◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

信濃川発電所材料運搬線(高城澤)

2020-02-16 23:00:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
 

今回、探索を紹介するのはこの地点である

材料運搬線が三方向に分岐するデルタ線として、USA-R1907-28という空中写真が記録している

整理番号 USA
コース番号 R1907
写真番号 28
撮影年月日 1948/10/12(昭23)
撮影地域 松之山温泉
撮影高度(m) 2621
撮影縮尺 16999
地上画素寸法(cm)
カメラ名称 K-17
焦点距離(mm) 154.200
カラー種別 モノクロ
写真種別 アナログ
撮影計画機関 米軍
市区町村名 十日町市

この地点で、材料運搬線は十日町駅から信濃川を渡り千手発電所(下平車庫)を経て、
このデルタ線で分岐し、それぞれ吉田・浅河原方面と千手・上野~市ノ沢に向かう軌道が敷設されたと考えられる

なかなか面白い構造で、どういう運転扱いでこのデルタ線を運行していたのか気になる

このデルタ線が無ければ、材料運搬線は十日町方から一旦は吉田まで行って、スイッチバックする形で千手・上野などへ至らないとならなくなり、
輸送上の効率は悪くなるというのが素人目に見ても感じる部分である

しかし、このデルタ線については、各種の資料では記されていないことをまず紹介しよう



USA-R1907-28 1948/10/12(昭23) 米軍




「信濃川発電水路図」  信濃川水力発電工事誌 日本国有鉄道信濃川工事々務所 1952年03月  




「信濃川発電所第3期工事用材料運搬線略図」  軽便機関車誌 国鉄狭軌軽便線1 臼井茂信 草原社 2019年12月19日




「信濃川水力発電所材料運搬線路略図」 中川浩一 作図  鉄道ピクトリアル 1968年5月号 信濃川水力発電所工事 材料運搬線とその車両 瀬古龍雄 昭和43年5月1日




「第三期工事の材料運搬線」  信濃川水力発電所の材料運搬用軽便線 上村政基 1999年


いずれの図にも描かれていない部分は、十日町方から千手・上野方へ直接分岐する線路と、
それによって形成されるデルタ線だ

空中写真にはデルタ線の様相が見て取れるにも関わらずだ

さらに、ここで疑問を持ったのは信濃川水力発電所第三期工事における材料運搬線の役割が、
千手発電所から小千谷発電所に至るまでの水路隧道掘削のための資材運搬であるからだ

つまり、材料運搬線としてのメイン経路としては十日町方(下平)から千手・上野方へ向かうはずなのに、それがいずれの図にも描かれていない

第一期・二期工事の頃なら十日町方(下平)から上流の吉田・浅河原に向かっていくのも納得がいく

更に、第一期・二期工事の頃なら千手まではちょこちょこ資材を運ぶ程度のものだったろうから、
吉田でスイッチバックして千手まで運んでいたとしても納得がいく

USA-R1907-28という空中写真にはっきりと見えるデルタ線にもあるように、
どうしても撮影当時含めて材料運搬線の輸送経路として十日町方(下平)から千手・上野方へ直接抜ける経路で運転する方が合理的だと思わざるを得ない

USA-R1907-28 1948/10/12(昭23) という年代は、工期で言えば二期工事と三期工事の狭間である

年代を整理すると、国鉄(JR)側の資料では
一期工事 ~1939年11月
二期工事 1940年4月~1954年3月  浅河原調整池完成 水路隧道・圧力隧道の2条化・千手発電所増強
三期工事 1943年11月~1954年11月 山本調整池 千手・小千谷間水路隧道1条 小千谷発電所 
四期工事 1957年6月~
という時期である。

付記であるが、戦中の着工とされている第三期工事について、
実際には戦況激化により着工するものの工事の進捗は芳しく無く、
着工したもののすぐに中断しているようで、本格的な工事は戦後であるようだ
(特に三期工事は戦前・戦中計画から、戦後に材料供給状況の好転で計画変更がされているようだ)
(この混乱は工事材料運搬にも影響を与えた)



「工事用材料運搬設備 概要」 信濃川水力発電工事誌 日本国有鉄道信濃川工事々務所 1952年03月



また、信濃川水力発電工事誌は1952年03月発行で、第三期工事の内容がメインとなっている

以上を踏まえた上で、別な図を示そう



「資材送路平面図」  信濃川水力発電工事誌 日本国有鉄道信濃川工事々務所 1952年03月

はっきりと軽便線として、デルタ線が描かれている

おなじ信濃川水力発電工事誌に掲載されている平面図であるが、
「信濃川発電水路図」と「資材送路平面図」で描き込みが異なる

予め言っておくが、「信濃川発電水路図」が間違いだと言うわけではない

「信濃川発電水路図」は材料運搬線として、
十日町駅から側線下平倉庫線を経て千手発電所構内まで続く線路(1,067mm)を描きつつ、
吉田・浅河原へ向かう軽便(762mm)も併記している

一方、「資材送路平面図」は十日町駅から千手発電所構内まで続く側線下平倉庫線(1,067mm)を書いていないのに、
発電所手前で分岐している取水口材料運搬小根岸線(762mm)や、今回の高城澤のデルタ線(762mm)などを細かく書いている

「信濃川発電水路図」は全体概要のクセがあるが、「資材送路平面図」は三期工事で実際に使用した資材送路に特化した図に見える
(紹介はしないが、「資材送路平面図」は軽便のみを描いているわけではなく、三期工事で作られた小千谷駅~山本間の専用線(1,067mm)についてはしっかり描いてある)

各種図の描き込み具合の思想までは計り知れないが、
その図で示したい部分を強調すべく細部の書き込みをしたんだろう、知らんけど

ここからして、臼井、中川・瀬古、上村らの雑誌のいずれの図も、
「信濃川発電水路図」を参照して描かれたものなんだろうなっていうことを推測している

いずれの雑誌も参考文献として「信濃川水力発電工事誌 日本国有鉄道信濃川工事々務所 1952年03月」は挙げている

ここまで書いておいて、デルタ線の十日町方(下平)から千手・上野方へ直接向かう軌道が何かの資料で否定されていたら恥ずかしいことこの上ないのだが

むしろ、これを否定する資料や証言があるなら教えて欲しい



前置きが長くなったが、改めてデルタ線である

 

まずは緑丸の地点である

まず、緑丸の上の林の上の辺り

千手方から吉田方へ向かって見ている

手前からストリートビューで紹介する



振り返ると変電所が見える。農地改良で痕跡もない。



更に吉田・浅河原方へ進むと



そして、この部分の特徴的な軌道の曲線を色濃く残した農道が始まる



良い感じに林に向けてカーブしている

軌道上だろう地点から見ているので、手前で農道が左に急角度で逸れている辺りからも軌道は真っ直ぐこっちに来ていたはずだ



ゆるーくカーブしながら続く農道が、空中写真と一致していて、いかにも廃線跡といった感じだ



そして、現道にぶつかる



軌道はこのまま真っ直ぐ進んで、吉田・浅河原方へ向かっていた

農地改良で、ここから先の痕跡は見つけられなかった

振り返って、千手・上野方を見る





良い感じの曲線!

タイムスリップして、ここで信濃川発電所工事材料運搬線を撮影したかったと思えるような良いカーブ

林を抜けてポ~ッ!とか鳴らしながら、ケ型の蒸気機関車が数両の貨車を引いてやってくる姿が見えるようだ

おおよそ、緑丸の部分はこんな感じである




後日、青丸の部分を再調査した



さらっと左に書いた、十日町方への線である

舗装されていない農道を歩いて、なにか残っていないか見に行く

軌道は林の中をカーブしながら通っていたはず・・・



「ハッハッハーッ!あるじゃねぇか!」と、なんとかの中心で愛を叫びたくなった




ずるい、この切り取りはずるい 位置もカーブの感じの空中写真のまんますぎる

手前の用水路部分でぷっつり切れている

用水路から手前は後の農地改良で埋められた部分で、
この写真を撮った農道からすると2mくらい低い位置を軌道は通っていたことになる

軌道跡らしい場所へ降りる





いかにもカーブの先からガタゴトと軽便が現れそうな光景である

新製から信濃川に配置するために発注された軽便機関車が、
発電所工事のための資材を積んだ貨車を数両引いてここを走っていたのかもしれない

きっと、下平(千手発電所)からここまでずっと上り勾配で河岸段丘の上に至るわけで、
列車の運転には大変な場所だったろうなと思う


例によって切り取り部分の軌道跡は湿地帯化する 足元はグチョグチョである

もはや軌道跡が池になっていないだけマシだと思う

それに比べると、かなり状態がいい切り取り部分である

両脇に掘られた排水路らしき溝には雪が残っている

先日紹介した姿~鉢沢川までの林の中の軌道跡もそうだが、
信濃川発電所材料運搬線の軌道跡はこういう掘割部分は排水路っぽい溝を両脇に感じる

もっとも、現役当時に排水路があったのか確認できるほどの資料を私は持っていない

ただ、地形が変わっていないのなら、水は溜まりやすい地形だったろうし、一定の傾向はありそうだ


わずか50m程度だろうか、カーブしていく切り取り部分を抜けると、林から出る





おおよそ軌道はこういう感じに通っていたはずだ

左奥の建物のあたりで、吉田・浅河原方へ向かう軌道と分岐していたようである

その建物の付近から、上記地点を見たストリートビューを紹介しよう



おおよそ、こういう感じで軌道が通っていたはずだ



以上、全て推測である

デルタ線として軌道が存在していたのかということは、多くの資料には描かれていない

一方で、現地にはそれらしい痕跡が残っている

事実は分からないが、それを肯定する資料も否定する資料も私は見ていない


ただ、いかにもかつて軽便鉄道が走ってそうだなという光景が残っていると思っただけである

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4 コメント

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軌道跡 (masaharu takahasi)
2020-11-09 09:43:50
お早うごございます。
この先に、墓地が在りまして毎年軌道跡を通ってお参りしています。今年は、コロナの影響で出掛けるなといわれましたので、行ってませんが。
小中学生の時廃線跡を探索したときこの道が跡と教わりました。母は汽車に乗って町まで革靴履いて行ったと自慢してましたが、軽便線には興味無かったようです。ルートを含め思出話にはこれしか触れていません。小泉の神社辺りに車庫が在ったとも言っていました。当時は河岸段丘を通るトンネルが古く狭かったのですが千手出口の上に軽便線の築堤がありました。ただ、草ぼうぼうでツツガムシに注意の看板があり中には入っていません。もっと古い時代のトンネルに入る時はトラックはタイヤの空気を抜いて低くして走ったとも聞いてました。この辺りの田圃は知り合いのものですカモもいます。千手発電所の下流の水路トンネルと信濃川放水路の分岐付近も昔は施設が在ったので探索しようと思っていたので、行けなくて残念です。残念ながらこの先も農地整理で跡はなくなっています。祖父は山谷で下宿してました。結局結婚してずっと住み着きました。名古屋出身ですが雪は大嫌いだったようです。
土器が出土した道は軽便線の跡ではないようですが、周りは小学校が移転したり、店がなくなり、千手を含め道が広くなってしまい、あの頃の面影は少なくなりました。でも小嶋屋のそばは旨いですね。出前は川西、お出かけする時は十日町のそば屋でした。経営は違うようですが。
乱文長文失礼致しました。
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Unknown (sinshu-shiki)
2020-11-10 04:34:53
確かにこの先に変電所のそばに確かに墓地がありますね。ご先祖様が眠っておられるのですね。
地元でこの農道が軽便跡として認識されているのを嬉しく思います。当時の鉄道省の発表ではこの付近(高城沢と山谷・吉田の間)を石橋と読んでいるようなのですが、地元でも石橋という地名が残っているのでしょうか。お母さまも軽便で十日町の街場まで行かれたようで、記憶に残る出来事だったのでしょうね。昭和10年代か20年代の頃のお話でしょうか。
小泉の神社あたりの車庫については初耳です。上原神社のことでしょうか。吉田中学校の敷地が軽便の車庫や操車場だったので、そのことかもしれません。また、ちょうど神社の辺りで浅河原へ降りていく軌道と分岐していたと思われます。
高城沢のトンネルの上に軽便があったと推測しておりましたが、やはりあの場所に軽便が通っていたのですね。あのトンネルも随分と歴史が古いのですね。タイヤの空気を抜いて通っていたとは、今よりよほど狭いトンネルだったのでしょうね。また、私が現地を巡った際には軌道の面影も無くなっていたため、あそこに軌道跡があったという証言を頂けて安堵しております。多くの痕跡が後の農地改良や道路の拡幅で失われておりますので、最後は現地での証言が頼りになります。
現地に伺う際には、小嶋屋さんで蕎麦を頂きたいと思います。なかなかコロナのせいで、現地での調査やお店にも入りにくくなってしまいました。
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Unknown (masaharu takahasi)
2020-11-10 09:09:19
お返事ありがとうございます。
トンネル出た所は石橋、中心部は山谷、そして中学校の辺りは小泉。学校、集会所は吉田、吉田村だったのですけどね。全体で吉田山谷と言っていました。今でも言っています。越後交通の路線バスは当時は石橋の通りにしか通っていなく十日町へはそこまで降りて行きバスに乗りました。
あと、浅河原の土捨て場?の先、崖上の数本木が立っている所から十日町橋へ段丘を下る道がありました。当時のメインストリート?崖の途中道の向きを換えるように素掘りのトンネルがあって水が滴っていました。車は無理。人と軽車両のみ通行可でした。探索した当時でさえ橋には到達出来ず草ぼうぼうでしたので崖のトンネルから少し下った所まで行きました。すごく怖かったのだけ覚えてます。こちらも写真撮ってません。今は護岸工事でアンカーやらコンクリートで固められてしまいました。ひょっとするとトンネルの表面だけ塞いだのかもしれません。崖上はフェンスが在って下には降りれませんが、道の跡はコンクリートに固められながら残っていました。数年前はですけれど。地元の方も知っている人は少ないです。
越後交通も近代軽便を含め廃止されてしまいましたね。長岡にも親戚がいるので子供の頃バスで行ったり飯山線から行ったりちょくちょく行っていました。(あれだけ遊びに行っても長岡、小千谷の花火はこの歳でもまだ見たこと無いんですけど。)廃止直後でまだ長岡駅にホーム跡がありました。私は廃線にまだ興味がなく記録を取っていなかったのが悔やまれます。
農地整理が行われても、川の線形が変わってない所は要注意ですね。このレポートから学びました。ありがとうございます。
小嶋屋そうなっているなんて残念です。落ち着いたら軌道跡巡り、そば食べに行きたいですね。もし、現地で偶然変な人を見かけたら当局に通報しないでください。(冗談)お手柔らかにお願いいたします。それでは失礼をいたします。
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Unknown (sinshu-shiki)
2020-11-11 05:52:01
masaharu takahasiさま
まず、地名の詳細をご教示くださいましてありがとうございます。山谷付近の地名が腹落ちいたしました。
十日町橋の真上の段丘上は浅河原調整池の土捨て場だったとあります。当時は反対運動も起こり、工事完了の後に綺麗に整地され、区画整理された水田が出来たと郷土史が伝えています。確かにあそこから直接十日町橋に降りられたら便利な位置です。あの崖に道があり、素掘りトンネルまであったとは驚きです。ストリートビューで現地を確認いたしましたが、たしかにコンクリートの法面となっており、道があったと言われても分からなかったです。
なかなか当たり前にある時は興味が向きにくかったりするのが、この趣味の哀しい所でしょうか。
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