◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

材料運搬線十日町駅構内

2022-04-06 21:10:12 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
※戦後、信濃川水力発電所工事を担った組織の名称が「信濃川地方施設局」や「信濃川工事事務所」と変遷して行きましたが、当ブログではそれら組織を一括して鐡道省時代の「信濃川電氣事務所」と表現しています。
JR東日本 上信越工事事務所 工事事務所のあゆみ https://www.jreast.co.jp/joshinko/history.html


冒頭、1947年頃の十日町駅の北寄りを切り取った空中写真を示す。同じ写真を並べており、何も描き入れていないものとポンチ絵を描いたものだ。右は空中写真から私が判別できる建物をのポンチ絵を描いて囲ったものである。茶色に囲ったものが信濃川電氣事務所の建物で、紫色に囲ったものが管理局の建物だと推測している。

 
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-R446-25 撮影日:1947/11/01(昭22) より

十日町駅構内、同じ鉄道省。この当時、その構内の敷地は所管する組織で明確に分かれていたと考えている。つまり、同じ十日町駅構内で隣接もしくは同居していても管理範囲は明確に線引きされていたと考えている。

私の推測は、十日町駅構内で鉄道管理局の敷地と信濃川電氣事務所の敷地は明確に分かれていたはずだということだ。まず、当時は今以上にお役所の縦割り組織であろうから、同じ駅の構内で同居しているように見えても「どの組織の責任か」「どの組織の予算か」「どの組織の要員か」等、所管を明確にしなければならない筈である。実際、十日町駅構内を含めた専用線の工事についても、本省への工事伺いや請負入札を信濃川電氣事務所が出している。また、水力発電工事全体に関する毎年の予算も同事務所に振り分けられていた。その予算の中で工事を計画・発注しており、実際に鉄道輸送を担う管理局とは全く別な組織として信濃川電氣事務所は水力発電工事を推進していた。本格的に信濃川水力発電工事が着工の運びとなった昭和6~7年頃は材料運搬線の整備のために多くの工事が請負に出されていた。そのため、信濃川電氣事務所により十日町駅構内の工事に関する請負入札が出されたことを報道する記事が十日町新聞に散見される。もっとも、管理局が十日町駅構内の面倒を見てくれるなら信濃川電氣事務所が請負入札を出す必要はない。実際にはそうではなくて、信濃川電氣事務所が請負入札を出している。これらのことから、十日町駅構内で鉄道管理局の敷地と信濃川電氣事務所の敷地は明確に分かれていたはずだと考えられる。少なくとも材料運搬線に関わる各種設備は信濃川電氣事務所が発注したものであると言える。

これらを前提に、私の推測を示したのがポンチ絵である。特に、○で示した紫色のポンチ絵は十日町駅構内のターンテーブルであり、以下ではこれに注目した考えを示していく。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-R446-25 撮影日:1947/11/01(昭22) より

ターンテーブルは構造物として分かりやすい。何故なら、そうそう構内で位置が変更されるものではないはずだからだ。そのため、ターンテーブルを起点・目印として十日町駅構内を考えていく。
ここで、ターンテーブルを境に管理局と電氣事務所の敷地は分かれていたと考える。改めて観察すると、ターンテーブルより左側(川側)は後付け感のある敷地に見える。ターンテーブルを含めて十日町駅構内における十日町線(飯山線)の運転に必要と思われる施設や敷地は既に確保してあり、その上で信濃川電氣事務所の敷地が隣接している様子が推測される。それにしても、後付けにも関わらず信濃川電氣事務所の敷地は管理局側より建屋が目立つし、建屋自体が大きく長い。それには理由があって、水力発電工事は冬期間も継続する計画なので、その資材を貯蔵する倉庫が必要だからだろう。特に水路隧道や発電所には大量のセメントを使用する。冬期に輸送が滞る前に各地の倉庫に大量のセメントを貯蔵して冬期の積雪に備えた証左と言える。それら工事に必要な材料はセメントだけではないが、遥々上越線・十日町線と経由して十日町駅に到着した材料は、これらの倉庫に貯蔵され軽便線で各地の工事現場へ運搬されていったのだろう。話をポンチ絵に戻す。このポンチ絵を描きたくなった発端であり、管理局と信濃川電氣事務所の敷地を示せそうだと考えたきっかけは、あるブログからだ。以下にそのブログを紹介する。特にターンテーブルより川側(駅舎と反対側)に注目してみて欲しい。そこが信濃川電氣事務所の敷地である。

懐かしい駅の風景~線路配線図とともに
十日町 1979/8/11
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/1979811_5d6b.html
十日町 1979/8/11 その2
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/1979811-a98c.html

上記ブログによれば信濃川發電所完成後も専用線の線路はしばらく残っていた様子が分かる。更に、写真から十日町駅構内のターンテーブルの手前で川側に分岐した線路が専用線に伸びていたと示されている。その線路はおそらく駅構内においては川側でワム車が連なって留置されている線がそれに当たるはずだ。それは軌間1,067mmの線路である。そして、昭和22年当時、その線は信濃川電氣事務所の敷地に設けられた倉庫と隣接しており、管理局と同事務所の境界線と私が考えている位置とも一致する。そして、その線路を含めて管理局側の十日町駅構内の配線は大きく変わっていないと考えられる。つまり、水力発電所工事において専用線による材料運搬が盛んに行われていた頃から千手発電所に向かって伸びていた1,067mmの線路と変わらない配線だろうという事だ。少なくとも私には線路を大きく付け替える理由が思い浮かばない。そこから、工事最盛期当時の専用線もターンテーブルの川側で1,067mmの線路が専用線へと伸びて行き、ターンテーブルの北側で特殊狭軌である762mmと合流し、三線軌条として千手発電所へと向かっていたと推測している。更に、上記ブログの写真を俯瞰的に観察するために以下に同時代の空中写真を紹介する。上記ブログの写真と当時の十日町駅の空中写真を比較すると、より位置関係が判明する。倉庫やターンテーブルなどのストラクチャーを見比べると位置関係が見えてくるはずだ。


国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス CCB765-C4-4 撮影日:1976/09/19(昭51) より

更に、昭和22年(USA-R446-25)と昭和51年(CCB765-C4-4)の空中写真を以下に比較する。

 
左:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス CCB765-C4-4 撮影日:1976/09/19(昭51) 右:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-R446-25 撮影日:1947/11/01(昭22) より

空中写真を比較すると、十日町駅構内の管理局側(飯山線)はターンテーブルの位置は変化していないし、配線も昭和22年と昭和51年で大きく変化していないことが分かる。一方の信濃川電氣事務所側の敷地は昭和51年には線路も剥がされ、辛うじて官舎や倉庫らしき建物が建てられているだけとなっている。昭和51年は既に信濃川水力発電所も竣工し、信濃川電氣事務所の当地におけるプレゼンスが縮小している時代だ。それだけに、昭和22年と昭和51年の十日町駅構内の空中写真の比較により、同駅構内の信濃川電氣事務所所管の敷地が倉庫も無くなり線路も剥がされて更地となっているため、むしろ信濃川電氣事務所が持っていただろう敷地が浮き彫りになっているように見える。昭和51年の十日町駅構内の写真は飯山線の運転に必要な敷地だけが残されていると観察される。これは先に述べた「ターンテーブルを含めて十日町駅構内における十日町線(飯山線)の運転に必要と思われる施設や敷地は既に確保してあり、その上で信濃川電氣事務所の敷地が隣接している様子」と私が推測した内容とも外れていない。そして、この信濃川電気事務所が管理していたであろう敷地はその後どうなったかというと、ほぼ正確に管理局の敷地と信濃川電氣事務所の敷地の境界上を北越急行線の高架橋が建っており、信濃川電氣事務所の敷地はほぼ十日町駅西口ロータリーと転用されている。高架橋は北越急行の財産だとして、西口ロータリーはおそらく十日町市の財産になったのだろう。

以下に、私が撮影した現地の写真と、引用により当時の写真を紹介していく。


出典不明(信濃川電氣事務所?) S15,10 十日町構内セメント積載運搬

上の画像は1940年に信濃川電氣事務所?が十日町駅構内を撮影した写真である。車庫もあり、給水塔もある。数本の線路が敷かれていて立派な構内の様相を呈しているが、ケ170形軽便機関車のケ180が写っていることから、特殊狭軌762mmの線路である。


瀬古龍雄「信濃川発電工事専用線 車両のおもかげ 十日町輸送工事区機関庫風景 '55-5-31」、鉄道ピクトリアル第18巻第5号、1968年5月、16頁

こちらは鉄道雑誌に掲載された個人撮影の写真だ。撮影は1955年。上の写真から15年が経っており、軽便機関車も暇を持て余している様が見て取れる。発電所の工事では先の1951年に小千谷発電所が発電を開始した後である。既に戦後に本格着工した三期工事の時点で真人沢水路橋より下流の資材運搬は自動車輸送がメインになっている時代の話だ。更に、1954年に二期工事、三期工事と相次いで竣工しており、いよいよ信濃川水力発電工事材料運搬線としての役目を終えた頃だろう。それでも、信濃川電氣事務所の敷地にあった軽便機関車の機関庫は健在である。

時代は飛んで。現在である。


この北越急行の高架橋の真下にターンテーブルがあった。つまり、専用線へと延びていた1,067mmの線路はこの辺りに敷かれていたはずである。

 
左写真:「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」からの引用 右写真:私が同所を撮影した写真

車庫は違えど雰囲気は残っている。こうやって比べて、私は軽便線時代の踏切が実感できた。ここをガタゴトと貨車や客車を引いて行き交っていたのだろうと。時に水車や発電機、変圧器を積んで軽便線は水力発電工事に貢献したのだ。

 
この広大な十日町駅西口ロータリーこそ信濃川電氣事務所の敷地と称した、水力発電工事のための線路や倉庫がひしめき合っていた土地である。

  
立ち位置は違えど、アングルは同じ写真を撮ったりしている。ここまで変化しているので、面影を感じることは難しいと思う。それでも私は現代でもこれだけ整然としたロータリーが出来たのも信濃川電氣事務所の敷地があったからこそだと思っている。

こうやって、日々、信濃川水力発電工事材料運搬線のことを思い、時々は人目を忍んで十日町に遊びに行って、家で資料と写真を眺めながら色々と考えている日々である。
何一つ決定的な資料を示せていないし、落ちはたくさんあろう。それでも、私はここまで書いてきたように考えている。十日町駅一つとっても、様々なことがあったのだ。
・北越急行の高架橋の土地の取得経緯
・十日町市の十日町駅西口ロータリーの土地の取得経緯
などを引き続き調べて行きたい。