§10 南無阿弥陀仏(2)勅命にしたがひて召しにかなふ
『教行信証』の「南無阿弥陀仏」の解説が、
★「帰命」→「私を信じてシステムに乗じよ!!」
という【勅命】
★「発願回向」→「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
という【発願・回向】
★「即是其行」→「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
という【選択本願】
という【阿弥陀仏が】を主語にしたもので、
全部【阿弥陀仏が】作って与えてくださったものであることを、
前回詳しく解説した。
そして、これを衆生の立場から言うと、
この【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
すなわち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を、
【衆生が】獲得するということになる。
・・というとも、既に述べてきた通りである。(注1)
今回は、親鸞聖人のもう一つの「南無阿弥陀仏」の解釈を読むと、
このことが、さらによくわかるという話である。
さっそく、『尊号真像銘文』を読んでみよう。(注2)
★「帰命」 →【衆生が】勅命にしたがひて召しにかなふ
★「発願回向」→【衆生が】召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう
★「即是其行」→【衆生が】安養浄土(へ往生すること)の正定の業因
ということで、
主語が【阿弥陀仏が】じゃなくて、
【衆生が】になっていることが注目されるべきことである。
★「私を信じてシステムに乗じよ!!」
という【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》となり、
★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
という【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》となり、
★「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
という【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
【衆生が】極楽浄土に百パーセント往生するための業因(正定の業因)にすると、
《即是其行》になる。
このように、「南無阿弥陀仏」の働き一つで、
【阿弥陀仏が】構築してくれたシステムは完全に作動して、
私のような【衆生が】、間違いなく極楽浄土に往生し最終的に成仏できる。
だから「南無阿弥陀仏」が重要なのである。(注3)
今後は、阿弥陀仏のシステムに乗ずるために、阿弥陀仏に関係のない話ではなく、「南無阿弥陀仏」の「名号」を「聞」する、浄土真宗の「聴聞」をして頂きたい。
間違っても、某浄土真宗系新宗教団体のように、
「南無」を「救われた」「助けられた」といったように、
勝手な解釈をしてはならない。(注4)(注5)
「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しなかったならば、
永久に「南無阿弥陀仏」しないままである。
このような誤ったドグマに従うべきでない。
【今日のまとめ】
1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
として解釈されている。
2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 これに関しては§7で詳しく述べた。
注2 『尊号真像銘文』
●「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。
「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。
(訳)
「言南無者」というのは、すなわち「帰命」と言う言葉である。
「帰命」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の勅命にしたがって、招きに従って二尊の御心に適う」という言葉である。このようなわけで「即是帰命」と善導大師は仰っておられる。
「亦是発願回向之義」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の招きに従って、極楽浄土へと生まれようと願う心」であると善導大師は仰っておられる。
「言阿弥陀仏者」というのは、「即是其行」と言われている。即是其行とは、阿弥陀仏の選択本願であると知るべきであり、これこそが衆生が極楽浄土へ間違いなく往生することが定まる業因(正定の業因)なのである。
注3 以下の『御文章』の言葉は、これまでに述べてきた内容を蓮如上人がわかりやすく解説したものばかりである。
●3帖2通(以下、3-2のように省略する)
さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。
されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。
かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。
●3-4
しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。
されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。
●3-5全文
●3-6全文
●3-7
そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。
しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。
●3-8全文
●4-6
それ南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なりとおもふべし。そのゆゑは、「南無」といふは帰命なり。「即是帰命」といふは、われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。
そのたのむこころといふは、すなはちこれ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。ちかごろは、人の別のことのやうにおもへり。
●4-8
一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命亦是発願回向之義言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。
かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
●4-11全文
●4-14全文
●5-8
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。
されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。
●5-9
当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。
このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。
●5-11
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。
されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
●5-13全文
●5-22
されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。
さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。
されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。
注4 例えば『正信偈』冒頭を以下のサイトのように解釈するのは誤りである。
浄土真宗親鸞会公式ホームページ 伝えたいことがある
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
無量寿如来も不可思議光も、本師本仏の阿弥陀如来の別名であるから、〝親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ〟と、これは叫ばれているのである。
※「このサイト文章は2008年の顕正新聞上に掲載されたものですが、高森会長の作文ではありません」(某メル友氏談)
親鸞会広島
親鸞会岩手
親鸞会三河
※この解釈に関する、某メル友A氏談(元親●会講師)
高森会長自身の名前が入った著作にはこの正信偈の表現はあえて書かないようです。
というのは、会長自身が以前講師部対象の講義で
「正信偈の最初の2行を、親鸞は救われたぞというのは、あれはわざといっているのだ。だから文章で書いてはならない」と言っていました。
そのため、10分間説法という原稿には記載はされていますが、これは一般の人が手に入らないものです。しかし、高森会長が常にそうやって話をしているので、親鸞会関係のサイトにはこの記述が多くあります。
※この解釈に関する、某メル友B氏談(元親●会講師)
あの解釈は毎月の法話で必ず高森会長もしくは
アシスタント(かつては私もしましたが)がする説明です。
高森会長は「南無や帰命をこのように説明するのは自分だけ」
と言っています。
六字釈そのものはほぼ間違いなく説明するのですが、
おもしろいことです。
※この解釈に関する、某メル友C氏談(元親●会講師)
これについては高森先生も、自分しか言わないことだと自覚しており、
突っ込まれることは極力、欠かない性格ですので、
説法では、何百回と聞いてきましたが、
直接、筆を持って書いたものはないと思います。
注5蓮如上人著『正信偈大意』を読めば「阿弥陀如来に南無したてまつれ」と書かれており、注4で紹介したような解釈が浄土真宗から逸脱したものであることは明かである。
●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。
『教行信証』の「南無阿弥陀仏」の解説が、
★「帰命」→「私を信じてシステムに乗じよ!!」
という【勅命】
★「発願回向」→「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
という【発願・回向】
★「即是其行」→「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
という【選択本願】
という【阿弥陀仏が】を主語にしたもので、
全部【阿弥陀仏が】作って与えてくださったものであることを、
前回詳しく解説した。
そして、これを衆生の立場から言うと、
この【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
すなわち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を、
【衆生が】獲得するということになる。
・・というとも、既に述べてきた通りである。(注1)
今回は、親鸞聖人のもう一つの「南無阿弥陀仏」の解釈を読むと、
このことが、さらによくわかるという話である。
さっそく、『尊号真像銘文』を読んでみよう。(注2)
★「帰命」 →【衆生が】勅命にしたがひて召しにかなふ
★「発願回向」→【衆生が】召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう
★「即是其行」→【衆生が】安養浄土(へ往生すること)の正定の業因
ということで、
主語が【阿弥陀仏が】じゃなくて、
【衆生が】になっていることが注目されるべきことである。
★「私を信じてシステムに乗じよ!!」
という【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》となり、
★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
という【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》となり、
★「私が選択して完成させたシステムやから間違いない!!」
という【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
【衆生が】極楽浄土に百パーセント往生するための業因(正定の業因)にすると、
《即是其行》になる。
このように、「南無阿弥陀仏」の働き一つで、
【阿弥陀仏が】構築してくれたシステムは完全に作動して、
私のような【衆生が】、間違いなく極楽浄土に往生し最終的に成仏できる。
だから「南無阿弥陀仏」が重要なのである。(注3)
今後は、阿弥陀仏のシステムに乗ずるために、阿弥陀仏に関係のない話ではなく、「南無阿弥陀仏」の「名号」を「聞」する、浄土真宗の「聴聞」をして頂きたい。
間違っても、某浄土真宗系新宗教団体のように、
「南無」を「救われた」「助けられた」といったように、
勝手な解釈をしてはならない。(注4)(注5)
「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しなかったならば、
永久に「南無阿弥陀仏」しないままである。
このような誤ったドグマに従うべきでない。
【今日のまとめ】
1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
として解釈されている。
2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 これに関しては§7で詳しく述べた。
注2 『尊号真像銘文』
●「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。
「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。
(訳)
「言南無者」というのは、すなわち「帰命」と言う言葉である。
「帰命」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の勅命にしたがって、招きに従って二尊の御心に適う」という言葉である。このようなわけで「即是帰命」と善導大師は仰っておられる。
「亦是発願回向之義」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の招きに従って、極楽浄土へと生まれようと願う心」であると善導大師は仰っておられる。
「言阿弥陀仏者」というのは、「即是其行」と言われている。即是其行とは、阿弥陀仏の選択本願であると知るべきであり、これこそが衆生が極楽浄土へ間違いなく往生することが定まる業因(正定の業因)なのである。
注3 以下の『御文章』の言葉は、これまでに述べてきた内容を蓮如上人がわかりやすく解説したものばかりである。
●3帖2通(以下、3-2のように省略する)
さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。
されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。
かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。
●3-4
しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。
されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。
●3-5全文
●3-6全文
●3-7
そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。
しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。
●3-8全文
●4-6
それ南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なりとおもふべし。そのゆゑは、「南無」といふは帰命なり。「即是帰命」といふは、われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。
そのたのむこころといふは、すなはちこれ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。ちかごろは、人の別のことのやうにおもへり。
●4-8
一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命亦是発願回向之義言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。
かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
●4-11全文
●4-14全文
●5-8
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。
されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。
●5-9
当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。
このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。
●5-11
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。
されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
●5-13全文
●5-22
されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。
さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。
されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。
注4 例えば『正信偈』冒頭を以下のサイトのように解釈するのは誤りである。
浄土真宗親鸞会公式ホームページ 伝えたいことがある
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
無量寿如来も不可思議光も、本師本仏の阿弥陀如来の別名であるから、〝親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ〟と、これは叫ばれているのである。
※「このサイト文章は2008年の顕正新聞上に掲載されたものですが、高森会長の作文ではありません」(某メル友氏談)
親鸞会広島
親鸞会岩手
親鸞会三河
※この解釈に関する、某メル友A氏談(元親●会講師)
高森会長自身の名前が入った著作にはこの正信偈の表現はあえて書かないようです。
というのは、会長自身が以前講師部対象の講義で
「正信偈の最初の2行を、親鸞は救われたぞというのは、あれはわざといっているのだ。だから文章で書いてはならない」と言っていました。
そのため、10分間説法という原稿には記載はされていますが、これは一般の人が手に入らないものです。しかし、高森会長が常にそうやって話をしているので、親鸞会関係のサイトにはこの記述が多くあります。
※この解釈に関する、某メル友B氏談(元親●会講師)
あの解釈は毎月の法話で必ず高森会長もしくは
アシスタント(かつては私もしましたが)がする説明です。
高森会長は「南無や帰命をこのように説明するのは自分だけ」
と言っています。
六字釈そのものはほぼ間違いなく説明するのですが、
おもしろいことです。
※この解釈に関する、某メル友C氏談(元親●会講師)
これについては高森先生も、自分しか言わないことだと自覚しており、
突っ込まれることは極力、欠かない性格ですので、
説法では、何百回と聞いてきましたが、
直接、筆を持って書いたものはないと思います。
注5蓮如上人著『正信偈大意』を読めば「阿弥陀如来に南無したてまつれ」と書かれており、注4で紹介したような解釈が浄土真宗から逸脱したものであることは明かである。
●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。