三連休一日目、雲の多い朝で最低気温は深夜の0.2℃、朝の間陽射しもあった
が、昼前からは雲に覆われ、最高気温は11時前の5.9℃と厳冬の一日に。
でも明後日以降、春に向かって気候も進むようで、ガマンガマンですね。

今日は「太子会」といい、622年(推古天皇30年)のこの日(新暦4月11日)に、
聖徳太子が斑鳩宮において御年49歳で、病のために薨去された日からと。
*2月22日の忌日は、『上宮聖徳法王帝説』に記述されている日附であり、
『日本書紀』では推古天皇29年2月5日となっている。
ゆかりの「広隆寺」で始められた「太子会」だったが絶えるも、11月22日に
「聖徳太子御火焚祭」として、「法隆寺」では 3月22日から3日間の「御会式」
そして「四天王寺」でも4月22日の「聖霊会」として、聖徳太子の遺徳を偲び
法会が行われている。
また法隆寺の荘園だった兵庫県太子町にある天台宗「斑鳩寺」では、毎年2月
22日と23日、縁日法要として、恒例の稚児行列に加え多くの露店が立ち並ぶ。
さらに職人の神様として慕われている聖徳太子を偲び、植木市や金物市なども
開催され多くの参拝客で賑わうと。

斑鳩寺HPより
1875年のこの日、近代地質学の基礎を広めた「サー・チャールズ・ライエル」
77歳の忌日、没後150年で、火星と月のライエルクレーターに名を残す。
スコットランド生まれで法律家でもあり、『地質学原理』の著者として知られ、
大自然の中で起きた変化を研究する科学であると宣言し、近代的地質学の基礎
となる斉一説を広めた人物です。
チャールズ・ダーウィンの友人で「自然淘汰説」の着想にも影響を与えたと。
近鉄奈良駅前、北側に中筋町があります。
コトバンクによる「中筋町」とは
"西御門町の北、興福寺の西側三門の通のうち中筋の赤門(敬田門)通にあたる
「奈良曝」に「酢や町と壱所に合、町役四十壱軒」「北辺に花林院の跡あり」
とある。"

冬のならまち路地めぐりで、川久保町の「念聲寺」へと向かうため奈良女子大
を目指していたため、この通りに初めて足を踏み入れた。
南行の一方通行の道を北上すれば、小さくまだ新しそうな「中筋神社」に。
ご祭神は「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」子授神、子守神
1172年、興福寺華林院初音僧正が吉野山勝手神社を同院の南庭に奉祀され、
勝手神社といわれていた。
その後二度の兵火に遭ったが、明治12年独立して中筋神社と称するようになる
昭和18年3月、荒廃していた社殿を新築、氷室神社の境外社として奉祭される

さらに北へ向かえば、もう「大豆山町」になりマンションも現れる。
コトバンクによる大豆山町(まめやまちょう)は
中筋町の北町。「奈良曝」は眉目山(まめやま)町と書き、「町役十九軒」、町名は
西側の崇徳(そうとく)寺境内の眉目(まめ)塚にちなむという。
里俗では玄が藤原広嗣の霊のため害され、眉目が当地に落ちたので、塚を築き
眉目塚と称したというが不明。
南都七郷の一つ穴口あなくち郷のうちに「阿弥院」があり、興福寺寺務の支配
下にあった。崇徳寺は古く阿弥陀院といったらしく、町の西南方に俗称尼ヶ池
があり、阿弥陀院の転訛語とも考えられる。
暫くしてお寺「華賞山 崇徳寺」の門が現れ、右脇に大和二十五霊場の石碑。


大和北部八十八ヶ所霊場13番、浄土宗の寺院です。
もとは興福寺の塔頭「花林院」があった旧地と伝わる。
慶長八年(1603年)、徳川家康公の幼馴染みだった縁誉休道大和尚が、大久保
拾兵衛を大壇那として本堂などの伽藍を造営したことは、創建当時の棟札に
記され、本堂は県指定文化財、桃山時代、慶長八年 1603年、本瓦葺です。
内陣中央須弥壇の宮殿厨子に、御本尊の阿弥陀三尊(重要文化財)をまつる。
参拝は境内から、御朱印授与は予約にて。

家康公よろいかけ松👆と記す石碑👆と
墓地に阿弥陀三尊石仏(南北朝時代中期)、花崗岩で高124㎝幅 91㎝厚さ30㎝

立派な本堂と庫裏が広がり、門は固く締められていた。

予約を入れて訪れなくてはいけませんね。