◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

信濃川発電所工事 川西の工事軽便 一期・二期工事編

2019-10-02 13:35:59 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
飯山鐡道につづいて、信濃川発電所工事材料運搬軽便線について纏めていきたいと思う。まず、おおよその概要について、私が調べた限りで紹介していく。以降、この概要に沿って各工事期間ごとに材料運搬軽便線の様相が変化していく様を紹介できればと考えている。概要の後、ここでは一期・二期工事と言われる時期の材料運搬軽便線について書いていきたい。

この軽便線の発端は大正時代の信濃川発電所工事の準備工事に始まる。首都圏の電車化により、鉄道省はその旺盛な電力需要をまかなうために発電所建設を計画した。当時のメインエネルギーである(当時、北海道の炭坑も最盛期であるとは言え、埋蔵量は50年分くらいと見積もられてて)石炭の節約は国策でもあったという背景がある。そこで、鉄道省は石炭火力発電所も設けるが、水力発電所という石炭に寄らない電力施設を計画した。この時の発電所の計画は、新潟県は魚沼の辰ノ口(越後鹿渡付近の断崖絶壁に挟まれて信濃川が狭くなってる辺り)で信濃川を取水し、水路隧道で結び、小千谷までの落差を利用して発電しようというものだった。

前代未聞の水力発電所の大工事とあって、国はその着工にあたり、まずは資材輸送手段、通信、倉庫、宿舎などの周辺環境整備の必要性に迫られていた。特に、当時の川西地域についても大正期にしてまだまだ「昔ながら」の土地であったので、その整備は工事着工にあたって必須条件と考えられていたようである。

そこで、鉄道省は来迎寺から西小千谷まで伸びる魚沼鉄道に乗り入れる形で、762mmの軽便鉄道を整備する。
この時の軽便鉄道は、魚沼鉄道の平沢駅(終点・西小千谷駅の一つ手前の駅であり、小千谷市街地の外縁にあった)から分岐し、塩殿・真人・橘・上野・千手・吉田を経由して宮中までを整備し、実際に試運転まで行っている。


当時の小千谷市街地の絵にも、平沢駅より分岐した鉄道がしっかり描かれている

このように、十日町線・飯山鐡道も無い時代に、国は多額の費用を投じて、まずは小千谷から宮中(越後田沢の信濃川対岸)まで総延長40kmにおよぶ軽便鉄道を整備した。こうして資材運搬手段としての軽便鉄道や倉庫や宿舎まで、もういつでも工事に着工できる段まで準備工事が完了した頃、関東大震災で首都圏が被災する。本工事にとって、これは出鼻を挫かれるどころの話ではなかった。この関東大震災により、金も人も資材も何もかも首都圏の復興のために投じなくてはならない事態になったからだ。当然、鉄道建設も例外ではなく、鉄道省は信濃川発電所工事計画を凍結する。そして、この時に整備された軽便鉄道は放置、または撤去され、荒廃を極めていく。

関東大震災からの復興も一段落し、昭和の時代に入る。
首都圏の鉄道における電力需要は増すばかりである。国会でも、鉄道の電力需要をまかなうために信濃川の発電所工事の再開の是非が問われ始める。背景には、多額の費用を投じて整備したにもかかわらず只遊ばせて荒廃に任せる材料運搬軽便線”跡”や施設群などの発電所建設工事に向けて準備工事済みであった施設群への糾弾もあったという。また、昭和恐慌による失業対策なども理由として挙げられている。大規模に公共工事を行うことで経済対策を目論む側面もあった。そういう経緯を経て、国会で信濃川発電所工事は着工の承認を得て、昭和の時代に計画は再び歩みを進めることになったのである。

この時点で、発電所自体の計画も、大正時代のものから変更される。
従前、辰ノ口から小千谷まで水路隧道で導水し発電する一段階方式から、宮中から浅河原調整池まで水路隧道で一旦導水、貯水してから千手で発電し、その排水を更に水路隧道で小千谷まで引いて小千谷でも発電する二段階方式へ変更された。並行して東電の信濃川発電所計画が西大滝ダムー鹿渡発電所として進んでいたこともあり、鉄道省はより効率の良い鹿渡発電所排水路下流の宮中で取水する計画に変更した。更に、工事は数期に段階分けをし、まずは千手発電所を一期・二期工事で完成させ、首都圏への送電を開始する。その後、千手から小千谷までの工事を三期・四期として拡張していく計画である。工期を細分化したのは、いきなり工事全体に予算と工事資材を広げず、出来るところから発電を開始し事業推進を図ったためである。予算や世情から三期・四期以降の計画については不透明という当時の実情がある。

そうして、始まったのが昭和6年着工とされる信濃川発電所一期工事だ。
ここから、ようやく飯山鐡道の越後田沢駅専用線や十日町駅専用線、川西の資材運搬軽便鉄道が実際に工事に活躍する時代が始まった。

まず、この一期・二期工事に渡る専用線について概要を紹介する。
・飯山鐡道の越後田沢駅~宮中ダム専用線(1067mm)
・十日町線十日町駅~千手発電所専用線(1067mm,762mm併用三線軌条)
・十日町~千手発電所・~小泉~千手村山野田・~小泉~鐙坂~安養寺~貝野村宮中に至る材料運搬軽便線(762mm)
が整備された。

当時の十日町新聞を引用しよう

十日町新聞 昭和六年四月五日
待ち切っていた 信電大工事 本年中に着工に決定 職制愈々発表さる
工事着手は七八月頃からか 事務所の看板下る 近く所長赴任
堀越信濃川発電事務所長は来る二十日ごろいよいよ赴任することになったが
それまでの留守役として小千谷詰所米倉技手が一昨三日千手村に引き移り「信濃川発電事務所」の看板を千手村詰所にかけた。
米倉技手は語る
「取り敢えず作付け前に用地の買収に取りかかり一方事務所の建築にかかることになるだろうが
事務所の出来上るのは早くて七月ごろでそうなれば係員も入ってきませう
そして本工事もその頃からで本年度の工事は建築物の外に千手十日町間の鐵道と千手貝野間の工事用軌道の修理をなし
水路はもう試験掘などせず本工事にかかり取入口方面の工事にも手を卸すことになりませう(以下略」



そして、同日の十日町新聞にはこんな記事も載っている

十日町新聞 昭和六年四月五日
工事用軌道復活 地元で運動
鉄道省信濃川発電工事は大正九年に魚沼線小千谷から現場まで二十五マイルの延長線工事を起し
同十二年完工したが震災のために工事は中止となり
その後線路は内務省用地に編入され今日まで腐るがままに棄てられて居るが
小千谷町ならびに付近の村では右の線路を復活し建築材料は来迎寺小千谷経由にする様寄々協議を行っておったが
鉄道省方面に向かい運動を開始することとなった


つづいて、工事着工にあたっての十日町新聞の記事を紹介しよう


十日町新聞 昭和七年三月三十日
信電所長 堀越氏
まづ工事をはじめるには事務所と係員の住む處がなければなりません。
そこで第一に御承知の通りの聴舎を千手村に建てた。
次いで官舎は千手村と十日町にわけ千手村に十五戸、十日町に四十戸を建て
夫々現場の方にもいるからこれは先年のものを修理し併せて六七十戸を造って人を入れました

さていよいよ工事を始めることになると材料運搬線をつくるのが先決問題となる。
しかしこれは先年大体出来ていたものを利用し
只上越線、十日町線の開通によって運輸系統が最初の計画時代より変わっているので
新たに十日町線に接続して十日町から吉田村小泉までを作ることになった。
此工事は余程すすんでいる。
千手村から貝野村宮中間は既設のものを利用し土工の修繕と上の軌道を延ばすのは秋までに完成させたいと思っている。
さらにもう一つ、飯山鐵道田沢驛から堰堤までゆく運搬線は輸送貨物の性質を考慮して本線同様の軌道にすることにし工事はすでに終わっている。
準備工事は大体こんなものである。

本工事は第一に第三隧道の下部を八月から直轄工事でかかった。
現在の掘進状態は導坑が約一千尺すすみコンクリートの巻き立ても始めている
次に貝野村宮中を起点とする第一隧道の上部は請負で昨年の暮れに着手しすでに横から入る穴は完成して本導坑に入りかけている
また、堰堤、第一隧道下部、第二隧道は最近請負に附し夫々工事にかかることになっている


また、信工30周年記念誌では同時期に工事に従事していた技師の思い出が語られている。


発電工事の本格的工事は昭和6年8月に第三隧道下部工事が、引き続いて第一隧道上部、第一隧道下部、第二隧道と次々と着工されました。
従って軽便線の新設工事も全く昼夜兼行の突貫工事でした。


国鉄としての記録が見当たらないながらも、新聞記事や手記にも出ていたことで、その存在がグッと現実味を帯び、これまで調べて来て半信半疑であった「宮中から千手の軽便線」くらいの記述が繋がる。
更に、後年の鐵道大臣視察の際には、飯山鐡道田澤驛から堰堤までの専用線と川西の材料運搬線が利用されていたことが分かった。


十日町新聞 昭和十一年七月十五日
宛然大名行列 鐵相信電視察 次官、参與官も加はり 雨の中を強行
~中略~
十日町を経て午前八時十五分飯山線田澤驛に到着した
そして飯鐡差し廻しのガソリンカーに乗り換え、
同三十分信電小原詰所に至り休憩、
それより貝野村宮中まで徒歩、途中取入口堰堤、沈砂池を見、
宮中から工事用軽便線に便乗して吉田村小泉に出、
高台から連絡水槽、土堰堤工事場を展望、それから自動車で浅川原を経て十時二十分千手町信電工事事務所に入り昼食をとった。


昭和11年時点で、宮中から吉田村小泉まで工事用軽便線に鐵道大臣が乗っているという新聞記事から、少なくともその区間は軽便軌道が整備されていたのであろうことが伺える。
例によって、昭和11年にそういった話があってから一回りもした昭和22~23年、戦後に米軍が撮影した航空写真から軽便軌道を紹介する。なお、私が軌道跡だろう線をポンチ絵として書き込んでいる。

千手から田沢まで。

茶線が1067mm、紫線が762mmの軌道だ。千手発電所~浅河原調整池付近の分岐は完全に想像である。実際にはもっと細かかったかもしれないし、この頃に本格着工となった第三期工事に関連した施設が出来ている可能性も高いからだ。











小泉~宮中に掛けての区間で、いくつか補足をしたい。

まず、交換施設としたものは、仮駅舎仮ホームの設置された停車場である。鐙島停車場、貝野停車場と言ったかは分からないが、それぞれ軽便の沿線にある二つの小学校である鐙島小学校と貝野小学校の近くにそれらしき様子が認められる。昭和十二年六月には、当地での式典に出席するために、新潟県知事が十日町から軽便客車に乗車して、鐙島駅(仮称)に降り立っている。当時、信濃川にかかる橋は木橋が多く、その年の洪水のためにことごとく流されてしまい、鉄道のために頑丈に作られた専用線の鉄橋しか付近で信濃川を渡るすべがなかったことによる措置らしい。そのため、県知事は軽便線に揺られて現地入りした。

また、水路隧道工事区としたのは、いずれも材料運搬線の分岐が見られ、その終点と思われる場所の真下を水路隧道が通っている。水路隧道は第一隧道・第二隧道・第三隧道で分けて宮中~浅河原まで工事されたとのことで、途中に少なくとも二ヶ所か三ヶ所は横坑なり竪坑があったとするのも妥当だと思われる。そして、水路隧道もコンクリートで巻立てないとならないので、セメント必要量も膨大となる工事である。であるから、セメントなどの資材輸送手段として軽便が工事区まで直接乗り入れているのが好ましいと考えられる。ちなみに、水路隧道と言っているが、大きさ的にもおおよそ鉄道用複線トンネルと同じ程度となる。丁度、昭和6年に開通した清水トンネルの掘削に携わった技術者や職人たちが当地へ流れてきており、続けて当地で腕を振るったと言う。

この内、いくつかの箇所について、現地調査を行った結果を紹介したい。
あくまで、そうと紹介されている写真の紹介とか、それ以外は妄想とか推測の類である。そもそも全編に渡って、ここに書かれていることを押し付けるつもりも無いし、趣味人の歴史ファンタジーくらいに読んで欲しい。参考文書までを逐次紹介する面倒を取らない怠惰を許して欲しい。
上記の通り、昭和11年時点で千手~宮中(大臣が軽便に乗ったのは千手迄ではなく小泉・浅河原までだけど)の軽便鉄道があったという話の一端を示すものがある。また、十日町新聞などで信發初代堀越所長が語るように、大正期に整備した軽便線や建物を再整備していることも分かっている。

写真の一枚でもあれば再整備の信ぴょう性が増すものだがと思っていた矢先、それを示すと言えるような一枚の写真があった。千手~浅河原に至るまでの間に、信濃川にそそぐまで険しい渓谷を形成する鉢沢川という沢がある。現在の地図を見ても、道路は橋で越えている。



当時の航空写真を見ても、軽便と思われる線は鉢沢川を越えている。並行しているはずの道は川を迂回しつつ河床まで降りて昇ってのアップダウンの様子が見て取れるが、確かに軽便はこの川をまっすぐ進んでいる。



Googleのストリートビューで、この橋を宮中方から千手方へ見ても、この様子。割と高く長い橋が架かってる。



そんな鉢沢川であるから、軽便がこの沢を直線的にどう横切っていたのかというわけで。



信濃川発電所工事材料運搬線はこんなにも立派な鉄橋を川西地域に架橋していたのが判明した。しかも、ここまで立派なトラス鉄橋。工事材料運搬軽便線にも関わらず、本線にも匹敵しそうな設備だ。昭和7年7月で架橋工事しているというのは、この地に水路隧道を掘削する工事に合わせてなのかと推測される。水路隧道工事の斜坑なり竪坑のある工事区への材料運搬として活用できる軽便鉄道の整備を進めたのだろう。

堀越所長のインタービューを再度引用すれば

本工事は第一に第三隧道の下部を八月から直轄工事でかかった。
現在の掘進状態は導坑が約一千尺すすみコンクリートの巻き立ても始めている
次に貝野村宮中を起点とする第一隧道の上部は請負で昨年の暮れに着手しすでに横から入る穴は完成して本導坑に入りかけている
また、堰堤、第一隧道下部、第二隧道は最近請負に附し夫々工事にかかることになっている


隧道工事の進捗に合わせて軽便の整備も昼夜兼行の突貫工事だったというから、隧道工事にそって軽便も整備が進んだものと思われる。とにかく、こんな一枚の写真ですら、川西の千手-宮中の資材運搬軽便鉄道が存在した事実を明確にしてくれた気がする。

なお、私はこの写真を見つけて、現地のストリートビューを見ながら、居ても立っても居られなくなって次の休日に当地に現地調査に向かった。
しかし、草木の繁茂する季節もであり、橋台跡や橋脚跡の類は一切見つけられなかった。とはいえ、わざわざ出掛けて来て何も見つけられないんじゃつまらないもんで、軌道跡らしい場所が残っている場所をピンポイントで当たっていくくらいのことはする。軽便跡のほとんどが県道化されていたり、農地改良で地形ごと粉砕されている現状で、それらしいものを見付けるなんて期待なんでできないことは分かっていた。それでも、怪しい地形は残っている。

北鐙坂~浅河原の段丘部分をピックアップする。





そして昭和50年時点で、鐙坂の辺りの軌道跡の農道としての残りっぷりが半端ない。一期・二期工事が完成後にこの軌道が使われていたと考えられないながら、意外とすぐに農地に戻すわけでもなかったものなのか。昭和50年と昭和23年を比較してもこの変化には驚いた。あと30年早く生まれてきていたら、もっと軽便線跡を追えたのにと思ったが、そんなことはタイムマシンでもないと無理だ。







地形で言えば、魚沼吉田郵便局や北鐙坂は河岸段丘の上であり、浅河原は段丘の下へ続く窪地である。北鐙坂から浅河原へは高低差の険しい地形でありながら、どうやら軽便はここを通っていたことが明らかだ。昭和50年の写真にも、現在の写真にもそれらしいS字が残っているのがお分かりだろうか。

私は現地に向かった。



次の二枚は、それぞれ矢印の方向である。一枚目は下向き(南方)矢印の方向、二枚目は上向き(北方)矢印の方向で撮った写真だ。





現地はまさに湿地帯!
南方は菖蒲も生えてきそうなカーブを描いた湿地帯で、北方も左へカーブしつつ深く掘られた沼である。水は低い場所に貯まるのは自明である。どう考えても、北鐙坂から浅河原へ段丘を降りていくためのアプローチの掘割の跡だ。後年、埋め立てられて水が堰き止められ湿地化したと推測される。綺麗にカーブして、南北の湿地帯を合わせればS字を描いている。



調整池側から3Dで見ると、よく分かる。
ここから段丘に沿って高度を下げるため、S字部分を掘割にして掘り下げることで少しでも線路の勾配が緩くなるようにしたのだろうと推測している。

まだまだ丹念に調べる根気があれば遺構は見つけられそうだが、ひとまず分かりやすく残っている軽便の痕跡を紹介した。
以上、鉄道省信濃川発電所工事の一期・二期工事で活躍したとされる宮中-千手の材料運搬軽便鉄道の位置について、航空写真からの推測に過ぎないながらも、その存在があったという痕跡くらいは示せただろう。一期・二期工事について、また何か資料を見付けたら逐次記事を示す。続いて、国鉄からも工事史として示されている三期・四期工事の材料運搬軽便鉄道についてもまとめていく・・・はずだ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。