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医療系治療士の道

3●才で医療系治療士を目指し、早数年。
今年で最終学年を迎え、実習も終了した学生が書く徒然なるブログ

記紀の真贋その10(最終回)

2005-11-18 12:54:09 | 古代史雑感
ぐだぐた書きました記紀の真贋シリーズも今回で最終回。また機会があれば、更に深く調べて書いていきたいなと思いつつ・・・最終回は記紀自身から少し離れて、記紀の研究について纏めようと思います。

当然ですけど、記紀編纂直後から研究様々に進んでいます。例えば「日本書紀」の書紀講筵もその一つだと思われます。近代江戸時代の国風主義における本居宣長らの研究もあるわけです。また本居宣長の研究はその後の皇国史観に繋がっています。また皇国史観は大正時代の唯物史観や戦後の皇国史観の否定に繋がっていると思います。

なぜこれほど記紀が研究されるのか?それは記述が曖昧で推測における研究が主体で史学者のみならず歴史好きの一素人でも可能な部分によるところが大きいと思われます。私のような素人でも考えをめぐらせる事ができるのも魅力の一つです。その流れは隠された「十字架:法隆寺論」(新潮文庫)1981 梅原 猛 著から始まったのではないでしょうか?歴史学からすればもう20年前の書物であり現在では否定されるべき部分も多いのですが聖徳太子を否定する流れを作り始めた最初の作品ではないでしょうか?確かに聖徳太子の存在は完全には否定できませんが歴史の教科書を見ても現在聖徳太子の記述はなくなり厩戸皇子の記述になる方向になっています。刊行当初は慇懃無礼な書評も多かったのですがそれなりに評価され研究が続いていると考えます。またそれをきっかけに私のような素人も増えたのではないでしょうか?内容の信義は兎も角、歴史に興味を持つ人間を増やしたことについては大きな功績だと思います。

また現在、皇室典範の改正により女性天皇の容認の流れが出てきています。私自身も今回の記紀の考えを纏めるうち、女性天皇の容認については賛成の方向です。むしを明治の男子のみを認めるという考え方になった事に『何故』を感じます。しかし・・・それを飛び越えて女系天皇を認めるのは如何なものかと考えます。やはり以前も書いたのですが、万世一系を信じているわけではないのですが、天武・持統の時代から天皇という称号が正式に制定されたと考えても1200年は続くシステムを変えるのに数年の話し合いと本人不在でいいのかと考えるようになったのです。もちろん、とは言え旧宮家の復活にも反対です。それは皇室費(年間1人200円程度)の増加がある事も問題ですが、やはり現在生活しているものを変えるのは如何かなとも考えます。ここは皇位継承権の拡大だけで済ませたほうがよいのではと思います。

しかし・・・この皇室典範改正問題。時代が時代なら祟りだと考えるのでしょうね。では何の祟りなのでしょう?

さてなんだか大変尻切れトンボのような気がしますが私の記紀の考えはこれで終わりです。最大のシリーズであり私のライフワークでもある古代史研究はその後も続くでしょう。またいつか書ければいいなと思いつつ・・・今回は筆を置くことにしましょう。

記紀の真贋その9

2005-11-17 23:51:24 | 古代史雑感
いよいよ佳境に入ってまいりました。今回は中臣氏の活躍について。彼の不思議な行動について書いて参りましょう~!!

さて前回豪族・貴族の活躍に書いたのですが・・・中臣氏、藤原氏の活躍について書きませんでした。謎に包まれた藤原氏、藤原中興の祖、鎌足・不比等親子。なぜ彼らの記述は、少ないのでしょう?また中臣氏についても然りです。私見に従うならば、藤原氏によって歴史の改竄があったはずです。にも関わらず中臣氏、藤原氏の活躍がない。それどころか始祖すら曖昧。一応竹内宿裲らしいのですが・・・アマノコヤネノミコト(天児屋根命)が始祖と言うことになります。

仕方無しにこの人の不思議さ加減を書いていきましょう。

まず第1の不思議は藤原氏の始祖である中臣鎌足。こやつの娘2人はななんと、天武帝に嫁いでいます。そしてこの人の最高冠位は大織冠。冠位十二階にはなく、その後改訂された冠位十三階で追加されその後の改定も残された冠位ですが、天武帝の四十八階制によって廃止。この大織冠には現在に至るまでたった2人しか任ぜられていない。(もう一人は百済王子、余豊璋に織冠を与えたと言う記録があるのみ)冠位上大織冠は最高位であると同時に事実上藤原鎌足だけの称号ともとも言える。また自家の歴史書にはその功績(近江令制定など)が大きく載っているが「日本書紀」にはその記述はない。

第2に藤原不比等・・・藤原氏はすべての中臣氏に与えられたと思ったら、不比等の子孫にのみ許される事になったため、実質の藤原氏の始祖となる。そもそも壬申の乱の時不比等は13歳であったけど全くお咎めなしで済んでいる。当時連座制などはなかったのだろうか?

行方がわからないと言えば天武帝が思い出される。天智帝の弟(一説には兄)なのだから天智帝と仲が悪かったなら天智帝時代は仕方ないにしてもそれ以前の皇極(斉明)帝時代にも殆ど記述がない。中大兄皇子(天智帝)のみを重用したのだろうか?大海人皇子(天武帝)が嫌いだった?そんな馬鹿な?持統天皇と長屋王や大津皇子とは訳が違う。(自分の子孫ではない)

この3名は比較的編纂時期が近いにも関らず記述が不明瞭なのはおかしいですね。天武帝が書けと勅命したのならば天武帝を絶賛していると思いきや・・・また藤原不比等が権力安定の為に編纂したなら中臣(藤原)氏を絶賛するものと思いきや・・・。私はここに「日本書紀」の最大の謎があると思っています。何故近い時期の重要な人間の記述が曖昧なのか。この3人は別格と言える人間です。過去の人間が曖昧なのは伝承に頼ったからだと言うことはわかります。そして天皇にならなかった人間は『主役』ではないので多少曖昧でもよいのです。おそらく国の歴史=天皇の歴史だからです。そして編纂に深く関わっていた藤原不比等とその父鎌足の記述の少なさはあまりにも不自然です。

わざわざ歴史から抹消している?

私はそう理解しています。単独の記述が少ない事がその理由です。元はあった記述を削除した。私はそう考えています。ではなぜ歴史から抹消したのでしょうか?それは天武帝賛美にしない「日本書紀」を編纂する必要が藤原不比等にあり、その歴史を編纂するためあくまでその公平性を保つために自らは編纂者として前面に出なかったと考えます。そして表に出ないことと元々祭祀に関わる一族ゆえにその神秘性を強調したのだと。おそらくその神秘性は藤原不比等の策略ではなかったとは思いますが・・・。では何故天武帝賛美の「日本書紀」が藤原不比等に不味かったか?それは当然天智朝系の人間であり天武朝の影響を後の世に残さないための配慮でしょう。それでも天武帝の巻数は複数巻に及んでいますが、それはあくまで天皇の偉大さのみを強調し、天武帝個人としての大海人皇子の活躍は隠さなければならなかったと言うことでしょう。帝や天皇になるのは滅私することと考えられるから天皇の偉大さは残しつつ、個人を抹消したと言う形でしょうか?これなら大海人皇子は唐突に帝の地位を簒奪したようなものですから・・・。

さあて・・・次回は記紀の真贋シリーズその10最終回!!記紀の研究についてを纏めます。最終回・・・ちゃんとちゃんと書けるかな?


記紀の真贋その8

2005-11-16 00:38:42 | 古代史雑感
さあ記紀の真贋シリーズも残すところあと3回!!いつの間にか10回シリーズと決めて挑戦中!!ブログ投稿連続記録更新中の大爆進でお送りする素人の記紀研究は豪族・貴族編だぁ~!!しかしまだ残り2回のネタは決まってない。書いてるうちに思いつくのか・・・(^^;;;;

さて豪族・貴族でこの歴史素人が思いつくのは、物部氏・蘇我氏・葛城氏・大伴氏そして中臣氏こと藤原氏。他にも東漢氏や「古事記」に出てきた稗田氏、奈良時代の怪僧弓削道鏡から連想する弓削氏なども沢山いらっしゃいます。が古代でもヤマト朝廷黎明期には物部氏・蘇我氏・葛城氏・大伴氏が有名だったのでしょう。

少し整理します。
臣の中心氏族(大臣):巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏・紀氏・波多氏、阿部氏
連の中心氏族(大連):大伴氏・物部氏

多分このあたりが有力氏族になるのでしょうが、問題になるのは推古帝前後に強力な権力を有していた氏族とその後有力な氏族にフォーカスを当てます。何故なら、この頃の権力闘争が大きく記紀に繁栄されたと思うからです。そうなると上の氏族から挙げるならば蘇我氏、物部氏ということになるでしょうか。これは結局臣は同じ系列の氏族が多い。一方大連の大伴氏は欽明天皇時代から衰退を開始し、大連を代表するのは物部氏になるからです。奈良時代にまで名門大伴氏は残るのですが、よほど政治的発言力が失われた状態に不満があるのか、それとも当時の藤原氏の他家排斥が進んでいくのか・・・あまり目立たない存在になっていきます。そして忘れてならない中臣氏。

記紀では物部氏と蘇我氏の権力闘争が推古帝前の時代にあったと示されています。
それは仏教を取り入れるか否か。教科書的には宗教戦争であったように習いました。果たしてそうだったのか?と言えばおそらく現状ではNOでしょう。大陸主義派と半島主義派の対立・・・私見的に述べるならそう思います。隋の技術を積極的に取り入れようとする蘇我氏率いる大陸派。一方外交は百済重視の物部氏率いる半島派。これが仏教対神道という形で表面化します。蘇我氏は最新技術をもちましたが、物部氏は武力と祭祀を握っていたと考えられます。また資金力も豊富だったのは物部氏だったようです。当時は貨幣という概念もなかったので資金力は土地でしょう。両氏は小競り合いを続けついには武力衝突という形でぶつかります。その時中臣氏は物部氏よりだったようです。最初は物部氏有利で進んでいた戦いも時代のヒーロー聖徳太子の登場でこの戦いは蘇我氏の勝利で終結します。その後蘇我氏は権勢を振るいますが、行き過ぎた権勢は、乙巳の変で没落。時代は中臣氏、藤原の時代に移ります。

と言うのが一般の教科書的な歴史観ではないでしょうか?でも『おいおい待ったれや』と言うのがここの話。

まあ、推移や結果はその通りの観もありますが・・・その内容については疑問があります。まず蘇我氏と物部氏の関係ですが確かに外交(宗教)政策で大きく意見が違ったと思われますが、その内政的政策が違うかと言えばそうではないでしょう。むしろ両家が協力するからこそ帝の政治が成り立っていたと思います。そして両家が仲が悪かったかと言えば、むしろ仲がよかったような気がします。まあ今でも親戚関係がすべて上手くいくとは言いませんが・・・。親戚関係?と思われたかもしれません。はい。両家は遠縁も近親も親戚関係です。先ず遠縁では蘇我氏は竹内宿禰。そう彼は出雲系。一方物部氏はニギハヤヒノミコト。スサノオの第5子(三男)で出雲系。遠縁で同じ出雲出身。いわば同郷の家柄。一方近親ではお互いに娘を嫁に出す間柄。ご親戚です。しかも物部氏の一族はその後の自家の歴史書で蘇我氏を同族とみなしており、物部氏がやられたことを一切記述してません。どうやら政治的な役割として蘇我氏、物部氏はあるものの中身は同族だったと言えるのかもしれません。すると物部氏の自家の歴史書で物部守屋が倒されたことを記述していないのは政治的に力を持っていたが、守屋自身は親戚の間で爪弾きものだったのではないかとも考えられます。(もちろん汚点を消したかっただけかも)かくして親戚で爪弾きものの守屋を倒した蘇我氏は積極的に外交、内政を行います。そこには若い厩戸皇子もいたでしょうが、むしろ実権は蘇我入鹿だったと思われます。そして仏教は取り入れたが積極的に神道も守っていたでしょう。確かに仏教は信仰としての側面はあるもののそれを取り入れる事は最新の技術や学問を取り入れる側面が大きかったと思います。真剣に仏教を取り入れる気があるならば、帝を仏教に帰依させ神道を捨てさせていたでしょうから。但しそれより日本人の信仰が問題にもなります。日本は多神教の信仰だったので外来の神を受け入れやすい土壌があったのですが・・・。まあこの両氏「日本書紀」の記述に従うと滅びたと書かれていますが、あくまで所謂総本家を失っただけでその機能は失われていません。彼らが本当に機能を失っていくのは藤原鎌足、不比等の藤原氏の台頭まで待たなくてはなりません。それまでは隠然とその機能は残っていきます。

私の私見をもう少し書くと、蘇我入鹿が行政を厩戸皇子が仏教の業績を成していたと思われるのです。厩戸皇子はその名前を多く残しています。(聖徳太子の名前は記紀にはない)豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王が「日本書紀」にあります。このうち豊・耳・聡を含むものは噂の10人の話を同時に聞くから名づけられたものでしょう。それよりも注目すべきは法大王、法主王だと考えます。彼は早い話宗教の王として法王の地位を得ていたと思います。

そして推古帝の時代を経て乙巳の変を迎えます。ここで彗星のように現れるのが中臣氏です。これ以前のさしたる活躍もなく・・・突如として現れるのです。まあ突如として藤原鎌足一人を指しますが。ここで問題なのは後に藤原不比等が記紀の編纂に関わり藤原の世を築くために書かれたとしたら中臣氏を絶賛しているはずですが・・・乙巳の変まで殆ど記述に出てきません。しかも乙巳の変以降もさらに姿をくらませます。またその子不比等の記述も少ない。これは「日本書紀」の後の「続日本紀」も同様である。何のために不比等は中臣氏や藤原氏の記述を削除したのか?

さて次回の話題が決まったようですw歴史書から消えた藤原氏です。

記紀の真贋その7

2005-11-15 18:18:01 | 古代史雑感
前回までに神代の話をしっかり捏造しました。今回は人の時代を捏造していこうと思います。捏造、捏造、熱でしょう(オヤジギャグ

さてここから読むのが少し難しい記紀。神武帝と欠史八代の綏靖帝~開化帝までは別物として考えないといけないし、崇神帝~應神帝にもいろいろ考えが出てくるのです。もうごちゃごちゃで銀騎士にも整理がついてない。その上その後にも欠史十代の時代があったり・・・。

さて話は変わり結論から述べると私の私見では

神武帝と崇神帝と應神帝は同一人物っ!!

と考えています。色々な考えがありますが・・・。まず神武帝と崇神帝について考えて見ましょう。これは非常に同一人物と言われる機会が多いようです。何故なら両者とも始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と漢字こそ違うものの同じ『ハツクニシラススメラミコト』の諡号を両者が受けている事を理由に挙げられると思います。この『ハツクニシラススメラミコト』って何と思う人も居るかもしれませんが、言うなれば『初めて天下を治められた天皇』です。早い話が「日本書紀」において初代天皇の諡号を二人に送っているのです。また神武帝と崇神帝の記述が各々前半が神武帝、後半が崇神帝であると指摘する部分が大きいと思います。私もこの意見に現在の所賛同です。ですが、それで終わらないのが私の私見。ここに應神帝が絡んでくる。ついでに言うとその母である神功皇后や邪馬台国の卑弥呼も絡んでくるから始末が悪い。

順番に話を進めて行こうと思います。時は卑弥呼の時代。卑弥呼は太陽神の男神である天照を奉るシャーマン(巫女)であった。「魏志」倭人伝で語られるように卑弥呼が頂点として国を治めていました。

つまり邪馬台国は九州にあり、卑弥呼は天照の巫女だった!!

でも卑弥呼が個人の名称とは考え難い。そのそも漢字が違うのではと考えてます。
私は卑弥呼は日巫女だと考えています。天照の巫女つまり日の巫女であり単なる役職や称号であったと考えます。

ところがこれも「魏志」倭人伝に伝えられるように卑弥呼の死後内乱が発生します。そこに乗じてやってきたのが朝鮮から渡ってきた神功皇后。朝鮮に侵略して負けた日本人勢力とも、朝鮮人勢力かは不明ですが、おそらく、中国地方付近の天照傍流勢力が朝鮮で負けて帰ってきたのではと考えます。しかし好太王碑から朝鮮で勝った可能性も捨てきれないわけです。勝ったにせよ負けたにせよ、神功皇后は兵を九州に向けます。勝った場合は、後方に天照本体勢力が九州に居るのは不味い。負けてた場合は、朝鮮より弱い天照本体勢力なら倒せると踏んだのでしょうか?また朝鮮勢力だったなら当時の高句麗にはじき出された勢力だったと考えます。そしてたまたま日巫女が空位の時代に神功皇后が邪馬台国に攻めてきたと思います。日巫女が何故空位だったか?それは血統が途絶え次の日巫女をどう選ぶかをめぐって内乱中だったのだと想像します。これを好機とみた神功皇后は邪馬台国=天照本体勢力を攻めます。ところが現実は甘くはない。宗主国は攻め落としたものの宗主国に近い国は神功皇后勢力を追い落とす。しかし神功皇后も負けてはいない。なんと日巫女の地位をトヨの名で襲名してしまう。日巫女を襲名した神功皇后は九州南部に逃げ再起を図る。そこで神功皇后が打った手段は自分の息子を神の子としたことである。そもそも「日本書紀」によれば應神帝は住吉大社の祭神の子ともされる。
でも本当は日巫女を襲名し天照の息子と称したと思われる。ここから『神武東征』が始まる。補佐するは神功皇后も補佐した竹内宿裲。多分一人の人物ってことになってますが、出雲系の賢人集団だったと思います。そしてそれが『蘇我氏』の祖になりますが・・・・。
かくして天照の子を名乗った神武崇神應神帝(以下三神帝とします)は破竹の勢いで九州勢力を撃滅・恭順させました。ここで三神帝は九州の一部を平定するも新天地を目指します。それはヤマトです。なぜヤマトなのか。勿論日本全土の平定を望んでいたので日本の中心に近く守りやすい大和盆地がいいと言うことは理由の一つなのですが、朝鮮の高句麗の南下も原因でしょう。そして出雲系である竹内宿裲が出雲勢力の移転先ヤマトがとても繁栄していることを進言したのでしょう。かくして戦乱の厳しい九州を捨て三神帝はヤマトを目指します。もしかしたら一代でヤマトに付かなかったのかもしれません。そのため各々別の名前の人物が伝わり記紀に記述されたのかもしれません。かくして三神帝はヤマトの近くまで来ました。しかし・・・ヤマトには既に国譲りして転地した出雲勢力がいました。当然三神帝は一度は追い返されるものの一緒に国家運営をしていこうと、受入派と内通し排斥派を駆逐。上手くヤマト朝を樹立したのだと考えます。

さて、三神帝が最初にした事。それは受入派との婚姻関係を結ぶことでした。これで新天照勢力と出雲勢力は親戚だから仲良くしましょうと言うことでした。新技術を多数持つ新天照勢力派は議長の役を持ったとおもうやその役職を放しません。しかしその役職を保証するのは出雲勢力です。また技術を持つものの土地基盤を持たない新天照勢力は出雲勢力のお金が必要だったと思われます。二つの勢力は微妙な緊張の中政治を続けていくしかありませんでした。勿論その間に周囲の平定を次々行います。

じゃあ欠史八代についてはやっぱり欠史だったのか?実は違います。神武帝以降の欠史八代の帝は神武以前の出雲=ヤマト王朝の帝だったのではと思います。まず理由は崇神帝がハツクニシラスノスメラミコだった事が理由です。神武帝が同じくハツクニシラスノスメラミコにされたのは継続した王朝であったことを証明するためのトリックに過ぎないと考えます。また出雲=ヤマト王朝は既に他の氏族がいたと思われます。その有力氏族が葛城氏。おそらく欠史八代の帝はこの葛城氏だったのではと思われます。と言うのはこの欠史八代の生前の宮、墓地が葛城氏の支配域に集中していることが理由です。ところが葛城氏は記紀編纂にはあまり関わらなかったのか没落していたのか資料がなく記述が少なくなってしまったのではと考えます。

うむむ?じゃあなぜ三神帝は分離されたのか?なぜ順序を入れ替えたのか?なぜ旧王朝の帝を新生ヤマト王朝=ヤマト朝廷に加えたのか?が問題になります。

その答えは「日本書紀」が国際的に認められる史書にする必要があったと思われるからです。当時の日本の国際社会とは中国を中心とした社会だったと思われます。つまり唐と朝鮮半島。そして中心国は唐。すると創世物語を似たような物にし、歴史を中国と同等まで伸ばす必要があったと思います。同じくらい古い歴史があってこそ対等に付き合えると考えたのでしょう。そのため思想的にも同じく陰陽説、太陰暦、辛酉革命の思想を採用したのだと考えます。そのため紀元前660年が現政権の基点とされたのでしょう。ところが現政権が應神帝からないし崇神帝だとすると異常に長命な人間が必要になる。仕方無しに前王朝の人間を足し、それでも足りないから訳の判らない前王朝の人間を長命にしたり、短命にしたり調節しながら紀元前660年に設定したと思われます。そして途中がどうであれ始祖は天照勢力にする必要から三神帝をわざわざ分けて神武を初代に据えたのが私の私見です。すると今度は三神帝の母となる神功皇后の年代が合わない。そのため應神帝の年代から神功皇后が設定されたと思われます。すると崇神帝は?となりますが、これにも私見があります。ヤマトには出雲=ヤマト王朝以外にもう一つの王がいたのです。これが纒向遺跡を中心とした新興王朝でした。ここも新ヤマト勢力に早い段階で吸収されたと思います。この王家も加えてようやく紀元前660年までこぎつけたのではないでしょうか?そして各々の始祖に三神帝を分けて配置することにより三王家は同族なので仲良くしましょうと言うことでしょう。

それを如実に表す話が崇神帝時代の混乱だったのではないでしょうか?崇神帝は混乱を沈めるために三輪山に大国主命を祀っています。ちゃんと出雲系の神様もちゃんと祀るから安心して私に政治を任せてねと言うことです。

おおっ!!なんとか纏めた?まあ何度も言いますが素人の私見なんで・・・

次回は記紀に隠された豪族・貴族を考えます。

記紀の真贋その6

2005-11-14 00:23:13 | 古代史雑感
さて、前回までは記紀の役割について考えてきました。そろそろ前振りは終わりにし(オイオイ)内容の吟味に移って行きましょうか?えっ結論はもう出てる?そう言わんともう少し付き合って下さいよ~

でも前回までに役割の違いが述べられている以上、その内容は真贋を推敲するに内容の違いは、実はあまり問題ではないですね。役割が違う以上その内容に差異が出るのは仕方ないこと。ここで扱う内容は所謂神代と人の時代の初期。おそらく神武帝から開化帝まで、つまり欠史八代天皇について考えていこうと思います。

そもそも神代~欠史八代など神話、創作に過ぎないとバッサリ切り捨てるのが常です。またその後の崇神天皇~仲哀天皇も実在が危ぶまれますが・・・実在が確認される最古の帝は應神帝です。まあそのあたりも一緒に考えて行きましょう。


さて神代~欠史八代が歴史からバッサリ切り捨てられている原因の一つに戦前戦中の皇室への異常ともいえる神聖視への揺り返しが感じられます。戦前戦中とは勿論明治維新後~第二次世界大戦ですが。ただこの時代も記紀の研究は様々に行われており神武天皇の即位が紀元前660年1月1日即位とまで明確になっているわけですが・・・。

私自身もここにヤマト成立に関わる重要な真実が隠されていると思っています。
特に神代の後半からの話。そして神代前半は創世神話として一部各国共通の部分があると思います。

特に神代の中半、イザナギ、イザナミの話は有名ですね。(ギリシャ神話のオルフェイスの話)他にも天照の岩屋の話などは各国にある話です。特に天照の岩屋の話などは古代の気象、天文における大事件の話を伝えているのではないかと推測します。この事例では聖書におけるノアの箱舟における世界の洪水伝説が有名ではないでしょうか?この一見ただの神話と思える大洪水の説話。各国にあり、更に考古学的発見により今では世界的洪水が起こったことは事実となりつつあります。天照の岩屋の話も火山爆発による、長期的な粉塵現象や日食の記録であろうと想像します。おそらくそれは否定できないと思います。

それは伝承であって歴史ではないのですが、事実を伝える真実だと思います。

それを元にさあ一気かかんに歴史を捏造していきましょうwww

時は天照の後半時代・・・ここは既に人の時代であったと思います。但し時代は神代とされていますがずっと後にあった出来事を神代にしてしまった。イザナギ・イザナミの最も重要な三柱天照、月読、スサノオ。おそらく三勢力乱立時代だったのでしょう。私の私見では天照は九州、スサノオが出雲、月読が蝦夷だったのではないでしょうか?正確には月読は結局ヤマトにまつろわぬ者達の総称だったと思われます。まずその記述が記紀において乏しいことが挙げられます。殆ど男なのか女なのかが判る記述もなく、活躍もなく、支配地域が海なのか天なのかも意見が分かれます。つまり月読の氏族が居ることはわかっていたがその資料がない事を物語っていると思います。もしくは古代の政権闘争で月読の氏族が敗北し蝦夷となりその資料がなかった・・・。と推察できます。おそらく後者が正解かと思われます。月読の名前から古代日本で太陰暦が採用されたのは中国の影響でしょうが、持統天皇時代だったと思います。おそらく政争に敗れた末裔が一部ヤマトに残り太陰暦採用に貢献したことが何とか月読の記述をのこらししめたと言うことでしょうか。いずれにせよ暦が採用された事と無関係ではなかったと考えます。

ここで天照・月読の性別も問題です。また本来なら太陽神や陰陽説に従う陽が男性になるなら陰たる月神は女性になるはずです。これはギリシャ神話のアポロン、アルテミスの二柱の神々の例を引き合いに出すまでもない事と思われます。またこの例からも太陽神が男であることが陰陽説を引き合いに出すならば当然と思います。多くの多神教の神で最高神や幹部たる太陽神は男であり、女性が太陽神と言う例は非常に珍しい例です。日本でも通常、帝・大王・天皇は男性優先(男系優先)の考えがあったのに何故女性なのか。それは記紀成立時期に関連がありそうです。確かに記紀の編纂は天武帝が命じたにも関わらず、その後の持統・元正・元明はいずれも女性の天皇が即位した時代。文武天皇は15歳の即位であったため持統天皇が後見として補佐した時代。女性の時代。最高神が女性に据え置かれたの時代の要請だった考えられます。

さて、天照、スサノオを各々九州、出雲に勢力を割り当てました。ここでは天照の系統を九州、スサノオの系統を出雲と単純化してみていきます。すると面白構図が見え隠れします。まずスサノオのご乱心事件。おそらくスサノオの勢力は元々天照勢力の九州に来た勢力だったのではないでしょうか。これを当初天照の九州勢力は迎え撃つ覚悟でしたが、これを結局は受け入れたのではと考えます。『ウケイの儀式』です。つまり民族融合を果したのですが、やはり風習の差からスサノオの勢力は出雲に追放になった・・・。と読めます。スサノオの勢力は出雲で勢力を拡大していきます。それは鉄の発見です。当時鉄の生産は大陸のものでしたが、それを自前で出雲の勢力は手に入れます。これがどの部分に相当するかというと『ヤマタノオロチ征伐』です。これは早い話治水と製鉄の技術を手に入れた話です。そもそもヤマタノオロチの出現地域は古代から洪水の多い地方だったらしく、また上流に鉄が含有する山を持っていたことから赤い水が流れるようでした。この河こそがヤマタノオロチだったのです。ここを治水し鉄の生産を開始したスサノオの勢力はこの出雲の地を治めるようになったと思われます。ヤマタノオロチから出てきた十拳剣を天照の勢力に贈ることで自分たちは独自で製鉄の技術を手に入れたと宣言したのでしょう。これはスサノオが天照に畏敬の念をもって贈られたのではなく、『私たちのほうが技術力も生産力もある、だから構うな』と言う警告が含まれていたのではないでしょうか。ですが天照の九州勢力も鉄器の供給を大陸からに頼っている以上こんなおいしいところを放置するはずもなく、偵察、外交を繰り返します。
その間にスサノオの出雲勢力は着実に軍備を整えます。このあたりが政権交替を伴いつつあったことを示すのが大国主命の話ではないでしょうか。スサノオの出雲勢力は娘を大国主命に出し平和的な政権交替があったと考えます。しかし最終的には天照の九州勢力に出雲の地は手に入れます。ここが『出雲の国譲り』の話となったと考えます。出雲勢力は敗退したのかそれとも戦争を嫌ったのかヤマトの地に移住します。このころ天照の九州勢力内にも異変があります。更に東征を続ける勢力が実権握るまでには数度の政権交替、王朝の交替、内乱があったと思われます。これがその後の「海彦・山彦」などの話になると見ました。そして『神武東征』へと続くのでしょう。ところが天照の九州勢力東征派は実は追い出されたと言うのが正しいと思われます。このあたりが非常に論議を呼んでいるのですが、卑弥呼の時代だったと思われます。そして欠史八代は飛ばされ崇神天皇直前の話だったと思われます。またここは應神帝や神功帝妃ともごっちゃになっている部分と思われます。

さあ、どおごっちゃになっているのか?なぜ卑弥呼の時代なのか?すると邪馬台国は?様々な謎を残しつつ次回へすすむww

記紀の真贋その5

2005-11-13 23:54:25 | 古代史雑感
今回は前回に引き続き「古事記」の真贋編。第2回目ということになる。でも不安満載・・・。今回は謎の人物稗田阿礼についてだもの・・・

前回も少し書きましたが・・・稗田阿礼。男か女かすらも判らない謎の人物。この話を書くきっかけになったFM-NHKオーディオドラマ「古事記」では戸田恵子さんが担当され女性と言うことになってましたが・・・。実像は不明ですね。この人の記述が「古事記」の序文にあるのみ。実際「古事記」序文偽書説もあって、その存在すら疑われてる。そう、前回「古事記」が「日本書紀」の試作品説を出したものの、「古事記」の存在が肯定されても稗田阿礼の存在が肯定されたことにはならないまた今のままでは稗田阿礼が実在しなければ「古事記」は全くの『創作』とも言えるのです。

そこで考えました。『稗田阿礼が実在ではなくても「古事記」はできるもん』説(センスないと言う突っ込みはなしの方向で・・・)

そもそも稗田阿礼って一人なんでしょうか?あくまで擬人化した役職とも考えられる気がしますね。そこで「古事記」の序文を・・・

朕聞諸家之所?。帝紀及本辭。既違正實。多加虚僞。當今之時。不改其失。未經幾年。其旨欲滅。斯乃邦家經緯。王化之鴻基焉。故惟撰録帝紀。討覈舊辭。削僞定。欲流後葉。時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。勅語阿禮。令誦習帝皇日繼。及先代舊辭。然運移世異。未行其事矣。

すみません。自分は中国人でなく普通の30代の日本人なんで読めません。そこで日本語訳をしてみましょう。

私(天武帝)は諸家に聞いたところによると、帝紀及び本辞は、既に真実と違って
いて多く虚偽が加えられているらしい。今この時に、その誤りを改めねば、幾年もしないうちに真実は失われてしまう。これは国家の本業であり、王の基本である。それ故、帝紀を撰録し、旧辞を皆で調べ、偽りを削り真実を見定めて、後世に伝えたいと思う。時に舎人が居る。名前を稗田阿礼、歳は28歳。人となりは聰明で、一見しただけで、すぐ口ずさめ、一度聞いただけで、心に刻み付けて忘れない。そこで、阿礼に天皇の命令で帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞を誦み習わしめた。しかし時が変っても、未だこの事は行なわれていない。

らしいです。「古事記」の序文に従うならば稗田阿礼の身分は舎人で28歳と言うことがわかるのですが・・・この部分がいつの事かわかりません。故に生没ともに不詳。舎人という身分であったことだけがわかるだけです。舎人は下級役人で男性しかなれないと言われる。う~ん判らない。普通に読めば稗田阿礼という男性の下級役人しかいないと思われるのですが・・・。ここで舎人と聞いて思い出すのが舎人親王。「日本書紀」の編纂総裁殿です。

まさか安直に舎人=舎人親王なんて言いませんよ。

ただ、舎人親王が舎人と非常に密接な繋がりがあったのではと考えました。わざわざ下級役人の役職名を名前につけるくらいですも。すると調べてみると・・・何もない。元正天皇によって内舎人、大舎人、衛士を首皇子(後の聖武天皇)の補佐することによって下賜されたくらい。特に何もないですね。
ここに載っている稗田阿礼を存在証明をすることは難しいようです。確かに柳田 國男氏張りに稗田氏から推測することは可能です。しかしながらそれも存在証明にはなりえないでしょう。

やはり居なかったことにして話を進めることにしましょう。

さて「古事記」は私の推測では「日本書紀」の試作品です。すると大規模に資料が集められたはずです。そもそも序文にも天武帝は「帝紀」「旧辞」に誤りが多いと述べています。その誤りを正し後世に伝えることこそ国家の本業と仰ってます。すると仮に稗田阿礼が居ようが居まいが様々な資料を集めたはずです。正誤しなければならないからです。そこで「日本書紀」文中で述べられたような資料が集められたのではないかと考えるのです。そもそも稗田阿礼に読み習わせたのは「帝紀」「旧辞」誤りが多いのです。ただ私自身は誤りが多いというのは、天武帝に不利な記述があったのではないかと考えます。それを変更しようという作業だったと思われます。話がそれましたが、それらの資料を元に「古事記」が編纂されたのではと考えています。そもそも諸家が真実と違うと言えるのです。そもそも稗田阿礼が暗誦する必要があったのか?「日本書紀」でも文中の記述によってあれほど資料があるのに必要性がありませんね。そもそも稗田阿礼に暗誦させたのなら原本もあるはずです。

よって稗田阿礼は居なくても「古事記」の編纂は出来たのです。

さてそうすれば何故、序文に稗田阿礼が必要だったのか?いやいやこれはこれで必要な人物だと考えます。ここで柳田 國男氏の唱える稗田氏の出自が重要になるのです。稗田氏はアマノウズメを始祖とする一族の末裔。言うなれば巫女の一族。当時、神事と政治は表裏一体。両者『マツリゴト』なんです。国の本業である『マツリゴト』をするに重要な役割を担っていたと思われます。これが神から賜った『ヤマトの歴史』を保証するために。

さて・・・これで「古事記」編纂のための太安万侶と稗田阿礼の役割が見えてきました。次回は記紀の内容の相違から真贋を探っていこうと考えます。

まだまだ終わらんよ!!

記紀の真贋その4

2005-11-12 22:44:45 | 古代史雑感
今回は「古事記」の政治的背景について考えます。えっ?「日本書紀」も政治的背景についてじゃなくて、ただの定説少し変えてなぞっただけ?まあそう言わんと・・・最後までお付き合いくださいよ

「古事記」は「日本書紀」と同じく天武帝の詔で編纂された歴史書で勅撰国史と言われる六国史には入らないものの、詔で編纂されたことから国史と言ってまず間違いないと思われる。しかしながら「古事記」は「日本書紀」と大きく違うのは「帝紀」「旧辞」を基本に編纂されている。一方「日本書紀」は「帝紀」「旧辞」を元に作成されていると言われるものの「日本旧記」「日本世記」「伊吉連博徳書」「難波吉士男人書」「百済記」「百済新撰」「百済本記」が文中に引用されていると書かれているが、現存はしていない。

ひょっとすると漫画「魁!!男塾」の民明書房の様なものかもしれない!!

嫌だな・・・そんなことが本当だったら。

さてこの「帝紀」「旧辞」とはなんなんだろうか?これはすでに編纂時失われていた歴史書で「帝紀」が天皇の系譜、「旧辞」が古い伝承であるらしく天智帝の御子である川嶋親王、刑部親王が編纂に当たったらしい。これを天武帝が飛鳥浄御原宮にて稗田阿礼に暗唱させたらしい。当時28歳、恐るべき記憶の持ち主と言う事以外は何も伝わっていないらしい。実は天武帝の舎人だったのではないかと言われているため男性だったと言う。しかし民俗学者の柳田國男、神話学者の西郷信綱などは稗田氏の出自を推測し、同じ始祖アマノウズメをもつ猿女君と同族としている。猿女君は巫女や女孺(下級女官)として朝廷に仕える一族だったので女性だとも言われる。

早い話が正体不明の人物が深く「古事記」編纂には関わっていたと言われる。しかしながら元々は「帝紀」「旧辞」が元。ここからなんか手がかりはないかと探してみる。

「帝紀」「旧辞」は天皇系譜が「帝紀」的部分の中心をなし、第一代天皇から第三十三代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、およびその治世の大事な出来事などについて記している。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して、天皇の大葬の殯(もがり)の祭儀などで誦み上げるならいであった。それが六世紀の半ばになると文字によって書き表わされた。「旧辞」は宮廷内の物語とか、天皇家や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。

「帝紀」「旧辞」は六世紀前半ないし中頃までに、天皇が日本を支配するに至った経緯を説明するために、朝廷の貴族によって述作されたものであり、民族に伝わった歴史の伝承ではないとの主張もある。一方、広く民衆に受け入れられる必要もあったはずで、特に上巻部分は、それらを反映したものが古事記ではなかったかとの主張もある。現に『日本』という国家観の強い名称が一切記述されていない。

それ故政治色が薄いと思われるものの・・・実は政治色の強い「日本書紀」とは切っても切れない関係にある。それは内容だけではない。先ず第1に「古事記」を文字に直した太安万侶。当時「古事記」の編纂をしながら「日本書紀」の編纂にも関わっていたことが判っている。また「日本書紀」は当時の最先端の学問である漢文体で書かれていることで日本人に判りづらく、博士による講座が開かれていた。書紀講筵というらしい。しかしこの書紀講筵、最初から最後までに数年を要するようでそれこそ最高の博士でしか出来ない講義だったと思われる。「日本書紀」が完成した翌年第1回の書紀講筵が行われているのだが、その博士は太安万侶やはり太安万侶は「日本書紀」編纂にも大きく関わっていたと思われる。

さて記紀両者の編纂に深く関わっていた太安万侶。墓も発見され実在であることが証明された人物であるが・・・ここで再び偽書説に戻らなければならない。ここまで太安万侶の表記を『太安万侶』としているが実は『太安萬侶』と表記するのが正しいらしい。これが墓から発見された墓誌に書かれている名前らしい。ところが実在するのに「古事記」の偽書説が消えない。この大きな理由は「日本書紀」以降の六国史に「古事記」編纂の記述がないからである。ここで大きく首を傾げてしまう。「古事記」は正史として当時から認められてない。だから歴史書ではないという論述はいささか早急だと素人には思える。確かに正史とされているのは「日本書紀」から始まる六国史。しかしながら正史以外に歴史研究はされないものだろうか?確かに国家事業としての国史編纂は「日本書紀」にあると考える。ただ、国が国史編纂以外に歴史研究をさせないだろうか。特にこの時期は「日本書紀」を編纂している時期なのだが・・・前述の「帝紀」「旧辞」以外にも聖徳太子と蘇我馬子の編纂したと言われる「天皇記」「国記」があると思う。(すでに乙巳の変で失われた)個人が編纂した可能性は捨てきれない(古事記序文偽書説に繋がる)また「古事記」が「日本書紀」のプロトタイプ(試作品)だったとは考えられないだろうか?おそらく「日本書紀」は国家の威信をかけ編纂された大事業である。失敗は許されない。「帝紀」「旧辞」は失われている上、天武帝からすれば、不倶戴天の敵である天智朝の作成である。そのまま復活させる事は避けねばならない。そのためまず「古事記」を作成させ内容を吟味、「日本書紀」の編纂に継げたとは考えるのは素人の浅はかな考えだろうか。だが、この推論が正しければ、「古事記」が先に出来たことも理解できるし、正式な国史でないのだからその後の国史に載せる必要はない。漢文の作成は当時最新の学問だったので、よく内容を吟味した上で漢文体になおせば、国際的にも通用する国史が完成させやすい。そして試作品「古事記」の編纂に関わった太安万侶が完成品「日本書紀」の編纂にも関わったとも巻がられる。そして「古事記」というタイトルもそもそも「フルコトフミ」と読むようで、その意味はその言葉の通り「古い文章」で一般名詞らしい。そして試作品であるが故に正式なタイトルが付けられなかった・・・。だが、それでも偽書だと言うなら問題ではないだろうか。内容は伝承や口伝に基づいたものだから確かに信憑性は薄いのかもしれない。ただ当時の学問的水準を考えれば当然と言える研究方法だったと思える。しかも正史と言われる「日本書紀」にしても「帝紀」「旧辞」が元になっていると言われる。すると「日本書紀」も信憑性の疑われる。

太安万侶を検討するとこのように「古事記」が検討できる。では次回は謎の人物稗田阿礼について検討してみよう。

まだ続くのか?

記紀の真贋その3

2005-11-11 00:34:32 | 古代史雑感
記紀の真贋についても3回目・・・。長々と書いて趣旨が変わってきている気がしないでもないが・・・気にせず行こう!!

さて正史といわれる「日本書紀」が特に政治色が濃い事は前回までにお話しましたが、なぜ政治色が強く書かれたか・・・。それは当時の外交状況にあったと思われます。当時は白村江の戦に敗れたヤマト政府(朝廷)は外交政策の大きな転換を迫られていました。皇室は元々朝鮮半島と結びつきが強く朝鮮半島偏重の政策を取っていました。それに対し蘇我系豪族を中心に大陸よりの政策を支持してきたと思われます。それは仏教を取り入れたことでも判りますし、「日本書紀」の記述に従うならば、聖徳太子(蘇我の血統の皇太子)も遣隋使を派遣したり大陸よりの政策を次々出しています。(一応、私は蘇我の業績のよい部分を聖徳太子に渡したと思っているのですが・・・いずれにせよ蘇我の政策が大陸よりであったことは疑いないと思います)しかしながら大化の改新後天智帝が実権を握ると再び朝鮮よりの政策が復活します。天智帝は皇室による外交政策を復活させようとしていたと思います。

ところが・・・白村江の戦で完膚なきまでに大敗した天智朝は外交政策の転換を迫られました。朝鮮政策を捨て大陸政策に転換することです。ところが天智帝自身は朝鮮政策によほど未練があったようですが・・・時は流れて壬申の乱。戦争に勝利した天武帝。ここで国史編纂の詔が下ります。しかし作業は遅々として進まず完成は先述のとおり「古事記」が712年、「日本書紀」が720年に撰上されてます。もちろん上記の天武帝の詔は古事記を指すもので、おそらく「日本書紀」その後に編纂されたと私は考えています。問題は「古事記」が漢文体でなかったからです。これでは大陸の人間は読めません。外交政策上の必要性から生まれたのが「日本書紀」だったと思われます。この当たりは史学界の定説どおりと思います。そのため逆に一般の日本人の庶民が目にすることは無く、見たとしても訳の判らん物が描かれているに過ぎなかったと思われます。そして学のある貴族が見ても大きな流れに間違いが無ければ異を唱えなかった、唱えられなかったと思われます。それは勅撰の国史であり当時の天皇が認めた以上、貴族は異を唱える権利すらなかったと思われます。

「あの事件はこう伝えられているけど、真相はこうだったんだ!!」

とワンマン社長に社員が言われたようなものです。しかも当時は労働組合も、労働基準監督署もありません。社員は大人しく従うしかありません。異を唱えればクビつまりは天皇にまつろわぬものとして、それこそ謀反の意ありとして本当に首を取られたかもしれません。これは編纂中にも言えることと思います。「日本書紀」の編纂の詔を出したのは天武帝ですが、完成は元正天皇の時代。元正天皇は天智帝の娘の持統天皇の孫。天武帝の孫でもあるわけですが・・・どちらかというと天智帝の関係の方が濃いかなと思われます。

ここで持統天皇は天武帝をどう考えていたの?という事になります。それは天武帝にとってもです。確かにこの2人は仲がよろしかったと言うことになっています。それは死後合葬稜ということで2人仲良くお墓に入っています。このお墓だけが古墳時代における明確な位置が学術的にも認められるお墓になるのですが・・・。天武帝の最愛の嫁とされる額田王の存在を忘れてませんか?額田王は「日本書紀」では殆どその存在が確認できません。なのに「万葉集」には山ほど歌が残っている。その歌から天武帝との仲睦まじさが溢れんばかりです。さぞお二方は天智帝を恨んだと思うのですが・・・。その天智帝の娘が持統天皇。果たして天武帝はそんな彼女を愛せたでしょうか?私は天智帝へのご機嫌取りとして天武帝が娶ったに過ぎないと思います。そして先帝(弘文帝は明治に天皇に数えられたので・・・)の娘。正室にしないわけにいかなかったと思います。そして持統天皇にしても父の仇。後世に伝えられるほど天武帝を愛していたとは考え難いです。天武-持統の仲のよさを物語る「日本書紀」の記述は、持統天皇が皇后から天皇に即位するための方便だったと思います。しかも古代においては母系の方に発言力があった(子供は母方の実家で育てられる)事を考えると元正天皇の母が天智帝の娘元正天皇だったことからも非常に天智朝よりの天皇だったことが推察されます。

ここで「逆説の日本史」で伝えられる京都にある天皇家の菩提寺の泉桶寺で天武帝以下八代の天皇が奉られていないことから元正天皇が天武朝よりの人間だったと言われる可能性がありますが泉桶寺が天皇家の菩提寺になったのは13世紀だったのでまたそれはその当時の政治情勢が関与していると考えられ、私はこの件とは無縁と考えます。

さて以上の推察から元正天皇が天智朝よりの人間だったとして出来上がった「日本書紀」は天武帝の正当性を書き記しているとは思えません。その証拠に天武帝の皇位に付く以前の記述があまりにも乏しいことが挙げれます。大海人皇子が「日本書紀」出ているのは難波宮からの遷都時に王弟として出ているぐらいだったと思います。(記憶違いかもしれません)んじゃ乙巳の変の時は?その後の大化の改新の時は?白村江の戦の時は?一切出てませんよ。これは編纂開始時の帝としてその正当性を訴えるには非常に弱いです。しかし天智帝の活躍は沢山載っているのです。これはやはり天智朝の正当性を喧伝するためのものだったのではないでしょうか?

もう一つこれを立証するには突き崩さないといけない問題があります。編纂責任者に藤原不比等以外に天武朝よりの人間がいます。舎人親王です。天武帝の御子です。表向きは編纂の総裁で、皇親政治を長屋王と共に推進した人物です。ところがこの舎人親王や以外や以外。天武朝よりと考えていたんですが・・・どうやら後に天智帝よりに変わっているようです。でもそれを父への裏切りと捉えるのは非常にかわいそうです。最も優秀な天武帝の御子大津皇子を持統天皇の陰謀によって殺害され、その後も長屋王がまたもや謀略で殺されています。それを見た舎人親王の胸中や・・・
「頼む!!命だけはっっ!!」
だったような気がします。勿論不比等と仕事でご一緒するうちに、彼の国への情熱に絆されただけだったかもしれません。確かに藤原不比等は一族の繁栄を考え行動していたようですが、結果として律令を整え、正史を作りヤマトから日本への国家作りにいそしんだ事は業績が証明していると思います。

結果、天智朝よりの国史「日本書紀」が出来上がったと私は考えます。
次回は「古事記」の政治的背景を考えようと思います。


※1天皇の称号は天武帝からだったと思いますが、実際に律令が出来たのが天武帝時代の飛鳥浄御原令だったので次代の持統天皇よりの表記にしました。

※2天智朝、天武朝の表記はあくまで天智帝寄り、天武帝寄りだと私が思うように分類しています。

記紀の真贋その2

2005-11-10 01:31:40 | 古代史雑感
前回のブログで現存する記紀は「古事記」より「日本書紀」が古いことがお解かりになったかと思われる。また「古事記」偽書説も簡単ながら触れました。今回は記紀の内容について考えてみよう~!!

「古事記」も「日本書紀」も日本成立の神話から人の時代の歴史について書かれています。「古事記」は推古帝、「日本書紀」は持統帝まで。人の時代の歴史も「日本書紀」の方が長く記録されています。しかしながら・・・「日本書記」も正史と言われながら問題点のあることが多く指摘されています。

「日本書紀」の問題点。それは日本成立の神話時代、神代と呼ばれる時代と人の時代、神武帝から欠史八代と呼ばれる時代。

まず一番の天地開闢・・・
いきなりここから疑問です。日本は八百万の神々が統べる国だったと・・・まあこれは後世の創作としても多神教の国。それが古代中国思想の陰陽説を採用して天地開闢が行われています。この当たりは誰も見たことがないのでそもそも創作なのでしょうが、実は重要です。だってここにその国の基本的思想があると言っても過言ではないところです。前回書いたとおり「日本書紀」が海外向けに作られたためにそのように書かれたに過ぎない部分ですが、わざわざ対外的な創作を行ったと見れるわけです。ただ、「古事記」にしてもこの部分は見たことないわけでやはり創作と考えるわけですが・・・私は日本の宗教観からして少し疑問があるわけです。

そして本格的な神代と崇神朝以前の人の歴史時代を迎えるわけです。
この部分、確かに史書として捉えるわけには行きません。ですが数ある豪族、貴族のいわれ(系図的なもの)が書かれていると思います。そしてそれらの数ある歴史、後世に伝える出来事が形を変えて残ったと考えられ私は無視できません。
特に「日本書記」は正史として成立しているわけで、Aという氏はαという神の子孫で・・・とここで当時の朝廷が氏の身分や出自を保障していると考えるわけです。つまりαと言う神の尊さや順位をとき、Aの氏の身分や出自を保証している。故にAの他の豪族や貴族に対しての高貴さを説くもの・・・。そして帝の出自を延々述べて統治の正統性を認めさせるのに重要な部分。当時の豪族に自家の歴史書を提出させて書かれた部分なのですが、ここで問題なのが、記紀成立後それまでの豪族の歴史書等は焚書されてしまいます。これによって豪族の歴史が改竄されたことが後世に伝わらない。これは秦の始皇帝に倣ったことと思われます。むしろこの点が改竄、創作の証拠とも考えるわけです。この部分も「古事記」にも同様のことが言えるわけですが・・・。

つまり記紀はこのあたりで両者とも問題を抱えているのです。そのため「日本書紀」も正史と言われつつ欠史八代までは史学的価値はない、もしくは薄いと言われます。

ところが、ところが・・・より政治色の強いと言う一点で「日本書記」私は「古事記」の方が信頼できるのではと思っています。ただ「古事記」が本当に政治色が薄いかと言う問題も同時にあるわけです。

政治色が強いかどうかは、崇神帝以降が更に問題となると思います。実質の初代天皇と考えられる人物。(当時は天皇などという尊称は存在しませんが)現在のところ史実性は薄いとされていますが・・・

私は史実性が薄いのは認めますが、その事実がなかったとは思いません。例えば神武帝、最近の研究では同じく初代天皇の尊号をもつ崇神帝と各々業績を分けたのではないかと言う指摘があります。実は同じようなことが「日本書記」後期にもあったのではないかと思います。そう、聖徳太子と蘇我入鹿ですね。これも一部指摘があります。実は聖徳太子は創作で、蘇我入鹿の業績や徳の高い部分をすべて聖徳太子にして、悪行を蘇我入鹿に・・・。私は半分支持、半分否定です。私は聖徳太子は居たと思っています。但し業績そのものは蘇我入鹿だったのでは。と思います。
あくまで聖徳太子自身は凡人だった。蘇我入鹿が様々な業績を上げたからこそ中大兄皇子がその政治力を恐れたと考えます。そこで凡才な厩戸皇子に聖徳太子という大層な尊号的な諡号を与え聖人化したのではと考えます。

さて話がずれましたが、私の立場は以前書いたように両者とも正史です。ただ想像を書きたてる部分が多いのも事実です。私は史学者ではないので自由な立場で書かせて頂いています。そしてもし仮に私が展開する主張することが事実であったとしても聖徳太子の聖人としての日本人のイメージはいささかも変わらぬ真実だとも思います。

記紀の真贋その1

2005-11-09 00:33:06 | 古代史雑感
記紀ってどちらが本当、嘘って話があるらしい。「らしい」んじゃなくて実際古代から現在に至るまで論争の種になっているらしい。じゃあTO-Yなりに考えてみよう~

さて記紀といわれる「日本書記」「古事記」の史書。成立時期もほぼ同じ。古事記は太安万侶が稗田阿礼の口伝を書き写したものとされる。この稗田阿礼の口伝の基になったのが「帝紀」「旧辞」。日本書紀と違って勅撰の正史ではないとされているものの、序文に天武帝が『帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ』と詔しているから、勅撰といってもいいと私も思う。一方「日本書記」は日本における伝存最古の歴史書で、六国史の第一にあたる。舎人親王を編集の総裁とした。どちらも天武帝の勅命により編纂が開始され、完成が「古事記」712年、「日本書記」720年であると言われる。一般には天智帝の勅命だったことから天智帝の正当性を現すためのものとされている。
しかし・・・完成は「古事記」は元明帝、「日本書紀」は元正帝の御世。どちらも女帝の時代ですね。元明帝は天智帝の第4皇女、元正帝はその娘。ん・・・天智朝の御世ですね。元正帝は藤原不比等に養老律令の編纂を命じた人。この記紀の編纂の責任者とも言われている。

天武帝の正当性を現されたのが記紀と言われつつも、天智朝の血縁で完成した記紀。一説によると天智朝の正当性を現したとも言われる。私も後者の支持派ですが、そう簡単に説明が付かない記紀の矛盾。当然目的が違うものと思われます。ここでは、漢文で書かれた「日本書記」を諸外国(主に中国)、特殊な漢文(音と訓を併用)と上代特殊仮名遣によって書かれているので国内向けとします。他の意見もあるようですが、この考えがもっともシンプルなので。

一応完成は「古事記」が早く、「日本書紀」遅いことは事実なようです。でもここに落とし穴があります。現在に伝えられているものは両者とも写本であるということ・・・。現存本は「古事記」が14世紀後半のものが最古。「日本書紀」は巻が多いのでまちまちですがおよそ9世紀~14世紀初頭の写本なんです。という事は「日本書紀」の方が古いんですね。

さて、「古事記」には偽書説が根強くあり、中世以降の国学者によって偽書と言われたこともあり現在も一般に正史とは認められてません。江戸時代になって有名な国学者本居宣長らに顧みられるまで全く研究されてなかった。(平安時代にも一部研究されたようですが)その理由が、『古事記の神話には日本書紀より新しい神話の内容を含んでいるため平安時代初期の創作』だとか『本居宣長らによる改竄』というのが理由のようです。

次回もこの話題のつづきを~