やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

浄土真宗の教えを、できる限り分かりやすく解説したものです。「苦笑の独り言」から独立させたものです。

§14 「信心」と「念仏」

2009-10-09 15:14:40 | 教義
§14 「信心」と「念仏」


ここで、「信心」と「念仏」の関係について述べておこう。
結論から先に述べるが、

★「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えてはいけない。

これは、非常に重要である。

法然上人は、

「名号を聞いても、信じなければ聞いてないのと同じである。
 信じたと言っても、念仏を申さなければ信じたことにはならない。
 念仏申しなさい。」

と仰っておられ、(注1)
その教えを受け継いでいる親鸞聖人も、
しっかり信じることと念仏申すことをセットにしておられる。(注2)(注3)

「親鸞聖人の教えで大事なのは信の一念だけである!」
と言って、
「行の一念」を軽んじる輩もいるようであるが

親鸞聖人が、

「信を離れた行はない。
 行の一念を離れた信の一念もない。」

と仰っておられるのを忘れてはならない。(注4)

そして、所謂「信行両座の法論」も、
「真実の信心」と「念仏」を分離しないという、
法然上人や親鸞聖人の教えに、抵触しない解釈でなければならない。(注5)


それと、「信」の立場からは、

★「一念」で往生できると「信じる」。

わけであるが、

「行」の立場からは、

★生涯できる限り念仏申していく。

ことが大切である。

これは法然上人が仰っておられることであるが、(注6)
親鸞聖人も受け継いでおられる。(注7)(注8)

覚如上人や蓮如上人の言葉も、このコンテクストで読まないと、

「お礼だから、してもしなくてもいい」

等という、念仏申すことを軽視する、誤ったドグマになってしまうのである。(注9)(注10)

「南無阿弥陀仏」についてかなり詳細にレクチャーしたので、
読者諸兄は、そのような誤ったドグマからは既に脱却されているであろう。(注11)


【今日のまとめ】
1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
6、上記は法然上人のみならず、親鸞聖人も教えておられることである。
7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、このコンテキストで解釈していかなければならない。
8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。

※次回は、「信前の念仏」のお話をする。
「念仏は総て信後、報謝の念仏に限る」というドグマとの対決である。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 法然上人には以下の言葉がある。

名号を聞くといえども、これを信ぜずば、これを聞かざるがごとし。
これを信ずといえども、これを唱えずば、これを信ぜざるがごとし。
ただつねに念仏すべし。
(「四巻伝」三、「九巻伝」二)


注2 親鸞聖人はお手紙の中で、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、
ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。
また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、
疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。
本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。
このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
『親鸞聖人御消息』

とお答えになられていて、「本願を信じて念仏申す」がきちんとセットになっている。


注3 上記の親鸞聖人の立場は、主著『教行信証』においても同様である。

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、
その意これ一つなり。なにをもつてのゆえに、
三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。
これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。
(『教行信証』信巻)

というように、疑う心のまったく混ざらないのが、「真実の一心」=「金剛の信心」=「真実の信心」であるとした上で、

真実の信心はかならず名号を具す。
名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。

と述べて、必ずその「真実の信心」が「名号(=念仏)」を具えていることが明らかにされている。

そして同じく『教行信証』の行巻に、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。

とあり、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、
よく衆生の一切の志願を満てたまふ。
称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。
正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

とあるように、この「真実の信心」が具えている「名号(=念仏)」が、「衆生の一切の無明を破し」「よく衆生の一切の志願を満てたまふ」「最勝真妙の正業」であると明らかにされている。


注4 以下参照。

信の一念・行の一念ふたつなれども、
信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、
ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。
この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、
信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、
行をはなれたる信はなしとききて候ふ。
また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
『親鸞聖人御消息』(7)


注5 したがって「信行両座の法論」の意義は以下のように解釈できる。

 この法論を「信心vs念仏」と解釈してしまうと、「真実の信心」と「念仏」を分離してしまう、法然上人や親鸞聖人の教えに抵触した解釈になってしまう。
 したがって、「真実の信心」が「念仏」を具すものとした上で、
「どのタイミングで阿弥陀仏の救いを得るか?」という法論であったと解釈すべきである。

例えば『歎異抄』の第一条には、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

とあり、「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」に、阿弥陀仏の「摂取不捨の利益」を受けるとある。

これはつまり、

「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」

の時点で、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になったということであり、この瞬間に信心決定した人となり、間違いなく極楽浄土に往生する人になるということである。

もちろん「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」わけであるから、この後にこの人は、まもなくお念仏を申すわけであるが、
その最初の一声が出る前に、地球が滅びる等の何らかアクシデントがあったとしても、この人は阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になっていて、間違いなく極楽浄土に往生できるわけである。

その阿弥陀仏の摂取を受ける瞬間が「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」か、その後に出される一声の念仏の後かという問題が、
この「信行両座の法論」で問題になるべきポイントであると、解釈すべきなのではないかと思われる。


注6 法然上人には以下のような言葉がある。

●行は一念十念なお虚しからずと信じて、無間に修すべし。
一念なお生る、況や多念をや。
(『一紙小消息』)

(訳)
行に関して言うならば、「一回の念仏、十回の念仏でも往生のためになる」と信じて、間を置かずに申し続けるべきである。
一回の念仏でも往生できる。まして多くの念仏で往生できることはいうまでもない。


●一念十念に往生をすといへばとて、念佛を疎相に申すは、
信が行をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定におもふは、行が信をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定に思ふは、念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり。
其故は、阿彌陀佛は、一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、
念ごとに往生の業となるなり。
(「勅伝」21、「つねに仰せられける御詞」)

(訳)
一念十念の念仏だけでも往生できるからと言って、
念仏をいい加減に申すならば、それは信が行を妨げることになる。
逆に「一瞬一瞬、常にこれを続けるということ」と述べられているからと言って、
一念では往生できるかどうかわからないと思うならば、それは行が信を妨げることになる。
また「一念の念仏で往生できるかどうかわからない」と思うのであれば、一念一念繰り返し念仏申すごとに、往生できるかどうか疑う念仏になってしまう。
そのわけは、阿弥陀仏は、一念のお念仏によって、一度極楽浄土へ往生ができることを、本願で定めておられるのであるから、
一念一念お念仏を申すごとに、それが極楽浄土に往生することができる行為になるのである。


注7 親鸞聖人の『一念多念証文』は、上記の法然上人の教えを詳しく述べたものである。詳しくは以下の全文を参照。

親鸞聖人『一念多念証文』全文


注8 これは参考までにであるが、聖覚法印の『唯信鈔』にも以下の言葉があり、上記の法然上人の教えは、法然門下に共通したものであることは明かである。

つぎに念仏を信ずる人のいはく、
「往生浄土のみちは、信心をさきとす。
信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。
『経』(大経・下)にすでに〈乃至一念〉と説けり。
このゆゑに一念にてたれりとす。遍数をかさねんとするは、
かへりて仏の願を信ぜざるなり。念仏を信ぜざる人とておほきにあざけりふかくそしる」と。

まづ専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、
つぎに一念の義をたてて、みづから念仏の行をやめつ。
まことにこれ魔界たよりを得て、末世の衆生をたぶろかすなり。

この説ともに得失あり。往生の業、一念にたれりといふは、
その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、
すこぶるそのことばすぎたりとす。
一念をすくなしとおもひて、遍数をかさねずは往生しがたしとおもはば、
まことに不信なりといふべし。往生の業は一念にたれりといへども、
いたづらにあかし、いたづらにくらすに、
いよいよ功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、
これをとなへば、終日にとなへ、よもすがらとなふとも、
いよいよ功徳をそへ、ますます業因決定すべし。

善導和尚は、「ちからの尽きざるほどはつねに称念す」といへり。
これを不信の人とやはせん。ひとへにこれをあざけるも、
またしかるべからず。一念といへるは、すでに『経』(大経・下)の文なり。
これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。このゆゑに、一念決定しぬと信じて、
しかも一生おこたりなく申すべきなり。これ正義とすべし。
念仏の要義おほしといへども、略してのぶることかくのごとし。


注9 覚如上人の『口伝鈔』には、以下の言葉がある。

一、一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事。
このこと、多念も一念もともに本願の文なり。
いはゆる、「上尽一形下至一念」(礼讃・意)と等釈せらる、これその文なり。
しかれども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、
「上尽一形」は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。
そのこころ、経釈顕然なるを、
一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこころえみだす条、
すこぶる経釈に違せるものか。
さればいくたびも先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、
他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、
そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。
これすなはち「上尽一形」の釈にかなへり。


注10 蓮如上人の『御文章』二帖三通には、以下の言葉がある。

一、開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、
もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、
本願を信楽する体とす。
されば先達より承りつたへしがごとく、弥陀如来の真実信心をば、
いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、
一念をもつては往生治定の時剋と定めて、
そのときの命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり。
これによりて、平生のとき一念往生治定のうへの仏恩報尽の多念の称名とならふところなり。
しかれば祖師聖人(親鸞)御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。
これをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて真宗のしるしとす。


注11 §9~11,ならびにQ&A(3)~(5)参照。