カメラを片手に

垂仁天皇陵は平城京内になぜ残されたのか

今朝も良いお天気が続いており、最低気温の8.2℃から午後3時頃には21.4℃に
この過ごしやすい気候も、移動性高気圧が去り明日一日だけは雨模様らしい。
友達との紅葉を愉しむ軽ーい山登りなのですが・・・
      10時、17.0℃、57%

22日の唐招提寺から喜今朝も良いお天気が続いており、最低気温の8.2℃から
午後3時頃には21.4℃に。
この過ごしやすい気候も、移動性高気圧が去り明日一日だけは雨模様らしい。
友達との紅葉を愉しむ軽ーい山登りなのですが・・・
      10時、17.0℃、57%

10月22日の西ノ京から秋篠界隈の社寺巡りから
近鉄西ノ京駅・・西方院(唐招提寺塔頭)①・・唐招提寺②・・垂仁天皇陵・・
菅原の里(喜光寺・・菅原天満宮)・・西大寺・・秋篠寺・・近鉄平城駅

今回の3回目は、唐招提寺の西の端、平城京の西二坊大路に沿い垂仁天皇陵と
の関連性を探ります。
奈良時代になり「平城京」が造営されたおり、古墳時代から奈良時代までの
丘陵地の地形を利用して造成された古墳はどうなったのでしょうか?。
平城京北辺の佐紀盾列古墳群(東のコナベ・ウワナベ古墳・磐之姫陵と、
西の孝謙天皇陵、日葉酢姫陵、政務天皇陵、神功皇后陵等は残されたが、
平城京に掛る平城天皇陵は前方後円墳の一部後円墳だけが残されている。

だが垂仁天皇陵や開化陵(三条通上)と大安寺境内の杉山古墳は残されている。
一方平城京内、判明した限り第二次大極殿跡にあった市庭古墳や法華寺垣内
古墳など、周辺のどこかへ会葬されている。


その遺された垂仁天皇陵(蓬莱山古墳)、周辺に13の倍塚があったとされ、
そのうち7つ「いろはにほへと号」が宮内庁により管理されている。
西二坊大路近接の「ほ号」宅地造成も加わり、「へ号」の長細い形も変!
西二坊大路に接し削られ、その土は平城京造成用土として用いられたのでは?
結論を先に記す。
平城京を考えた「藤原不比等」、この二つの御陵を残すため、平城京の設計を
命じたと考えるのが、妥当ではないか。
そのため平城天皇陵は後円だけ残され、消えた古墳たちは、整地用の土取りに
用いられたのではないでしょうか。
      

上地図の点線部を垂仁天皇陵へと歩けば、唐招提寺の敷地を示す石碑がある
「大界外相」と刻まれており、西二坊大路を示す。
唐招提寺「戒壇」に建つ石碑には内界外相と記されていた。
      

垂仁天皇陵が見えてくる手前に「は号」倍塚が左に森の部分として見える。
      

濠に浮かぶ垂仁天皇陵(蓬莱山古墳)、長径230m近くもある秀麗な前方後円墳 


手前の小島は「田道間守(たじまのもり)」の墓とされ、10年ほど前までは松の樹
があり、近鉄橿原線の車窓から一番美しい景観でした。今はかかしが脇役?
      

実は江戸時代に灌漑のため、濠を大きくしたそうで、この辺りから真っすぐ
対岸までが、かつての濠の端になる。


田道間守」は11代垂仁天皇から不老不死の果物「非時香菓ときじくのかくのみ
を探し出し持ち帰れと命じられ、海のかなたの仙境「常世国」に派遣された。
苦労して10年の後、持ち帰るも既に垂仁天皇は140歳で崩御された後、
天皇の陵墓のそばで嘆き悲しんで亡くなるという神仙思想の説話が残る。

現在田道間守は菓子の神・菓祖として信仰され、濠の畔に小さな神社があるも
鳥居も祠も草まみれです。
      

また「非時香菓」を古事記や日本書紀では「」として書かれている。 
傍の畑に「大和橘」を保存栽培中、栽培されたい方はご連絡をと
      

「ほ号」倍塚と「へ号」倍塚を探すも住宅地に囲まれ、探せずじまいに。
仕方なく、そのまま菅原の里へと向かいました。準備不足です。

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