★「即是其行」→「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
  という【選択本願】

という【阿弥陀仏が】を主語にしたもので、
全部【阿弥陀仏が】作って与えてくださったものであることを、
前回詳しく解説した。


そして、これを衆生の立場から言うと、
この【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、

すなわち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を、
【衆生が】獲得するということになる。

・・というとも、既に述べてきた通りである。(注1)


今回は、親鸞聖人のもう一つの「南無阿弥陀仏」の解釈を読むと、
このことが、さらによくわかるという話である。


さっそく、『尊号真像銘文』を読んでみよう。(注2)

 ★「帰命」  →【衆生が】勅命にしたがひて召しにかなふ
 ★「発願回向」→【衆生が】召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう
 ★「即是其行」→【衆生が】安養浄土(へ往生すること)の正定の業因

ということで、
主語が【阿弥陀仏が】じゃなくて、
【衆生が】になっていることが注目されるべきことである。


★「私を信じてシステムに乗じよ!!」
という【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》となり、

★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
という【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》となり、

★「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
という【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
【衆生が】極楽浄土に百パーセント往生するための業因(正定の業因)にすると、
《即是其行》になる。


このように、「南無阿弥陀仏」の働き一つで、
【阿弥陀仏が】構築してくれたシステムは完全に作動して、
私のような【衆生が】、間違いなく極楽浄土に往生し最終的に成仏できる。

だから「南無阿弥陀仏」が重要なのである。(注3)


今後は、阿弥陀仏のシステムに乗ずるために、阿弥陀仏に関係のない話ではなく、「南無阿弥陀仏」の「名号」を「聞」する、浄土真宗の「聴聞」をして頂きたい。


間違っても、某浄土真宗系新宗教団体のように、
「南無」を「救われた」「助けられた」といったように、
勝手な解釈をしてはならない。(注4)(注5)

「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しなかったならば、
永久に「南無阿弥陀仏」しないままである。
このような誤ったドグマに従うべきでない。


【今日のまとめ】
 1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
 「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
 ★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
  【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
 ★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
  【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
 ★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
  【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
  として解釈されている。
 2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
  善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
 3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
  永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
 4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。

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注1 これに関しては§7で詳しく述べた。


注2 『尊号真像銘文』

●「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。
「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。

(訳)
「言南無者」というのは、すなわち「帰命」と言う言葉である。
「帰命」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の勅命にしたがって、招きに従って二尊の御心に適う」という言葉である。このようなわけで「即是帰命」と善導大師は仰っておられる。
「亦是発願回向之義」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の招きに従って、極楽浄土へと生まれようと願う心」であると善導大師は仰っておられる。
「言阿弥陀仏者」というのは、「即是其行」と言われている。即是其行とは、阿弥陀仏の選択本願であると知るべきであり、これこそが衆生が極楽浄土へ間違いなく往生することが定まる業因(正定の業因)なのである。


注3 以下の『御文章』の言葉は、これまでに述べてきた内容を蓮如上人がわかりやすく解説したものばかりである。

●3帖2通(以下、3-2のように省略する)
さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。
されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。
かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。


●3-4
しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。
されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。

●3-5全文

●3-6全文

●3-7
そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。
しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。

●3-8全文

●4-6
それ南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なりとおもふべし。そのゆゑは、「南無」といふは帰命なり。「即是帰命」といふは、われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。
そのたのむこころといふは、すなはちこれ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。ちかごろは、人の別のことのやうにおもへり。

●4-8
一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命亦是発願回向之義言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。
かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

●4-11全文

●4-14全文

●5-8
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。
されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。

●5-9
当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。
このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。

●5-11
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。
されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
●5-13全文

●5-22
されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。
さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。
されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。


注4 例えば『正信偈』冒頭を以下のサイトのように解釈するのは誤りである。

浄土真宗親鸞会公式ホームページ 伝えたいことがある


「帰命無量寿如来
 南無不可思議光」

 無量寿如来も不可思議光も、本師本仏の阿弥陀如来の別名であるから、〝親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ〟と、これは叫ばれているのである。

※「このサイト文章は2008年の顕正新聞上に掲載されたものですが、高森会長の作文ではありません」(某メル友氏談)

親鸞会広島

親鸞会岩手

親鸞会三河

※この解釈に関する、某メル友A氏談(元親●会講師)
高森会長自身の名前が入った著作にはこの正信偈の表現はあえて書かないようです。
というのは、会長自身が以前講師部対象の講義で
「正信偈の最初の2行を、親鸞は救われたぞというのは、あれはわざといっているのだ。だから文章で書いてはならない」と言っていました。
そのため、10分間説法という原稿には記載はされていますが、これは一般の人が手に入らないものです。しかし、高森会長が常にそうやって話をしているので、親鸞会関係のサイトにはこの記述が多くあります。

※この解釈に関する、某メル友B氏談(元親●会講師)
あの解釈は毎月の法話で必ず高森会長もしくは
アシスタント(かつては私もしましたが)がする説明です。
高森会長は「南無や帰命をこのように説明するのは自分だけ」
と言っています。
六字釈そのものはほぼ間違いなく説明するのですが、
おもしろいことです。

※この解釈に関する、某メル友C氏談(元親●会講師)
これについては高森先生も、自分しか言わないことだと自覚しており、
突っ込まれることは極力、欠かない性格ですので、
説法では、何百回と聞いてきましたが、
直接、筆を持って書いたものはないと思います。


注5蓮如上人著『正信偈大意』を読めば「阿弥陀如来に南無したてまつれ」と書かれており、注4で紹介したような解釈が浄土真宗から逸脱したものであることは明かである。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。